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四月十日(月・6)。大人で、オトナ。

 詩乃梨さんのエキスが存分に染み出しているであろう熱めのお湯に、鼻の下までとっぷりと浸かって。立ち込める湯気をぼんやりと眺めながら、ちょっぴりのぼせかけてきた頭に詩乃梨さんの姿を思い浮かべようとする。


 ……ぬぅ。だめだ、まったく思い浮かばない。


 というのも。扉一枚隔てた台所の方から流れてくるのほほんとした歌声が、俺の脳裏に浮かび上がろうとする荒ぶる雷龍の姿を、その都度完膚なきまでにぶち壊してしまうからだ。


 それではお聞き頂こう。問題の歌がこちらである。


『にゃー。にゃ、にゃ、にゃーにゃー。にゃー、にゃにゃ、にゃーにゃー。にゃーにゃ、にゃーにゃーにゃーにゃーにゃーにゃーにゃー』


 にゃー。


 にゃーである。


 なんかもう『にゃー』がゲシュタルト崩壊しそうなほどににゃー尽くしである。


 おそらく、彼女が歌っているのはかの有名な童謡『猫踏んじゃった』だと思う。おそらくと付けざるを得ないのは、彼女の声があまりにも気が抜けているというか間が抜けすぎていて、元ネタが不明になるほどに音程もリズムもゆるっゆるのばらっばらになっているためである。


 しかも途中で唐突にアレンジが加わって『にゃー』が『わん』になったり、『うぇへへー』と締まりの無い笑い声が混じったり、『こ。た。ろー』と意味も無く俺の名を嬉しげに呟いたりするので、これはもう猫踏んじゃったではなく詩乃梨さんメイドのオリジナルソングではないかとわたくし思いますの。


 メイド・オブ・詩乃梨。敏腕メイド詩乃梨さんは、現在、カレーの鍋をお玉でぐ~るぐ~るとかき混ぜながらじっくりまったり温め直し作業中である。俺はその間に風呂に入るよう命じられたので、身体も髪も詩乃梨さんエキス入りのお湯で洗った後に、詩乃梨さんエキス入りのお湯の中へどぼんした次第。ちょっとだけお湯を飲んでみたりして、味覚と視覚と触覚と嗅覚で秘湯詩乃梨之湯を楽しんでおりましたところでですね?


 聞こえ始めてきちゃいましたのよ。あの謎のゆるゆるソングが。


 本来詩乃梨さんは、あざとい『かわいいわたし』アピールをするような子ではない。むしろどちらかというと、何かにつけて偽悪的というか『かわいくないわたし』を演じようとする傾向がある。まあ全然演じきれてなくてわりとツンデレ状態になってしまうのが常なのだが、ともあれ、こんなにも堂々とにゃーにゃー可愛く猫の鳴き真似を披露するような子ではないのは間違いない。


 ならば、あれは完全に無意識の鼻歌ということになるのだが……。


『にゃーす、にゃ、にゃーにゃ、わんっ! わ、わーわわ、わーわん、わーわー。ふー、ふっふー、ひっふふっふー? ふー? ふー! ひゅーふっふー』


 ……詩乃梨さん、何か心の内に激烈なストレスでも抱えていらっしゃるのかしら……? お料理の度にこんなへんてこりんなお歌を歌ってらっしゃるの? かわいいというよりちょっと心配なんですけど……。あとでいっぱい優しくしてあげよっと。うふふ。


 あとの話はあとでするとして。とりあえず、今あれどーすっかだなー……。もしあれが俺への『かわいいわたし』アピールだったなら、華奢な身体を後ろから抱きすくめて白い首筋に鼻を埋めながら尻とおっぱい揉みしだいてあげればいいだけの話なんだけど、たぶんこれ絶対俺の存在すこーんと忘れてるよなぁ。俺、出て行った瞬間に灼熱のお玉で殴られる未来しか見えない。迫り来る炎属性魔法剣。雷龍マジパネェ。


 しかもさ、問題がもうひとつあってさ。このアパートって脱衣所なんていう上等なモン無いから、この磨りガラスの填まった折りたたみ式の扉を開けたら、ソッコーで詩乃梨さんとばったり鉢合わせなのよ。全裸で。ぱおーん。


