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四月十五日(土・3)。おっさんと、俺と、妖精さん。

 詩乃梨さんの温もりを失った手で、古めかしい木製の扉を装ったフツーの玄関ドアを押し開けた。


 ドアベルの涼やかな音がちりんちりんと響き渡り、室内に閉じ込められていた木の匂いがふわりと香る。


 後ろから続く詩乃梨さんにドアを押さえる役目を譲って、俺は数歩ほど歩きながら周囲を見渡した。


 実際の面積としては普通の民家程度だが、一階部分の壁を丸ごと全部ぶち抜いて喫茶店仕様に仕上げてあるため、体感的には結構な広さが有る。壁に並んだ大きめの窓からはぽかぽかと春の陽ざしが差し込んでいて、整然と連なるテーブル席達がまるで猫を飲み込もうとするこたつのように手ぐすね引いて待ち構えていた。

 広さがあって、席がある。だが、人の姿は無い。昼時とおやつ時の丁度中間だから、というのもあるが、この店はあまり広報活動に力を入れていないので、大体いつもこんな感じだ。たまに怖い物見たさやネタ欲しさで若者の団体が来たりすることはあるんだけど、そういう奴らは大抵ここの娘さんにちょっかいかけようとしてマスターに閉め出される。


 さて、そのマスターはというと……。ああ、いたいた。


「なんだマスター、相変わらずしょぼくれてんな。客が来たぞ、よきにはからえ」


 陽だまりに満ちた空間とは逆サイド、暗がりに沈むカウンター席の向こう側に、欠伸混じりにコーヒーカップを延々磨いている暇そうな中年の姿。


 その名はマスター。別名おっさん。本名は田名部善吉とかいう名前だったかな。読みは、たなべぜんきち、だ。こんな中年の解説しても面白くないけど、まあ容姿くらいは一応描写しといてやろう。

 後ろへ適当に撫でつけた短めの髪に、もみあげから顎を通って逆のもみあげまで続くむさ苦しいヒゲ。髪とヒゲに挟まれて歪む、この世に面白いことなんざなんもねーよと言いたげなむっつり顔。身に纏うのはよれよれのワイシャツと、ボタンを全開にしたベスト。ネクタイの類なんかまったくつけてなくて、ワイシャツの上半分くらいのボタンも開けっ放しで肌着が完全に見えている。下半身はカウンターのせいで見えないけど、たぶんシワだらけのスラックスだろうな、イメージ的に。

 総じて中も外もしょっぱい男だが、これでも妻子持ちでしかも愛妻家な上に子煩悩だというのだから、世の中わからん。ちなみに、奥さんはこの男の自分を飾らない部分に惚れたとかで、この男の身なりをまともにしようとか店を無理矢理繁盛させようとかいうことは考えないのほほんとした人。娘さんは娘さんで、そんな奥さんの影響を多分に受けまくっているらしく、口ではこのおっさんにあれこれ言うものの、結局いっつも仲良く店の掃除や軽食作りを手伝っていたりする。


 そんなことをぼんやりと思い浮かべながらとことこ歩み寄っていくと、マスターはこちらを一切見ようともせずにフンと鼻を鳴らした。


「帰れ、小童。ここはテメーみてぇなくたびれたリーマンの来る所じゃねぇんだよ。俺ぁな、もっとかわい~くて、ふぁんし~な妖精さん達にひとときの安らぎを提供するために、このお仕事やってんだよ。何が悲しくて脱サラしてまでリーマンの相手しなきゃなんねぇんだ」


 これである。まったく相変わらずパンチの効いた変態だなおい。

 

「おいおっさん。いいからコーヒーとケーキとなんか食いもん寄越せ。ロハで」


「ざけんな。料金二倍にすんぞコラ。まぁテメーみてぇな小童から金巻き上げるのも俺が悪者みてぇで気分悪ぃから、慈悲の心振り絞って二割引にしてやんよ。んで、いつものだな?」


