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四月十日(月・3)。軽くて、重いもの。

 六時四十五分。本来俺の目覚めへの序曲となるはずであったけたたましいアラーム音が、詩乃梨さんを容赦なく不意打ちしてびくんと大きく跳ねさせた。


「――な、なに、な、なに、なな、な、なな、なな」


 唐突にゆりかごの中の微睡みから現実へと叩き落とされた詩乃梨さんは、正座のままぴんと背筋を伸ばしてびっくり眼で辺りをぎゅんぎゅんと見回す。


 俺はそんな彼女の頭にぽふりと手を置いて、こちらへ向けて彼女のかわいいお顔を固定させた。


「落ち着いて。尻すぼみに設定してあるから、もうすぐ終わるよ。ただの目覚ましだから、安心して」


「め、め、めざ、めめざ、………………めざし?」


「ちゃうねん、目覚ましやねん。ご飯はもう食べたでしょおじーちゃん。ちゃんと起きてーな」


 頭に置いた手を軽く動かし、髪を梳くようにしてそっとなでなでしてあげる。


 詩乃梨さんはしばらく眼を見開いたままだったが、俺の手の動きに身を委ねるようにして嬉しそうに眼を細めていった。


 しかし。彼女は再びカッと瞼を持ち上げ、俺から思いっきり距離を取るように仰け反った。


「な、なんでこたろう、いるの?」


「なんでって言われても。それは両親が俺をこの世に産まれさせてくれたからじゃないかな」


「……………………こたろうって、親と、仲良いの?」


 ん? 唐突な質問だな。詩乃梨さん絶賛びっくりどっきり中だし、たぶん脳味噌を経由した問いじゃなくて単なる反射みたいなものだろう。普段の詩乃梨さんなら、家族関連の話題はタブーのはずだし。


 まあ、折角のラッキーチャンスだ。情報収集がてら、ちゃんと目が覚めるまで付き合ってあげようかな。


「仲良いっちゃ仲良いけど、年末年始に数日帰省した時に会うくらいだからなぁ。心理的にはわりと疎遠になりかけてる。詩乃梨さんはどんな感じ?」


「わ、わたし? え、えっと、ね。『いらない子』って思われてる」


 ……………………………………おっとー。地雷探知してたはずがうっかり踏み抜いちゃったぞー? どーしよーこれー。


 俺の脳味噌を爆死させただけでは満足できなかったらしく、詩乃梨さんは表情に沈痛な色を滲ませていきながらも、「悲しいけどこれ戦争だから」とばかりに追加で手榴弾を投げつけてきた。


「わたし、ね。家族のだれとも、似てないから。髪とか、こんな色だし。顔も、似てないし。……しんせきみんなに、お母さんが、どっかのおとこの種もらってきたんだろって、うたがわれて……。お父さんも、最初はお母さんのこと、信じてたんだけど、みんなに色々言われたせいで、だんだんうたがう、ように、なっ、てっ……て……」


 ………………………………。


「え、こたろー、なんでいるの?」


「そこからかい!? そんなんどうでもいいから続き! 続きはよ! 詩乃梨さんが出してきた毒なら俺は皿まで食べたいよ!」


 俺がこたつをぱしぱし叩いて続きを急かすと、詩乃梨さんは覚醒したんだかしてないんだかよくわからないぼんやり顔で小鳥のように首を傾げた。


「つづ、き、続き……。……なんの?」


「貴女のご母堂様の不貞を疑ったご尊父様! はてさてその後どうなった!」


「ぼどー。ふてー。そんぷ。……………………あ、そうそう、妹産まれたの。わたしが中学生のとき」


「なんでやねん!? どっから飛んでそうなった!? 夫婦仲めっちゃ良好やん!」


 詩乃梨さんが中学生の時に妹ができた? 一回破局しかけたとは思えないほどハッスルしとるやんけ!


