四月十日(月・4)。先輩と後輩。
◆◇◆◇◆
詩乃梨さんと、きちんと会話ができる関係になってから。いや、彼女と会話とも言えない最初の会話を交わした時点で、心の中に生じていた引っかかりがある。
詩乃梨さんは――俺が彼女に対して抱いているイメージ以上に、幼いのではないか?
外見がではなく、心が。……情緒が。
もちろん、詩乃梨さんを侮辱するつもりでこんなことを言っているわけではない。そんなことを、詩乃梨さん大好きっ子の俺がちらりとでも考えるはずがない。だからこれは、ただの純粋な感想であって、それ以上や以外の意図を含むものではない。
純粋な感想として。詩乃梨さんの声を初めて聞いた時、俺はただなんとなく、『予想より幼い声だな』という印象を抱いてしまった。
個性、と。ただその一言で解決してしまえる、僅かな引っかかりであるはずだった。だが、詩乃梨さんと会話を重ねていくにつれて、今まで知らなかった彼女の色々な顔を知っていくにつれて、俺の中にあった小さな疑問はその存在感を徐々に増していった。
時々喋り方が舌っ足らずになるなどの些細なものから、愛やえっちを知ってはいても理解はできないという大きなものまで、数え上げればキリは無い。……わずか二週間足らずの間に、数え上げることを諦めてしまうほどに大量の塵が積もって、跨いで通れないほど立派な山が出来てしまった。
だから俺は。その山を迂回する道を放棄して、真っ向から見上げながら考えに耽る。
詩乃梨さんの声そのものが幼い、というのはひとつの事実だ。だがそれより何より、彼女の声に乗せられる感情そのものが、まるで幼い子供のそれのように全力で、苛烈で、あまりにも純粋すぎる。
普段抱えているストレスの反動によるものなのか、俺への絶大なる信頼からなのか。とにかく彼女は、彼女が俺に向けてくる感情は、言葉は、想いは、その何もかもが、俺に対してただひたすらにこう訴えている。
『あなたに甘えたい。わたしを、ぜんぶ、受け止めて欲しい』
今朝彼女が見せていた積極性の全ては、この想いの発露なのだろう。俺のおはように訪ねてきて、俺の朝昼晩の全ての食事を用意し、おやすみ以降も俺と同じ布団で一緒に居たがる。俺と離れることが怖い――という所まではいっていないだろうが、少なくとも、俺と精神的・肉体的にくっつくことでより多くの安らぎを得ようとしている。
それは……まるで、本物の赤子のようではないだろうか。
それが悪い、とは言わない。むしろ、俺としてはそれだけ頼ってもらえるというのはこの上なく嬉しい。それに、世界中探しても彼女のような甘えたがりが誰一人として存在しないのかというと、そういうわけでもないだろう。そんな甘えたがりな女の子とうまいこと仲睦まじくやっていけてるカップルだって、星の数ほどいるはずだ。
だから、片付けようと思えば、俺が彼女に抱いてしまった疑問の全ては『個性』の一言で片が付く。
――はずだった。彼女の、身の上の話を聞くまでは。
要らない子として扱われ、愛に恵まれなかった半生。愛という概念を学ぶべき幼少の頃に、そんな概念の存在しない世界で育ってしまった彼女。
彼女の甘えたがりは、個性なのか。それとも、後遺症とでも呼ぶべき、二度と消えることの無い疵痕なのだろうか。
三つ子の魂は、百まで続くという。なら、愛の無い世界で幼少期を過ごし、高校二年生になった今でも愛を理解できないままな彼女は、果たしていつになったらそれを理解できる日が来るのだろうか?
俺は、自らに問いかける。
俺が詩乃梨さんと共に歩こうとしている、なだらかでのどかな道は、俺達が愛し合う未来へと本当に続いているのか?
もし、この道の先に、そんな未来など存在していないのだとしたら。
俺にはまだ、詩乃梨さんのために『やるべきこと』が、何かあるんじゃないのか――?
