四月二十三日(日・2)。詩乃梨さんと綾音さん。
その後、だらだらととりとめの無い雑談を交わす傍ら、おっさんに注がれるままにブラックコーヒーを何度も勢いでガブ飲みしちまった俺は、胸焼けと吐き気を紛らわすために外の空気を吸いに出た。
ちなみに、玄関側からではなく、カウンター内から直で外に出られる裏口からだ。おっさんが上機嫌に薦めてくれたもんだから、なんか流れでこっちから出てしまった。
別に玄関でも裏口でも大して距離は変わらなかったんだけど……。どうも俺はおっさんの『身内』として認められてしまったようだ。なんで詩乃梨さんとの距離が開きかけてる危機的な状況で、おっさんとの距離が急速に接近してるんだろう。え、これほんとに薔薇展開? やめてよ! 俺の棒も穴も詩乃梨さんに捧げるって決めてるんだからさぁ!
ごほん、ごほん。まあ、それはともかく。ほんと胸焼けするなぁ、ブラックなんて普段飲んだことねーもん。ちょっとその辺で缶コーヒーでも飲んで休むか。……いやコーヒーで胸焼けしてんのにコーヒー追加投入してどうすんだよ。ほんとカフェイン中毒ね俺。
なんてことを考えながら、人気がさっぱり無い道路の真ん中辺りまで出て、軽く背伸びと深呼吸をしていると。
「あれ、お父さん? まぁーた勝手にお店留守にして……」
頭上から降り注ぐ、文句を言っているはずがどこか親愛を感じさせる優しい声。
反射的に見上げると、二階の出窓の枠に手を突いて身を乗り出している女性の姿があった。
ばっちり目が合ってしまい、お互い息と声を詰まらせる。
頭の中でおっさんと交わしたやりとりが再生されてしまい、俺の時間は完全に凍結。結果、先に声を取り戻したのは女性の方だった。
「こ、こたろう、くん? ……え、なんでまだ、お店にいるの? ……え、あ、あれ? 今裏口から出て来たよね? あれっ?」
平常心までは取り戻せなかったようで、手の平を口に当ててきょろきょろと左右を見回している。
田名部綾音。俺的に、今最も顔を合わせづらい女性が、そこに居た。
「……綾音さん、こんにちは」
「え? あ、は、はい。こんにちは、琥太郎くん」
お互いに、ぺこりとお辞儀。さすがは挨拶マニアの綾音さん、混乱そっちのけで瞬時に笑顔でごあいさつしてきました。
でも笑顔すぐさま終了。混乱再来まではいかないものの、不思議そうに首を傾げながら俺を見つめてきた。
「琥太郎くん、どうしてこっちから出て来たの?」
「いや、外の空気吸おうと思ったら、おっさんに通されたんで。流れで、つい」
「お父さんが? ……え、ほんとに? ほんとのほんと? ほんとにほんとのほんとなの?」
なんでそんなに驚いてるんだろう? なんか不味かっただろうか。俺の知らない田名部家ルールに抵触しちゃった? おいおい、あのおっさん自己流ルール勝手に色々作りすぎだろ。全部半紙に墨で書いて店に張り出しといてくれよ、やたらこだわりのあるラーメン屋みたいにさ。どうでもいいけどあのおっさんラーメン屋似合いそうだな、口調とかわりとべらんめぇな所あるし。
さておき。身に覚えの無い罪を可愛く「めっ!」って咎められちゃう前に、話の矛先を逸らしておこう。
「綾音さん。詩乃梨さんはどうしてる?」
朝食を採ってからすぐに、俺と一緒にこの店へやってきた詩乃梨さん。それからずっと綾音さんの部屋でおしゃべり中だったはずだから、今だってすぐそこに居るはずだ。できれば可愛いお顔を拝見して胸焼けを胸キュンで上書きしたいところ。
しかしその願いは叶えられず。綾音さんははっとしたような顔で部屋の中を振り返ると、俺に向き直って口元に人差し指を当てながら「しーっ」と掠れた息を出した。
「ごめん、こたろーくん。ちょーっとだけ、待ってて?」
