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四月十五日(土・6)。抑えて、解き放たれて。

 アパートに着いて。一回別れて。夕食時に、また集まった。場所は当然、俺の部屋。


 その頃には、俺も詩乃梨さんも、どうにかギリギリ通常営業できる程度には心を持ち直していた。……どうにかで、ギリギリ。ほんの些細なきっかけで、俺達の心の平穏は不安定な積み木細工のごとく木っ端微塵に吹き飛ぶだろう。


 だから俺達は、言葉を交わさず、顔すら直視せず、ただ相手の行動から心理を読み取って、相手の望むものを返せるように努力した。


 そんなどうしようもなく迂遠で、どうしようもなくストレートな思いやりを交換し合った結果、俺達はこの一週間続けて来た習慣を休日の今日も繰り返していた。


『………………にゃー………………。………………ふにゃー………………』


 今にも死に絶えそうな猫の、悲痛な叫びが聞こえる。踏まれた猫は相当深いダメージを負っていたらしい。もし俺がその場に居たなら、自分が血や糞尿に塗れることなんて気にも留めないでその猫を抱き上げて、近隣の動物病院を片っ端から訪ね回って土下座と大金の力で医者を引っ張りだし、なりふり構わずその猫の命を救おうとするだろう。


 ……かつての俺が、できなかったことだ。あの頃の俺は幼くて、意志も、金も、今の俺が持つ何もかもを持ち合わせてはいなかった。それどころか、あいつが事故に遭った瞬間に立ち会うことさえできなかった。


 俺を慕ってくれていたあいつは、俺の知らない所で、ありふれた事故に遭って、平凡な生を終わらせた。俺がそれを知ったのは、あいつが死んでから何ヶ月も経ってからのことで、それも人づてに聞いてのことだった。


 ……ああ、一応言っておく。あいつっていうのは、人間じゃない。ただの、猫だ。


 でも、野良猫ではない。俺の祖父母の家で飼っていた、猫。幼い頃の俺は、お年玉やお小遣いより何より、ただあいつに会えるのが楽しみで親の帰省に喜んでくっついていった。


 いつも気ままにその辺で寝そべってて、祖父母にもほとんど放置されてたようなあいつが、なぜか俺が行くといきなり身体を起こして、こっちにとことこ歩いて来て、俺の足の間をぐるぐる8の字に回って、俺を見上げて『にゃー』と鳴く。


 たまらなく嬉しくて、たまらなく、愛おしかった。


 俺はあいつを抱き上げない。猫は構われ過ぎることを嫌うと、そんな話を耳にしたことがある。


 だから俺は、時折あいつの頭を撫でてやるくらいで、あいつを抱き締めることさえしたことがない。


 本当は、抱き締めて、舌先でぺろぺろなめ合ったり、毛繕いしてやったりしたかった。


 でも、しなかった。


 あいつは、そのことを、どう思っていたんだろうか。不満だっただろうか。満足だったのだろうか。


 今ではもう、それを知ることはできない。そもそも、あいつと言葉を交わすことなんてできない。


 あいつは、ただの猫で。


 俺は、ただの人間だったから。


 俺達は、なにひとつわかりあえることなく、永遠の別れを向かえた。


『…………にゃー…………ふー……。………ふー、ふ………にゃふー………………』


 磨りガラスが填められた、折りたたみ式の扉。その向こうから、彼女の歌が聞こえる。


 俺は肩まで浸かっている湯船から、お湯を両手ですくい上げて、顔面にばしゃりと叩き付けた。


「――ぶほっ!? かっ、げ、へっ、ぶ!」

 

『………にゃー?」


「……げほっ……! はぁ……。なんでもない、ちょっとお湯が鼻に入っただけだ」


『………………にゃー』


「心配無い。……おいしいごはん、楽しみにしてるぞ」


『………………………………………ふにゃぁ~!』


 心配げに響いてきた声が、ふにゃりと蕩けたような喜色へと転化する。


 それからの彼女は、自分自身の通夜にでも参列しているかのようだった重苦しい空気は無くなり、ぴょっこぴょっこ飛び跳ねるようなリズムで軽快に中華鍋とお玉で音楽を奏で、ゴキゲンこの上無い調子で高らかに鼻歌を再開した。


 今から炒めてるってことは、今日は炒め物じゃないな。あれはきっと下ごしらえだ。なら、肉じゃがか、カレーか、或いは未だ俺が食べたことの無い、彼女が隠し持つレパートリーのひとつか。