◆◇◆◇◆
車窓から、流れゆく雲をぼんやりと見上げながら、とりとめのない思考に耽る。
どうにも、自分で運転しない車というのは暇すぎていかん。ろくでもない考えがぼんやりと浮かんでは消え、消えては浮かび、どろりどろりと重苦しい渦を形成して気分を急下降させていく。
しかも、隣で軽快にハンドルを捌いているのが、ものすんげーイケメンとなると。もうほんと俺ってばなんでこんな顔面偏差値で詩乃梨さんに求婚とかできたんでしょーね超ウケる。
「おいイケメン、お前の顔の皮剥がしていいか? そして俺にくれ、ロハで」
「ダメに決まってるじゃないすか!? いきなり猟奇的なこと言わないでほしいっす、先輩!」
イケメンこと尾野正祥は、俺の冗談がわりと面白かったのか、口では嫌がりながらも実に愉快そうな笑顔を浮かべた。
尾野正祥。読み方は、おのせいしょう、だ。こんなイケメンの紹介のためにルビ振るとかいう手間をかけたくないのでここで説明しちゃったぜよ。仕方無いので、ついでにさらっとこいつのプロフィールも解説しよう。したくねぇけど。
俺の会社の後輩で、俺がこの四月から教育を担当している新人。新人と言ってもちょっとだけ余所で働いてたらしく、形の上では中途採用。俺と同じく高卒後すぐに社会に出て、今の年齢は二十歳超えたばかりだとか。やや垂れ目気味の甘いマスクとふわふわさらさらヘアーを有する、護ってあげたい系イケメンだ。いや俺は護らねぇよ? 俺が護ってあげたいのは詩乃梨さんだけだもん。
俺は窓枠に頬杖突いて、「ハッ」と鼻で嗤いながら尾野にねっとりとした視線を向ける。
「いいよなぁー、お前は。顔がイケメンな上に性格まで爽やかで、おまけに一回行っただけの得意先までの道順とか一発で覚えちゃう有能くんでさー。しかも資料作成の腕も既に俺並みとか? え、お前俺のこと潰しに来てるの? 土下座したら許してくれない? 俺まだ路頭に迷いたくない!」
「イケメンイケメンって、先輩ってば褒めすぎっすよ……」
「食いつくのそこだけかよ! そして照れんな気持ちわりぃ! 俺ノーマルだからね!」
俺がドン引きしてドアにへばりつくと、尾野は俺を横目に一瞬だけ見て、ただでさえ垂れてる目元をさらに緩めた。
「オレ、先輩の事路頭に迷わせたりしないっすよ。先輩みたいな面白ぇ人、そうそう居ないっすから。無理にでもオレの側に置いてもらえるよう、社長に頼み込むっす!」
「それもう完全にホモ疑惑真っ黒になっちゃうからやめて!? だから俺はノーマルなんだってばよ!」
俺はわりと本気で抗議してるんだけど、このイケメンは「またまたー」とか言いながらけらけら笑っていらっしゃる。
「先輩、絶対男好きでしょ? 仕事教えてくれるときすっごい丁寧っつーか甘々過ぎて、オレなんだかむっちゃトキメキましたもん」
「後輩に仕事丁寧に教えるのは当たり前のことなのよ? お願い、俺ここで降ろして。貞操が、貞操がヤバい」
「まあまあ、いいじゃないすか。うぇっへっへ。あ、ところでこの先の信号右でいいんすよね?」
「おう。……いや、待った。もうそろそろ昼だから、真っ直ぐ行った所の公園脇の駐車場に入れてくれ」
「了解っす」
意味無く戯れながらもこういう頭の切り替えがスパっとできるあたり、やはりこいつも俺も社会人なんだなとなんとなく思う。
社会人、か。
……そういや詩乃梨さんって、まだ高校二年生なんだよなぁ……。くっそ、さっき『幼い』とか考えちゃったせいで、年齢の壁がやたら胸をグサグサ刺しやがる。しかも高校二年生って言っても今月上がったばっかなわけで、もし詩乃梨さんの誕生日が三月とかだった場合、実質的に今高校一年生の四月生まれの子と一月しか違わないってことだから、一番ヤバい表現をすると『つい先月まで中学生だった子とほぼ同じ』ってことになっちゃうわけで、おいそれ本格的にロリコンじゃねぇか!
でもこの表現でいくと、詩乃梨さんの印象が幼いというより単なる事実として幼いわけだから、俺の心配も杞憂で終わるというメリットがあるな。じゃあ俺ロリコンでよくね? いいよね詩乃梨さん! 俺貴女のこと大好きでいていいんだよね!
