四月十五日(土・1)。無意識の一言は、人の本音を映し出す。
今日の昼は、屋上で二人仲良くおにぎり一個ずつ食べた。もちろん詩乃梨さんの手作りである。小さいお手々で握られた、小さいおにぎり。ほのかなしょっぱさは詩乃梨さんの汗の味。嘘だけど。いやたぶんほんのちょっとだけ本当だけど。とにかくそんな詩乃梨さん謹製おにぎりは、心はほっこり満たされるものの、物理的に腹を満たすにはちょーっとだけ物足りない。
その満たされなかった部分を、喫茶店で埋めてきましょうという算段である。昼飯時を過ぎているもののおやつ時にはまだ早いという一番空いててまったりと長居できそうな時間を狙うべく、屋上で一旦別れた俺達は午後二時前頃を目安としてアパートの前で落ち合うことになっていた。
頃に、目安。なんとも曖昧な時間設定である。もしデートの待ち合わせの醍醐味とも言うべき「ごめなさい、待った?」「いや、僕も今来た所さ!」をやろうと思うなら、こんなテキトーな待ち合わせ時間は指定しない。だってこれデートじゃねーもん。そんな甘酸っぱい雰囲気とか皆無だもん。しかもたぶん詩乃梨さんジャージで来るし。さっき屋上でそうだったから、そこからわざわざ俺のためにお色直しするとか考えられないもん。それに俺だって普段通りにイケメン風(笑)の着慣れた服装だし。だからこのお出かけは、同じアパートに住むコーヒー好き同士の、ちょっとした散歩みたいなものであって、それ以上でも以下でもない。
残念なような、気楽なような。まあそれでも詩乃梨さんを待たせるという選択肢が俺に有るはずもなく、俺は待ち合わせの三十分くらい前に部屋を出て集合場所へと向かった。
現在地、アパートの前。より正確に言うなら、アパートから表の通りへと伸びる、民家に挟まれた細っこい道の出口に俺は居る。電柱にもたれかかって、住宅街を貫く大きめの道路をぼんやりと眺めながら、まばらに走る車を心の中でカウントして暇を潰していた。
俺の手には、開封していないホットの缶コーヒー。暇すぎてぼんやりとしてたら、習慣でいつの間にか買っていた。やべぇなカフェイン中毒、俺も詩乃梨さんのこととやかく言えない。なんで喫茶店行こうってのにこんなもん買っちゃったの?
仕方無く缶をお手玉しながら、電柱と住宅に縁取られた狭苦しい空をぼーっと見上げて、往来する車の無粋な低音を聞き流す。待ち合わせはまだ結構後だ。しばらくこうしてお天道様とご近所さんにぼけっとアホ面さらしてよう。詩乃梨さんが来たら瞬時にクールでニヒルなナイスガイに転身しますけどね!
でも詩乃梨さん、かなり律儀っつーかきっちりした性格だから、どうせ集合五分前くらいにならないと来ないだろうな――
「こたろう。来た。行こ?」
俺の予想より早い時間に、俺の予想通りデートっぽさの欠片も無い率直で単刀直入な台詞が下の方から飛んできた。
俺は「おー」と呻きなんだか返事なんだかわからない声を虚空に放りながら、お手玉してた缶コーヒーをジャケットのポケットへ無造作に突っこんで、何の気なしにゆっくりと視線を降ろしていく。
見えるのは、日本人にあるまじき天然の灰色を有する、不思議な雰囲気と神秘的な空気に包まれた髪。
吊り目がちでキツい印象を受けるはずの目元は、しかし今はちょっぴり穏やかに緩んでいる。
雪のように白い肌に、雪の日の幼子を思わせるほのかな朱色の頬。真冬でも乾燥なんて知らなさそうな瑞々しい唇は、食べられるのを待つ果実や満開の桜を思わせる上品な紅色。
細くて白くて、思わず吸い付いて思う存分舐め回したくなる首。
――そこまでは、まぁ、予想通りでいつも通りの詩乃梨さんだったわけだけど。今俺の目が釘付けになっているのは、そこより下だ。
「こたろう、はやく。お店混んじゃうから」
穏やかだったはずの目元にちょっぴり焦れたような様子を滲ませながら、詩乃梨さんは軽く握った二つの拳を胸元でふりふり揺らした。
