四月十五日(土・4)。それの重さを、俺と彼女は正しく理解している。
おっさんは、注文を受けた時と同様、したり顔で頷きながら二人分のコーヒーとケーキをそっとテーブルの上へのせた。したり顔の遣いどころ間違ってんぞおい。
俺が椅子の背もたれに肘を預けながら批難の視線で見上げてみると、おっさんは一度首を捻り、やがてハッとした顔でぽんと手の平を叩いて、何故かカラのお盆でフリスビーを投擲するような体勢を取った。
その体勢のまま、俺を見つめて、したり顔でこくりと頷く。
数秒して、したり顔は、まばゆく光るドヤ顔へ。キラッ☆
「………………………う、うぜぇ……」
「テメェが雰囲気で察してしたり顔しろって言ったんだろうが! おい顔背けんなこっち見ろ! お前笑いすぎだろ!? なんでそんな爆笑してんだよ! 俺頑張っただろうが!」
「わ、わらっ、わらって、な、な、な、くく、ぷっく、く、ど、ドヤ顔、おっさんのドヤ顔、くはっ」
「人のキメ顔見て笑ってんじゃねぇよ! テメェほんっと失礼だな!? なあ、お嬢さんもそう思うだろ!?」
おっさんは俺の対面の詩乃梨さんに詰め寄り、何故か眉を上げ下げしてアイコンタクトを送り始めた。たぶん詩乃梨さんに『こたろう、マスターに失礼だよ。ひとの顔笑ったらダメだよ』とでも言わせたいんだろうけど、残念、詩乃梨さんには初対面のおっさんと言葉無しに意思疎通できるような超能力は備わっていない。どころか、一年間隣でメシ食い続けてた相手の好意にさえまったく気付かなかった経歴の持ち主である。詩乃梨さんをナメるでないわ!
詩乃梨さんはおっさんから逃れるように身体を引いて、困ったような様子でおっさんと俺を見比べた。
「こ、こたろー、ど、どうしたらいい?」
おっと、いつまでも笑ってる場合じゃねぇ。俺は詩乃梨さんとゆっくりまったりしに来たのであって、俺とおっさんの意味不明なかけあいで詩乃梨さんに疎外感を与えるなど、そんな展開は有ってはならないのである!
俺は震える肩をどうにか力尽くで押さえ込んで、おっさんをじろりと睨んだ。
「おっさん、悪いけど、今日はおっさんで暇つぶし――じゃねぇや、おっさんの暇つぶしに付き合ってる暇は無いんだ。俺は愛しのあの子とお茶しばいて甘ぁいケーキと甘ぁい時間を味わうために来たのでね、おっさんは娘さんと十数年ぶりにフリスビーでも楽しんでくるがいい」
「いや、娘とフリスビーは先週やったばっかだけどよ。つーか一家全員で一日遊び倒したけどよ。アレは楽しかったぜ。次いつ行くかな」
この人ほんとなんで外も中もしょっぱいくせして羨ましいほど幸せな家庭築いてんの? ずるいよずるいよ、俺だって詩乃梨さんとそんなあたたかい家庭築きたいよ!