「先輩、着いたっすよ。はぁーい、お客さーん、さっさと降りてくださーい」
「うるせぇイケメン、俺は今頭の中で愛しいあの子と会話中なんだ。無駄に爽やか声出すんじゃねぇ、色んな意味で我が身のしょぼさが身に染みちゃうだろ」
「だから、イケメンって、先輩褒めすぎ――」
「お願いだからその赤面やめろってばよ!?」
俺はいつの間にやら停止していた車から転がり落ちるように脱出し、ドアを思いっきり閉めて背中で押さえ込んだ。
「尾野、封印! ふぅ、これで俺の貞操は守られた」
「いや、こっちからフツーに出られんすけど……」
尾野は運転席側からひょっこり出て来て、車の屋根越しに爽やか呆れスマイルを見せつけてきた。
「先輩、ほんと意味わかんないくらいに良い人っすね」
「俺はお前のイイ人にはならない。絶対にだ!」
「はいはい。まあそれはそれとして、先輩は今日もコーヒーだけっすか? 昼メシ」
言外に「それ以外有り得ない」と滲ませながら問うてくる尾野に、俺はフッとニヒルな笑みを返した。
「今日の俺は、ひと味違うぜ?」
「確かに、なんかいつもよりテンション高かったっすね。この辺りに美味いメシ屋でも有るんすか? ごちになります!」
「ひとりでご馳走様してきなさい。俺は弁当あるから」
にこやかに敬礼している尾野をしっしっと追い払うようにジェスチャーし、俺は後部座席を開けて通勤鞄から人類の至宝を取り出した。
両手で大切に宝を抱き締め、尻でドアを適当に閉める。もう俺の眼には手の中の楽園しか映っていない。
「じゃあな、尾野。達者で暮らせ。四十五分後にここ集合な。遅れたらお前また運転だからヨロ」
「いや、遅れなくてもどうせオレが運転手じゃないすか。先輩やたら運転嫌がるし。つーか、オレ先輩と一緒になってから一度たりとも運転してもらってないんすけど? どうなってんすか?」
「だって俺、自分の腕信用してないもん。俺の命はお前に預けた」
「……先輩、そんなにオレのこと信用してくれるなんて……や、やっぱオレのこと――」
「だから俺はノーマルなんだってばよ!?」
ついつい尾野の方を振り向いてしまい、車の屋根に肘を突いてにやにや笑うイケメンに視界が汚染される。
「せんぱーい、それなんすかー? 先週まで『仕事中に食うメシはクソ不味いから』とか言ってひたすらコーヒーオンリーだったじゃないすかー。にやにや」
「にやにや言うなし。なんだっていいだろ。俺だって人の子だ、腹が減ればメシも食う」
「いやいやいやいや、先輩朝からひたっすら鞄の方気にしてそわそわしたじゃないすかー。鞄が地面と平行になるよう慎重に維持したまま営業先に突入するとか、この人まじアホかと思いましたもん」
「言うね、お前。アホて。尊敬すべき先輩にアホて」
「『思ったことはなんでもいいからとりあえず口に出せ』って出会って初っ端にカマしてきたのは先輩の方じゃないっすか」
……ああ、うん、はい。その頃の俺はね、長いこと無言だった詩乃梨さんとの関係に変化が出て来て超浮かれていましたの。やっぱりおしゃべりっていいなぁって。決してこの男とこんな気軽なやりとりをしたくて言ったわけではない。断じてだ!
だが尾野は俺の内心など知らんとばかりに、嬉しそうな笑顔で続けた。
「あれ、マジ嬉しかったっす。しかも先輩、ほんと何言っても真面目に返してくるし」
「そりゃ、お前がツッコミせざるを得ないことばっか言うからだろ。俺はもっとクールでハードボイルドな感じの先輩を演じたかったのに」
「先輩、クールでハードボイルドどころか激甘カフェオレじゃないすか」
「なにその評価。さっきも俺のことやたら甘々とか抜かしてたけど、俺お前にそんな甘くした覚えないよ?」
俺の糖分要素は詩乃梨さんのためだけに存在しておりますゆえ。
だが尾野はなおもにっこにっこ笑いながら語る。
「甘いじゃないすかー。オレが『先輩って後輩の教育初めてなんですよね。大丈夫なんすか?』って思わず言っちゃった時とかー」
「『まったく大丈夫じゃないから、お前が根性で頑張ってくれ』。……いやこれ全部お前に丸投げしただけだろ? 甘いどころか苦みだけだよ?」
「あとあれっすねー。オレが『先輩、おんなじこと何回言う気っすか! もうわかってるっす!』って思わず言っちゃった時とかー」
「『諦めろ、挨拶代わりに顔会わせる度言ってやるから』。……なあ、糖分要素どこにあるの? 今んとこゼロだよ?」
「じゃあれとかどっすかー。オレが『前の仕事クビになったのって、セクハラしてた上司殴ったからなんす』って打ち明けた時とかー」