 詩乃梨さんはきょとんとした顔で、俺の想像の明後日を行く台詞を紡いできた。


「ふーふなか、すごく良いよ? だって、たねなしだーっておいしゃさんに言われてたお父さんが、お母さんとのちゃんとした子供を作ろうって、いっぱいがんばってたもん。何年間も、夜になるたんびにぎしぎしあんあん、ほんとうるさいったらない――」


「どんな子守歌で育ってんのアナタ!? 詩乃梨さんが『えっちっち』とか『らぶらぶ』とかうまく理解できないのってそれが原因じゃね!? でもグレなかっただけでも詩乃梨さん偉いわ!」


「グレないよー。わたし、こうふくをはこぶ白猫ですもん。えへへ」


 詩乃梨さん、とうとう意味不明なことを言いながらにへらっとだらしない笑顔を浮かべる。座り方もいつの間にやら脱力しきった女の子座りになっていて、なんかもうこの子覚醒するどころか再び夢の世界へ突入しかけてるね。寝ぼけてるっていうかもう酔っ払いでしょこれ。


 そして酔っ払いは、うぇへへと笑いながら核爆弾を発射した。


「だからね、わたし、家から出たの。おとうさんと、おかあさんと、いもうとが、仲良く暮らせますようにって。どーせわたしずっといらないこだったから、いてもいなくてもかわらないんだけどさー。いないほうが、やっぱ、いいよねー、って。……ふふ。わたし、えらいかな? ……えらいよね、こたろー?」


 詩乃梨さんは、太股の間に両手を挟んで身体を左右にゆらゆら揺らしながら、にこにこ笑顔で俺の回答を待つ。


 さて。


 ……さて。


 …………………………………………正解がわかんねぇよ俺!?


 え、なに、どゆこと? なんでいきなりこんなベリーハードな半生語られちゃったの? 脈絡なく唐突に話始まったと思ったら内容があっちに飛んでこっちに飛んで意味不明なこと言いながらにこにこ笑って最終的には相手にミラクルな回答を要求してくるとか、酔っ払い通り越して泥酔酩酊状態ですよ! お酒はほどほどにねしのりん!


「こたろー…………わたし、えらい、かな………………」


 詩乃梨さんの間の抜けた声に導かれて、思考の迷路から脱出する。


 俺の目に映るのは、こっくり、こっくりと、幸せそうに船を漕ぐ詩乃梨さん。


 こっくり……。……こーっくり……。……ころん。


 ――ごちん。


「あうちっ」


 身体の揺れを大きくしていった詩乃梨さんは、こたつの縁に側頭部を打ち付けて悲鳴を上げた。逆方向へごろんと倒れ込み、強打した場所を両手で押さえて「おぅふ、おぅふ」とオットセイの如き鳴き声を上げる。


 膝上までぴっちりとした黒ソックスに包まれた細いおみ足が伸ばされ曲げられ艶めかしいことこの上なく、身じろぎに合わせて短め丈のプリーツスカートが忙しなく翻る様はあまりにも……お、み、見えそ――見ない! 俺は見ない! 詩乃梨さんが自分から見せてくれるようになるまで俺は待つ! つーか今そういう状況じゃねえし!


