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空気を読まなかった男と不良未満少女の、ひとつ屋根の上交流日記  作者: 未紗 夜村
第四章 『あい』に始まり、『あい』に続く
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四月二十三日(日・了)。根拠無き、信じられる応援。

 ……? あれ、なんか今変な単語聞こえた。俺の聞き間違い? そうよね、聞き間違いよね。俺プラトンさんも真っ青なほどにプラトニックで清廉で潔白な純愛を詩乃梨さんに誓っているものね。あれ、じゃあ今綾音さんってば本当はなんて言ったのかしら?


 顔だけ振り返って綾音さんに向けてみる。すると綾音さんはきょとんと首を傾げてから、やがてぽんと柏手を打ち、両手で小さくガッツポーズをして俺を鼓舞するような力強い笑顔を向けてきた。


「琥太郎くん。横恋慕、頑張ってね!」


 ……? あれ、なんか今変な単語聞こえた。俺の聞き間違い? そうよね,聞き間違いよね。中略、後略、以下略。で、綾音さんってば本当はなんておっしゃいましたの?


 今度は全身を綾音さんへと向き直らせて、腕を組んでしっかりと聞きの体勢を取ってみた。綾音さんは再度何もわかっていない顔で小首を傾げてから、やがて「あっ」と歓声を上げ、ちょこちょこ歩み寄ってきて俺の肩をぽんぽんと叩きながらにやりとした笑顔を浮かべた。


「いよっ、この間男! にくいね、このこのー!」


「『この色男』みたいに言わんでください。ていうか何ですか、さっきから略奪愛だの横恋慕だの間男だのと。俺いつからそんな役回りになったんです? そんなシナリオ書いた脚本家どこですか、ネットに誹謗中傷書き込んで炎上させてやります!」


「そういうのはやっちゃダメだよ? めっ!」


 人差し指をぴしりと突き付けてきて、頬をぷーっと膨らませての『滅』。暗黒の霧に包まれていた俺の邪なる心は一瞬にして蒼天の如く晴れ渡り、更正した俺は実に爽やかな心地で「でへへ、さーせん」と後ろ頭をぽりぽり掻くのであった。


 のであったが、俺の疑問は一向に解消されていない。


「綾音さん、どうして俺が間男なんですか? ……えっと、ねえねえメルヘンあやのん、略奪愛とか横恋慕とか間男とかの意味、ちゃんとわかってる? なんならちょっと一緒にお勉強しようか?」


「メルヘンあやのんって何!? わ、私、ちゃんと意味わかってるよっ! 恋愛中の女の人に、突如現れた男の人があの手この手でアプローチ仕掛けるとか、そんな感じのでしょっ!?」


 綾音さんは俺に馬鹿にされたと思ったのか、二つの拳を胸元でぐっと握って怒ったように詰め寄ってきた。


 ふむ。まあ、ニュアンス的には大体合ってるっちゃ合ってる。でもやっぱり、俺と愛しのあの子の現状においては、全く適さない表現であることは疑いようが無い。


 俺はただひたすらに困惑しながら、おそるおそる口を開いた。


「やっぱり俺、間男じゃないですよ。だって詩乃梨さんって今完全フリーじゃないですか。本当は俺と結婚とか婚約とかしてもらいたかったけど、それはことごとく断られちゃいましたし。OKされてたとしてもやっぱり俺間男じゃないし」


「……け、けっこん……。こん、や、く……」


 綾音さんは一瞬呆けてぼんやりとした瞳を向けてきたが、ぶんぶん頭を振ってから両頬をぱんぱんと手の平で張り、全身で精一杯背伸びして至極真剣な面持ちを見せつけてきた。そして、一言一言区切るように、しっかりゆっくりと言葉を紡ぐ。


「琥太郎くん。詩乃梨ちゃんには、恋をしている、殿方がいます」


「…………………………俺?」


「違いますっ! メルヘンは琥太郎くんの方です! 詩乃梨ちゃんに恋をしている殿方じゃなくて、詩乃梨ちゃんが恋をしている殿方、です!」


「…………………………やっぱり俺?」


「このメルヘン琥太郎っ! だから違うんだってば! 詩乃梨ちゃんの『初恋の人』こそが、今詩乃梨ちゃんが恋をしているお相手さんなんですっ!」


 綾音さんは「ふしゃー!」と猫のような威嚇音を発しながらフーフーと息を荒らげた。


 俺は彼女との間に両手の平を差し込んでなんとか防波堤を形成しつつ、思考をぐるぐると回す。


 詩乃梨さんには、今、恋をしている相手がいる。詩乃梨さんには、初恋の人がいる。詩乃梨さんは、今、初恋の人に恋をしている。


 …………………………やっぱり俺? ……じゃ、ねぇんだよな、この綾音さんの様子からすると。


 ってことは……まさか、こういうことか?