俺が嫉妬で泣き出しそうな顔でひたすら睨み付けていると、おっさんはお盆を肩に担いで満足の溜息を漏らした。
「ま、お前さんがそう言うなら、お邪魔虫は引っ込むとしますかね。俺は上居るから、客来たら呼んでくれ。……お嬢さんも、気兼ねなくお茶と甘ぁいケーキと甘ぁい時間を味わっていってくれよな」
にっかりと笑いかけてくるおっさんに、詩乃梨さんは少し居住まいを正してこくこくと頷いた。
「わかり、ました。……ケーキとコーヒー、ありがとう、ございます」
「おう、いいってことよ。ま、俺ぁこれが仕事なだけなんだけどな」
「でも、あの……。ケーキ、前食べたのも、美味しかったです。それも、ごちそうさま、でした」
誠意を込めてぺこりとお辞儀する詩乃梨さんを見て、おっさんが『おや?』と眉を上げる。
まあ詩乃梨さんほど可愛い子が以前にも来店したことがあるとなれば、それをおっさんが覚えていないはずがない。ただでさえ客少ないし、おっさんは妖精さんの顔を覚えるの趣味みたいな所あるし。
間抜け面で俺を見てきたおっさんに、俺はしたり顔でひとつ頷いてみせた。
おっさんはようやく詩乃梨さんの言葉の意味を正しく把握できたらしく、あーあーうんうんと大袈裟に首を縦に振って膝を打ち、一転して紳士的な佇まいで自らの胸に手を添えて丁寧に腰を折った。
「お嬢様に喜んで頂けて、光栄の至りで御座います。どうぞ、こちらの品もごゆるりとお楽しみくださいませ」
「は、はい。……ありがとう、ございます」
「いえいえ。では、拙者はこれで」
拙者て。あんたどんだけ普段適当な言葉遣いしてんだ。まあ突っこまないけど。
身を翻して流し目を送って来たおっさんに、俺は少しだけ目礼を返す。おっさんはそれをしたり顔で受け止めて、お盆でフリスビーの真似をしながら、店の奥まった所にある部屋へ消えていった。
とんとんと軽快に駆け上がっていく足音の行き先は、きっと娘さんか奥さんの所だろう。
その音が聞こえなくなるまで何となく見送ってから、俺は改めて正面へ向き直った。
テーブルの上には、宝石のような光沢を放つチョコレートケーキが二つに、同じく黒々と光るブレンドコーヒー。
それらを見つめる対面の少女の表情も、きっと輝かんばかりであろう――と、思いきや。
「……詩乃梨さん、ケーキ、食べないの? あんなムサいおっさんが作ったなんて信じられないくらいに絶品なはずだよ? 人柄はアレだけど腕は確かだからな。人柄はアレだけど」
大事なことを二回言いながら問いかけるが、詩乃梨さんはちらりとケーキに目を遣っただけ。
無視では無い。なぜなら、彼女の視線は、ただひたすらに俺へとそそがれ続けているのだから。
心理が読み取れない表情。ここ数日間、彼女が見せていた顔だ。
俺はちょっと首を捻りながらも、詩乃梨さんを見つめ返してみる。彼女の瞳に、答えやヒントが有るのではないかと信じて。
意味も無く、互いを凝視し合う二人。
「……こたろうは、さ」
彼女の視線がわずかに逸らされ、ちょっと寂しそうに揺れる。
「こたろうは……。……えっと……。………………マスターさんと、仲良いの?」
それはきっと、彼女が本当に発したかった問いではないだろう。聞きにくいことを聞くための前置きか、あるいは本題に入ることを怖れてヘタれたか。
俺はふわっとした溜息を吐いて彼女を凝視することをやめ、テーブルに備え付けられているシュガーポットを手頃な位置へ寄せながら何の気なしな風を装って返答した。
「仲良いっていうか、まあ悪くは無いな。暇してる男二人がカウンター挟んでずーっと対面してれば、それなりに会話もするし、相手のことがわかりもする」
「……わたし、ずっと隣にいたのに、こたろうのことわからなかったよ?」
ミルクピッチャーに伸ばしかけていた手をぴたりと止めて、再び詩乃梨さんへと目を向ける。
詩乃梨さんは、唇を悔しそうに噛んで、恨めしげにケーキを睨んでいた。
「こたろう、友達と話すとき、ああういう感じになるんだね。すごく砕けた感じ」
「……あれを友達と言っていいものか……。確かに、ただの店主と客っていうのとは、また違う気もするけどさ」