 なんにせよ、俺は今日も彼女と一緒の食事を経験し、またひとつ、彼女について知っていく。


 俺達は、生きて、一緒に未来を歩んでいく。


「……………………ごめんな、『トラ』」


 二度と会えないあいつの名を呼んで、俺は一度だけ謝った。


 お前を救えなくて、ごめん。お前が望んでも生きられなかった未来を、こんなにも楽しみに待ち焦がれてしまって、ごめん。


 ……そして、いつか、きっと。今生の未来ではなくても、来世くらいには、また会おうな。


「……………………またな、トラ……」


 勝手な謝罪。一方的な、再会の約束。


 これは完全に、俺の身勝手で、一方的な感情の――感傷の押しつけだけど。


 あいつなら、俺のそんな気持ちも、きちんと受け止めてくれるんじゃないかって。今はなんだか、素直にそう思えた。


 俺の中で膿み続けていたトラウマのひとつが、この時、完全に癒されたような気がした。


「……はああああぁあぁぁあぁああぁぁぁぁああぁあぁぁぁぁぁ………………」


『にゃー!? にゃー!』


「……ああ、いい湯加減だぞー。すっげぇーきもちいぃー……」


『にゃー! にゃー! にゃ――じゃなかった! こたろー、違うの! そうじゃないの、たいへんなの!』


「――どうした、火傷か!?」


 完全に脱力へ向かっていた意識にいきなり氷水がぶっかけられ、お湯が盛大に零れるのも扉がみしみし撓むのも構わずに全速力で詩乃梨さんの元へと駆け抜けた。


 機能性最重視のジャージの上に、飾り気皆無のエプロンを装備し、長髪をしっぽのようにうなじでくくった詩乃梨さん。彼女は中華鍋とお玉を両手に構えたまま、俺をぽかんとした表情で見上げてきた。


「…………こ、こた、ろー?」


「どこだ、どこ火傷した!? 見せて、すぐ冷やして! メシなんてどうでもいいから、早くっ!」


「……や、やけど、して、ない、よ?」


「え……? じゃあ、指切ったとか……じゃ、ない、よな。包丁終わってるし……。………………え、えーと、何がたいへんなの、しのりん?」


 特に大変になりそうな要素が見当たらず、ちょっと首を傾げながら尋ねてみる。


 詩乃梨さんはしばらく戸惑っていたようだったが、やがてしょんぼりとした様子で、中華鍋に視線を落としてお玉で軽くかしゃかしゃ混ぜながら答えた。


「……まだご飯もこたろーも準備できてないのに、野菜、炒めちゃった……」


「…………………………。…………え、それだけ?」


「………………………………うん」


 こくりと、ばつが悪そうに頷く詩乃梨さん。


 俺は、耳鳴りがするほどに大音量で飛び跳ねていた心臓に手を当てて、盛大に溜息を吐いた。


「……そんなのどうでもいいぃぃぃぃよぉおおぉぉぉぉぉぉぉぉ…………。たいへんなんて言うから、何事かと思っちゃったじゃん……」


「……………………ごめん。………………あと、あの………………もっとたいへんなこと、できちゃった」


「またぁ? 今度はなにさぁ……。詩乃梨さんが火傷するのより大事レベルなの、それ?」


「…………………………た、たぶん? え、えへへ」


 火の消えた鍋を無駄にかしゃかしゃやりながら、詩乃梨さんははにかんだ笑顔を向けてきた。たいへんと言うわりには、そんな感じがまったくもって皆無である。


 俺は脱力しながらも、ほんの少しだけ気を張り直して問いかけた。


「で、何が大変なの?」


「……………………こたろうの、えっと……。それ、丸見えだなぁ、って」


 それ、と詩乃梨さんがお玉で指し示した先へ、俺は視線を下げていく。


 ぱおーん。


「………………………………。………………こんなんどうでもいいだろ」


 投げ槍に言葉を放ったら、詩乃梨さんがものすっごい盛大に驚愕を露わにした。


「いいの!? こたろうどうしたの!? 隠してよ! もっとリアクション返してよ! こういう時はこたろーがブレーキかけてたじゃん!」


「いや、俺の裸なんてどうでもいいよ。詩乃梨さんが火傷するとかに比べたら、俺が全裸でアパートの前寝そべって夜通し自慰してるとかの方が遥かに小さな出来事だよ」


「それとんでもない大事件だよ!?」


 あ、自慰って知ってるんだね、しのりん。見たいな。しのりんの自慰見たいな。あふれ出るしのりんの体液を咽をこくこく鳴らして飲み下したいな。


 ……おっと、少し起ってきちゃったぞ。ナニがかって? ナニがだろうね、ぼく知ーらない。


 立ち上がりかけたそれを隠そうともせずにぼけっと突っ立ってたら、詩乃梨さんが鍋とお玉を放り出すようにコンロへ置いて、俺の腹に弱々しい平手打ちの連打をかましてきた。


「こた、ろっ! かく、し、てっ! はや、くっ、おふ、ろ、もどっ、てっ!」


「なんかもう動く気しねぇや……。俺もう疲れちった……。詩乃梨さん、一緒に入って介護してくれ」


 ぴたり。詩乃梨さんの平手が、振りかぶられたまま停止する。


 きょとんとした顔で見上げてきた彼女は、かくりと首を横に倒した。


「……いいの?」


 ……おや? 反応が予想と違いますね。ここは「こたろーのばーか!」って不機嫌顔で罵倒して、俺の足でもげしげし蹴ってきて、無理矢理風呂に追い返す所じゃないの?