胸元。揉みしだきたくなる美乳を覆っているのは、先程屋上で見たような機能性以外度外視のジャージではない。それに、彼女の身体の動きに合わせてふわふわ揺れるスカートは、学校の制服のそれでもない。
私服だ。未だかつて屋上でも部屋でも見せてくれたことのない、ジャージでも制服でもない私的な衣装を纏った少女が、そこにいた。
「……………………………………お、おおぅ」
第一印象は、地味で簡素。
学校指定のものと似たような意匠のローファー。膝より上どころか絶対領域までをも完全ガードする黒タイツ。制服の時よりちょっと多めに太股を隠している、柔らかそうな素材のフレアスカート。身体の滑らかなラインが程良く浮かび上がるようなぴったりサイズのフード付きパーカーで上半身をすっぽりと覆っていて、喉元には女の子らしい雰囲気を醸す丸襟のブラウスがちらついている。全体的に、フリルのような装飾目的の細工はほぼ皆無で、色についても白や黒を基調として茶や緑色を織り交ぜた渋めでシックな色合いでまとめている。
第一印象は、地味で、簡素。
第二印象は。落ち着いた雰囲気でありながら、そこはかとない『色気』と、自己主張弱めの『可愛さ』が調和した、筆舌に尽くしがたい、えもいわれぬ極度の胸キュンを見る者全てに植え付ける、とにかく『詩乃梨さんかわいい』という気持ちを強制的に掻き立てられるような、なんかもうとにかくかわいい、詩乃梨さん可愛い。
「詩乃梨さんかわいい」
あ、ぽろっと言っちゃった。
詩乃梨さんは俺を急かすポーズのまま動きを止めて、きょとんとした顔をした。
「かわ、いい? ……こたろう、どうしたの、いきなり?」
「え、いや、詩乃梨さんがあまりにもオシャレさんだったものだから。つい率直な感想が」
「おしゃれさん……?」
詩乃梨さんは疑問符を浮かべて、パーカーの裾を軽く引っ張ってみたり、身体を捻ってスカートの後ろ側を確認したりした。最終的に、俺の顔を怪訝そうに覗き込んできて一言。
「べつに、いつも通りだよ?」
「いつも通りじゃねええええええよおおおおおおおぉぉぉ――――ッッッ!? 貴女俺の前でいつそんなかわいい私服見せてくれたよ!? ないよね? ないよね!? そんなことあったら俺即座にプロカメラマンと化してバズーカみたいな一眼レフで貴女の身体をレンズと心に焼き付けてるもの! カメラ構えて地面に寝転んで仰向けに寝そべったりしながら『いいねー、いいよー詩乃梨ちゅわ~ん。今度はちょっとスカートの裾摘まんで持ち上げてっみようかぁ? おっ、いいねーいいよー、でももうちょっとだけ頑張ってみちゃわなぁい?』とかねっとりした口調と視線で貴女を舐め回すように堪能しているはずだもの!」
「うるさい。近所迷惑」
「あ、はい、さーせん」
近所迷惑、いくない! まあここ別にアパートの中じゃないし、周りにも人居ないからあんまり関係ないけどね。でも天下の往来で無闇に叫んだりリビドーを解放したりしてはいけません! おまわりさんとの約束だ!
……アパートの中じゃない場所で、天下の往来で、詩乃梨さんとこうして面と向かって会話する。なんだか、どうにも不思議というか、謎の気恥ずかしさで背中がむずむずしてきちゃう。
俺にとってやっぱり、詩乃梨さんはアパートと紐付けて考えられていた存在なんだろう。屋上の妖精は、屋上を飛び出して俺の部屋へ宿り、そしてついには外の世界へ俺と一緒に旅立つのであった。旅の途中で明かされる、妖精さんに関する数々の真実。彼女が第五属性『無』の担い手であること、そして妖精では無く純血の雷龍の幼体であること、炎属性魔法剣に対する極めて高い適性を有していること、物理攻撃も魔法攻撃も無効化する体質であるということ。異世界転生した冴えないリーマンじゃなくて、これもう詩乃梨さんの無双列伝が幕開ける勢いじゃね?
