四月十五日(土・2)。泣き出す貴女を止める術。
喫茶店『まほろば』。
『住やすい場所』を意味する言葉を店名とするだけあって、その店は住宅街のド真ん中に完全に溶け込んで存在していた。
見た目は、うさぎさんが住んでいそうな赤煉瓦のお家をイメージして建てました、って感じのちょっぴりファンシー風味な民家だ。ちなみに、本物の赤煉瓦を仕様しているのではなく、そう見えるような壁紙を貼っているだけで、壁に垂らされた葉っぱ付きの蔓っぽい植物なんかも作り物。
時々あるよね、こういう気合入ったおうち。時期毎に庭に電飾付きのクリスマスツリー飾ったり、門松や鏡餅を軒先にででんと置いたりね。道行く人は『このお宅幸せそうでうらやましいわー』って思いながらちょっと歩調を緩めて前を通って、過ぎたあとは二度と振り返ることなく今晩の夕食のメニューを心配しながらてくてく歩き去って行く、みたいな。
でもここね、確かにおうちでもあるけど、立派なお店でもあるのです。
一見さんなら、まず間違いなくスルーする。ご近所さんなら、「あ、ここお店やってたんだ」と認識はすれど、実際に入るのは赤の他人の家を訪ねるようでちょっと躊躇う、そんなお店。では何故ご近所さんってほどでもない俺がこの店に通い詰めるようになったのかっていうと、以下のような経緯がある。
時間と金が余ってたので暇すぎてアパート周辺の店を無作為に検索してたら、「あれ、あのうさぎさんのお家って喫茶店やってるの? 近いし金有るしちょっと行ってみっかな」って思い立ったが吉日行動。で実際入ってみたら、しょぼい店構えのわりにはわりとまともに喫茶店してたので、気が向く度にちょこちょこ通うようになった。そうこうしているうちに、マスターやらその娘さんやらとちょっとした顔見知りみたいになっちゃって、今ではすっかり常連さんの仲間入りです。
俺はいつものように小洒落た扉の前で立ち止まったんだけど、前を歩いていた詩乃梨さんはそれに気付かずとことこ歩いて行ってしまう。
「詩乃梨さん、待って。ここです、ここなのです」
大股で一歩踏み出して、彼女のお手々をきゅっと握って引き留める。
唐突に股割りを披露しながら手を握りしめてきた変態を見下ろして、詩乃梨さんは『何言ってんだこいつ』みたいな顔をした。
「この先じゃないの? このあたり、まだお店無いよ」
「有るよ、超有るよ。ほらこれ、見て。ちゃんとメニュー表有るでしょ?」
彼女の手を引き寄せながら己の足も引き寄せて、空いている手で扉の横のイーゼルをちょいちょいと指し示してみせる。
立てかけられた小さな黒板に白のチョークで書かれているのは、各種コーヒー・ケーキ・軽食類の名称。あまり品数は多くは無く、しかもスタンダードなものしか無い上、一部のメニューはお値段も結構高め。これだけだとあまり良いお店とは言えなくなっちゃうけど、コーヒーはともかくケーキの味はお値段以上の価値が有るってことは、俺は知ってるし詩乃梨さんも既に知っている。
なので俺は、未だ納得のいかない面持ちで俺を見上げ来る彼女に、魔法の言葉を放った。
「詩乃梨さんが俺の部屋で食ったケーキあるじゃん? あれ、この店のなんだわ」
「住宅街の隠れた名店ってあるよね! うん、このお店すごく風情ある! こたろう、はやく入ろう!」
マジで魔法だった。俺の手に抗って身体を離そうとしていたはずの詩乃梨さんが、突如満面の笑みで俺の手を引っ張って扉へ突進する。
俺は繋いだ手を通して程良くブレーキをかける役目を果たしながら、苦笑いで引きずられていく。
「急がなくて大丈夫だよ。今の時間くらいならそんなに人居ないはずだし」
「こたろう、けっこう来るの? あとこれインターホン鳴らしたほうがいいの?」
「俺はわりとよく来てるなぁ、マスターと娘さんと顔なじみになる程度には。あとインターホンは店の客は使わなくていいよ。それ使うと、マスターに『世界観壊すんじゃねぇ!』って怒られるし」
俺の言葉を聞いて、詩乃梨さんはぴたりと動きを止めた。リーマンを見つめる虚無の瞳。なんでいきなり第五属性発動させてるんだろう? そんなにマスターの怒りが怖いの?
