四月二日(日)。名を預かり、名を預ける。
さて。お弁当の中身を交換するという、世の『お友達』御用達なイベントをこなした俺と少女だが、俺と少女の関係はやはり友達未満赤の他人以上でしかない。
おそらく、少女にとって俺は、あまり話したことがないクラスメイト、くらいの好感度なんじゃないだろうか。そこに居ることを知ってはいるけど、自分から能動的に働きかけることも働きかけられることもなく、時折何かの拍子に会話や挨拶をする程度の相手。まさに俺のことである。
四季が一巡するだけの間、二人きりで隣り合って飯を食い続けてようやく手に入れたのがそんな立ち位置とか泣ける。だが、つい一週間前までの俺が、目が合っても会話も挨拶もしない程度の相手であったことを考えれば、今の地位まで這い上がることができたのは望外の僥倖と言えよう。
そんな僥倖に恵まれた俺なのだけど、実はひとつだけ、『少女があまり話したことのないクラスメイト』にさえ大きく遅れを取っているのではないか、と思えてしまうような重大な事実が存在している。
――俺は。今隣の席で昼食を取っているこの子の、ファーストネームもファミリーネームも未だに知らない。
「………」
昼飯を食い終えた後の、毎度お馴染みコーヒータイム。俺と少女は、初っ端の「うす」「ども」という二文字だけの挨拶を最後に、それ以上何かを語ることを放棄して、思い思いの時間を過ごしていた。
すぐ隣に人が居るのに、その人に気を遣うことなく、おひとりさまをまったりと堪能できる。孤独によるデメリットを打ち消しメリットのみを享受するかのようなこの空間を、俺は、そしておそらく少女も、不快には思っていないはずだ。
不快ではない。どころか、むしろ得も言われぬ仄かな快感が俺の心のデリケートな部分をくすぐる。
得がたい関係。そして、壊しがたい関係。
だから、俺が少女との仲の進展を望むというのなら、牛歩戦術でじりじりと匍匐前進していくしかない。いきなり「キミの名前を教えてくれないか」とストレートに尋ねてしまうなど以ての外である。
明確な好意を、その向こうに透かし見える愛情に至り得るものを、その裏に確固として存在している僅かばかりの下心を、今はまだどれも気取られるわけにはいかないのだ。
もし知られてしまったら、その日俺はロリコンの誹りを以下略。
そんな思いを抱えた俺が、少女が何気なく口ずさんだ言葉の意味を全く以て咀嚼できなかったのは、仕方の無いことだと思う。
「ゆきみね、しのり」
吐息に交えて大気へ溶かされた、何らかの意味を持つ発音。
耳には届いた。俺はこの少女の声が大好きだから、聞き逃すなど有り得ない。ゆきみね、しのり。一分の隙も無く完膚なきまでに聞き取ったぞ。でも脳内の言語変換機能に重大なエラーが発生。
「しのり?」
何それ? と言外のニュアンスを込めて聞き返す。すると、少女はぴくりと肩を跳ねさせて瞬時にそっぽを向いてしまった。
なんだこの劇的な反応……。今日はそれほど寒くないのに、少女の耳がみるみる赤く突沸していく。
どうやら、『ゆきみね・しのり』なる言葉には、何らかの重要な意味が含まれているらしい。俺の知らない専門用語、もしくは区切るポイントが間違っている、或いはまさかのアナグラム?
「ゆき、みねし、のり。……ゆ、き、み、ね、し、の、り。………………しのり、ゆきみね……」
――雪峰、詩乃梨。
閃光のように、人名らしき漢字が頭を過ぎった。
「……詩乃梨、さん?」
暫定の変換を仮採用し、少女をおそるおそる指差しながらおっかなびっくり呼びかける。
そんな俺を、少女は不機嫌そうに横目で一瞥し――ほんの僅かに、頷いて見せた。
名も無き少女は、どうやら詩乃梨さんと仰るらしい。
「……そっか、詩乃梨さんか。……そっか、うん……。……そっか、詩乃梨だったのか……。……………………しのり、か……………………そっかー………」
やばい、喉が異様に乾く。とりあえずコーヒーの残りを一気に煽り、温度の高い溜息を盛大に吐き出す。
見苦しくない程度に深呼吸していると、少女がじっとりとした目線を投げつけてきた。
「詩乃梨しのり、言い過ぎ」
「……ゆ、ゆきみね、さん」
「…………………………………………………………言い過ぎなきゃ、いいだけ」
………………。………………え下の名前呼んで良いの俺コレそういう意味マジかよどういうことなの?
