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四月十日(月・5)。まだ見ぬ未来に、約束された関係。

 仕事も終わって、現在は自宅最寄りの駅から詩乃梨さんの元へと続く道の途上。天然の闇に沈み人口の光がぽつぽつと浮かび上がる閑静な住宅街を、たったかたったか息を切らして駆けていく冴えない男がここに有り。


 なんで俺がこんな無駄に走ってるのかっていうと、別に詩乃梨さんに申告した帰宅時間に遅れそうだから、というわけではない。

 駅から出た直後はいつも通りに歩いてたんだけど、『家に帰ったら詩乃梨さんの手料理が待っている』と思うと思わず小走りになっちゃって、さらに財布が軽くなるのと引き替えに上着の内ポケットへやってきた重みがなんか無性に小っ恥ずかしいというか勇み足というか俺散々詩乃梨さんのこと幼いとかディスってたくせに何買っちゃってんのうわああああという想いを振り切るためにマジ走りに移行、そして今は詩乃梨さんに顔合わせた時にハァハア言いまくってたら変態すぎてやばいからちょっとだけ速度を緩めてランニングペースで駆けている。


 俺が何を買ったのか、気になるだろうか。正解のワードは、既に本文の中に一度だけ出てきたことがあるので探してみてくれ。ヒントは、転ばぬ先の杖。あ、もうこれ答えか。


 俺と詩乃梨さんの、言葉で言い表すことが不可能な関係。俺が妄想した、俺にとってあまりにも都合の良すぎる並行世界のハッピーエンド。俺が、詩乃梨さんのためにできる、何らかのアクション。詩乃梨さんが身銭を切って用意してくれた、俺のためだけに作られし手作り料理達への、何かしらの形でのお礼。

 そういった諸々を仕事中ずっと頭の中でぐるぐるこねこねしていたら、なんもかんもを串で真っ直ぐに突き刺すかのような、このアイテムの存在へと思い至ってしまった。


 思い至ってしまったのでござるよ、軍曹……。あくまでも転ばぬ先の杖でありますゆえ、詩乃梨さんに渡す予定などこれっぽっちも無いのでございますがね、ええ。あくまでも、俺の中での一種の戒めというか決意を忘れないようにというか、ただそのためだけに此奴は今後ずっと俺のスーツの胸元を占拠し続ける予定でござーい。


 ……あ、あれ、そしたら俺、詩乃梨さんの手料理へのお礼を別枠で用意しなくちゃいけないことに……? え、ちょっと待って、もうアパート着いちゃうよ? 今から引き返したってろくに店開いてないよ? ど、どどど、どうしよう、どうしよう。


 とりあえず俺は、詩乃梨さんに今すぐ会いたい。


「ただいまー! 詩乃梨さーん!」


 階段を駆け上がった勢いのまま、自分の部屋の玄関のドアを全力で開け放――


 がぎりっ。


「………………………………おや?」


 ドアの鍵が閉まってる。……あ、そりゃそうか、詩乃梨さんって女の子だもんな。例え自分が部屋の中に居たとしても、防犯のために鍵くらいかけるよね。男の俺だってそうしてるし。うん、何も不思議は無い。