「そうだよね。目と目で通じあってたし。お店の留守番任されるくらいに、信頼されてるし」
目と目で通じ合うっていう表現嫌だなぁ……。あんなおっさんとじゃなくて、俺は詩乃梨さんと見つめ合って心を通じ合わせたい。
だが、俺は詩乃梨さんの瞳をじっくりと見つめても彼女の心をわかることができなくて、今は目線を合わせることすらしてもらえない。
「こたろう、会社の後輩居るっていってたよね。その人とも、あんな感じなの?」
後輩。新人の女の子じゃなくて、たぶん尾野のことだろうな。
「まぁ、あんな感じと言えば、あんな感じ、ではあるけど……。それが、どうかした?」
「……こたろう、誰とでも友達になれるんだね。……相手が、年上でも、年下でも。……わたしみたいな、めんどくさい女が、相手でも、さ」
それは、拗ねたような声。……一匙の悪意と、誤魔化しようのない大量の寂しさに塗れた声音。
胸が、痛む。
彼女がぶつけてくる気持ちによって、どうしようもなく胸が痛む。
それと同時に、己の内に封じていた醜悪な化け物が目を覚まして、内側から俺の胸を突き上げてきた。
「………」
――ああ、そうか。この少女が今抱いている感情を、俺はよく知っている。
俺は相手のことを親友だと思っていたのに、そいつが俺の知らない所で女の子とよろしくやって、俺の知らない間に勝手に結婚してて子供までいると知った時だとか。
俺は相手のことを仲間だと思っていたのに、そいつは俺なんかよりずっと仲の良い友達がいて、そいつが俺の知らないはしゃいだ顔で他のグループへ合流していくのを見送る時だとか。
口に出すどころか、思うことすら憚られるような、女々しくてどうしようもなくくだらない感情。
女々しい、と。くだらない、と。誰かに話せば、そんな風に蔑まれることしかなくて、自分でもそういう風にしか思えない、けれど純然たる事実として確かに存在してしまっている誤魔化しようのない感情。
俺は、それを、あいつらに吐露することができなかった。できないから、何もかもを自分の中に押し込んで、自分ですら目の届かない所へ押しやって、なかったものとして振る舞うようにした。
何も無くなった俺の心は、当然の如く、空っぽになった。
「詩乃梨さん」
彼女の名を呼ぶ。
いつかの己と同じ、女々しくてくだらない感情を抱いている少女。しかし、それをなかったものにしないで、拙いながらもきちんと俺に伝えようとしてくれている女の子。
俺は立ち上がって、彼女の横へと歩み寄った。
テーブルに手を突いて。こちらを不安げに見上げてくる彼女に、覆い被さるように顔を寄せていく。
「……こた、ろ――」
俺は、彼女の唇を、己の唇で塞いだ。
「―――――――――――」
さて。自分の唇で相手の唇を塞ぐ行為を、なんて言うか知ってるかな?
うんそうだね、キスだね。舌で舐めただけだからキスじゃないもんとか、接吻風味とか、ベーゼ的とか、そういう逃げの表現が挿し挟まる余地の無いくらいに、完全にきすだよね!
さて。ところで、自分の中で勝手に盛り上がって、了承を得ないままに女の子の唇を奪う行為を、なんていうか知ってるかな?
それはきっと、もう強姦って言っていいんじゃないかな!
おっとー、俺ってば強姦魔なのかい? あっちゃー、そいつぁーどしましょー。
……い、いや、でもね、まだ舌入れてないし、ほんと、唇と唇が触れてるだけなんすけど、これアウト? セーフ? まだ舐めたり噛んだりしてないよ? ほんと俺のかさっかさで汚ぇ唇が詩乃梨さんのぷるぷるしてる瑞々しい唇にくっついて、潤い成分をちょこっとわけてもらって俺の唇に馴染ませてるだけだよ? これは医学的に見ればただリップの治療をおこなっているだけということにならないですかね? え、ならない? でも人工呼吸だって唇と唇くっつけて治療してるじゃん、なんで俺だけ強姦魔扱いされなくちゃいけないんだよ! 人命はかかってなかったけど彼女の心を救うべく行動しただけですよぼく! はいセーフ! はいセーフー!
…………今、離せば、セーフになったり、しないかなー……? どうせアウトなんだったら、もうほんとに強姦していい? ダメ? え、でもしたい。ほんとにだめなの? 教えて誰か。教えてしのりん!