真意を問い質す言葉を探すが、頭が真っ白すぎて何も思い浮かばない。
少女は手にしていた缶コーヒーを両手で握りしめるようにして一気飲みし、ゴミの入ったコンビニ袋を掴み上げて勢い任せに立ち上がった。
「………」
立ち上がったまま、その場から動かない。
少女――もとい、詩乃梨さんの、何かを催促するような厳しい視線が、俺のつま先や膝の辺りを忙しなくうろうろし続ける。
「………」
……あ、えっと、もしかして、そういうこと、で、いいん、だよ、な?
半信半疑どころか、九割九分『いや、まさかな』と思いながら、でも残り一分の期待と確信に突き動かされて、俺は慣れ親しんだ単語を心持ちゆっくりと口にした。
「土井村、琥太郎。……どいむら、こたろう、だ」
ありったけの誠意を込めて、詩乃梨さんの目をしかと見据える。伝われ、この想い。いいか、琥太郎だぞ。琥太郎だ。俺は琥太郎だ。ここでうっかり土井村さんとか言うなよ、そしたら今度は琥太郎さんと呼んでもらえるようになるのにまた何ヶ月かかることやら……!
などと考えて居たら、目力が強くなりすぎたらしい。詩乃梨さんは気圧されるように上体を反らし、若干引きつったような声でぼそぼそと呟いた。
「……どいむ――」
「琥太郎! 俺、こたろう! 琥太郎ですから!」
「…………………………………………」
ドン引きされました。汚物を見るような視線です。何もかも終了。本当にありがとうございました。
……マジで、終わった……。はは、心地良い空間も好意も愛情未満も何もかもパァでごぜーやすぜ……。今まで応援ありがとうございました、土井村先生の次回作にご期待下さい。
完!
「こたろう。……またね」
呆れ混じりの柔らかな苦笑が、知らず項垂れていた俺の脳天から尾てい骨まで、甘い痺れとなって突き抜ける。
弾かれてがばりと顔を上げたら、詩乃梨さんが逃げるようにして出入り口のドアの向こうへ身を隠す所だった。
しっぽのように翻った、銀色に輝く後ろ髪。それを最後に、重い鉄扉はあの子の全てを飲み込んで閉じた。
「…………………………………………」
こたろう。
またね。
「……………………いや俺ロリコンじゃねぇからこの胸の高鳴りはそういうのじゃねぇからたかが名前呼んでもらってまたねって言われくらいでまたねってお前えぇじゃあとかまた今度とかじゃなくてまたねってなんだねっておい可愛いだろなんだそれちょっと反則じゃ無いの待ってねぇ待ってしかもちょっと笑ってた笑ってたよね嗤うじゃなくて微笑でしたよなにあれ可愛い顔も見ておきたかったちくしょうくやしい絶対すげえ可愛かったよ一生胸の中に刻んで毎日朝晩思い出してにやにやしたくなるようなはにかみ笑顔だったに違いない――
――まあ待てよ琥太郎、クールにいこうぜ? 俺別にあの子のこと好きじゃねえし? 単に外見と中身がものすごい好みで実は初めて会った時には戦々恐々としながらもその裏でちょこっとだけステキな出逢いの予感を感じてときめいちゃってたり――
――だから待てよ。だってね、ほら、あれだよ、ね? ほら……わかるでしょ? これは愛ではなくただの好意なのですよ、今はまだ。……つーか、あれじゃんね? あんな可愛い子がフリーでいるとかそんな奇跡を信じられるほど俺もピュアじゃないからね、穢れきってるからね……。なんだ、そっか……恋人いるのか……。いないわけないよな……。
……………………おっけー。クールになれた。………………でも、もしかしたら、ひょっとしたら、フリーの可能性も――いやだから俺のこの感情はただの好意であって未だ愛情には至らない何かなのであるからして、恋人云々はべつにどうでもよくないかね? そう、俺が目指すべきは詩乃梨さんにとってのクラスメイト以上友達未満あたりなわけで、ね? だから……ねぇ?」
◆◇◆◇◆◇◆
俺が屋上を後に出来たのは、それからたっぷり一時間は経ってからのことだった。