「詩乃梨さん、大丈夫?」


 四つん這いで詩乃梨さんの側へもぞもぞ這い寄って、詩乃梨さんの手の上から俺の手を重ねて患部をさすってあげる。


 詩乃梨さんはしばらくもごもごうにうに藻掻いていたが、やがて痛みが引いてきたのか、涙の滲む瞳で俺を見上げてきた。


「こ、こた、ろう? ………………え、なんでいる――」


「またそっからかい!? やめろよ無限ループ! 帰って来い、俺達が生きるべき世界へ!」


 未だ触れたままだった詩乃梨さんの手を握り、彼女の腕を痛めないようにと気を遣いながらゆっくりと身体を引き起こしてあげる。


 俺はあぐら、詩乃梨さんは足を崩した正座。俺は詩乃梨さんの目をじーっと見つめて、彼女の未だぼんやりとしている双眸が俺を映してくれるのをひたすら待った。


 数分後。詩乃梨さんはようやくまともに覚醒を果たしたらしく、怪訝そうな顔で上目遣いに俺を睨んできた。


「え、こたろう、なんでいるの?」


「…………………………。それはね、ここが、ぼくの部屋だからだよ?」


「……あ、そっか。そうだっけ。一緒にご飯食べたんだよね。……めざし?」


「…………………………うん。そう。ぼくたちは、めざしを食べました」


「……え、肉じゃがでしょ? こたろう何言ってるの?」


「ようやく起きたか、この寝ぼすけ娘……」


 俺は後ろに手をついて体重を預け、長い長い溜息を漏らした。ますます訝しそうに首を傾げている詩乃梨さんを見つめながら、俺は先程の話についてどう扱ったものかと考える。


 聞いちゃった。詩乃梨さんがものすんごい話したくなさそーにしてた家族関係の話を、余すところなく聞いちゃった。


 でもね、詩乃梨さんはこの様子だと、たぶん、そのこと覚えてないの。


 ……えぇぇ、それまずいでしょぉ……。聞いちゃっただけならまだしも、本人の与り知らない所でって、えぇぇそれ本格的にまずいでしょぉ……。


「詩乃梨さん。さっき俺と何を話してたか、覚えてる?」


 一応問いかけてみると、詩乃梨さんは「さっき?」と首を捻った。そして眉間にちょこっとしわを寄せながらむむむと唸って、やがて何かに思い至ったようにはっとした顔をする。


「こたろう、結局食べ物の好き嫌いあるのか言ってない!」


「遡りすぎでしょそれ!? 俺は好き嫌い特に無いよ! それより後にした話だよ!」


「後? …………………………………………んっ。 くふっ、こたろー……」


 詩乃梨さんは、何やら幸せそうに顔を蕩けさせて俺の名を呼んだ。でもこれたぶんここにいる俺じゃなくて夢の中の俺を回想していらっしゃるね、だってこっち見てないもの。見て! もっとこの俺を見て!


 その切なる願いが通じたのか、詩乃梨さんは唐突に顔を上げ、ぽかんと口を開けて俺の眼をじーっと凝視してきた。


「…………………………こたろうは、家族と、仲が良い」


「……うん。一応」


 俺が頷いてみせると、詩乃梨さんはひくりと口元を引きつらせ、冷や汗を流しそうなほどの焦燥を顔中に貼り付けた。


 そして、人差し指をぴっと立てて、俺に向かって固い声音を向けてくる。


「では、ここでひとつクイズです。わたしは家族との仲が、良いのか、悪いのか、さーどっちかなー?」


 なんだそのノリ、相当テンパってんなぁこれ。俺はむしろほっとしたぞ。どうやら詩乃梨さんは、さっき俺とした話についてようやく思い出してくれたらしい。


 俺は呆れ混じりの苦笑が浮かぶのを感じながら口を開いた。


「答える前にさ、ひとついいかな」


「…………………………な、なにかなー?」


「俺、詩乃梨さんがどういう事情を抱えてても、きみのこと大好きだっていう気持ちを曲げたりしないから。哀れんだりとか、蔑んだりとかもしない。もちろん事情を見ない振りなんてできないし、まあそもそも絶対したくないけど、そういうのとか全部ひっくるめて、俺は詩乃梨さんを大好きだって言い続ける」