「……詩乃梨さん」
あ、名前呼ぼうと思ったら唇離しちゃった……。
仕方無くちょっと顔を離してみたら、詩乃梨さんのきょとんとした顔がそこにあった。
うん、何が起きたかわかってませんね、この子。わぁい。セーフ。
俺は何事も無かったように自分の席へと戻り、俺の動きを追随してきた彼女の瞳を見つめて言葉を紡いだ。
「詩乃梨さんは、俺には詩乃梨さんより仲の良い人がいっぱいいるんだって知って、寂しくなっちゃったんだよね?」
身も蓋もない、あまりにも率直すぎる問い。こんなの、使い所を間違えれば相手への侮辱にしかならないし、そうでなければただの自意識過剰の勘違い野郎としてこっちが蔑まれるのがオチだ。
でもたぶん、今この台詞を口にしたことは、間違いではない。
俺の確信を裏付けるように。詩乃梨さんは、素直にこくりと頷いた。
「……こたろーには、友達が、いっぱいいる」
「そうだな。いっぱいではないけど、それなりに仲の良いヤツがそこそこいるな」
「……でも、結婚したいのは、わたしだけ、なんだよね?」
「そう。俺が結婚したい女性は貴女だけです」
「…………………………そっかー……。………………じゃあ、いっか……」
詩乃梨さん、納得の頷きを返してくれたものの、ただひたすらに茫然自失の体である。これ大丈夫なの? 俺後で我に返った詩乃梨さんにブン殴られたりするの? そしたら歯の二、三本は覚悟しねぇとダメだよなぁ、なんなら総入れ歯になっちゃう可能性まである。むしろ、乙女の唇を奪ってそのくらいで済めば御の字だろう。
とりあえず、歯が無事なうちに甘味類食い溜めしとくかな。
「詩乃梨さん、コーヒーに砂糖とミルク入れる?」
「…………………………ねえ、さっきのって、きす?」
「そうだねキスだね。砂糖とミルクどのくらい入れる?」
「…………………………もういっかい、していい?」
「ダメだね、それはきっとダメなやつだね。砂糖もミルクも俺にお任せってことでいいね、あそーれ」
「…………………………。こたろう、それ入れすぎ」
お、復活してきたかな?
詩乃梨さんのコーヒーにミルクをどぼどぼ注ぐ手を止めて、ちらりと彼女の顔を窺う。
……おや? 詩乃梨さんの姿が無いぞ。どこ、どこなのマイエンジェル。
「こたろー」
俺を呼ぶ声が聞こえる。発生源は、横で、上。
はい、横を見ます。詩乃梨さんのスカートとパーカーが見えますね。かわいいです。
はい、上を見ます。なんだか詩乃梨さんのお顔が近付いてきてるね。かわいいです。
はい、詩乃梨さん。俺の左右の頬に自分の両手をそっと添えてきて、どんどん顔を近づけてきてますね。かわいいけどこれどういうことなの。
「こたろー」
彼女の、熱く、湿り気を帯びた吐息が、俺の唇に触れる。唇本体は、まだ触れてない。
詩乃梨さんはおあずけをくらった犬のように、せつなげに瞳を潤ませて、俺のゴーサインを待ち続ける。
「……こたろぉー……。もういっかいだけ、ね? ……ちょっとだけで、いいから……。先っぽだけ、ちょんって、ね?」
「……………………う、うぅむ」
「……さっきの、よくわかんなかったの。……いきなりすぎて、ぜんぜん、わかんなかったの。………………舌、入れないから。舐めないから、もういっかい、さわるだけ、ね?」
「……………………よ、よくわからなかったか。そうか。実は俺もまったくわからなかった」
「………………じゃあ、いい、よね?」
「……………………しょーがないなー、しのりくんはー。……一回だけ、なんだぞー?」
「いただきます」
俺がゴーサイン出してからは、あっという間でしたね、ええ。
二度目の接吻。接吻と呼んでいいのかどうかわからなくなるほどの、ただただ唇を触れ合わせるだけのスキンシップ。
舌は入れない。唾液も交換しない。ただ唇と唇をくっつけ合うだけ。時折物欲しげに詩乃梨さんの唇が開きかけるけど、俺の言った言葉を気にしてか、決して粘膜や体液の交流には移らない。
彼女の唇の震えが、俺の唇を揺らす。彼女の漏らす吐息が、俺の口の中へ注がれる。
舌で味わい、鼻腔へ抜ける、俺が愛して止まない女性の、生の温度。
ナマである。直である。避妊してないけど大丈夫なのこれ? 子供ってキスで出来ちゃうんじゃなかったっけ?