 ですんで、なんとかして、もう一回詩乃梨さんに居間兼寝室に引っ込んでもらってドアまで閉めてもらわないと、俺こっから出られません。


 どうしたもんか……。もうだいぶ、意識が朦朧としかけてるんだけど……。


『にゃー、にゃーす、ふー。……にゃ? …………こたろー、まだ出ないのー?』


「……出ていいのー?」


『いいよー。なんでー? ごはんいらないのー?』


「……欲しいから、出るよー……」


 だめだ、もうほんと熱い。ツッコミとか後回しでいいや。


 俺は涼しい風を求めて、なんとか風呂から這い出ることを決意。ざばぁっと波を立てて立ち上がり、扉を半分だけ開けてにょっきりと顔だけ外へ出す。


 俺の視界に映るのは、屋上の時の服装からブレザーだけキャストオフした詩乃梨さん。エプロンの下はブラウスのみとなっており、袖を肘までまくって左手は軽く腰に当て、右手はスナップをきかせてお玉を回し続けている。なんだか熟練を感じさせる絶妙な力の抜け具合で、なんとも堂に入った風情である。幼妻っていうか料理人だなこれ。


 詩乃梨さんは手を休めること無く、俺の方へ怪訝そうな目をむけてきた。


「なにしてるの? 早く出て来てよ。いつまでもあっためてたら、ガス代もったいないじゃん」


「……俺、今、マッパなんだけど……」


「……ん。じゃあ、あっち向いてるから」


 詩乃梨さんは答えるなり、自然な動作でふいっと居間の方へ首を向ける。


 ……うーん? ……うーん。詩乃梨さんがそれでいいなら、まあ、いいかなぁ。万が一見られても、別に何も減らないし。


「じゃあ、こっち見るなよー? 見ても良いけど、そしたら俺にも詩乃梨さんの見せてね」


「見ないってば。早くしてよ」


「……うん。はい」


 俺はお湯から足を引っこ抜き、バスマットの上へ着地。そのまま全身をぬらりと移動させて、両手で丁寧にからからと扉を閉めた。


 なんとなく中腰で股間のブツを股に挟んで隠し、おそるおそる詩乃梨さんの様子を窺う。


 詩乃梨さんは、こちらを見る気配無し。恥ずかしがっている様子も皆無。ほんとに『どうせ絶対そっち見ないから、こたろーが裸でも関係無い』って感じ。


「…………………………」


 こんな調子で、えっちっちの何たるかを理解できるようになるのかしらねぇ、この子。私、ちょっぴり不安です。前途多難だわぁ。


「こたろー、もう着替えたー?」


「まだでござるよー。お待ち下され姫殿下ー」


 俺は自分でもよくわからない意図の溜息を吐いてから、洗濯機の上に乗せておいた着替えの中からフェイスタオルを引っこ抜く。


 髪の毛わしゃわしゃ。全身拭き拭き。ふぅ、スッキリ。


「こたろー、もっとちゃんと拭きなよ。水滴垂れてるよ」


「えぇ、だってめんどくさいし。ちょっとくらい濡れててもいいじゃん。ほらあれだよ、水も滴る――」


「良いオトコ、とか言わないでねアホくさい。ああもう、濡れたまんま服着ようとしないでよ。ちょっとタオル貸して」


 俺が何かを言う前に、着替えを手に取るために一旦首へかけておいたタオルが、横合いからするりと抜き取られる。


 やや斜め下へ振り向けば、そこにはちょっと怒ったような顔の詩乃梨さん。


「ほら、こたろう。さっさと頭下げて。はりーはりー」


「はいよ。どれくらい? これくらいでいい? 土下座までいってみちゃう?」


「土下座したら頭踏んづけてやる。もうひとこえくらいでいい」


 最終的に、俺は腰を落として膝頭に手を突いて頭を差し出す体勢へ移行。詩乃梨さんは満足の鼻息を漏らし、俺の頭にぱふりとタオルを引っかけて、やわやわと心地良い手付きで撫で始めた。