「『詩乃梨さんは、初恋の相手に対して、今の今まで、約十年間にわたって、ひたすら、ずっと、恋をし続けたままでいる?』」


 半信半疑どころか九割九分疑いに満ちた結論だったが、この回答は綾音さんを大満足させて、荒ぶる野良猫だった彼女をひなたぼっこする家猫へと変貌させた。


「そだよー。こたろーくん、やればできるじゃーん! よくできましたー。頭撫でてあげよっかー?」


 あげよっかー言いつつ既に勝手に撫でてきてるからねこの子。どんだけテンション上がってるんすか。我に返ってから顔沸騰させるなよ、鋼鉄の箱入り娘。


 俺は気取られないようにするりと愛撫から逃れ、にこにこ笑顔の綾音さんに引きつった笑みを返した。


「あのですね、メルヘンあやのん。女の子がちっちゃい頃に経験する初恋というものはですね、甘酸っぱ~い思い出で終わって、儚く散ってしまう定めなの。どこにンな十年以上も初恋の相手を想い続けちゃう一途な幼女がいるというの? そんなの居たら、あまりの健気さに胸キュンキュンしすぎて、いっそ俺がその子娶りたくなっちゃうよ?」」


「なっちゃうよーじゃなくて、実際娶ろうとしてるじゃん。結婚申し込んだり婚約申し込んだり。まぁ、詩乃梨ちゃんの一途な恋心の強さに負けて、全部不発に終わっちゃったみたいだけど。……元気出してね、琥太郎くん」


 背中をぽんぽんと優しく叩かれ、慈しむような声音で慰められてしまいました。


 …………………………え、ちょっと、待ってくださる?


 俺が、詩乃梨さんに結婚も婚約も断られた理由って……、そういう、こと、なの?


 あれ、でもその頃の詩乃梨さんは愛とかえっちっちとか今以上にちっとも理解できてなかったはずで、つまりは恋心なんてものも全く理解できてなかったはずなわけで、でも確か一緒に風呂入った時にはしのりんってば『愛がわかりかけてきた』って言ってて、『あの人がくれた想いやあの人に抱いた想いが愛なんだって気付いた』とかも言ってて、『気付いた』というのはつまりは言葉通りただ気付いたというだけであって、気付く以前から愛は確かにそこに存在自体はしていたということになりますから、ええとつまり――



 当初の詩乃梨さんは、自分でも無自覚なままに初恋の人を一途に想い続けていて。それゆえに、琥太郎くんのプロポーズを断っちゃったのでした。ちゃんちゃん。



「……………………………………」


 おいこら待て。約束された勝利の権利どころか、過去の自分が現在の自分の恋路をものの見事に妨害してんぞ。ディーフェンス! ディーフェンス! 『運命』さんは俺の敵でしたー! 敵っていうか恋敵でしたざんねーん!


 ………………………………え、マジで?


「おい綾音」


「な、なんでいきなり呼び捨てっ? や、やめてよちょっと、男の人にそんなの言われたら、ちょっと、えっと、う、うぅ……」


 恥ずかしそうにもじもじしながらスカート握って俯くんじゃありません、胸がどっきゅんこしちゃうでしょ。俺は詩乃梨さんに一途なの。詩乃梨さんが一途に初恋の相手を思っているのと同じように、俺も詩乃梨さんにひたすら一途なのよ。


 さて。ではここで問題だ。一途に誰かへの恋心を抱き続けている女の子がいたとして、その女の子の前に突如現れてその子を部屋に連れ込んだり愛を囁いたり同衾したり結婚申し込んだりべろちゅーしたり一緒にお風呂入ったりやりたい放題して心もカラダもかっ攫おうとする男のことをなんて言うか、きみは知ってるかな?


 うんそうだね、それはもう間男と呼んでしまっていいんじゃないかな!


 ………………いや、でも、だって、嘘でしょぉ……? 俺が、間男……? つーか、詩乃梨さんって本当に初恋を今の今まで貫いてるの? え、だって、初恋の相手って昔会ったきりなんでしょ? ちっちゃい頃だったからあんまり覚えてないって言ってたし。そんな相手をずっと想い続けるって、それどんだけ特殊な環境で育った奇特な恋愛観持ちの幼女なの――


 ――あ、はい。詩乃梨さんの育った環境も恋愛観も、わりかし特殊でしたね。

 もう結婚できるような年齢になっても未だに愛とかえっちっちとかをうまく理解できずにいたのは、幼女の頃の拙い恋心の在り方をずるずるずるずる引きずり続けていたからだと考えれば納得も出来る。

 普通の女の子だったらそんなことにはならないんだろうけど、詩乃梨さんの場合は事情が事情だ。肉親に愛情を注がれることがなかった詩乃梨さんにとっては、その初恋の人とのあたたかな記憶だけが心の拠り所であり、その記憶は甘酸っぱい想い出として風化させていくことなんてできなかった。できるわけがなかった、と。


 ……え、えーっと。……そんなふうに初恋の人激LOVEである詩乃梨さんに、もし今、「実はぼくちんがチミの初恋の君なのだゼ☆ まあぼくちんはチミのことなんて、ぜ~んぜん覚えてないんだけどネ☆」って暴露しちゃったら、どうなっちゃうのかなー……?