「え? あ、はい。待ちます」
ギリギリ聞き取れるくらいの声でお願いされて、俺はちょっと不思議に思いながらも素直に首を縦に振った。
綾音さんも首肯を返してきて、開け放っていた窓をゆっくりと閉じた。そして何やら急いで部屋の中へ戻り、すっかり音沙汰が無くなる。
俺はぼけーっと口を開けてひたすら窓を見上げ続ける。なんだったんだろ、さっきの。
しばらく突っ立っていると、横合いから脇腹をつんつんとつつかれた。
見下ろせば、そこには綾音さん。ふわふわロングの髪の毛を揺らし、ふわふわふりふりブラウスを着て、ふわふわもこもこカーディガンを羽織り、ふわふわロングのスカートをなびかせる、ふわふわした綿菓子みたいにとっても甘そうな女の子。ただ彼女のおみ足に踏まれた場違いな実用一辺倒のサンダルさんだけは、彼女がお菓子の国のお姫様ではなく現実に存在する女性なのだということを精一杯にアピールしていた。
ぼんやり観察している俺に、綾音さんは真面目な顔でちょいちょいと手招きして耳を寄せるよう乞うてくる。
素直に身を屈めて顔を寄せてみたら、綾音さんはほんのり赤らんでいた頬を一層赤くしながら、片手で風除けを作ってこしょこしょと内緒話をしてきた。
「琥太郎くん、なんでまだいるの? もうお昼過ぎてるくらいの時間だよね? ……あ、詩乃梨ちゃんを待ってたの? 最近はいっつも二人でご飯一緒に食べてるんだよね?」
ああ、詩乃梨さんから結構色々聞いてるみたいだな。詩乃梨さんがどの程度まで話してるのかはわからないけど、気の合う女の子同士が二人っきりで何時間もぶっ通しで喋り続けてたんだ、それなり以上に情報交換は進んでいるだろう。
俺は綾音さんに倣って片手で風除けを作り、こしょこしょと囁きを返した。
「今日は詩乃梨さんとは夕飯まで別行動ってことになってるんで、別に詩乃梨さんを待ってたわけじゃないですよ。マスターと色々話してたら、いつの間にかこんな時間になってました」
「お父さんと? 色々な話? ……どんな?」
貴女がマスターに結婚を申し込んできたらどうするか云々。
「まぁまぁ、それはいいじゃないですか。男同士の秘密の会話ってことで」
「……こたろーくん、ホモなの?」
「だからなんでそうなるんだってばよ!? 俺が愛しているのは詩乃梨さんだけだって何度も――もがっ」
魂の咆哮を上げようとしたら、綾音さんに慌てて口を押さえつけられました。重ねられた二つの手の平が俺の声と呼吸を奪い去ります。
「琥太郎くん、静かに! お願いだから静かにっ! 詩乃梨ちゃん今すっごい良い気持ちで寝てるところだからっ!」
顔を寄せて小声で叫んでくる綾音さんに、俺はこくこくと首肯を返した。うっかりちょっと綾音さんの手の平舐めちゃったけど、俺は詩乃梨さん一筋なので特に何の感慨も抱かない。嘘ですちょっとドキッとしちゃいました。ごめんねしのりん、あとで貴女の手の平べろんべろん舐めるから許してね、げへへ。
綾音さんは俺が大人しくなったのを見て満足そうに頷き、ようやく手の平を離してくれた。離してくれた、のだけど、彼女はなぜかその手を見つめてぼーっとし始めてしまう。ぼーっとしながら、ちょっとずつ頬を赤らめていく。
……え、なにその反応。まさか俺に惚れた? なわけねぇな。ただ単に、男に免疫無いから過剰に反応してるだけだろう。さすが鋼鉄の箱に入れて育てられた娘さんである。いやでも、なんで箱入り娘でもない俺まで顔熱くなってきてるんだろう。い、いや、俺しのりん一筋だよ? ほんとだよ!? 綾音さん攻略ルートなんて現宇宙には存在してませんのでね! そういうのをお望みの方は並行世界へレッツ・ダイバージェンス! でも綾音さん救済ルートくらいなら現宇宙にもあるかもねたぶん!