 なので、俺は尻ポケットから鍵を抜き取り、逸る気持ちを抑えながら震える指で解錠。改めてドアを開け放ち、真っ暗な室内へするりと身を滑り込ませて再度叫ぶ。


「ただいまー! 詩乃梨さ――あれ?」


 真っ暗な室内。イコール、電気が点いてない。俺の背後の共用廊下から半開きの扉の間へと放り投げられた蛍光灯の光は、室内に人の気配が無いことを俺の目と頭に認識させた。


「……………………んー?」


 後ろ手に扉を閉め、廊下の電気を付けて居間兼寝室の方を覗き込む。が、やはり詩乃梨さんの姿は無い。


 代わりに、なんだか胃と唾液腺を強烈に誘惑して止まない香りが、居間手前の台所からふわりと流れてくる。


 俺は通勤鞄を脇に置いて革靴もポイ。廊下をとことこ歩いて、コンロの上に存在している見慣れた鍋の蓋をぱかりと開けた。


 中身は、インド原産日本オリジナル、大人も子供もみんな大好きな、ごろごろ具だくさんカレー。


「おおおおぉぉぉおぉおおぉぉうぁあああぁぁああぁあああああ」


 やばい、やばいですよこれは。見てるだけで唾液がじゅるじゅる溢れてくる上、鼻腔に満ちるスパイシーな香りは否応なくお腹をぐーぐー絶叫させ、しかもこれが詩乃梨さんの手作りであると思うと胸がきゅんきゅんしちゃってお腹いっぱい胸いっぱい。やばい、空腹を激烈に煽りながらも咽を通せんぼしちゃうとか、詩乃梨さんってば俺のこといったいどうしたいの? まさか詩乃梨さんが無理矢理「あーん」とかして食べさせてくれる気なの? それとも口移しで無理矢理流し込んでくれたり? 初めてのキスはカレー味!?


 改めて居間に顔を突っこんで詩乃梨さんの姿を求めるも、やはりどこにも居ない。まさかクローゼットに隠れてる? なわけねぇな。


 じゃあ、トイレ? ――確認したけど、やはり居ない。ていうか、うっかり開けちゃったけど実際居たら俺死んでた。


 なら、風呂か? ――確認したけど、やはり居ない。ていうか、うっかり開けちゃったけど実際居たら俺、しん、で……?


「あれ、なんかぬくい」


 うちのアパートはきちんとトイレと風呂が別れているのだが、風呂のスペースはやや狭めで、バスタブの大きさもそれ相応。なので俺は、いつも仕事で疲れていることもあって、普段はテキトーにシャワーで済ませている。引っ越してきてこの方、風呂にお湯を張った記憶は一度たりとも無い。


 きちんとお湯張ると、こんな感じになるんだね。俺ひとつ賢くなった。


「…………お、おお、おおおおおうううあああぁぁぁああぁあっぁあぁああああああ」


 え、お、お湯湧いてる? 詩乃梨さんやってくれたの? マジで? 俺のために? ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し!? ていうかもしかして詩乃梨さんが先に浸かって自分のダシを存分に溶け込ませておいたとかそういうご飯何だかお風呂なんだか詩乃梨さんなんだかわからない神々しい液体だったりするのかしらこれ!?


 でも確認しようにも、詩乃梨さんいないんですけど。どこ? どこなの、マイエンジェル。


 つったって、俺がこの部屋以外で詩乃梨さんを探すアテって言ったら、もうあそこしかないんだけどさ。



 ◆◇◆◇◆



「やっぱここか……」


 いつもの屋上。出入り口の扉を開け、ぱたりと閉めれば、死角になっていた場所からこんにちわする、俺が大好きで俺のことを大好きな可愛いあの子の姿。


 幸峰詩乃梨、学生結婚した幼妻バージョン。近隣の住宅やお空のお星様から滲んでくる淡い光によってベンチの上に浮かび上がる彼女の姿は、今朝方も見た学校の制服姿の上に、白いエプロンを装備し、灰色の長髪をうなじのあたりで適当にくくって猫の尻尾のように垂らしている。

 彼女の顔や手や太股は上品な白、うなじはほんのり色気の薫る白、頬は雪の日の幼子のようなあどけない朱の混じる白。夜の澄んだ風にふりふりゆらゆら振られる尻尾は、月明かりを余すこと無く反射して、灰を通り越した銀をも通り越す穢れ無き白にすら見える。なるほど、詩乃梨さんは確かにしあわせをはこぶ白猫さんなのかもしれない。俺の眼は今、猛烈に幸福である。眼・福っ!


