四月十日(月・1)。ゆっくりと。激変。
さて。新章に突入したし、ちょっと俺と詩乃梨さんの間にある感情について一文で端的におさらいしておこう。
『俺は詩乃梨さんのことをひとりの女性として好きで、詩乃梨さんは俺のことをひとりの人間として好き』。
……え、それって「俺は貴女を愛している!」「ごめんなさい、わたしはあなたのこと友達にしか思えないの」みたいなってことじゃないかって? そうだね。その通りだね。そうなる可能性も多分に有るよ、否定はしない。
でもね。詩乃梨さんは、言ってくれたんだ。
わたしが琥太郎に抱いている好意は、いずれ愛に至る可能性があるものなのだと。わたしは、琥太郎のことを、いつかきっと愛するようになると。
可能性とか、いずれとか、きっととか、あやふやで曖昧な言葉が多いけど。だけど、俺と詩乃梨さんが愛しあうようになる未来に至れる確率が、ゼロよりほんの少しだけでも高い数値であるのなら。
俺は、ただそれだけで、いつまでだって、待っていられる。なんなら、俺の寿命が尽きるまで待ったっていい。俺その場合、人類の限界を超越して不老不死になる所存。俺は新たな伝説となる。
だから、今はさ。
詩乃梨さんと一緒に、彼女が見ているものと同じ景色を楽しみながら、ゆっくりと、ゆっくりと、あたたかい想いを積み重ねていこう。
焦らず、急かさず、ゆっくりと。
詩乃梨さんと共に在ることができる喜びを、余すこと無く味わい尽くそう。
◆◇◆◇◆
平日の朝六時前。未だかつて邂逅を果たしたことのない日と時間に、幸峰詩乃梨は土井村琥太郎の部屋を訪ねてこう言った。
「こたろう。わたしを、食べて?」
「おい、ゆっくり歩いて行こう精神どこいった。爽やかなモノローグが何もかも無意味になるくらいに一足飛びに段階飛ばしまくりじゃねえかヒュー! ウェーイ! ラッキー!」
「? なんの話? ……いいから、こたろう、わたしを――じゃなくて、わたしのお手製料理を、どうぞ召し上がれ」
玄関口にて。清純な制服姿の詩乃梨さんはかわいく小首を傾げながら、両手で持っていた大きめの弁当箱を俺へと差し出す。
お手製料理。お手製料理と言ったか。……ん? お手製弁当の方がこの物品を指し示すには適切なんじゃないか? 微妙なニュアンスの違いだけど、なんとなく違和感がある。まあいいか。
理由はよくわかんないけど、唐突に訪れた詩乃梨さんの手作りお弁当を貰えるというラッキーイベントだ、今はただ喜びだけを噛みしめよう。
俺は起き抜けでうまく回らない脳味噌を放り投げ、詩乃梨さんから弁当を恭しく受け取って笑顔で応える。
「ありがとな、詩乃梨さん。後でありがたく頂かせてもらうわ」
「……後でなの?」
なぜか若干不満そうな感じで睨んでくる詩乃梨さん。え、俺今何かミスった?
「え、えっと、今すぐこの場で貪るようにがつがつ食い始めた方がよろしかったのでせうか?」
「……………………………………べつに、そうじゃないけど。ふん」
思いっきり全身全霊で『そうだ』って言ってますよこのお嬢さん。どうなっとんねん。立ち食い弁当? さすがにそれはつらいんだけど。
「えーと、詩乃梨さん、今時間有る? 登校時間とか大丈夫なんだったら、ちょっと中でお茶でもいかががかしら?」
「いいの?」
今度は全身全霊で『お部屋の中入りたい!』って言ってる。どした詩乃梨さん、貴女やけに積極的すぎないかね。
うーん。さすがに頭がぼんやり眠くていつもみたいにぐるぐる思考が回らないよぉ、ふえぇ。理由なんてどうでもいいじゃん、詩乃梨さんが来てくれたきゃっほぅ! 手作りお弁当きゃっほぅ!