「…………………………ど、どもです」


 詩乃梨さんは照れを隠すようにわざとらしいほど正しく正座し、軽く握った拳を膝に乗せた姿勢でぺこりとひとつお辞儀した。


 次いで、こほんと可愛く咳払い。


「……で、こたろう、答えは?」


「今のが答えってことに、ならないかな?」


「……………………………なるかも、ですねー」


 詩乃梨さんは真白に燃え尽きたボクサーのように、うつろな表情でくったりと首を倒した。


 試合終了のゴングが聞こえる。ちょうどいいから、ここらで今の話は終わっとくか。


「――よしっ!」


 柏手を打ち、詩乃梨さんの意識をこちらの世界へ引き戻す。ちょっとびっくりしたような面持ちの彼女に、俺は立ち上がって軽く身体をほぐしながら明るく告げた。


「俺、そろそろ着替えて出るからさ。詩乃梨さんも、お部屋にお帰りよ。積もる話は、夕飯の時にでもまたしようね」


「…………………………ゆう、はん? なんで?」


 詩乃梨さんは、ゆうはんってなぁに? とでも言い出しそうな何もわかっていない顔で聞き返してくる。


「……あれ? 詩乃梨さんが夕飯も作ってくれる流れかと思ってたんだけど、もしかして違かった?」


「…………………違く、ない、けど……。でも、いいの?」


 何が? と俺が訪ねるより先に、詩乃梨さんはしょんぼりと肩を落として呟いた。


「こたろーにも、色々、都合あるのに。……わたしが、勝手に、いっぱい、押しつけてる。……いきなり部屋来たりとか、お弁当とか、あと、……家族の、こととか」


 ……ふむ。いきなり及び腰になっちゃったね。家族の件は、やはり詩乃梨さんにとってそれだけデリケートな話題だったんだろう。


 詩乃梨さんの家族、か。いずれどこかで相対しなければならない問題だとは思っていたが、まさかそれがこんなに早いなんて想像もしていなかった。


 要らない子。要らない子か。じゃあ俺にくれないかな、一生大事にいたしますので。


「詩乃梨さんは、俺にもっといっぱい押しつけていいと思うよ。じゃないと、俺も詩乃梨さんに安心して押しつけることができないから」


 俺は、詩乃梨さんの頭をぽんぽんと優しく叩き、そのまま撫で撫でへと移行させる。


 詩乃梨さんは俺にされるがままになりながら、ちょっとだけ顔を上げて期待を秘めた瞳を向けてきた。


「……こたろうも、わたしに何か、押しつけたいの? それ、今ちょうだい。そしたらわたしも、安心して、もっとぐいぐいいけそうな気がする」


 ……むぅ、今頂戴と来たか。愛だの結婚だのはまだ論外として、でも何かそれなりに重みのある物じゃないとだめだよな? 詩乃梨さんの背負っている背景を彼女ごと受け止めるのに、匹敵する重さのもの。


 婚約指輪とか? いや、だからそういうのはまだ早いんだって。しかも今持ってないし。でも然るべき時に渡せるように準備だけはしておこうかな。いやほんと準備だけだけど。転ばぬ先の杖的なあれですよほんとに。ええ。


 でも、プレゼント。そう、プレゼントという線は中々に良いかもしれない。指輪は重くとも、もうちょいなんかこう、無いの? 良い感じに重くてすぐに贈れそうなもの。


 ――あ。そだ。あるじゃん。お手軽に渡せて、そこそこ重いもの。


「詩乃梨さん、ちょっとだけ待っててくれる?」


 詩乃梨さんが、何の疑いも無くこくりと頷く。


 俺は彼女の頭を優しくひと撫でしてからその場を離れ、壁のハンガーラックに掛けられているスーツをごそごそと漁る。


 取り出したるは、定期入れ。の中に入れっぱなしにしてあった、小さな金属の塊。物理的な重量で言えばわりと軽いけど、これを渡すということの意味はそこそこ以上にある。


 目当ての物を手に入れて、詩乃梨さんの元へと舞い戻る。詩乃梨さんは、ちょっと居住まいを正して正座し直し、不安と期待の入り交じった表情で俺を見上げて言葉を待ってくれた。


 俺は、彼女の頭の上に、件の物品をそっと乗せる。


「はい、どーぞ。これあげる」


 詩乃梨さんは、頭の上のそれを手に取り、しげしげと眺めた。彼女の顔には、特に訝しげなものも困惑も、特別な興味も浮かんではいない。


 それはそうだろう。詩乃梨さんは、これと全く一緒といっていい物を自分でも所持しているはずだ。


 答えは、そう。


「……鍵?」 


「そ。俺の部屋の鍵の予備。……あ。あげるって言ったけど、俺が部屋引き払う事になった時には返してくれると助かるかな。なんか余計な金取られそうだし」


 俺が『部屋を引き払う』と口にした瞬間、詩乃梨さんが未知の生命体と遭遇したかのようにぎょっと目を見開いた。


「こたろう、ずっとここに住むんじゃないの!?」


「え? うーん、どうだろ。とりあえず今は出てく予定無いけど。まあ、詩乃梨さん次第かな」


「わたし、次第? なんで?」


「詩乃梨さんがアパート暮らしでもいいならそれでいいし、一戸建てがいいって――おっとーなんでもねーです忘れておくれ。今のまだナシ」


 うっかり漏れ出た重すぎる願望に、詩乃梨さんはドン引き……かと思いきや、「なんだ、そういう意味か」と呟いてほっと胸を撫で下ろした。たぶん本当の意味には気付いてないですよ、貴女。