 だが、詩乃梨さんはなんだか不幸を噛みしめてるご様子。むっつり顔で片膝を胸元に抱え込んで、お月様に雷龍の瞳を向けていらっしゃる。俺の姿も声も、彼女の心には全く届いていない。


 月を睨む、幼き龍。神話の世界から抜け出てきたようなその光景を、俺はしばし目に焼き付ける。


 しばらくして。詩乃梨さんは、壮大な叙事詩へ迷い込んでぼけっと突っ立っている場違いなサラリーマンに、じっとりとした目を向けた。


「こたろう。隣、座れば?」


 どうやら俺は、物語へ関わることを許されたらしい。異世界転移した冴えないリーマンの無双列伝が、今幕を開けない。


 俺は粛々といつもの場所へ腰を下ろし、詩乃梨さんの視線の先にある月を仰ぎ見る。


 月を見て、その向こう側に透かし見える、詩乃梨さんの心をも見つめる。


「ねえ詩乃梨さん、なんでこんなとこいるの?」


「………………………………べつに」


「……何か、学校で嫌なことでもあった?」


「……無い。……むしろ、良いことあった。……友達、できた」


 良いことがあった。友達ができた。そう語る彼女の声に、幸せの色は見いだせない。むしろ、彼女の物憂げな横顔から読み取れるのは、不幸な我が身を自嘲するかのような、降りかかる絶望に抗うことをやめて受け入れてしまった者の色。


 彼女は、温度も湿り気も無い無味乾燥した声音で述べる。


「わたし、今、すごく幸せだな」


 幸せだ、と。俺の大好きな――愛しい女性が、そう言っているのに。


 なんで、俺の胸は、こんなにちくちくと痛んでいるのだろうか。


 その理由を探るために、俺は詩乃梨さんが緩やかに語り聞かせてくれる『独り言』に、そっと耳を傾けた。


「わたしさ。今、幸せなんだ」


「うん」


「学校に行けば、友達がいて。家に帰れば、こたろうがいる。……きっと、わたし以外の人達が、当たり前みたいに持っていたものを、わたしは今、やっと手に入れられたんだと思う」


 俺は当たり前の存在じゃないよ? 俺は貴女のためだけに錬成されしオンリーワンで唯一無二の存在ですよ?


 内心を隠して神妙に頷く俺に、詩乃梨さんは乾ききった笑みを浮かべる。


「こたろう、優しいよね。甘くて、あまくて、わたしの心がとろけちゃいそう」


「……近頃、そんな評価をよく耳にするようになったな」


「そっか。やっぱり、こたろうは誰にでもそうなんだね。……わたし以外の、女が相手でも」


 なんでやねん!? また話が明後日にブッ飛んだよこの子!


 絶句して凝視する俺を見て、詩乃梨さんは少しだけ温度の戻った声と表情でふふっと笑う。


 詩乃梨さんは静かな微笑みを浮かべながら、仕切り直したような空気で穏やかな声を発する。


「こたろう、さ。一回、部屋戻ったんでしょ? 気付いたこと、ある?」


「気付いた事? ……カレーがあったな。あと風呂湧いてた。どっちもありがとね、しのりん!」


「ありがとう、なんだ。……わたし、こたろうの居ない間に、勝手に台所使ったり、お風呂入ったりしてたんだけど」


「マジで!? あの風呂ってほんとに詩乃梨さんエキス注入済みだったの!? やべぇ、早く入らなくちゃ! うっかりお湯飲んじゃおうと思うけど、どうか許しておくんなまし!」


「いいよ。いっぱい飲んでね。……あ、カレーが入らなくならない程度にしておいてね?」


「……………………………………え、飲んで、いいの? お風呂」


 詩乃梨さん、俺のおそるおそるな問いに対して、とても素直にこくりと頷く。


 ……え、マジすか? どうしちゃったんすか詩乃梨さん、いきなり。



 ――なんかいきなり、俺の望まない形で、大人びてしまった彼女がいる。



「………………………………」


 今朝まであんなに俺に甘えたがっていた彼女が、今はなぜか俺を突き放したような態度を取っている。台詞ではなく、空気が、雰囲気が、目に見えなくて曖昧なものが、彼女と俺を隔てている。


 空気。雰囲気。それらは確かに目に見えるものではないが、しかし、詩乃梨さんは空気や雰囲気を意図せず操って他人に恐怖を刻み込む純血の雷龍種。そして俺は、その雷龍をすぐ側で見守り続けて来たまもりびと。


