四月二十二日(土・3)。天国と地獄と綾音さん。
今日が休日ということもあって、『おがわ』の店内は真っ直ぐ歩くことが不可能なほどに人・人・人で溢れかえっていた。
右も人、左も人、前も後ろももちろん人だらけ。ちょっと立ち止まるだけで自分の位置する座標も道行く人の侵略を受けて軽くタックル食らう始末。おまけに子供が走り回って人混みの間をすり抜けてきたりするから、油断してると転んだ子供がスネに頭突きしてきたり、思いっきり足踏んづけてきたりする。
視覚的・触覚的に人でごった返しているのは当然だが、その上聴覚的にもがやがやがやがや音の津波が押し寄せている。でも俺にとって何よりもキツいのは、鼻の粘膜にブッ刺さる赤の他人の体臭。化粧の濃いねーちゃんや加齢臭のキツいおっちゃんと擦れ違う時は、思わず眉をしかめずにはいられない。
やべーな、おがわ。おうち帰りたい。
「こたろう、こっち」
夢遊病者か酔っ払いのようにふらふら千鳥足で歩く俺の手をはしっと掴み、詩乃梨さんは確かな足取りで人混みの間をするするとすり抜けていく。なんだこれ、どんな秘術使ってんだ。詩乃梨さんって時空の歪みを渡る固有魔法でも持ってらっしゃるの?
詩乃梨さんに連れられて着いた先は、フロアの片隅にぽつんと存在する小さな休憩所。飯屋が併設されてないからフードコートと呼べるような上等な広場でもないけど、アイスとジュースの自販機が有り、テーブルや椅子が幾つか備えられている。
俺は詩乃梨さんに手を引かれてテーブル席の椅子に座るよう誘導され、這々の体でどさりと腰を下ろした。
「……………………かえりたい……」
わりと本気で泣き言を言う俺を、詩乃梨さんは腰に手を当てて見下ろしながら盛大に溜息を吐いた。
「こたろう、人混み歩くの下手すぎ。なんで自分からぶつかりに行ってんの?」
「……ちがうんだ。俺はただ二階へ行こうとしただけなんだ。そしたらなぜかおばちゃんに跳ねられて逆方向へふっ飛ばされ、おっちゃんに舌打ちされて思わず道を譲り、意識の外から駆けてきた子供を避けて飛び退いた先で、ねーちゃんにぶつかって痴漢見る目を向けられたから必死に逃げたら、群れへと進化を果たしたおばちゃんズがまるでサバンナを縦断するバッファローのように――」
「自分の行きたい所ばっか見てるからそうなるんだよ。まずは人の流れに乗って、自分の行きたい所に着くまでじっと待つの。それが基本。あとタイムセールのベルが聞こえたらすぐに周り確認して、ざわめきが大きくなった所からすぐに逃げて。子供が走り回ってるのもざわめきと子供の声で判断できるから、がんばろ?」
なにこの子、人混み歩きのプロなの? 俺もうグロッキーすぎて、時空系固有魔法使える雷龍さんに何もかもまるっとお任せしてここで生ける屍になっていたい。
「しのりん、俺、もうだめぽん」
「……一緒に買い出し、するって言ったくせに……。こたろーの、ばーか」
詩乃梨さんは腕を組み、むすっと顔を膨れさせてそっぽを向いてしまう。
……うわぁ、俺情けねぇ……。自分で言い出しておいてこれとか……。
「……しのりん、ごめん、俺頑張る。でも、ほんとちょっとだけ休憩させて。あとしのりんの匂い嗅いでいい? 化粧の臭いと加齢臭にアテられて、ほんとグロッキーなんだわ……」
「…………………………………嗅ぎたいなら、嗅げば?」
詩乃梨さんは少し身をかがめて、俺の頭を己の胸に抱き締めるようにそっと両腕を回してきた。
もちろん、詩乃梨さんのおっぱいが俺の鼻に押しつけられたりなんかしていない。俺の目の前の空間が、詩乃梨さんの全身で覆われている状態。少し目線を上げるとブラウスと白い首元が見えて、そこから下へ行くにつれてパーカー、スカート、黒タイツ。
詩乃梨さんの身体で生まれた陰の中、詩乃梨さんの香りに包まれて、段々と心が落ち着いてくる。
「……………………こたろー、大丈夫?」
頭上から響いてくる、詩乃梨さんの優しげな声音。俺の頭に回された細い腕が、彼女の声以外の雑音をシャットアウトしてくれている。
「……うん。ちょっとずつ大丈夫になってきてる。ありがとな、詩乃梨」
「……だから、なんでいきなり呼び捨てなの……。まぁ、いいんだけどさ……」
地獄から、天国へ。詩乃梨さんさえ居てくれるなら、俺はどんな苦しいことにだって耐えられる!