「いやぁ、五割引にしてくれるだなんて、マスターやっぱ良い人だわ! もう惚れそう! あ、あと今日はいつものじゃなくていいや。じっくり選ぶから、後でテーブルに注文取りに来てくれ」


「あぁ? どうしたお前、ついに会社クビになって金が底突いたのか? 余所でバイトして食い繋ぐ気なら、それより先に俺んとこ来いよ。誠心誠意俺のために尽くして馬車馬のごとく働くって誓うなら、金はやらんが飯はやろう」


「いやそれバイトだろ、金寄越せよ飯だけで済ませんなよ。でもありがとね。あといい加減こっち見ろ、おっさんの大好きなかわい~くてふぁんし~な妖精さんがいるぞ」


「ハッ」


 こいつ鼻で笑いやがったよおい。妖精って俺のことじゃねぇよ? そんなへんてこな勘違いしないでくださる?


 俺はおっさんを捨て置いて、詩乃梨さんの方を振り返った。


「詩乃梨さん、とりあえず適当なテーブル座っとこうか。……あれ、詩乃梨さん?」


 詩乃梨さんは、五歩ほど離れた所に棒立ちして、なんだか呆けたような顔で俺を見つめていた。


 唇ナメナメ事件が尾を引いてる……ってわけじゃないようだ。尾を引くどころか、沸騰が途中でストップしてしゅるしゅると常温へ回帰したみたい。


 詩乃梨さんは、ぽかんと開けていた口を、ようやっと動かした。


「こたろうが、こたろうじゃない」


「なんでやねん。俺はいつでも貴女の土井村琥太郎です」


「あ、こたろうだ」


 詩乃梨さんはなんだかほっとした様子で盛大に胸を撫で下ろした。そしてちょこちょこ歩み寄ってきて、俺の背中越しにマスターへ目線を向けた。


「マスターさん、こんにちわ」


「……おい小童、なんかさっきからやけに可愛い声が聞こえんぞ。お前いつ声帯模写なんて習得した、プライベート削って宴会芸の練習するようなガラでもあるめぇに」


「俺の愛しのあの子のかわいいお声を宴会芸扱いすんじゃねぇ、しばくぞコラ。あといい加減こっち見ろってばよ。おっさん待望のかわいくてふぁんしーな妖精さんがご降臨なされたのだぞ。思う存分敬い、崇め奉るがいい」


 俺の物言いを不思議に思ったのか、おっさんは気怠げな動作ながらも手の中のカップを棚へと戻して、ようやくこちらへと身体を向けた。


 そして、ぎょっと目を見開く。


「お、おおう、おおおお、お、おおお、おおおおおお、おおお、おおおおお」


 むさ苦しいおっさんが奇声を上げながら食い入るように見つめてくる。詩乃梨さんはたまらず俺の背中に顔を引っ込め、声だけをおそるおそる投げかけた。


「……あの、わたし……ようせいじゃない、です……」


 おっさん、絶句。絶句したまま、俺を見つめて、極太の眉を盛大に上げ下げしてアイコンタクトを送ってくる。


 解読。『お前、このマブい子、どうした? ……まさか、女日照りが続きすぎて、とうとう犯罪に手を染め――』


「ありがちな勘違いしてんじゃねぇよ!? この子は俺の、なんていうか、とても筆舌に尽くしがたい関係なんだけどとにかくあれでそれな感じで詰まるところ俺の愛してる子なの!」


「いやしかしな、お前さん、え? ……愛してる? は? ……………………あっれぇぇ、お前ホモじゃなかったのぉ……?」


「なぜに!? なぜどいつもこいつも俺を同性愛者に仕立て上げたがるの!?」


「だってよ、おめぇ、そりゃあれだろ。お前みてぇな高給取りで顔もそれなりな男が、女に貢ぐでもなく俺みてぇなムサいおっさんの所に足繁く通って金落としてくんだぜ? そうなったらおめぇよ、俺としちゃぁ尻の穴の心配始めちゃうのが当然だろ」


「おっさん。汚い口を閉じろ。俺の妖精さんに下世話な話を聞かせんじゃねぇ」


 尻の穴とかやめてよね。詩乃梨さんのお耳が汚れちゃったらどうするの?