「こたろう、バスタオル持ってないの? 効率悪すぎるんだけど、これ」


「んー。持ってることは持ってるけど、なんとなく使わなくて仕舞い込んじゃってるなぁ。ついついどこもかしこもフェイスタオルで使い回しちゃう」


「だめだよ。もっとメリハリ付けないと。心までだらけちゃうよ?」


「ははは、もう遅い。俺はいつでもだるんだるんにダラけてるぞー」


「股間蹴り上げていい?」


「いいわけあるかい!? ただでさえ致命傷なのに今ノーガードなんだから即死確定じゃねぇか!」


 ………………………………ん? 今なんか重要なことに思い至ったような。あ、気のせい? そうね、気のせいかも。


 ……ん。気のせい気のせい。そういうことにしとこ。


「詩乃梨さん、もういいよ。サンキューな」


 俺は視界を覆っていたタオルを掴み、詩乃梨さんの手からやんわりと抜き取――れない。


 詩乃梨さんはタオルの端をきゅっと掴んだまま、不満顔で俺を見上げてきた。


「よくないよ、身体濡れたままじゃん。そっち向いて、背中拭いてあげるから」


「………………………………あ、まじすか。あざぁーす……」


 うん。俺、状況はもうまるっと把握できました。のぼせてた頭も一気に覚めました。冷めましたじゃありません、そこまで冷たくはなってない。なんか詩乃梨さんがあまりにも普通すぎるので、俺も極々普通に平常心であります。


 俺は言われたままに、詩乃梨さんに剥き出しの背中と尻を向けた。


「これでいいかい?」


「うん。……あ、前も拭いてあげよっか?」


「……それは、ちょっと……やめておいた方がいいんじゃないかなーと、ぼく思うの」


「そっか。わかった」


 詩乃梨さんが頷くのを気配で感じた。その直後、背中の下の方にふんわりとした圧力がかかる。下から上へ、上から下へ、右へ左へ、縦横無尽に、彼女が俺を撫で回す。


「こたろう、背中おっきいね。何か運動とかしてたの?」


「べつになんも。……あ、中学時代に無駄に筋トレしまくったな。あれが効いてるのかも」


「ふぅん? ねえ、腹筋見ていい? あと前も拭いてあげよっか?」


 なんでそんなに前拭きたがるの!? どう考えてもこの子俺の急所をどうこうしようとしてますよね!?


「あのですね、詩乃梨さん。貴女、俺をどうしたいの? 襲って欲しいなら、回りくどいことしないで素直にそう言って? いつでも強制ハッピーエンドに持ち込む覚悟ですのでね、わたくし」


「んー。……襲って欲しくはない。ほんとに」


 どうなっとんねん、この子! なんだか本格的に前途多難な臭いがプンプンしやがるぜ? 難攻不落もいいとこじゃねぇか! 攻略の糸口がさっぱり見えてこねぇよ!?


 と、わりと本気で焦り始めてたんだけど。不意に背中に生じた、タオル越しにこつんと当てられた軽い衝撃が、俺の焦燥にストップをかけた。


 じわりじわりと熱を伝えてくるそれは、きっと、詩乃梨さんのおでこ。そして、素肌に感じる途切れ途切れの熱い吐息は、きっと、彼女が抱く激しい羞恥の表れ。


「わたしね、ほんと、まだ襲ってほしくはないの。……こたろうにばっかりいっぱい頑張らせるのは、もっと後にしたいの」


 俺にばかり頑張らせるのが、嫌。


 ということは、今は詩乃梨さんが頑張るターンだと、そういう解釈でいいのかい?


「なるほど。で、そっからどうなって俺の身体を弄ぶ現在へと至ってしまったわけですのん?」


「……さわりたいって、思ったから」


 ………………………………………………ん? のぼせすぎたのかな、お耳がちょっと遠くなってしまったようだわ。あらやだ、今詩乃梨さんったらなんて言いましたの?


「わたし、こたろうに、さわりたいって、ほんのちょびっとだけ思った。……これって、ほんとうに愛してる相手にはいっぱいベタベタしたくなる、っていうやつで、いいのかな? ほんと、ちょびっとだけなんだけど、さ」


「………………………。……いいのかどうかと聞かれると、ちょっと俺にはわからんな……。ちょっと、お耳汚しいいかい?」


「うん。どうぞ」


 どうぞと言われた。ならば、腹にぐっと力を込めて、下世話なことでもしっかり言わねばなるまいて。


「詩乃梨さん個人のことじゃなくて、一般論……というか俺の偏見としてだけど。女の子でも、正直、愛してる異性以外にムラッと来ちゃうことは、あるんじゃないかと思う。だから、ただ異性にさわりたいって思ったからって、それが真実の愛の証明には、ならない……かな。たぶん」


