四月十五日(土・了)。確定させない運命。
◆◇◆◇◆
深夜零時。頭の後ろで手を組んでベッドに寝転がり、暗闇にぼんやりと浮かぶ見慣れた天井を眺める。
元々いらないことをあれこれ悩むタチではあったが、最近は特に、こうして考えに耽ることが多くなった気がする。
考えることの大半は、幸峰詩乃梨という少女について。
「……子供ができたら、か……」
考え無しに俺が口にしていた、結婚したいとか、子供を作りたいという願望は、彼女にとってどういう意味を持つ物だったのだろうか。
親の愛情に恵まれなかった詩乃梨さん。ご母堂様の不貞を疑った過去があるご尊父様。そういえば、ご尊父様はお医者さんに種無しだと言われていたらしい。それでも夜な夜なハッスルして、詩乃梨さんが中学生の時に妹が生まれた。妹は詩乃梨さんと違って、両親の愛情を存分に受けているらしい。幸せな親子の蚊帳の外に追い出される前に、詩乃梨さんは自ら蚊帳を出て行った。
詩乃梨さんは、家族を恨まず。かつて家族だったものを遠くから眺めて、「あの幸せの邪魔をしなかったわたしは偉い」と心からの笑顔で語る。
……詩乃梨さんって、聖人君子かなんかなの……? ほんとよくグレなかったねあんた。改めて考えてみると、やっぱりなかなかベリーハードな半生じゃないっすかね。これどう考えても詩乃梨さんみたいな子に育つような家庭環境じゃ無いよ?
だが、そんな環境に生まれた幼き日の詩乃梨さんは、今俺が愛している詩乃梨さんへと無事に成長を遂げることができた。
防衛本能から己の心を麻痺させた結果の、聖人君子思考。そういう可能性も、あるにはある。
だが、詩乃梨さんには危うさはあっても、壊れている気配はない。彼女の心は、きちんと健やかな成長を遂げている……ように思える。
彼女の心が、壊れていないと仮定して。
では、壊れずにいられた理由は、なんなのだろうか?
理由なんて、無いかも知れない。でも、もしかしたら、有るかもしれない。
有るとすれば、それは、そう例えば。
――詩乃梨さんが、俺と出逢うより遥か昔に、俺以外の誰かの愛情を受けていた可能性。
「………………………………」
三つ子の魂は、百まで続くという。ならば、今愛に目覚めかけている詩乃梨さんは、愛を理解するための種となるものを、幼き日に誰かから与えられたのではないだろうか。
その相手は、当然両親ではない。親戚一同にも嫌われていたというから、これも違う。友達……というのも、きっと違うだろう。詩乃梨さんと同じ年齢の子が、真実の愛を理解して詩乃梨さんに与えるとか、そんなのはきっと見た目は子供で頭脳は大人なヤツにしかできない。
なら、相手は大人で、しかも、男。さらに言うなら、二十歳前くらいのイケメン。
……え、なんでそんなに詳細に人物像を描けるのかって? そもそも、ここまでの話ですら仮定に次ぐ仮定であって、ただの考えすぎの悩みすぎじゃないかって?