 詩乃梨さんは改めて、小さな手の平に置いたそれを見つめる。


「こたろう、これ、鍵だよね? この部屋の」


「だからそう言ってるじゃん」


「くれるの? いいの?」


「だからそう言ってるじゃん」


「…………………………………………ふ、ふ、ふぅん?」


 詩乃梨さん、ちょっとずつ、ちょっとずつ、頬を赤く染めていって、最終的にぶっきらぼうに鼻を鳴らした。この鍵がただ鍵であるという以上の意味を持っていることに、ようやく気付いてくれたらしい。


「こたろう、さ。これ、あのさ。どういう意味だか、ちゃんと、わかってるの?」


「俺の部屋に、いつでも好きなときに来て、好きなことをしていいよって」


「………………………わたしとこたろうって、夫婦とか、恋人とかじゃ、ないよね?」


「夫婦じゃないね。恋人でもないね。……あれ、よく考えると友達ですらないぞ?」


 プロポーズはしたけど断られた。互いに大好きだという想いを交換し合いはしたけど、お付き合いはしていない。友達……と言うのも、うーん、やっぱりニュアンス的に違うよな? あれ、俺と詩乃梨さんの関係って本格的に何?


 首を捻って考え込む俺を、詩乃梨さんが殊更お行後悪くどすんとあぐらに座り直して不機嫌顔で覗き込んでくる。


「わたし、友達ですらないんだー。ふーん、こたろーくんはそー思ってたんだー。へー、わたしびっくりー。まーじうーけるー」


「え。だって、『友、達ぃ?』って首傾げちゃうよ俺。かといって、他に俺達の関係を表すこれぞという言葉が思い浮かぶわけでもないし、はてさてどうしたもんか。詩乃梨さんはなんか思いつく?」


「……思いつかないけどさ……。でも、友達ですらないって……。……こたろーのばーか」


 詩乃梨さんはむすっとむくれてそっぽを向いてしまった。その視線の先で、俺が渡した鍵を摘まんでぷらぷらと揺らして遊び始める。


「……こたろうはさ。わたしがこれ使って、悪いことするとか、そういうの考えないの?」


「は? 悪いこと? …………………………え、まったく考えつかない。例えばどんなやつ?」


「……わ、わたしがさ? ……た、例えば、例えばだよ、あくまで例えばなんだけどね? 実際やるわけじゃなくて、なんていうか、あくまでも可能性として、あのね?」


 なんだなんだ、詩乃梨さんがものすっごい赤面してくぞ。どんな凄いことやらかす気なんだ?


 詩乃梨さんは、揺らしていた鍵をきゅっと握りしめて。美しい隆起を誇る胸元にそっと持っていってふんわりと抱き締め、ふて腐れるように答えを言い放った。




「……夜中に、こたろーの布団、もぐりこむとか……」




 ………………………………。


 ふむ。それはまずいね。鍵をあげるのはちょっと考え直した方がいいかもしれないね。


 ――バッドエンドが見える。見えちゃう。俺は真夜中に俺のベッドにもぐりこんできた詩乃梨さんのあたたかさとやわらかさと香りに包まれて頭がぽーっと熱くなってしまい詩乃梨さんが寝言で俺の名を呼んでくれたことがきっかけでとうとう耐えきれなくなってつい手を出しそうになるんだけど詩乃梨さんが途中で目を覚まして俺はつい手を止めてなんとか言い訳しようとするけど途中で思いとどまって己の愚行を正直に白状して許しを請うたら詩乃梨さんが実は寝ぼけててあまりにも無防備に擦り寄ってくるものだから俺の自我はついに下半身の一角獣ロリコーンによって乗っ取られ滾る欲望と決壊した愛情の濁流に流されるまま詩乃梨さんに精神的な愛情を注ぎまくりながら物理的な愛を九回ほど注入し俺は疲れ果てて眠るんだけど実は詩乃梨さんは途中からはきちんと意識があって自分の意思で俺を受け入れていてえっちっちやらぶらぶを知ってはいても理解はできなかったはずの詩乃梨さんは荒療治によってそれらを理解するためのきっかけを掴むことができそして俺に対する愛情がひとつまみほどではあれど既に己の中には確かなものとして存在していたのだと自覚した詩乃梨さんは俺の罪悪感で歪むみっともない寝顔を優しく見つめながらはにかみ笑顔でこう述べた「ねえこたろー。わたし、ずっとまえから、ちゃんとこたろーのこと、愛してたんだね」FIN――