「……ねえ、こたろー」
「うん。なんだい、詩乃梨」
「……ごめん。……ちょっと、トイレ行きたい、かも……」
詩乃梨さん離脱決定。俺もうだめぽん。
「トイレか。我慢できそうにないのか?」
「……………………………………それ、聞くの?」
「ごめんなさい。俺しばらくここで休んで体力回復しとくから、気にせず行っておいで」
「………………………………ごめんね、こたろー」
俺の方が超失礼なこと口走っちゃったはずなのに、詩乃梨さんは本当に申し訳なさそうに謝って、俺を慈しむかのようにきゅっと頭を抱き締めてくれた。
そして、抱擁は解かれる。
「すぐ、戻るから!」
詩乃梨さんは言うや否や、身とスカートを翻して人混みの流れへ駆け足で飲まれていった。
俺は、ふわりと鼻先をかすめた彼女の残り香をできる限り取り込み、臓腑へと染み渡らせる。
「……よし」
彼女が帰って来た時には、屈強なる益荒男となった俺の勇姿を見せてあげよう。
そう決意した俺は、とにかく資本となる体力を回復させようと、背もたれにぐったりと身体を預けて天を仰いだ。
――と、その時。
「あ、やっぱり琥太郎くんだった。こんにちはー」
ふんわりと軽い、間延びしたような声。
仰け反ったまま顔を横に向けてみれば、そこには詩乃梨さんではない女性の姿があった。
俺は彼女を知っている。
「……綾音さん?」
「うん、綾音さんですよ。こんにちは、琥太郎くん」
見る者の心をほんわかと和ませる、裏表の無いにこにこ笑顔。俺はつられて頬を緩ませながら、反っていた身体を元に戻して彼女に向き直った。
高校生から大学生の間くらいに見える、子供の愛らしさと大人の色気を見事に兼ね備えた女性。微笑みの似合う優しげな顔立ちに、ほんの少しだけふんわりとウェーブしたロングの髪。純白のブラウスの上に桃色のカーディガンを重ね、その上にフォーマルな意匠のジャケットを羽織っている。肩にかけられた淡い色彩のストールがちょっぴり大きめのお胸の前でふわふわと揺れ、程良くフリルのあしらわれた可愛らしいロングスカートも彼女の動きに合わせてふわふわと揺れる。
印象。ケーキのような甘ぁいお味と、コーヒーのような大人の風味を醸し出す女性。
そんなふうにぼんやりと観察していたら、彼女はちょっと怒ったように頬を膨らませ、ブーツでかつかつと床を叩いた。
「琥太郎くん、『こんにちは』!」
「あ、うん。どうも、こんにちは」
俺が慌てて挨拶を返すと、彼女――綾音さんは、満足げに両腕を組んでうんうんと頷いた。
「あいさつは接客業の基本だよ。このあたりはきっちりしないとね」
「……あの、俺、接客業じゃないんですけど」
「でも営業さんでしょ? じゃあやっぱりきちんと挨拶しないとね!」
綾音さんの言い分にも一理ある。一理なくても、俺は言い訳をせずに笑顔を浮かべることしかできなかった。彼女の笑顔は、他人を問答無用で笑顔にする。綾音さんは正に接客業をするために生まれてきたと言っても過言では無いだろう。あのしょっぱい父親とはえらい違いである。
にしても、なんでいきなり声かけてきたんだろう? いつもだったらどこかで顔を合わせても、目礼で終わらせるか、どうしようもないほどにばったり出くわした場合に二、三会話する程度だ。俺の姿を見かけたからといってわざわざ声をかけにくるというのは今までに無い事態である。
「綾音さん、俺に何か用事ですか?」
問いかけると、綾音さんは「あっ」と何かを思い出したように声を上げ、嬉しそうに手の平をぱんと叩いて満面の笑みを向けてきた。
「琥太郎くん、彼女できたんだって? いやー、おめでとー!」
小さくぱちぱちと拍手してくる綾音さん。え、まさかそれ言いたかっただけなの?