はっはっは。そうじゃないんですねー。
実はね、ええ。本人に、言われちゃいましたのよ。
『わたしには、こたろうと出逢うずっと前に、愛し合った男の人がいる』ってさ――。
◆◇◆◇◆
「もし、わたしとこたろーに、全然似てないこどもが生まれたら……。わたしのこと、最後まで、信じてくれる?」
詩乃梨さんが放ってきた言葉は、俺の全身の血の気を失せさせるのに必要十分以上の威力を秘めていた。
冷えていく血を、詩乃梨さんの身体から伝わってくる体温で、なんとか温める。
お湯の温度が、全然わからない。でも、詩乃梨さんの肌から俺の肌へと直接浸透してくる熱だけは、どこまでもはっきりと感じ取ることができた。あれかな、遠赤外線は身体の奥まであたたまるらしいし、詩乃梨さんもそういうアレを発しているのかもしれない。
よし、ちょっと体力ゲージが回復してきたぞ。ナニはなぜかくにゃりと折れ曲がってしまったまま一向に血液を要求してこないのでちょっと心配だけど、今はそれより何より、詩乃梨さんの不安を拭い去ってあげるのが先決である。
「俺は、もちろん、詩乃梨さんのこと……」
信じる、と。
ただそれだけの、どこまでも簡潔でどこまでも簡単な言葉を、俺は、口にすることを躊躇った。
――躊躇った、どころか。いつまで経っても、口にすることができなかった。
それを口にすれば、いとも容易く、詩乃梨さんを安心させてあげることができるというのに。
俺は。俺の愛しい女性に、『嘘をつくことがいやだから』、その言葉を告げることができなかった。
「…………………………」
流れる、無言の時間。
彼女と無言で過ごした時間は多いが、こんな空気が俺と彼女の間に流れたことは、未だかつて無い。
未だかつて無いほどにぴったりと身体をくっつけ合っていながら、未だかつて無いほどに、彼女を遠くに感じた。
「……わたしは、さ」
詩乃梨さんの声が、遠くから響いてくる。そこに乗せられた響きは、批難でも、落胆でもない。
どころか。彼女はなぜだか、ちょっぴり申し訳なさそうにしていて。そしてこれもなぜだか、申し訳なさを上回るほどの喜色を滲ませた声音で言葉を紡いだ。
「わたしは、自分のこと、信じられないや。わたしが、こたろう以外の人と、本当に『そういうこと』をしないのかって。わたしはちゃんと、こたろうだけを愛することを誓えるのかって」
……台詞の内容と、それを語る表情が、どこまでも乖離している。
「こたろうと出逢って、いっぱい愛してもらって、愛っていうのがどんなものなのかっていうのが、なんとなくわかりかけてきて。……それでね、わたし、気付いちゃったの」
「……………………気付いたって、何に?」
粘つく咽を動かして、無理矢理に合いの手を捻り出す。
詩乃梨さんは、ここにいる俺ではなく、俺ではない誰かを見つめて頬を赤らめながら告げた。
「わたし、誰かに愛されたり、愛したりっていうの、もう知ってるんだって。『あの人』がわたしにくれた想いや、わたしが『あの人』に抱いた想いが、愛だったんだな、って」
―――――――――――。
「…………………………………………あの、人?」
「うん。わたしの……、初恋の、人? か、な? え、えへ、えへへ」
――――――――――――――――。
「…………………………………………へ、へぇ。どんな人、なんだい?」
「えっとね、ほんとにちっちゃい頃だったから、あんまり覚えてないんだけどね? ……こたろー、みたいに、かっこいい人、だったか、な? え、えへへ」
――ちっちゃい頃。こたろう。かっこいい。えへへ。
……おお、ようやく頭が回り始めてきたぞ……。詩乃梨さんが初恋とか言い出しちゃうから、俺の脳髄が宇宙空間にぶちまけられたみたいな感じになってたわ。え、それどんな比喩だよ、まったく意味がわからんぞ。もうちょい落ち着け、落ち着け俺。
ちっちゃい頃。ちっちゃい頃の、初恋。なるほど、よくある、女の子にはよくある話だようん。ちっちゃい女の子って、ちょっとかっこいい青年とか見ちゃうところっと恋に落ちたりしちゃうしね。うん。あるある、ありますよええ。そんなのはありふれた出来事でござるよ。詩乃梨さんがそういう経験してたって、べつに何の不思議もないよね――
――え、ちょっと待って? 詩乃梨さんがその人のことを想ってたのはともかくとして、そいつも詩乃梨さんのこと愛しちゃってたとか言ってなかったかい? ロリコン? 真性のロリコン!? しかもそいつが俺に似てたってことは、詩乃梨さんってもしかして無意識のうちに初恋の人を俺に重ねて――!?