「……じゃあ、何がどうなったら、ベタベタしたいっていうのと、本当の愛が、イコールになるの?」


「ああ、その答えは単純明快。まあ俺もつい最近気付いたばっかんだけどな」


 俺は詩乃梨さんの方へ振り返る。タオルを持って軽くバンザイしてるびっくりお目々の詩乃梨さんの、真っ赤っかなお顔を存分に楽しみながら、彼女の問いへの答えを力強く口にした。



「自分が『これは愛だ』って思いたくなった時、その気持ちはほんとうの愛になるのだよ」



 恋は落ちるものだ、という名言が存在する。自分でも知らぬうちに、どうしようもないほど深みにはまってしまう、それがほんとうの恋というものなのだと、偉い人も偉くない人も言いました。


 でも、そんな理屈は嘘だと、俺は思う。


 恋は、落ちたいから落ちるんだ。『いつの間にか』なんて、そんな誰の意思も介在せぬままに不可抗力で落ちるものじゃない。そんなふわっとした理由で落ちる恋なんて、俺には到底信じられない。


 だから俺は、詩乃梨さんを想う自分の気持ちを信じ、自分の意思で彼女にハマる。


 だから俺は、詩乃梨さんにも俺を想う気持ちを信じて、自分の意思で俺にハマってもらいたい。


「詩乃梨さんが俺にさわりたいって思った気持ちを、詩乃梨さんは『愛だ』って思いたい?」


 詩乃梨さんと目線の高さを合わせて、穏やかに問いかける。


 詩乃梨さんは中途半端に掲げた両手をふわふわ揺らしながら、しかし瞳は俺をじっと見据えたままで、むぅと不満げな唸りを上げながら唇を尖らせた。


「ちょこっとだけ思いたい、けど……。まだ、これは違うって、思う」


「なら、今はそれでいいんじゃないか?」


 ちょこっとだけ、か。そのちょこっとはゼロがイチになった程度の些細な変化なんだろうけど、ゼロからイチ――つまり『無い』から『有る』になったというのは、劇的な進歩だろう。


 詩乃梨さんは、今確かに、俺への愛に目覚め始めている。


 いける。いけるぜ。詩乃梨さんが二十歳になるまで待つどころか数ヶ月以内にでもらぶらぶえっちっちでねんごろになれちゃう未来が見えちゃうぜ!


 なので、今はちょっと休憩。


「まあ、そういうことだから。とりあえず俺そろそろ風邪ひきそうなので、タオル返しておくれ?」


 ぱおーん。自分の身体を片腕で抱き締めて、軽く身を震わせて見せながら、もう一方の手を詩乃梨さん差し出す。


 詩乃梨さんは赤い顔で俺をじーっと睨みながら、何かを納得したようにひとつ頷いた。


「こたろうは、やっぱりオトナだ。ずるい」


「ずるくはないよ。いずれ貴女も大人になるのよ? それが世界の摂理なの」


「そうじゃ、なくて。…………………………ふん。もういいもん」


 詩乃梨さんは何やら拗ねてしまい、タオルを俺の手にぽんと乗せて顔を背けてしまった。背けたままちろりと俺の顔を盗み見て、さらに下半身にも一度だけ目線を送る。


「………………………………こたろう、オトナだね。ちょっとびっくり」


「その発言の意味を、俺は問い質した方がいいのかな? それともスルーしとく?」


「好きにすれば? いいから早くカレー食べようよ、変態」


「変態て!? どっちかっていうと一連の流れは貴女が変態でしたよ!? 濡れ衣だ!」


 抗議する俺にまったく取り合わず、詩乃梨さんはコンロの前へと戻った。火はいつの間にか消されており、詩乃梨さんが何の気なしにお玉で一度かき混ぜると、粘度を増していた表面が割けてふわりと蒸気と香りが広がった。


 詩乃梨さんは肩越しに俺を振り返って、なんだか少し自慢げに問うてきた。


「こたろう、これいっぱい食べる? わたしの愛情、たぶんほんのちょび~っとだけ、こもってるよ」

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