 俺の眼に映る、彼女の『拒絶』は、きっと、俺の見間違いなどではない。


 豹変。一変。彼女がそうなるきっかけがどこにあったのか、俺にはわからない。だが、俺の場合はどんな時にそうなってしまうのか、と視点を変えて見た場合、つい昨日の出来事が脳裏に浮かぶ。


 自分の、詩乃梨さんに対する一方的な感情の押しつけに気付いて。俺は詩乃梨さんの明確な拒否や拒絶に合わないままに、勝手に詩乃梨さんを見限った。


 俺と詩乃梨さんの地雷が同じ位置に有る可能性なんて、限りなくゼロだ。だが彼女がもし、俺に対する一方的な押しつけ――と本人が思い込んでいる過剰な甘えを、何らかのきっかけで自覚してしまい、己の行いを振り返って『醜悪なもの』として嫌悪や、まして憎悪までをも抱いたとするならば。


 ――己以外の誰かと幸せになることができる人間のために、自ら身を引いて、『わたしってば偉い』なんて馬鹿げたことを言い出す、歪みすぎて一周回ってあまりにも安直で真っ直ぐな道へひた走った前科を持つ彼女は。


 俺がまだ見ぬ誰かと幸せになれるようにと、きっと、また身を引こうと考えるのではないだろうか。


「……詩乃梨さん、さ。もしかして、俺とはもう会わないようにしようとか、そういうこと考えてない?」


 悩みすぎの考えすぎによるネガティブスパイラルの果ての結論。


 などという一文は、俺のつい今し方の思考に対する表現でしかなかったはずだったが、どうやら詩乃梨さんの辿った思考経路をもズバリ言い表してしまうものであったらしい。


「こたろう、エスパーなの!?」


 アホなこと言って思いっきり驚愕している詩乃梨さんを見て。俺は、己の肩にのし掛かっていた重い物がふっと軽くなるのを感じた。


 なんだ、要するにあれか。この子は、これまでの半生と比較して、今が余りにも幸せすぎて怖いから、防衛本能みたいな感じで無理矢理ネガティブな方向に脳味噌を持っていっちゃっただけなんだな。


 ちょっと前の俺と、まるっきり同じ。


 なら、そんな彼女の心を再び前向きにするための魔法を、俺は彼女自身から教わっている。


 だから俺は。言い訳を考えてしどろもどりにあたふたしている詩乃梨さんの、両肩をこの手に捕まえ、眼を真っ直ぐに見つめて、心の籠もった魔法の言葉を口にした。


「詩乃梨さん。俺、きみのこと大好きだから。他の誰でも無い、きみのことだけが大好きなんだ」


「……………………………………うそだー」


「だからなんでやねん!?」


 詩乃梨さんに対しては真実しか口にしないことに定評のある俺を、当の詩乃梨さんは疑心暗鬼の権化みたいなじとっとした眼で睨んでくる。


「こたろう、モテモテだもん。色んな女の子にあまぁ~くベタベタしちゃう人だもん。相手がわたしじゃなくてもうまくやれる人だもん。……わたしじゃなくて、後輩と行き着くところまで行っちゃう妄想とか、できちゃう人だもん」


「俺モテモテじゃないからねほんとに! 私童貞ですから! 俺のこと『激甘カフェオレ』とか形容しやがったのって女じゃなくて男ですから! 俺の後輩の護ってあげたい系イケメンですからっ!」


「え、こたろう、ホモなの? ますますわたし、要らないじゃん」


 ちくしょう尾野め! 俺と詩乃梨さんのヒミツの関係にアクロバティックに割り込んで来やがって! あいつマジで許さねぇ!