「…………………………………………………………」


「こ、こたろうくん? どうしたの? 顔真っ白だよ? ねえ、ねえ、だいじょうぶ? ねえっ!」


 綾音さんが腕を掴んでがくがく揺さぶってくるけど、俺はそれにリアクションを返せずに頭をがくがく揺らすことしかできない。


 綾音さんは俺の腕を握る手にぎゅーっと精一杯の力を込めてきて、切羽詰まったような様子で顔を寄せてきた。


「あの、ね! 大丈夫だから! 詩乃梨ちゃん、琥太郎くんのことすっごい大好きだから! 私わかるもん! いっぱいお話ししたもん! だからもうちょっとだよっ、もうちょっとだけ頑張ればちゃんと詩乃梨ちゃんの心をゲットできるよっ!」


 今俺が心配してたのはそこじゃないんだけど……まあ、そこも心配ではあったから、この情報は非常にありがたい。綾音さんは俺以上に詩乃梨さんのことをよく理解してくれてるっぽいから、その綾音さんが「あんちゃん、もうちぃとばかし頑張ればこりゃイケるで!」って言ってるんなら、きっと本当にもうちょっとだろう。……でも綾音さん優しい子だから、これただの慰めである可能性も極大です。


 俺は腕を引っ張ってくる綾音さんの手に自らの手をそっと添えて、『俺はもう大丈夫だから』という意図を伝えるためにそっと撫でた。


 顔を赤らめて戸惑う綾音さんに、俺はできるだけ穏やかに微笑みかける。


「綾音さん、ありがとな。俺、もうちょっとどころか、もっともっと頑張ってみせるよ。……で、あの、ちょっとした質問があるんですけど、いいすかね?」


「……な、なぁに?」


「……十年間貫かれた恋心ってさ。ほんとに、『あとちょっと頑張る』だけで、上書きできますかね……?」


 俺の問いに、綾音さんは完全硬直。


 ……はい。綾音さんの言葉は、ただの慰めでした! ハハッ、どうしようねこれ! 俺もう勝利への道筋が見えないわ! あっはっは! あっはっはぁ……ははっ……あは……はぁ……。


 テンションがガタ落ちしていく俺を見かねてか、綾音さんは涙目になりながら必死に「えっと、えっと」と言葉を探してくれた。


 俺がえっとの回数を数えるのを完全に諦めた頃、綾音さんはなんだか決然とした凛々しい面持ちで俺を見据えてきた。


「大丈夫だよ、琥太郎くん。琥太郎くんなら、『十年続いた恋心』にだって、負けたりなんてしないから!」


「……そう、です、かね?」


「そうだよ! だって琥太郎くん、『二十年続いた恋心』にだって、うっかり勝っちゃいそうな勢いあるもん! だから、絶対大丈夫。この田名部綾音が、保証します!」


 綾音さんは俺の腕を放し、腰に手を当て胸を張っての仁王立ち。それがあまりに威風堂々とした佇まいなので、彼女が口にした根拠もない保証が、やたらと説得力に充ち満ちたものに思えてきてしまう。


 ……ん、根拠もない? 『二十年続いた恋心』って、出典元はどこなんだ?


「ねえ、綾音さん――」


「琥太郎くん喋るの禁止! 弱音吐いてる暇があったら、ご飯いっぱい食べてお風呂ゆっくり入って睡眠いっぱい取ってまた明日から精一杯詩乃梨ちゃんにアタックしなさい! わかった!?」


 お、おおう。この子すげぇな、十歳くらい年上の男をここまで本気でビビらせるとか。この子結婚したらカカァ天下築き上げそうだな。ろくでもない男を引っかけておきながら、そいつを七三分けで眼鏡かけててパリッとしたスーツを着こなす真人間に更正っていうか強制矯正させるような未来が見える。


 俺はたじろぎながらも、こくこくと高速で首肯を返した。


 綾音さんは、ふんすと大きな鼻息を吐き出したのを最後に、いつものほんわかした微笑みへと回帰した。


 彼女は、笑う。


「琥太郎くん、しっかりやるんだよ! 私、いつでも応援してるから!」


 綾音さんの、笑顔は。それを見ている者も、心からの笑顔にするんだ。

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