「いや、マスターが怒るって言っても常連に対してだけだから、詩乃梨さんは怒られないよ? インターホンやってみたいならやってみていいよ。出るのはたぶん、マスターじゃなくて奥さんか娘さんだろうけど」
「………………………………むすめさん?」
「ん? うん。店が忙しいときとか逆に暇すぎる時とかに、よくマスターのお手伝いしてる子。去年大学生になったんだっけかな。優しい感じの子だから、無駄にインターホン仕掛けても許してくれると思うよ」
「………………………………帰ろっかなー」
「なぜに!?」
詩乃梨さんがいきなり真っ白に燃え尽きてしまわれました。先程までの燃焼具合が嘘のようです。急激に燃焼したから灰になっちゃったの? よくわからんが、とりあえずゆっくりコーヒーとケーキを楽しんで元気を回復しようぜしのりん!
俺は詩乃梨さんと手を繋いだまま、もう一方の手を詩乃梨さんの身体越しに扉の取っ手へと伸ばす。
しかし。詩乃梨さんが、俺の手を軽やかにインターセプト。俺達は鏡合わせのように右手と左手を絡ませ合って、真正面から向き合った。
「………………えー、と。……詩乃梨さん?」
「………………ごめん」
唐突なる謝罪。しかも、ばつが悪そうというか、ちょっぴり泣き出しそうな顔。
……おっとー。なんだか見覚えあるぞこれー。でもまさかねー、いやでもまさかねー? でも一応言ってみちゃおうかなぁ。俺の自意識過剰だったら、その時は存分に笑ってねしのりん。
「あのさ。俺、娘さんとはそんなに仲良くないからね? たましか顔合わせないし、そもそも客と店員だし。大体、あの子にいかがわしい視線やら感情やら向けようものなら、マスターに出禁食らうし。出禁どころか物理的に人生終了させられる勢いですね、あの人すごい子煩悩だから」
「………………………………そうなの?」
「そうなの。とてもそうなのです。俺はコーヒーとケーキと軽食目当てで通っているのであって、娘さんは時々不意に提供されるメニュー外のサービスみたいなものとしてしか――」
「サービス、なんだ……」
「ノーサービス! サービス・ノー! 俺はあの子に会えてもちっとも嬉しくない! ……………………ご、ごご、ごめん、俺、今、嘘、ついた。……実は、ちょっとだけ、あの子に会えた日はラッキーだなとか、思ってました……」
「……………………………そっかー……」
詩乃梨さん、悟りを開いたような面持ちで、力なくかくりと首を倒す。悟りを開いたというか、仏様に『人生とはこれ全て苦痛なのよね』と世界の真理を教えられて、生きる気力を失って何もかもどうでもよくなってしまっている感じ。
……ええ、と。……俺の自意識過剰とかじゃなくて。これ、もしかして、詩乃梨さんってば娘さんに嫉妬していらっしゃった、という解釈で、いいの?