手始めに、俺の心は彼女にすっかりやられてしまいました。
「こたろう、なんでもいいから、はやく。蹴るぞ。ぶつぞ」
詩乃梨さん、おこである。軽くファイティングポーズを取って、可愛い拳を見せつけてくる。頬の赤味は、俺への怒りか、はたまた俺が述べた感想が恥ずかしかったからなのか。
まあ、このまんまぼけっとしてたら、どっちにしろ殴る蹴るのSMプレイ始まっちゃいそうだし。清く正しい交際にすらまだ至ってないのに、いきなりのハードプレイはちょっとだけ遠慮しとこうかな。
俺は詩乃梨さんをなだめるように両手を翳して、半笑いしながら言葉を放った。
「ごめんな、ちょっと色々衝撃的だったもんだったから、つい呆けちまった」
「衝撃。なにが?」
「まあ、それについては道すがらってことで。とりあえず、コーヒーとケーキ、行こうか?」
「……うん」
詩乃梨さんは、ケーキという単語を聞いて、唇を嬉しそうにむにむにうにうに動かしながら頷いた。
俺はそれに頷き返して、詩乃梨さんを行き先へ誘うように半身を引く。
「とりあえず、店はあっちな。十分も歩かない所にあるんだけど、詩乃梨さんは行ったことある?」
「無い。喫茶店行くような贅沢、してられないし」
詩乃梨さんがむすっとした顔で言いながら、俺の隣へ素直にちょこちょこ歩み寄ってくる。俺は二人で並んでおしゃべりしても通行人の迷惑にならないよう、慣れたルートを外れて人気の無い小道を選びながら詩乃梨さんを伴って歩き始めた。一応言っておくが、エロいことをするために人目に付かない場所を探しているわけではない。
「詩乃梨さん、相変わらずの倹約精神だな。素直に尊敬するよ」
「ばかにしてる。ドケチって言ってよ。ばかこたろー」
「ケチとか言わんて。詩乃梨さんの生活費って、ご両親からの仕送りなんだろ? それをたいせつに使おうという貴女の誠実な姿勢を、尊びはしても蔑むなんてことは絶対に無いね」
「……………………………………ふん」
詩乃梨さんはいつものごとく、ふいっと顔を逸らしてしまう。それでも俺の隣を歩むことをやめはしないあたりから彼女の心情を察することができて、やはり詩乃梨さんは詩乃梨さんだなぁと変な感慨を抱いてしまう。
詩乃梨さんは、いつも通りだ。ここ数日見せていた警戒する猫っぽい仕草も、今はナリを顰めている様子。ほんとに、いつもの詩乃梨さん。
……ただ、その身に纏う服を、除いては。
「ねえ詩乃梨さん。今日着てる服って、いつも着てるの?」
「…………………着てるけど。それがなに?」
「いや俺、そんな服着てる詩乃梨さん見たことないんだけど。基本ジャージか制服じゃん」
「……わたし、それ以外の服も、持ってるよ? ……あんまり、買わないけどさ……。そこまでドケチじゃないもん……」
詩乃梨さんがしょげちゃった!? いじけるじゃなくてひたすら落ち込むばかりなり!
俺は詩乃梨さんの二の腕を手の甲でぱしぱし叩いて、なんとかこちらへ注意を向けさせた。
「そんなつもりで言ったんじゃないから。ただ詩乃梨さんの服がちょっと見慣れないなって思っただけだから。かわいいよ、私服の詩乃梨さんかわいい。ジャージでもかわいい。制服でも超かわいい。服っていうか詩乃梨さん本体があまりにもかわいすぎる。詩乃梨さんかわいい。愛してる。結婚してくれ」
「……こたろう、最後はそればっか。……まぁ、考えとく」
考えてくれるらしいですよ結婚。マジか。いや前から考えてくれる系の回答は頂いていたね。ただ考えた末に「やっぱやーめた! まぁじ・うぅけるゥー!」ってなる可能性が盛大に有り有りなだけでね、ええ。……しょぼーん。
唐突に落ち込む俺とは対照的に、詩乃梨さんがちょっと元気になった様子でぴょこぴょこと数歩ばかり先へ出て、前を見たまま会話を繋いだ。
「こたろう、そればーっか。あいしてるー、けっこんしてくれー、しのりさん、か、かわ、か、かわ……………………『かわいくねぇよバーカ』って!」
「言ってねぇよ!? 未だかつてそんなツンデレ染みたこと貴女に言ったためしないよ!? 俺の主成分は詩乃梨さんへのデレデレで出来てますのでね、要らないツン成分は濃縮して兵器にした上でどっかの野郎共やイケメンに向けてビームとして発射してるのですよ。おのれ尾野、許すまじ」
「尾野ってだれ?」
「しのりん、頼む。その名を口に出さないでくれ。今は俺と二人だけで喫茶店までお散歩中なの。俺以外の男のことは考えないで、ただ俺だけを見つめてくれ」
「尾野ってだれー?」
「やめろおおおおおぉぉぉぉぉ! ほんとマジやめて!? 詩乃梨さんの口から俺以外の男の名前出てくるの予想以上にキッツい! しかもあのイケメン野郎の名前だと? おのれイケメン! いけめんはすべからくこの世から消え去るべきだと私思います!」
「そしたら、こたろうも消えちゃうね。ばいばい、こたろー」
「………………………………………………え?」
詩乃梨さんに改めて目を遣ってみれば、彼女は俺の斜め前を歩いて前を向いたまま。表情をまじまじと観察することはできないけど、あんまり恥ずかしそうにしている雰囲気は無い。俺との会話は今ので一段落のつもりなのか、「ケーキ、ケーキ」と小声で口ずさみながら、例の妙ちきりんな歌を歌い出しそうなゴキゲンな様子でぴょっこぴょっこ歩いてる。
なるほど。詩乃梨さんにとっての俺って、ただの事実として極々当たり前にイケメン枠なのですね。
……俺、泣いていい? 男泣き。
胸がいっぱいになって言葉に詰まる俺と、そんな俺を時折怪訝そうに振り返る詩乃梨さん。そんな状況は、喫茶店に到着するまでの間ずっと続いた。




