四月十五日(土・5)。回収された小道具と、来たるべき事件への序章、そんな間話。
おやつ時になって客がぽろぽろ来始めたので、それと入れ替わるようにして店を後にした。
会計の時におっさんがやたら俺と詩乃梨さんを見比べてしたり顔をしていたが、俺はもしかしたらあの中年に変な遊びを教えてしまったのだろうか。すまない、奥さん。すまない、娘さん。俺は貴女達一家の大黒柱をおかしな変態にしてしまいました。あ、元からか。
そんな益体の無いことを考えて気を紛らわそうと試みるが、やはりどうにも気持ちがふわふわと落ち着かない。
来た時に通った道を逆に辿りながら。俺はふらつく眼の置き場を求めて、傍らを歩く少女へちらりと視線を投げかける。
すると、どうやら彼女も俺を見ていたらしく、不意に視線が交錯してしまう。
生まれる、一瞬の空白。
「………………………………」
どんな顔をしていいのか、さっぱりわからない。
だから俺も、彼女も、赤く染まった顔をどちらともなく背けて、ただ無言で残りの道程を消化することを己の使命とするしかなかった。
……詩乃梨さん、けっこうキてるんだってさ。
…………もうちょっとで、俺とのこども、作りたくなっちゃうんだってさ。
……………………お、おおおおおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……。
「………………………………」
きす。キスをした。俺と彼女は、確かに互いの唇と唇を触れ合わせた。
キスをした。確かにした。だが、それは決して濃厚なヤツじゃない。ちょっとだけ、ほんとちょこーっとだけ触れるような、欧米人の挨拶だってもうちょっと吸い付くぞってレベルの、極めて浅くてすこぶる幼稚なキスだった。今時、中学生どころか小学生ですら、もうちょっと進んだあれこれを致していることだろう。小中学生が乱れた性を存分に満喫しているこの時代において、詩乃梨さんはまだ高校生だからギリセーフにしても、もうすぐ齢三十に届こうという社会人の男があんな取るに足らないしょぼくて拙いキス未満みたいなキスひとつでなんでこんなことになってんだ。
キス。なるほど、キスか。あれはキスだったんだな。あれがキスなんだってさ。あれがキスというものなんだってさ。そうか、あれがキスか。あれがキスというものなのか。そうか、キスなのか。ふむ、キスか。キス。きす。きす。キス。キす。きス。きす。き――そろそろキスがゲシュタルト崩壊しそうだ。考えるのちょっとやめよう。
………………でもあれ、きす、だったんだよなぁ……。
しかも、二回。最初は俺が勝手に唇奪って。二度目は、彼女が自ら乞い、俺もそれを願った結果の、完全に合意の上でのきす。
完全に、合意。俺が勝手にほっぺぺろぺろしたり唇ぺろぺろしたりしたわけじゃなくて、彼女もまた、俺のことを強く、強く、求めてくれた。
俺が彼女を想い、彼女が俺を想って、そうしてようやく初めて成立した、完全に双方向の想いのやりとり。
独り相撲なんかじゃない。二人で取った相撲である。全然、馬鹿臭くなんかない。
俺が求めていた関係の、その究極のほんの一端を、あの時俺は確かに垣間見た。
「………………………………」
あのさ。俺さ。
キスって、大好きになっちゃった! えへへー。
……いけない遊びを覚えてしまったのは、俺の方だったか……。
もう一回してぇなぁ……。でもちょっと無理。少なくとも今は無理。顔が熱くてたまんねぇ。今更実感湧いてきて恥ずかしさで死にそう。落ち着け、クールでニヒルなナイスガイ。こんな時こそクレバーにいこうぜ。ちょっとコーヒーでも飲んで一息ついて……いやさっき飲んできたばっかじゃねぇか。落ち着け、落ち着くんだ俺。とりあえずちょっと冷静になろうぜ。こんな時こそクールにいこうぜ。そうだ、ちょっとコーヒーでも飲んで落ち着いて……いや、だからさっき飲んできたばっかじゃねえか。こんな時は、そう、あれだ。
とりあえず、コーヒー飲もう。
「………………………………」
俺はジャケットのポケットの中ですっかり冷たくなってしまった『それ』を取り出して、プルタブをぷしゅりと起こした。
軽く啜って、ほっと一息。ようやく人心地ついた気がする。
心にちょっとだけ余裕が出て来たところで、ふと隣から視線を感じた。
「…………………あの、しのりん。何かご用?」
結構な勇気と共に声を振り絞ってみたら、詩乃梨さんは不機嫌そうな表情で俺の手の中のブツをすっと指差した。
「……こたろう。それ、なに?」
「……はあ。ええと、缶コーヒーですね。……詩乃梨さんを待ってる間に、なんか習慣で意味無く買っちゃったヤツ」
「……おいしい?」
「……はぁ。ええと、おいしいですね。…………………………………………あ、え、えっと、さ。……よかったら、ちょっと、飲む、かい?」
おそるおそる問いかけてみたら、詩乃梨さんは殊更に不機嫌そうに唇を尖らせながら――こくりと、とてもあっさり頷いた。
俺、彼女の求めるものに、ちゃんと答えを返せたみたい。
俺達は道の端に寄って、なんとなく立ち止まった。
「じゃあ、はい、これ。ぬるくなってて、悪いんだけどさ」
「……………………ん」
俺がほんの一口だけ口を付けた缶。差し出されたそれを、詩乃梨さんは両手で包むようにしてたいせつに受け取る。
そして彼女は、俺に一瞬だけちらりと目をやって、少し躊躇いがちに缶を口元へと持っていった。
彼女の唇が、俺の触れていた部分に重なって、俺の唾液がちょっとばかし混入しているであろう液体を、咽を鳴らしてこくりと一口。
「………………………おいしい」
全然おいしくなさそうな顔でそんなことを言う彼女は、冷めかけていた熱を再びその頬へ蘇らせていた。
「……おいしいか。そりゃ、よかった」
「……うん。………………こたろう、これ、返す」
詩乃梨さんは俺に無理矢理缶を押しつけると、パーカーのポケットに手を突っ込んで無駄に悪ぶりながらこちらを睨み付けてきた。
俺は彼女の視線が求めるものを正しく理解し、己の欲望にも突き動かされて、コーヒーをぐびりと煽った。
俺の唾液が入ったやつを、詩乃梨さんが飲んで、詩乃梨さんの唾液が入ったやつを、また俺が飲んだ。
そして俺は、それをまた、詩乃梨さんへと差し出す。
詩乃梨さんはこくりと頷いて、受け取って、一口啜って、また返してくる。
そのやりとり延々と続けられ、そして缶の中身は最後の一滴まですっかり絞り尽くされてしまった。
「………………………………」
単なる空き缶となってしまった、手の中のそれを見つめて。俺は、どうしようもない飢えと渇きを覚えた。
――足りない。もっと、欲しい。
コーヒーが飲みたいわけじゃない。もっと、詩乃梨さんの体液を、俺の臓腑に染み渡らせたい。
……まあ、やめとこう。それは過ぎた欲望だ。
「……行こっか、詩乃梨さん」
「………………………………ん」
道程の消化再開を促す俺に、詩乃梨さんは少ししょんぼりした様子で頷きを返す。
その時、俺は。彼女が求めているものを、それがまるで俺自身が求めているものであるかのように、どこまでもはっきりと理解できてしまった。
だから、だろうか。
その夜。俺は、彼女を拒むことができなかった。
不穏な終わりだけど別に不穏にならないしノクターン送りにもならないよ!