 だというのに。詩乃梨さんってば、瞳にすごくキラキラしたもの滲ませ始めてます。


 目と目で通じ合い、私は彼女の望む物をまるっと理解できてしまいました。


 できちゃったけど、どうしよう? 俺がだめだぞーって言えば、詩乃梨さんはしょんぼりしながらも引き下がってくれるだろうね。


 ……でも、本当にだめなのかな。


 そうやって、自分を押さえつけて、本当にやりたいことや本当の気持ちを、自分の手で縛り付けて、何もかも押さえ込んで。


 そうしてまた、俺はしてあげたいことを何もしてあげられないままに、この少女も失ってしまうのだろうか。


 ――俺は、結論する。


「………………詩乃梨さん、やっぱ、介護は無しでいいや」


「……だっ、だよね! そうだよ、それでこそこたろーだよ! こたろーは自制心のかたまりだもんね! うん、うん、わたし知ってた! ちゃんと知ってたよ! うんうん!」


 詩乃梨さんってば、安堵ゆえか、残念を隠すための空元気ゆえか、大仰に腕を組んで笑顔でこくこく頷きまくってます。


 そんな彼女の、赤らむ頬に、俺は片手をそっと添えて。『あれっ?』と疑問符を浮かべる彼女に、至極真面目にこう言った。


「一緒に、お風呂入ろう。俺の介護とかじゃなくて、えっちなあれこれでもなくて。俺、詩乃梨さんと一緒にお風呂入りたい」


「………………………………………………ひょぇー」


 詩乃梨さん、風呂入る前からのぼせちゃって奇声を上げてしまわれました。あらぁー、これはダメかしらー。そうよね、首筋舐められちゃっただけで失神するような子ですものね。ウブなのねん、ウフフ。


 でも俺は、彼女を見つめることをやめない。


「俺は、きみと、もっと触れ合いたい。もっと色んなことしたい。きみの体液で俺の飢えを満たしたい。きみをえっちなことで悦ばせたりしたい。俺のこともえっちなことで悦ばせたりしてほしい」


「………………………………………ひょ、ひょわ、ひょわっ」


「きみの身体を貪り尽くして、俺の体液でいっぱいにしてあげて、休む暇なく妊娠させて、子だくさんで幸せな家庭を築いて、一家団欒、夫婦円満、きみと一緒に幸福な生を謳歌したり謳歌させたりしてあげたい」


「………………………ひっ、ひっ、ふー。…………ひっひっ、ふー!」


「でも、やっぱりそういうのは、今はまだできないから。だからせめて、えっちなことはしなくていいけど、きみの剥き出しの身体を、ありのままの心を、俺にもっと強く、強く、感じさせてもらえることが、俺はしたい。そしてきみにも、俺の身体を、心を、強く、強く、まるで俺とひとつに蕩けあうみたいに、感じて欲しい」


「……………………………………だから、おふろ、なの?」


「おぅ、イェス!」


 にこやかに歯を煌めかせ、空いている手でサムズアップ。同時に、詩乃梨さんの頬に添えた手の親指をやわやわ動かしてぷにぷにほっぺの感触を楽しみながら、彼女の返答を待つ。


 詩乃梨さんは腕組みしたまま、考える。意識はだいぶふわふわしてそうだけど、きちんと、自我が残っている。


 詩乃梨さんは、ちらり、と中華鍋に視線を向けた。次いで、蒸気が拭き出す気配の無い電子ジャーを眺める。最後に、すすーっと視線を滑らせて、起動率五〇パーセントを超えて尚上昇をやめない俺のナニを見つめる。


 視線、そこから動かず。ただ、吊り目がちの眼が、笑いを堪えるようにすーっと細められていく。


「……こたろー」


「おぅ、イェス?」


「……………………えっちなことは、しないん、だ、よ、ね?」


「おぅ、イェス!」


「………………ごはん、まだ、炊けないし、さ。……野菜も、後で、炒め直す、から……、そう、すると、さ? いま、わたし、すっごい、ひまじゃん?」


「おぅ、イェス」


「…………………………ひまつぶし、しよっか、なぁー……?」


 ひまつぶし。それが何を意味するのか、俺は正しく理解した。


 頬を撫でる俺の指に、彼女がこてんと頭の重みを委ねる。まるで、俺が彼女を撫でているのではなく、彼女が俺を撫でているかのよう。


 彼女は、そっと目を閉じて。弱々しく、呟いた。


「……でも、ちょっとだけ、心の準備、させて。……五分くらいで、いいから、さ」


「……おぅ、いぇす」


 俺達は、触れ合い続ける。


 そして、これから、さらに触れ合う。

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