俺は身体をずらして、詩乃梨さんが通れるスペースを作った。
「上がりなさいな。何分頃まではいられるの? 俺、六時五十三分ジャストに出るんだけど」
「なにその半端な時間? わたしは七時半くらいにいつも家出てるから、こたろうが部屋出る時にわたしも部屋戻るよ」
「了解。……あ、ちなみに俺が半端な時間に家出るのは電車の都合な。六時五十分に起きて五十三分に家出て、朝飯はコンビニでパン買って歩きながら食ってる」
「……え、こたろう、わたしが見てない日っていっつもそんな生活してたの……?」
詩乃梨さんドン引きである。未だ家の中に上がろうとせず、半開きのままだった玄関のドアから速攻で出て行きかねない勢い。
……うっわ、ミスった。こんなだらしない生活してるとか、好きな女の子にバラしたら好感度ガタ落ちだろ……。もっと頭回せよ……。
と思ったのだけど。詩乃梨さんはドン引きの『フリ』をしながら、やたらめったら嬉しそうに頷いた。
「そっか。こたろうはほんとばかなんだね。わたし知ってた」
「……ええと。なんで貴女そんな嬉しそうなの?」
「嬉しいとかばかじゃないのこたろう。こたろうの眼がフシアナすぎて、ほんとまじうける」
おお、マジウケるが正しく使われた。詩乃梨さんそれお気に入りなんだね、猿のお嬢さんとの関係ってよっぽどうまい感じに改善されたのね。ちょっとほっとした。
詩乃梨さんは、「こたろうは、ほんとばか」と何度も嬉しそうに頷いて、半開きのままだったドアの隙間から外へと身を乗り出して手を伸ばした。
再び室内へと身体を戻した詩乃梨さんは、ドアをぱたんと閉じる。
彼女の胸には、ちょっとした重量を感じさせるスポーツバッグが抱き抱えられていた。
「こたろう、お昼はいつもどうしてるの?」
ぼんやりとバッグを眺めていた俺に、詩乃梨さんが小首を傾げながら問うてきた。
「昼? 昼は、ええと……………………………。ちょっと嘘ついてもいい?」
「わたしがこたろうのこと、嫌いになってもいいなら――」
「昼はいっつも食ってない」
嫌われる可能性がある台詞と、確実に嫌われる台詞。俺は迷わず前者を取った。
詩乃梨さんはドン引きした風に口を歪めながら、しかし瞳には嬉しそうな輝きを灯した。そんなよくわからない反応を見せながら、ローファーを足だけで器用に脱いで揃え、とことこと居間への道を歩いて行く。
「そっか。やっぱりこたろうはばかだね。ふふっ」
「……ねえ、だからさ、なんでそんなに嬉しそうなの?」
詩乃梨さんは答えない。俺は仕方無く詩乃梨さんの後を追って、先程もらった弁当をこたつの上に置いた。
詩乃梨さんもまた、スポーツバッグを部屋の中央に下ろす。ファスナーを開け、中から取りだした謎の物体を二つ、こたつの上へと置いた。
謎の物体は、俺がたった今こたつの上に置いた物と同じような形をしている。違うところがあるとすれば、詩乃梨さんが最後に取り出した物だけはちょっとサイズが小さめであること。
「こたろう、お茶は?」
「お茶? ああ、はいはい。ちょっと待ってて、お湯湧かさんと」
俺はカラーボックスの上に置かれていた電気ケトルを台座から持ち上げ、台所へと向かった。
ケトルに水道水をゆっくりと流し込みながら、今日の詩乃梨さんの来訪と態度について考える。
……うん、わからん。でも詩乃梨さん嬉しそう。ならいっか。もうかんがえるやーめよ。
「詩乃梨さん、テレビ付けて。折角早起きしたし、たまにはニュース見る」
中程まで水の入ったケトルを持って居間へと戻り、台座にセットしながら詩乃梨さんに声を投げる。
詩乃梨さんは自分の作業に没頭したまま、「んー」と生返事を返してきた。
……自分の作業? なんか、でかい弁当箱と小さい弁当箱を開けて、二人分の食事をスタンバイしてるんだけど……。ああ、一緒に朝飯食おうとしてるのか。なんだ、そっか。
「………………………………」
どういうことだってばよ?
首を捻っていると、詩乃梨さんがふとこちらに目を向けてきた。
「こたろう、今何か言った?」
「ん? テレビ付けてーって」
「……テレビ見るのと、わたしと話すのと、どっちが――」
「詩乃梨さんとおしゃべりしたい」
「……………………………………ふん」
詩乃梨さんはゴキゲンとも不機嫌ともつかない鼻息を漏らし、食事のセットを終えて昨日と同じ位置からこたつへもぐりこんだ。
昨日と同じ位置。昨日の前半ではなく、後半と同じ位置。つまり、一方向に二人で窮屈に収まっていた時と、同じ位置。
…………………………だからこれどういうことだってばよ?
俺はよくわからないながらも、湧いたケトルを弁当より奥側へと置いた。
「詩乃梨さん、紅茶派? 緑茶派?」
「コーヒーは?」
「え、お湯湧かしちゃったから、缶じゃなくていい? スティックタイプのあるけど」
「それは邪道。……じゃあ緑茶で。今日のおかず肉じゃがだから」
「そっか。了解」
カラーボックスの中から粉末緑茶の入った筒と湯飲みを取り出し、ケトルとの合わせ技で手早く緑茶を錬成。ひとつは俺の弁当の横へ、そしてもう一つは詩乃梨さんの真ん前へ。
「ほい、どーぞ。熱いから気を付けてね」
「ありがと。……こたろう、早く座って。食べよ」
「うん」
コタツ布団をめくってもぐるように促してくる詩乃梨さんに首肯を返し、いそいそと足を突っ込む。あぐらをかくようなスペースはないので、二人並んでお行儀よく正座だ。
詩乃梨さんが差し出して来た箸をお礼と共に受け取り、二人で手の平を合わせて唱和する。
『いただきます』
……………………………………。
「いやだからどういうことだってばよ!?」
「こたろううるさい、黙って食え」
「あ、はい、さーせん。……でも詩乃梨さんとおしゃべりはしていいんだよね?」
「……い、いいんじゃないの? べつに」
詩乃梨さんはふいっと顔を背け、照れ隠しのように、手にした小ぶりのお弁当の中身を黙々と消化する作業に入った。
……うーん。うーん。ほんとどういうことなの、ねえ。誰か教えて。教えてしのりん。
とりあえず、俺もお弁当いただこっと。ご飯食べれば頭もきっと回り出すだろ。