「『俺でも同じ事しただろうな。まぁおつかれさん』。……いやまあ、実際そんな場面に遭遇したら、俺にお前と同じことできるとは思えないけどさ」
「いや、先輩ならできるっす。オレが保証するっす!」
お前に保証されてもなぁ……。つーかお前なんでそんな嬉しそうなんだよ。あと糖分要素が結局行方不明のままだぞおい。
白い目で見てたら、尾野がなんか頬を染めて斜め下を向いた。蹴るぞ貴様。
「ま、先輩はそんなわけで激甘カフェオレなんすよ。ご静聴あざっした」
「……はぁ、まぁ。お前がそう言うならもうそれでいいけど。俺もう行っていい? 楽園が俺を呼んでるから」
「楽園って、その弁当包みのことっすか?」
こいつまだ会話続ける気か。どんだけ構ってちゃんなの? 仕方無いから付き合ってやるけどさぁ。
「そうだよ。この弁当はな、ただの弁当じゃない。なにせ――」
――いや。詩乃梨さんと俺の関係を他人に話すのって、なんか二人だけの秘密が秘密じゃなくなるみたいな感じするから、言うのはやめよう。
「それ愛妻弁当っすよね? 先輩奥さんいたんすね。遅ればせながら、ご結婚おめでとうございます!」
「愛妻じゃねぇし。まだ妻じゃねぇし。まだ結婚してねぇから奥さんじゃねーし」
「『まだ』すか。なるほど了解っす。ぷふっ」
笑うな貴様。今どこに笑う要素有ったよ? あ? そりゃお前はこの手の話題に事欠かないご身分なんでしょうがよイケメンくん? つーか何気に誘導尋問してんじゃねぇぞ? ここまでなら、まぁまだセーフだったから今回は許すが、もし詩乃梨さんと俺のたいせつなヒミツを暴くなどという無粋な真似をしようものなら、職権乱用して俺専属の運転手としてこき使ってやるからな! ……あ、ええと、今以上にだぞ!
そんな意思を込めて思いっきり睨み付けてみたら、尾野はそんなの何処吹く風で飄々と言い放つ。
「ま、オレは嫁さんいるんで、先輩がそういう方面でなんか困ったことあったら何でも相談してくださいね。いつも激甘カフェオレもらってるお礼っす」
「………………………………え、お前結婚してたの?」
衝撃の事実。二十歳そこそこの後輩に、仕事のみならず私生活でまで先を行かれていました。いや競い合うことじゃないけどこんなの。俺と詩乃梨さんはゆっくりマイペースにいくんだもん!
尾野はふふっと楽しげに息を漏らすと、ようやく身を翻して会話を切り上げるように手を振ってきた。
「残念ながら、うちの嫁さんは料理下手なんで、オレは寂しく定食屋行ってくるっすよ。先輩さいならー」
「はいさいならー。……あ、定食屋なら信号二つ戻った所右側に曲がった所のが一番うまいぞ」
「そっすか。情報さんくす!」
尾野はこちらに背を向けたまま、左腕でぐっと力こぶを作ってそこを右手で威勢良くばしんと叩いて見せた。その堂に入った変則ガッツポーズは、チャラ男がノリでやるやつではなく、どちらかというとガチの運動部員のそれであった。爽やかなんだか体育会系なんだかよくわからんヤツだよな、俺のこと先輩とか呼ぶし語尾に『っス』とか付けるし。
尾野の背中が消えていくのを何となく見送ってから、俺は改めて手の中の弁当包みを見つめる。
詩乃梨さんが、俺のために作ってくれた、この世でただひとつのたからもの。
食べるのもったいねぇな……。なんとかして永久保存できないかなこれ? でもそんなことしたら詩乃梨さん絶対「こたろうって、本気でばかなの?」って蔑んだ眼で見てくるだろうなぁ。さらにもう一度「こたろうって、ほんとばか」って呆れた溜息をついてこう言ってくれるの、「そのくらいならいくらでも作ってあげるから、毎回ちゃんと食べてよ」って。それで俺が全力感謝すると、詩乃梨さんはふいっと顔を背けて「どうせ、一人分作るのも、二人分作るのも、大して手間代わらないし……。食費は、余計にかかるけどさ」ってぶっきらぼうに……ん?
……食、費?
――おお、食費! 俺詩乃梨さんに食費渡してないぞ!? あの倹約家な詩乃梨さんにお金出させた上でお弁当作らせてるとか俺何様!?
「……………………………………」
ちょぉーっと、待ってみよう。ちょっと、俺のこの手の中の、お弁当包みを改めて見てみよう。
これ、詩乃梨さんが使うにしては、デカすぎるよね? しかも、朝俺が頂いたお弁当も、明らかにデカかったよね?
……まさか、とは、思うけど。詩乃梨さん、自腹切って俺のために買って来たの? わざわざ? コンビニパン一個の値段にこだわるような子が? えマジで?
「…………………………………」
……だ、だいじに、食べよう、これ。誠心誠意、全身全霊。
あと、詩乃梨さんに、なんかお返し考えなくちゃな……。