子供出来るのが確定なら、もうこれより先に言っちゃっても良いかなぁ……。先っぽだけといわず、ぬめりきった俺の肉棒を、詩乃梨さんのやわらかな粘膜の狭間へねじ込んで、あふれ出る互いの粘液や熱くなっていく体温を交換し合いながら、ぬぷぬぷと盛大に音を立てて己の肉の棒を彼女の体の奥の奥までずにゅりと突き上げたりずにゅりと抜いたりしたい。あ、肉の棒って舌のことですよこれ念のため。ぼく嘘いってないもーん。
……しかし、ちょっと詩乃梨さん、あの、唇触れ合わせるの、長くないスかね? 確かに一回だけってことでOK出したけど、その一回がここまで長いって、あなたってとんでもない策士ね!
ところで、これもう、詩乃梨さんは俺に惚れてくれたってことでいいの? 俺への愛をついに自覚してしまったのね? もしそういうことなら、俺もう行くとこまで行っちゃうよ? オラァ、来いよ運営! こっちにはノクターンがあるんだぜへっへっへ! あ、さーせん、許してちょ。
「……………………ぷはっ」
詩乃梨さん、ようやくちょっとだけ唇離してくれました。でもすぐに三回戦突入しそうな勢い。だって真っ赤っかなお顔にばっちり書いてあるんだもの、『こたろー、もっと、もっとしたい』って。
俺もそれに応えるのにやぶさかではないのですが、敢えて詩乃梨さんと俺の間に手の平を差し込んで待ったをかける。
「一回だけって約束だろ? これ以上はまだダーメ」
「……………………………………なんで?」
「俺、これ以上やったら間違いなく詩乃梨さんのこと妊娠させる気で行かせてもらうけど、詩乃梨さんは俺の子供産んで、一生を俺と添い遂げてくれる気ある? 俺、子供できるような行為とかそれに準じる性的なあれそれとかは、おためしとか遊びとかではやらない主義ですので」
俺の考えが、重いだなんて思わない。そんなことを言うヤツの方が尻と頭が軽いだけだ。そんなヤツと俺はお知り合いになりたくないし、あれこれ言われたくもない。
でも、詩乃梨さんが俺のこと『重い』っていうなら……。俺は、選択を迫られてしまう。それがどんな選択なのかは、今は深く考えたくない。
それに、どうやら考えなくていいっぽい。
「……こども。……にんしん。……いっしょう、そいとげる……」
詩乃梨さんは、俺の言葉をきちんと受け止め、咀嚼して。俺の頬へと添えている手を、離すのか、離さないのか、彼女は悩みに悩み抜いた末に――
「……もうちょっとだけ、がまんする。……もうちょっと、だけね」
そう宣言して、俺の顔を解放した。
詩乃梨さんは火照った頬を隠さないまま、俺の対面の席へ戻ってすとんと腰を下ろす。
俺はミルクがどぼどぼ入りすぎたコーヒーを自分の側に寄せ、代わりにブラックのままのカップを詩乃梨さんの方へ差し出した。
「もうちょっとだけ我慢しちゃうのか」
「……うん。……もうちょっとしたら、たぶん、こたろうとこども、作りたくなる、か、なぁ……」
「……学生だからとかじゃなくて、気持ちの問題、でいいんだよな、それ?」
「…………………………うん。……もうちょっとで、こたろうのこと、愛しいって、思えそうかも? ……きてるね、けっこう」
詩乃梨さんは温度の高いはにかみ笑いを浮かべながら、俺の差し出したコーヒーを受け取った。
シュガーポットとミルクピッチャーを慣れない手付きで操り始めた彼女を見つめながら、俺は甘ったるそうなコーヒーを一口啜る。
……甘いね。うん。
とっても、甘くて、おいしいです。