などという内心の動揺を咳払いで誤魔化し、そのついでにぼんやり顔の綾音さんの注意を十分に引き付けてから、改めて会話を再会する。
「詩乃梨さん、寝ちゃってるんですか? そんなに疲れるほど何か楽しいことして遊んだとか?」
女の子同士の愉しい遊び。実に興味ありますね。是非ともねっとりねっちょりお話を窺いたいところです。
しかし綾音さんは、ちょっと素面に戻ってきた顔に微笑みを浮かべて、ぱたぱたと手を横に振った。
「ちがうちがう、特に遊んだりはしてないよ。ずーっとおしゃべりしてたもん。まぁ、おしゃべりのしすぎで疲れちゃったんだけどね、詩乃梨ちゃん」
「……ああ、そっか。詩乃梨さん、普段そんなに喋り慣れてないですからね。色々と事情が有る子ですから」
実家を出てひとり暮らし。学校では不良扱いされて孤立。まあ今はアパートに帰れば俺がいて、学校でも友達が出来たらしいけど、二人きりで何時間もぶっ通しでお喋りなんていうのは初体験なんじゃないだろうか。詩乃梨さんとそこそこ喋ってると自負してる俺でさえ、会話している時間より無言で寄り添い合ってる時間の方が長いし。無言で寄り添い合う、良いねその表現。心が通じ合ってる感じがいたしますぞ。
でも俺がそんな風にして一年ちょいかけて信頼を築き上げた末にようやく手に入れた幸峰詩乃梨個人情報を、綾音さんはものの数時間であっさり仕入れてしまったようで。綾音さんってば、俺の意味深な台詞に何の疑念も抱かずに両腕を組んでうんうんと頷いていらっしゃいます。
「そうだね、詩乃梨ちゃんすっごく大変だよね。家族の話とか学校の話とか、聞いてるうちに胸にぎゅ~っと来ちゃって、思わず抱き締めちゃったもん。……詩乃梨ちゃん、やわらかかったなぁ……えへ、えへへ」
にへらっとだらしない笑みを浮かべる綾音さん。基本笑顔の多い綾音さんだが、こんな緩みきった表情は見たことないかも。つーか貴女、しのりん抱き締めてやわらかさ堪能しちゃったの? 俺でさえそれしたことないよ? 一番近いので、一緒に風呂入りながら詩乃梨さんの首筋に吸い付きつつ下腹部付近をさすりさすりしてたことくらいか。おお、俺の方がまだリードしてる感じする。でもすぐ追い抜かれそうだなぁ、この勢いだと。
させん、させんぞ! 詩乃梨さんにとっての一番は俺がキープするのだ! 例え相手がお菓子の国のお姫様であっても、この座を譲る気なぞ毛頭無いわ!
「綾音さん、詩乃梨さんとどうやっていきなりそこまで仲良くなったんですか? 何かコツとか魔法があるなら、是非とも俺にもご教授願いたいなぁー、なーんちゃって」
心の中で揉み手擦り手しながら下卑た笑いを浮かべつつ、実際には爽やかイケメンスマイルで言葉を放ってみる。
すると綾音さんは、顔を真っ赤にして両手を顔の前でばたばた振り回しながら首を横にぶんぶん振りまくった。
「無理むりムリむりっ! だめ、絶対ダメ! ぜったい教えられないからっ! 琥太郎くんにだけは絶対何が何でも教えたりなんてしないんだからぁっ!」
………………え、なんで俺だけダメなのん? 俺ハブ? しょぼーんしていい?
意気消沈しながらも、なんとか食い下がる隙を見つけるべく綾音さんをひたすら観察してみたら、綾音さんはなぜか両手を軽く掲げたポーズのまま俺を凝視して硬直。さらにこれまたなぜか、ただでさえ真っ赤だった彼女のお顔が天井知らずに沸騰していく。
綾音さんは涙を堪えてぷるぷる震えながら引きつった笑みを浮かべ、ぽしょぽしょと呟いた。
「……こたろーくん、って、さ。………………しのりちゃんと、お、おふ、おふろ――」
「待って。綾音さん待って。それ以上は言わないで。貴女と詩乃梨さんが俺の想像以上に親密になってることはわかったのでとりあえず何も言わないで?」
「………………こたろーくん、しのりちゃんに、プロポーズとか、指環とか――」
「だから待って。ねえ待って。綾音ちゃん、俺のお話聞いてくれてる? お願い、視線をふらふらぽわぽわ彷徨わせてないで、ここに居る俺を見つめて? ね?」
「…………………………こたろーくんって、しのりちゃんの、初恋の人、なの?」
………………………………………おっとー? 詩乃梨さんでさえ思い至ってないはずの事実に、なんでこの子は到達しちゃってるのでしょう?