 俺は脳内のイケメンのケツを蹴っ飛ばして無理矢理退場させ、現実の詩乃梨さんの肩を激しく掴んでがくがく揺さぶりながら心から叫んだ。


「俺は詩乃梨さんが欲しいのっ! 俺は詩乃梨さんさえ居てくれればそれだけで幸せなのっ! 金も仕事も男も要らねぇ! 俺は詩乃梨さんが欲しいっ! 超愛してる結婚してくれ! 子供は何人がいい!? 俺は人数はともかく娘を産んで欲しいな、たとえ息子であっても俺以外の男が詩乃梨さんのおっぱい吸ったり裸見たりするのなんてちょっとせつなくてやばすぎる! 息子産まれたら俺が責任持ってみっちりぎっちり教育してやるぜヒャッハー! んで家どうする!? アパート!? それとも一軒家!? いつから移る!? そこそこの規模でもっキャッシュ一括で買えるからとりあえず遠慮しないで希望だけ言ってみて!?」


 言うだけ言い切り、揺さぶることをやめて、ふんすと荒い鼻息を漏らし。鼻と鼻がくっつきそうな至近距離で彼女の返答を待つ。


 詩乃梨さんは、しばらく目を白黒させながらくわんくわんと頭を回していたが、しばらくしてようやく正気を取り戻し、きょとんとした顔で俺をまじまじ見つめてきた。


 至近距離から、まじまじ、まじまじ。見つめあう、近過ぎな二人。あまりに近すぎてちょこっとくっついたり離れたりする鼻は、猫の親愛表現のように、俺の愛情を詩乃梨さんの心へじんわりと浸透させていく。


 詩乃梨さんは、しばらく無言。無言のまま、小さくかたかたと身体を揺らしだし、俺に悟られないように気を遣ってか、殊更にゆ~っくりと身体を離していった。


 しかし、俺の両腕は彼女の両肩をしかと捕まえたままである。詩乃梨さんは満足に距離を取ることもできず、肌を、頬を、うなじを、何もかもを真っ赤っかに熱く激しく沸騰させて、もくもくと白い蒸気を盛大に吹き上げながらぷいっとそっぽを向いた。


「……け、けっ、こん? ……あい、して、る?……………だ、だからね、わ、わた、し、だから、あの、そういうの、まだわからないんだけ――」


「知ってる。だから、今すぐじゃない」


 ああ、今すぐじゃない。


 だけど。俺はもう、ただいつ来るかもわからない『いつか』を、ただ指を咥えて待っていることは、やめにする。


 そんな悠長なことを言っている間に、詩乃梨さんが俺の元を去ってしまっては、俺がいくら不老不死になろうが人類の伝説になろうが一ミリたりとも意味が無い。


 だから、そうだ。




「今すぐじゃない。けれど、俺はいつか、詩乃梨さんの全てを力尽くでも貰い受けにいく。

 ――というわけで。幸峰詩乃梨さん。どうか俺の、婚約者になってくださいな」




 詩乃梨さんの熱い身体から右手だけ離して、上着の内ポケットから、本来渡すつもりのなかった例の物を彼女へそっと差し出す。


 箱。小くて、あまりにも小さくて、軽くて、あまりにも軽すぎる箱。


 でも、そこに込められた意味の重さは――うん、しっかりと伝わったらしい。


「………………………………うぅ……、う、うぅ…………わ、ぁ、あわ………あぅぅ……」


 詩乃梨さんはあらぬ方向を向いて、意味を成さない声を咽から頑張って捻り出す。やがて、ちらりと俺の手の中のそれに目を遣って、不承不承、どーしよーもなく、みたいな感じで嫌っそーに両手で受け取った。


 俺は詩乃梨さんの身体を完全に解放。灼熱のお顔で改めて箱を見つめている彼女の挙動を、まるで孫を見守る好々爺のような心境でじっくりと見守る。


「……こたろー」


「はい、如何致しましたか、お嬢様」


「これ、中身、なぁに?」


「その箱を開けた時、お嬢様のつぶらな瞳には、きっと白銀の指輪が映ることでございましょう」


「………………ゆびわって、なぁに?」


「指に填める装飾品のことでございます。……あ、でもそれ本物のプラチナとか銀とかじゃないから。詩乃梨さんの指のサイズわからなかったからなんとなくでとりあえず選んだやつだし、しかも詩乃梨さん学生だからあんまり高価な物贈るわけにもいかんし」


「………………なんとなくで、とりあえずで、婚約指輪、買っちゃうおとこ。どいむらこたろう。……まじ、うける」


「ウケて頂けて何よりでごぜぇますです。どうぞ豪快に笑ってやっておくんなまし?」


「…………………………………………………………ふ、ふふふふ、ふふふふふふ、ふぅ、ふぅん?」


 それもう、ぶっきらぼうに鼻鳴らすとかじゃなくて、ただの鼻歌っていうかほんとの笑い声になってますからね?