「は、はぁ、ありがとうございます。……あ、いや、待ってください。彼女じゃないですよ、まだ」
「あれ? 違うの? お父さんそう言ってたよ?」
綾音さんはきょとんと首を傾げ、ちょいと虚空を見上げて何かを思い出しながら台詞を続けた。
「えっとねー。『あの小童に激烈マブい彼女が出来たんだぜ! もう本物の妖精かと思っちまうくらいの可愛さでよぉ、しかもケーキおいしかったですって律儀に言ってくれるような良い子なんだぜ? 俺ぁほんと色んな意味で嬉しすぎて嬉しすぎて、来週またフリスビーやりたくなっちまったよ!』って」
「フリスビー全く関係無い所からぶっ込んできましたよね!? あのおっさんほんっとにやりたい放題だな! ――っと、す、すいません」
思わず頭を下げると、綾音さんは何やら疑問符を浮かべて小鳥のように首を傾げた。
「なんで謝るの? 今琥太郎くん、何か悪いこと言った?」
「い、いや、余所のお父さん捕まえておっさん呼ばわりはアレですよね。しかも悪口っぽいこと言っちゃったし……」
「いいよーそんなのー! 琥太郎くんお父さんと仲良いし、思ったこと全部言っちゃえばいいよ! うんうん!」
綾音さんは一際嬉しそうなにこにこ笑顔である。なんでお父さん貶されてこんな晴れやかなお顔なの?
俺の疑問を感じ取ったのか、綾音さんはちょっと照れたように頬をかきながら答えをくれた。
「お父さん、男の人に対して態度厳しいでしょ? だから、琥太郎くんみたいに遠慮無く言い合ってくれる人って、実はあんまりいないんだよね」
「……え、そうですか? あのおっさん――じゃなくてマスターって、わりと誰とでもぎゃーぎゃーやり合ってる印象なんですけど……」
「それって、私にちょっかいかけてきた人を追い出すときでしょ? 普通のお客さんには、結構普通に接客してるもん。琥太郎くんみたいに、私と全然関係無い所でお父さんとぎゃーぎゃーやり合う人って、ほとんどいないんじゃないかな?」
なにその新事実。俺あのおっさんいつでもどこでも誰とでもアホなコント披露してるもんだと思ってた。
つーかそもそも、なんでそんな新事実が発覚しちゃうほどに、この人長話決め込んでるんでしょう?
「……綾音さん、俺と話してていいの?」
「え? なんで?」
「いや、だから。マスターが怒るでしょうに。客はマスターの目の届かない所で綾音さんと話しちゃダメっていうルールですよね?」
俺は耳タコになるくらい言い聞かされたぞ。あのおっさんほんと綾音さんのこと溺愛してるからね。店の中ならまだしも、お外で俺とこんなふうに私的な会話をしてるなんて知ったらもう鬼神と化すんじゃなかろうか。
しかし綾音さんはのほほんと手を横に振る。
「それ別にルールじゃないよー。お父さんが琥太郎くんにそう言っただけでしょ? 琥太郎くんほんとお父さんのこと好きだね、そんな意味わかんないルール本気で信じて守るんだもん。外で私と会ってもお辞儀したり挨拶したりだけだしさー」
「俺別にあのおっさん好きじゃねぇし! 俺ホモじゃねえし! でも愛する娘が自分の知らない所でどこの馬の骨とも知れない野郎と密会なんてしてたらおっさんの胸張り裂けちゃってかわいそうだから、俺はおっさんの作ったルールを今後も守ります!」
「でも琥太郎くん、もう彼女いるんでしょ? なら私と話しても大丈夫だよ」
……あ、そういう理由で今日は長話OKなのね。俺はもう決まった相手がいるから、綾音さんにちょっかいかける悪い虫にはならないだろうというご判断。
でもこれ、マスターが許可したんじゃなくて、綾音さんの独断だろうなぁ……。
「あの、さっきも言いましたけど、まだ彼女じゃないですから。それに、やっぱりマスターの気持ち考えると、綾音さんとこうして話すのは控えたほうがいいと言いますか」
「琥太郎くん、やっぱりお父さんのこと好きなんじゃん」
「……もうそれでいいです……」
完全に脱力して背もたれにぐったりと体重を預ける俺を、綾音さんは実に嬉しそうににこにこと眺める。
やがて、綾音さんははたと何かに気付いて頬に指を当てた。
「琥太郎くん、今日はそのまだ彼女じゃない彼女さんはいないの? ひとり?」
「いや、今日も一緒ですよ。今はちょっと……所用で席を外しておりまして」
「ああ、トイレ?」
俺が折角言葉濁したのに! なんでのほほんと言っちゃうの!?
なんだか俺の方が恥ずかしいやつみたいに思えて、思わず顔を背けてしまう。
そして。
背けた先に、愛しい少女の姿があった。