 背中に張り付いている詩乃梨さんの様子を窺ってみれば、なにやら両手をぱーにして軽く掲げて、ぴっくりお目々で俺を見つめていらっしゃる。


「しのりん、さっきからそんな感じのお顔多いね。どしたの、ほんと? ……あ、はやくケーキ食べたいよね? ごめんね、無駄に話長引かせちゃって」


「……こたろうが、こたろうじゃなかった」


「だからなんでやねん。俺はいつでも貴女の土井村琥太郎です」


「……ん。わかった」


 詩乃梨さんは、何かを納得したようにこくりと小さく頷いた。何度も、何度も、こくり、こくりと頷いて、最終的に安堵したような様子で俺の顔全体を眺める。


 その反応の意味はわからなかったが、とりあえずこうしていつまでも立ちっぱなしというのもなんだから、そろそろ本格的に話切り上げるか。


 俺は、未だ戸惑いの中にいるおっさんに、爽やかな敬礼を向けた。


「おっさん、そういうわけだから。俺が目線送ったらスッとスマートに注文取りに来てくれ、高度な教育を施された敏腕ウェイターのように。ぷっ、そんなおっさん超ウケる」


「黙れぇい小童! ……まぁ、そういうことなら、おう、わかったよ。お前さんにもようやく春が来たんだねぇ……。ご祝儀代わりだ、今日だけは特別に五割引にしといてやんよ」


「そこはタダにするとこだろ、優しいんだかみみっちぃんだかわからんな。……あ、でもやっぱ通常価格にしといて」


 俺が最後に付け足した一言に、おっさんが腕を組んで怪訝そうに首を捻る。まあ、そうだな。いつもの俺なら、遠慮無く盛大にゴチになった上で、別枠でお高いケーキのひとつでも購入してうまいこと金と気持ちのバランスを取るような場面だろう。


 でも、ご祝儀はもらえないんだ。悪いけど。


「俺とこの子は、まだそういうのじゃないんだ」


 俺が呟くようにして放った一言に、おっさんはおろか詩乃梨さんまでもが動きを止める。


 苦笑いを浮かべる俺と、呆けたような顔で俺を見上げる詩乃梨さん。おっさんは俺達の様子を見比べながら顎を撫でさすり、やがて何やら得心したような、或いは慰めるような声を漏らした。


「あぁ、その、なんだ。琥太郎よ」


「急にファーストネーム呼ぶなよ。どうした善吉」


「お前も呼んでんじゃねぇか。……ああ、でな、琥太郎。おめぇ、あれか。年の差とか、そういうの気にするクチか?」


「……気にしないと言えば嘘になるが、そこはもう乗り越えた」


「お、おう、そうか。かっけぇなお前。……んじゃあ、そのお嬢さんがあまりにかわいいから、自分なんかじゃ釣り合わねぇとか――」


「それも乗り越えた。……なあ、もういいだろ? そのあたりはわりとデリケートな部分だから、直接聞かずに雰囲気で察して、したり顔で頷いとけ。そういう気遣いが出来てこそ、一流のマスターなのだぞ?」


 俺の台詞に、おっさんが痛いところを突かれたようにぐむむと押し黙る。うん、このおっさんは思ったことなんでもかんでも口に出しちゃうからね。空気を察するとかそういうので何か失敗した経験でもあるんだろう。


 俺はおっさんに意味も無く首肯して見せた。そして、呆けたままの詩乃梨さんの手を軽く握り、窓際のテーブル席方面へゆっくりと歩き出す。


「じゃあ、そういうことだから。後で呼んだら、注文取りに来てくれ」


 言い捨てる俺に続いて、状況を理解した詩乃梨さんがおっさんに向かってぺこりと小さなお辞儀をする。


 俺と詩乃梨さんは、手を繋いだまま、陽だまりへと歩いて行く。


 その背中に、おっさんの溜息が届いた気がした。

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