四月十日(月・了)。分類不能な関係の終着点。
暗闇に浮かび上がる見慣れた天井に、今日一日の詩乃梨さんを振り返って映し出す。
突然の来訪から始まった、遠慮の無い甘えたがり攻勢。かと思ったら、仕事を終えて帰って来てみれば、甘えてくるどころか関わることすら拒むようになっていたり。ほんのちょっと前までえっちっちを理解できてなかったはずが、さわりたいからって理由で素っ裸の俺の世話焼いたり、好奇心に背中を押されて唇を欲しがったり。不意に大人の女性の顔をちらりと見せておきながら、最後はこうして――
――まるで、子供のように。すっかり泣き疲れて、俺の隣ですやすやと眠っていたり。
「…………こたろー……」
身体を丸めて夢の中で俺の名を呼ぶ彼女に、肩の上まですっぽりと布団をかけ直してあげる。
詩乃梨さんは、にへらっと一層だらしない笑みを浮かべて、穏やかな寝息をより深いものへと変えていった。
静まりかえる部屋。安っぽい折りたたみのベッド。使い古された敷き布団と掛け布団。厚い布にサンドイッチされた俺と詩乃梨さんは、互いの顔が見える方向を向いて、互いの息づかいの湿りまで素肌で感じ取れる距離に居る。
俺と彼女を隔てるものは、何も無い。布団に密閉された狭苦しい空間に、俺と彼女の体温が、匂いが、混じり合って、重なって、とろけあって、充満する。
手を伸ばせば、彼女に触れられる。腰を抱くこともできる。できるというか、むしろそうしてしまった方が自然とさえ言える至近距離。
だが、俺は手を出さない。代わりに、彼女の目元に浮かんだ涙を、親指でそっと拭ってあげた。
拭い取ったそれを、ぺろりと舐める。
しょっぱい。
「……………………なんでナチュラルに舐めてんの俺……」
自分で自分にドン引きであった。でも俺は、詩乃梨さんが時折零す涙を、拭っては舐め、舐めては拭い、詩乃梨さんの顔に俺の唾液を塗りつけて俺の腹を詩乃梨さんの涙で満たす行為を延々と繰り返している。
嚥下した雫は、もう結構な量になっている。
だが、詩乃梨さんは未だ、頬に新たな雫を生み出し続けていた。
「………………………」
俺は詩乃梨さんに顔を寄せて、柔らかな頬に舌先を直接這わせた。
やわらかい。あたたかい。そして、しょっぱい。
……おいしくない。
「……泣くなよ、詩乃梨」
俺の前で、泣かないでくれ。俺のいるところで、泣かないでくれ。自分がわけもなく不甲斐なくなって、どうしようもなく胸が痛む。
でも、俺のいないところでは、泣かないでくれ。俺の知らない所で、傷ついて落ち込んでるなんて、考えるだけで吐き気と目眩が収まらない。
彼女の涙の理由は、なんなのだろうか。幸せそうなだらしない寝顔で、こんなにもはらはらと落涙する理由というのは、いったいなんなのだろうか。
わたしは今幸せなのだと、そう語るキミが泣き崩れているようにしか見えなかった理由は、いったいなんなのだろうか。
「…………………………」
防衛本能。
過ぎた幸福は、不幸の到来を否応なく連想させる。楽有れば苦有り。楽しい時間が楽しければ楽しいほど、苦しい時間の苦しみはより一層苦しくなる。
身を割くような苦しみから逃れる術は、ふたつだけ。苦しみを遥かに凌駕するほどの幸福を以て、不幸の存在を塗り潰すか。
あるいは。幸福そのものを、己の人生から切り捨てるか。
「…………………はぁぁ……。……やっぱ、似たもの夫婦、ってことなのかね」
俺も彼女も、後者を選択した。俺は友や家族に裏切られる悲しみから逃れるために、人を信じることをやめて。彼女は、幸せな今を失う恐怖から逃れるために、『幸せな今』そのものを丸ごと灰燼に帰そうとした。
幸せも不幸も無い人生は、生きやすく、死にづらい。その道はきっと、緩やかな自殺だ。
――してたまるか。させてたまるか。そんなクソみたいな人生なんて、俺には、俺と彼女には、もう絶対に必要無い。
なーんて、俺がそんな無駄に重くて暑苦しい覚悟を決めていることも知らずに。間の抜けた顔で眠る彼女は、「ぷひゃり」と可笑しなくしゃみをした。
「詩乃梨、寒いか?」
「………………んー…………。…………さむい……」
「そうか。じゃあ、もっとこっち来な」
「…………んー……。……うい……」
詩乃梨さんはちょっと鼻を啜って、素直にこちらへ寄ってきた。俺の首筋の匂いをふんふんと嗅いで、満足げな溜息をそのまま寝息へと繋げる。
俺は手を出さないと言ったな? あれは嘘だ。
俺は片腕を詩乃梨さんの背中へそっと回し、あやすようにぽんぽんと叩いた。
彼女の頬の涙が、幾分収まってきた、ような気がする。あくまでも俺の主観で、俺がそう思いたいだけだけど。
「おやすみ、詩乃梨」
「…………んー…………おや……す……み…………」
詩乃梨さんが眠りの深淵へと沈んでいくのを見守りながら、ふとあることを思い浮かべる。
そういえば。いつだったか、聞いたことがある。寒い時に『寒い』と言い合うことができる相手がいることは、とてもあたたかいことなのだと。
なんだか、わかるような気がする話だ。
……もしその話を、あの日の彼女も知っていたとするならば。あの言葉の真意までをも、なんとなく理解することができる。
三月、二十六日。十六歳の誕生日を迎えた、彼女。
あの日の彼女は、舞い散る粉雪の最果てに、凍り付いた空を仰ぎ見て、ただ一言呟いた。
あの時彼女が求めたものに、あの時の俺は、そうと知らないままになんとなく応えたけれど。
これからの俺は、彼女が求めるものを理解し、感じ、思い遣って、いっぱい、いっぱい、与えていこう。
与えて、与えられて、分け合って、分かち合って。
そうしていつか、俺達は至る。
どんなに寒い日だって、身を寄せ合ってあたたかく過ごすことができるような。友達でも恋人でも夫婦でもない、世界でたったひとつの、俺と彼女だけの特別な関係へと。