 ってそれハッピーエンドじゃねぇか! そんな果てしなく俺にとって都合のいい並行世界など存在するはずがないんだ。いいか、無いんだ。そんな世界は無いんだ……! ちゃんと現実を見ようぜ。そう、現実。ふぅ、ちょっと落ち着いた。


 不安と期待の入り乱れた視線をちらちらと送ってくる詩乃梨さんに、俺は腕を組んで「ふむ」と頷きながら問うてみる。


「詩乃梨さんは、俺と一緒に寝たいのかい?」


「…………………………そんなわけ、ないじゃん。……ふん」


 完全にふて腐れてしまう詩乃梨さん。暫くしてもう一度「そんなわけ、ないじゃん」と弱々しく呟いて徐々にしょげていった。


 あ、はい。俺と一緒に寝たいんすね。俺も貴女と寝たいよ。裏の意味ではなく表の意味で純粋に。


 なので俺は、詩乃梨さんの形の良い小ぶりな頭をぽふぽふと軽く叩いて、「しょーがねぇなぁ」と苦笑交じりに呟いた。


「来たいなら、いつでも来ていいよ。詩乃梨さんが寒くないように、布団温めて待ってるから」


 俺の返答が意外だったのか、詩乃梨さんは呆けたような顔でこちらを見上げてきた。


「い、いいの? ………………あ、で、でも、えっちなのは無し、なん、だけ、ど?」


「わかってる。俺は、詩乃梨さんが俺を求めてくれるようになるまで、ちゃんと待てるから」


 たぶん。いや、きっと。いやいや、絶対ですよお嬢さん。いやほんと。


 詩乃梨さんは、俺の薄っぺらい言葉が信用できないのか、胸に抱いた鍵と俺の顔を交互に見つめながら、眉間のしわを深めていった。


「あくまでも、例えばなんだからね。やらないよ、わたし」


「うん。そうだね。詩乃梨さんはやらないよね。でも俺は毎日布団温めて待っておくよ」


「………………………………こたろう、殴る」


「なにゆえ!?」


 驚愕しながらも来たるべきバイオレンスに備えて一歩退く俺を余所に、詩乃梨さんは宣言した内容を遂行する様子もなくその場で億劫そうに立ち上がった。


 詩乃梨さんは俺に背を向けて、スカートの裾を軽く引っ張ったり髪の毛を軽く撫でたりと身だしなみを整えながらぶっきらぼうに呼びかけてくる。


「こたろう。……なんていうか、さ。あれだよ、あれ」


「どれだよどれ?」


「だから、あの、ね? …………………………鍵、ありがと」


「…………………………お、おう」


 お、おう。


 ……『ありがと』の台詞の時だけあまりにも素直な響きだったもんだから、ちょっと面食らって何も気の利いた返しが出て来なかったぞ。


 詩乃梨さんは俺を横目で見てくすりと笑うと、自分が持って来たスポーツバッグを拾い上げて、とことこと玄関方向へ歩いていく。


「こたろう。時間、いいの?」


「え、時間? ………………………………うほっ」


 言われて目覚まし時計に目を遣ってみれば、予想よりだいぶ時間経ってて思わず変な声出た。


 詩乃梨さんはもう一度愉快そうに笑い、ローファーを履いてとんとんとつま先を整える。玄関の扉に手をかけ、こちらを振り向いて自然でやわらかな表情を見せた。


「こたろう。いってらっしゃい」


「……うん。いってきます。……詩乃梨さんも、いってらっしゃい」


「ん。いってきます」


 詩乃梨さんは、少しだけ弾むような調子で返事をして、部屋の外へと出て行く。


 数秒後。特に必要も無いというのに、玄関の鍵がかちゃりと閉められた。

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