 詩乃梨さんは、太股の上で箱を意味も無く弄りながら、盛大にずるずると鼻を啜って、熱い涙がいっぱいに溜まった眼で俺を睨み付けてきた。


「これ、受け取った、ら、さ。……わたし、こたろうに、力尽くで、貰われちゃうの?」


「うん。間違いなく。完膚なきまでに、ただ純粋な事実として、そういう事態が確実に発生することになる」


 曲げる気は無い。退路を与えるつもりも、もうない。ここで変に弱気になって「もし嫌だったら断ってくれていいよ」なんて言ってしまって、しかも本当に断られでもしたら、俺はもう二度とこんな勇気を振り絞ることはできなくなると思う。


 だから俺は、虚仮威しの雷龍をスルーして、その正体であるごくごくふつうの女の子に、ごくごくふつうにさらっと告げよう。



「タイムリミットは、詩乃梨さんの二十歳の誕生日。

 もしそれまでに、詩乃梨さんが俺のことを愛してくれなければ、俺は詩乃梨さんを無理矢理手籠めにする。えっちなことを力尽くで教えて、その間中ずっと男を愛することのなんたるかを囁きまくって、完全に身も心も俺色に染め上げて、約束された幸福な人生を押しつける。

 詩乃梨さんに拒否権は無い。いずれその身に訪れる幸せな不幸を想って、夜ごと枕を濡らすがいい」



 ――って流石にトバしすぎじゃないでしょうかねぇ!? よく考えなくても、これって完全に強姦宣言だよね俺!?


 ドッと湧き出た冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は穏やかなな笑みを強引に取り繕って、詩乃梨さんの様子を窺う。


 詩乃梨さんは、完全に言葉を無くしていた。言葉なぁにそれであり、そんなものは忘却の彼方である。そして、雷龍のガワをひっかぶることもすっかり忘れ去っていた。


 ぽわっと熱く蕩けたような顔で俺を見つめ、かひゅかひゅと過呼吸気味な浅く早い呼吸を繰り返す詩乃梨さん。彼女は震える唇をがんばって動かし、意味ある言葉を紡いだ。


「……た、ん、じょー……、び……」


「そう、誕生日。『詩乃梨さん、成人おめでとー!』って盛大にパーティしてから、強引にベッドイン。あ、ちなみに酒は使わないから。完全に素面の詩乃梨さんを、俺も完全に素面のままで、押し倒す。……おっと、ところで詩乃梨さんの誕生日っていつ?」


「………………さん、がつ…………。にじゅう、ろく、に……ち……」


「へぇ、そうなんだ。良いこと聞いちゃったな。これから毎年誕生日プレゼントと熱烈な好意を押しつけていくから、覚悟して――」


 ――え?


 三月、二十六日?


 ……今から、二週間くらい前?


 …………え、今回の誕生日、もう過ぎちゃってる?


 ………………ていうか、詩乃梨さんってマジで、『ほんの一週間前まで中学生だった子と、ほぼ同じ』?


 ……………………………………………………。


「……な、なーんちゃって、ハハッ。俺が詩乃梨さんを押し倒したりなんて、するわけないじゃないかー。あ、でも誕生日プレゼントは贈るよ、もちろん! 今回はとりあえず、その婚約指輪もといただの指輪が、俺からの誕生日プレゼントってことで、おねがいしますですますあうあう」


 俺は急激にヘタれて詩乃梨さんから距離を取った。

 詩乃梨さんの年齢を表すための肩書きが、『もう高校二年生』から『ほんとうにほんのちょっと前まで中学生』へと脳内で変換された瞬間、今の今まで俺の自我へ絶大な力と欲望を与えていた下半身の魔獣・ロリコーンが急速に力を喪失。ロリコーンのもたらす呪いに怯えながらも得られる圧倒的な力に頼りきってしまっていた俺は、自分を支えていたバックボーンを失って、一般人未満へと成り果てた。