「その人ね。ほんと、こたろーそっくりだったな。このアパートの屋上で、コーヒー飲んでた。でも、なんでかわからないけど、すっごく死にそうな顔してたんだよね」
「……………………………………」
このアパートの、屋上で、コーヒー飲んでた、死にそうな顔の男。出逢ったのは、詩乃梨さんがちっちゃい頃。
………………………………………………。
「ねえ、しのりん。ちっちゃい頃って、何年くらい前なの? 初恋のその方は、今どこに?」
「え? えーっとね……大体、十年くらい前の話だよ? あの人も、もうどこかに行っちゃってるって」
………………………………………………。
あ、なるほど。若い頃の十年って、年取ってからの十年よりずっと長く感じるものですよね。まさかそれだけの永きにわたって、十年前に会ったイケメンがその後十年間同じアパートで暮らしてるなんて、まったく想像もしていないわけですね。
……………………………。
…………………まぁ、待てよ。まーまー、待てよ。いいか、現実は厳しいんだ、運命なんて存在しないんだ、そんなふわっとしたものは犬の餌にもならないんだ、そんなことしたら犬がかわいそうだ、動物虐待反対、断固反対。落ち着け、落ち着くんだってばよ。やばい、これ以上はやばい、待て、まだ聞いてはいけない、この話の続きを聞いてしまったら俺はあまりにもちょっとやばいとにかくやばい。
つーかそもそも! 俺ちっちゃくてかわいいしのりんに会った記憶なんてないですし!
「つまり、詩乃梨さんは、あれか。俺以外の男を愛した経験があるから、ただ一人の相手に永遠の愛を誓って操を立てる自信は無い、と、そういうことでOK?」
平静を装って、まとめを口にする。
詩乃梨さんは「あ」と何かに気付いたような声を上げて、しょんぼりと俯いてしまった。
「ごめん、こたろー……。わたし、いま、うれしそうに、はなしてた、よ、ね? ……こたろーに、ひどいこと……、こたろーの、いやがるはなし……、ぜんぶ、ぜんぶ、うれしそうに……」
「貴女が嬉しいと私も嬉しいわ。気にしないでね、しのりん。あいらびゅー」
「……………………? こたろー、なんだか、嬉しそう……?」
ああ……、ようやっとお湯の温度が戻って来た……。きもちいいね、これ。
俺の胸板に寄りかかってるしのりんの背中とかあったかくてやわらかいし、俺の右手が撫で回しているしのりんの下腹部近くとかあったかくてやわらかいし、急速に血液を渇望し始めたナニの先端に触れるふにふにしたあったかくてやわらかいこれってしのりんのナマ尻なのよね?
突き刺していい?
「なあ、詩乃梨」
「だ、だから、なんでいきなり呼び捨てなの?」
「俺は、詩乃梨を『信じる』よ」
自分でも驚くほどに、その言葉はするりと出て来た。
「……………………こた、ろう?」
戸惑いの声を漏らす彼女に、俺は何も答えない。
ただ、そっと。彼女の首筋に、優しく唇を押しつけた。
◆◇◆◇◆
意識は再び、ベッドに寝転がる俺へと回帰する。
詩乃梨さんの、初恋の相手。十年くらい前に、このアパートの屋上で、缶コーヒーを飲んでいた、死にそうな顔の男。
……いやぁ、なんだか他人とは思えないなぁー、そいつ……。あの頃の俺、今とは比べものにならんほどブラックな労働環境に押し潰されてたからなぁ……。しかも、屋上が好きで、缶コーヒーが好きで、詩乃梨さんのことを愛してただって? わぁー、なんだかどっかの誰かみたいだねぇー(そらっとぼけ)。
でもまぁ、今、初恋の相手の正体について言及することはすまい。
だって、もし、もしだよ? もし万が一、その詩乃梨さんの初恋の相手っていうのが、お、おおお、おおおおおおおおおおおおお――
やめよう。考えるのは、やめよう。なんかこの辺の事実関係が判明した瞬間に俺と詩乃梨さんの物語本編がエンディング向かえて、あとは前日譚と後日談を残すのみになっちゃいそうだし。
だから、今は。もうちょっとだけ、終わりを先延ばしにしよう。
俺はもっと色んなことを、詩乃梨さんと経験していきたいんだ。
それは、俺と詩乃梨さんが結ばれることが『運命』として確定しまったら、二度と出来ないあれこれで。今の不安定で不確定な俺達にしかきっと紡げない、そんな嬉し恥ずかしエピソード。
今は、眠ろう。
俺と詩乃梨さんが織り成していく、『運命』に到達するまでの日々を想いながら――。