「………」
立場を変えて想像しよう。『男の知り合いなんて、こたろうくらいしかいない』と俺に宣言した詩乃梨さん。しかし、彼女には行きつけの喫茶店があって、そこの息子さんであるイケメン大学生と、俺の知らない間に親密な関係を築いていたのだった。
やばい死ぬ。
「詩乃梨さん、ごめん、待って。お願いほんと待って。俺が好きなのは貴女だけ。俺が愛を囁くのも結婚したいのもあなただけなの」
「……わかってる、わかってるよぉ、こたろー。……だいじょーぶ、ちゃんと、わかってるから」
「そ、そう? ほんとにわかってる? キミ絶対わかってないよね?」
「……わかってるよぉー……。こたろうは、おとなのおとこのひとで、わたしより長く生きてて、わたしよりいっぱい色んな人とかかわってて、いっぱい……色んな……女の、人……と…………。……………………ふぇ。……ふぇぇ――」
この子マジ泣き五秒前!?
ど、どうしよ、どうしよ、五秒以内に考えろ、どうやったらこの子が泣くのを止められる、どうやったら俺のことを信じてもらえる、いやでも俺実際あの娘さんと会えたらラッキーとか思っちゃってた事実は消せないわけで、それ消すというのは詩乃梨さんに嘘をつくということになるわけで、じゃあそれは事実として認めた上でここからなんとかリカバリーしなくちゃいけないんだけど、五秒以内にどうやってそんな起死回生の策を打つの待ってもう五秒も無いよ半分切ったよ泣きじゃくる詩乃梨さんの姿がすぐそこまできてるよ待ってお願い泣かないで俺の前で泣かないで俺の居ない所でも泣かないで俺は貴女の笑顔が大好きなの詩乃梨さんお願いだから幸せなあなたを俺に見せてどうやったらあなたは幸せになれるの俺があなたのことだけ愛してるって結婚したいのはあなただけってどうやったらああああああもう時間ゼロ!?
とにかく、絶対泣かせねぇ。
「――――――――――」
俺の苦し紛れの策により、彼女の嗚咽への序曲は消え去った。
声は消え、言葉は消え、呼吸すら消え、時間が止まる。
俺の両手は、彼女のそれに繋がったままだった。自由に使えたのは、せいぜい首から上くらい。そんな姿勢から、なんとか唇塞いでやろうと思ったなら、まあ、あれじゃん。俺が何したか、わかるだろ?
え、わからない? しょうがないなぁ、答えてあげよう。
……あ、それより先に言っておくけど、キスなんかしてないよ? そう予想した人は残念賞。
――正解は。
「……………………詩乃梨さん、落ち着いた?」
ほぼ密着状態にあった顔を離して、穏やかに問いかける。
詩乃梨さんがきょとんとした顔で俺を見上げる。自分の身に何が起こったのか、まるでわかっていない模様。
「詩乃梨さん、落ち着いた?」
もう一度、俺は優しく繰り返した。
詩乃梨さんは、ほけっとした表情を変えぬまま、首だけをちょこっと傾けて、ぽしょりぽしょりと口を開く。
「……こたろー。……いまの、なぁに?」
「詩乃梨さんの唇を、俺の舌がぺろりと舐めました。慌てていたので、味は正直よくわからなかったです。終わり」
「……………………なんで、なめたの?」
「とりあえずびっくりさせてやれば、泣くのやめるかなって。しゃっくり止める要領だね。必殺・横隔膜の痙攣殺し」
「……………………。……………………これって、きす?」
「……いや、それはやっぱ違うんじゃないかなぁ……。詩乃梨さんはどう思う?」
「……………………………………きすでは、ないと、おもいます」
「そうか。じゃあそれでいいじゃないか。早く店入ろうぜ。今の件のお詫びってことで、代金は全部俺持ちでいいから」
詩乃梨さんは、傾けていた首を、逆側へかくりと倒す。
さらにもう一度、元の方向へかくり。
そのまま数十秒が経過して。
彼女は最後に、こくりと首を縦に振った。
「…………………………わたし、お金、ちゃんと払うからね?」
かつてない沸騰へ向けて染まり始めた顔で。ちょっぴり唇を尖らせながら、彼女は実に彼女らしい台詞を呟いたのだった。