 俺、もうダメぽん。


「……ふーん」


 詩乃梨さんは、ちょっとだけ熱の引いてきた顔で、興味なさげに鼻を鳴らした。まだだいぶ肌が赤いけど、その熱を与えていた俺が急激にしょぼくれていったことで、冷静さを取り戻してきたらしい。


 詩乃梨さんは、俺をちらりと見てから、太股の上の小箱を何の気なしにぱかっと開けた。


 月明かりに照らされて輝くのは、つい先程までは婚約指輪であったはずの、しかし今となってはただの誕生日プレゼントに成り果てた物体。いやそんな言い方すると誕生日プレゼントというものを軽んじてるみたいに聞こえるから、ええと、とにかく言い直すと、小箱の中から詩乃梨さんにとって何ら意味を持たないただの輪っかが出て来たわけです。


 詩乃梨さんはつまらなそうな顔でそれを手に取り、己の手にすぽっと填める。



 左手の、薬指に。



「……ねえ、しのりん。そこ、結婚指輪填めるとこだよ?」


「知ってる。試しただけ。こたろう、うるさい」


「あ、はい、さーせん」


 ……試しただけと言いながら、詩乃梨さんは一向にそれを外す気配が無い。朱に染まった頬の温度を一定以上に保ったまま、ためつすがめつ己の指と輪っかを眺め、最後に遠い月へ向かって手を翳す。


 本来灰色に近しいはずの、鈍色が。銀を通り越し、幻想的に白く輝く。


 それは、詩乃梨さんの白猫の尻尾みたいな髪と調和して、まるでその指輪が詩乃梨さんのためだけに作られたもののようにさえ思えた。


「こたろー」


「あ、はい、なんでごぜーやしょ」


「……わたし、婚約、断るから」


「……………………………………あ、りょう、かい、っす――」


「――でもね?」


 俺の脳味噌が詩乃梨さんの言葉を咀嚼する前に、詩乃梨さんは俺の眼前にぐっと握り拳を突き出してきた。


 小さくてやわらかそうな手。そこに輝く、月の雫。


 詩乃梨さんは、ベンチに片足であぐらをかくようにしてこちらへ身体を捻り、やんちゃなおとこのこみたいな仕草とはにかみ笑顔で宣言した。



「この指輪、もらうから。一生、だいじにするから。……だから、ね? ……今のわたしも、二十歳のわたしも、こたろうのこと、きっと、拒むだろうけど、さ。……今のわたしはダメだけど、未来のわたしは、押し倒していいからね?」

 


 ……………………………………。


 ………………………。


 ………。


「今駄目?」


「ん。今はダメ」


「ほんとに? ぜったい? ちょっと魔獣ロリコーンが突如覚醒して起動っていうか暴走始めちゃいそうっていうか既に先っちょから未だかつて無い量の勇み足がどっぷどっぷ溢れてるんだけど、ねえほんとに今ダメ?」


「ろりこーん? ……ユニコーン?」


「性質的には近しい物があるかな」


「そっかー。……ねえ、こたろー。そろそろ中戻ろ? ご飯にする? お風呂にする?」


「『それとも、わ・た・し?』」


 俺がかわいこぶってきゃぴるんと流し目を送ってみたら、詩乃梨さんに全力でドン引きされました。フリじゃなくて全力に見えるようわぁん!


 詩乃梨さんは指に填めていた指輪を速攻で小箱に戻し、それをブレザーのポケットに乱雑に突っこんで素早く立ち上がった。


 そして、一言。


「ばーか」


 それを最後に、彼女はさっさと屋内へと戻っていってしまった。


「……………………」


 俺は詩乃梨さんに追いすがろうとしたポーズのまま、彼女の残した香りと言葉の中で彫像と化す。


 べつに、詩乃梨さんに嫌われたからショックを受けて感電死した、というわけではない。むしろ、逆。



 ――この世に、あんなに思い遣りに満ちた、愛らしい笑顔で放たれる罵倒が存在したということに。俺は強烈に衝撃を受け、そして、彼女の全てに心を奪われて放心するしかなかった。

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