俺は綾音さんが掲げたままの両手をがっちりと掴み、顔をずいっと寄せて囁いた。
「なんで、詩乃梨さんの初恋の相手が、俺だって思ったんですか?」
「………………かっ、顔、近いよぉ……」
おっと。こんな場面をおっさんに見られたら何言われるかわからん。というか何も言われずに即刻キャンプファイヤー送り確定である。
俺は何事も無かったように綾音さんの手を離し、一歩離れて澄まし顔を取り繕いながら咳払い。
綾音さんは視線も面持ちもふわふわぽわぽわさせながら、つっかえつっかえ言葉を紡いだ。
「あの、ね? しのりちゃんの、初恋の人って、こたろーくんと、似てるところがいっぱいあるんでしょ? だったら、どういつじんぶつじゃないかなーって、ちょっとだけ思っちゃったの」
「……ちょっとだけ、ですか」
「うん、ちょっと、だけ。……だって、こたろーくんがこの辺りに来たのって、私が中学生の時でしょ? じゃあ詩乃梨ちゃんの初恋の人とは、やっぱり違うもんね。……うん。……大体、初恋の人と十年越しに再会して、昔のことを忘れたままにまた恋人になっちゃうなんて、そんな奇跡みたいな偶然なんて有り得ないもんね。……うん。そだよね。私の頭がメルヘンすぎるんだよね……。……ふ、ふふ、ふ……」
綾音さんは台詞を終えると、ほんのり大きめサイズのお胸に手を当てて、ふぅっと熱い溜息を零した。どうやらようやっと気持ちが落ち着いてきたようだ。落ち着くのみならず若干落ち込んじゃってる気配まであるけど、まあ深く突っ込むのはやめておいてあげよう。でもメルヘンあやのんの称号を進呈しとこっと。
にしても、綾音さんなんか勘違いしてるな。俺が喫茶店来るようになったのは綾音さんが中学生の時で合ってるけど、この街に住み始めたのは十年くらい前からです。言わないけど。言っちゃったら綾音さんのメルヘン妄想が現実味を帯びた上で詩乃梨さんへダイレクトにお届けされちゃうだろうからね。『運命』関連については俺の中でまだ消化し切れていない部分が――というかある種の『危機感』を感じる部分が出て来てしまったので、今はもうちょっと考える時間が欲しい。
時間欲しいし、綾音さん変に鋭い所あるみたいだし、今はとりあえず話を切り上げてしまうのが無難な選択か。
「綾音さん、昼飯どうします? 俺は正直コーヒー飲みすぎて胃に何も入らないんで、おっさんに挨拶したらそのまま帰ろうと思いますけど。何か作ってくれるよう頼んでおきますか?」
綾音さんはしばらく落ち込みを継続させていたが、幾ばくかのタイムラグの後にようやく微笑みを取り戻して口を開いた。
「あー、私もお昼はいいや。せっかくだから詩乃梨ちゃんと一緒にお昼寝して、起きたら軽くお菓子でも摘まむよ」
「そうですか? じゃあそういう風に言っときます。詩乃梨さんのこと、よろしくお願いしますね」
詩乃梨さんと綾音さんが一緒にお昼寝。超見たい。白き妖精とお菓子の国のお姫様が寝ぼけ眼でクッキーはむはむかじってのほほんとしてる姿是非見たい。でも見れなぁぁぁぁぁぁい……。
残念無念な気持ちを必死に押し殺して、俺は紳士的にぺこりとお辞儀をした。
それに綾音さんが丁寧なお辞儀を返してくれて、持ち上げた顔ににこにこ笑顔を浮かべながら「お願いされました!」と元気にお返事。
俺はついつい『あらやだかわいい』なんて思ってしまいながら、しかし俺は詩乃梨さん一筋ですのでと呪文のように胸中で繰り返し、出て来た裏口へと引き返す。
その背中へ、綾音さんが極めて陽気に、最後の一言を放ってきた。
「琥太郎くん。略奪愛、がんばってね!」




