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五月十日(水)。乙女心は、嵐なの。

 その翌日のことである。いつもより何だか健気でしおらしい態度の詩乃梨さんに見送られて会社へ行き、いつもより少しハードになりつつある仕事をやっつけて帰宅してみたら、そこにはいつも以上にツンツンした様子の女子高生がおりました。


 なぜ唐突に雷龍化してるのかはさておき、見事にブンむくれてる彼女のほっぺたをむしろ俺が指でツンツンしてあげたい。だからした。


「がぶッ!」


「ひぎゃー!?」


 真面目にお料理中の所を邪魔したせいか、噛み跡が付くくらい強く噛まれてしまったので、俺は速攻尻尾巻いてそそくさと風呂に逃げ込んだ。触らぬ竜に祟り無しってね。いやもうおもちのようなほっぺたの触感を思うさま堪能した後だから遅いか、あっはっは!


 ……さすがに調子に乗って十六連射はやり過ぎだったか……。いやだって詩乃梨さん最初無視するからさぁ……構ってほしくってさぁ……仕方ないじゃんかよぅ……指痛ぇ……。


「つか、なーんで怒ってんだろ、詩乃梨さん……。いや、あれは照れとか羞恥のような……?」


 俺がツンツンツンツンツンツンツンツンツンする前からツンツンしてた詩乃梨さんの様子を思い浮かべながら、風呂と着替えを終わらせ、タオルを首に引っかけて居間兼寝室へと向かう。


 するとそこには、こたつの上に並べられてほかほかと湯気を立てている夕飯達と――。そして、いつもの位置で俺に背を向けて、やたらめったらピシッと行儀良く正座している詩乃梨さん。料理中は脱いでいたはずのブレザーまで着直して、なんで彼女はこんな改まった雰囲気を醸し出しているのでしょう?


 俺はまた首を捻りながらも、とりあえず畳んだタオルを詩乃梨さんの頭へそっと乗せ、背後から彼女の細い両肩に手を突いて身を乗り出した。さてさて、今夜のメニューは~っと?


「お、今日は青椒肉絲か! なんか味噌っぽい香りしてたと思ったけど、ジャオさんって味噌使ってたっけ?」


 味噌なら今日は回鍋肉かなーと経験則で勝手に予想してたから、この献立はちょっと意外だ。でも詩乃梨さんはタレから仕込む本格派だから、ジャオだろうがホイだろうがどんな料理でもアレンジ自由自在か――って、あれ?


「おー、味噌汁付いてる。なんかリッチ」


「……………………っ」


 メインの大皿に気が行ってて気付かなかったが、今日はなぜか味噌汁まで用意されていた。いつもは『ご飯ドン! おかずドン!』という、始めて食べた詩乃梨さんのお弁当そのままの超シンプルな構成なのだが、今日はそれに加えてそっとお味噌汁が添えられている。

 

 なんとなくだが、インスタントってことはない気がする。だって、俺の手の下のちっちゃな肩が、今すっごいビクンって跳ねたから。衝撃で頭の上から手元へ落ちたタオルを、ぎゅ~っと恥ずかしそうに握りしめていらっしゃるから。ああ、やっぱこれ怒りじゃなくて羞恥だわ。何をこんなに恥ずかしがってるんだろう?


 愛らしいお顔を頭上から覗き込もうとしたが、ふいっと――ではなくぎゅるんと顔を背けられてしまい、その上タオルで表情を完全に隠されてしまった。「こーふー、こーふー!」と奇妙で浅くて早い呼吸音が生地の向こうから漏れ出てる。マジで何してんのこの子……。


 このままだと進展なさそうなので、とりあえずいつも通り詩乃梨さんの隣に腰を下ろし、やけにピシッと揃えられていた箸を手に取る。


 それを大皿へと伸ばす前に、ちろり、とタオルお化けの様子を横目に窺うと。


『………………………………』


 そこには、タオルとやや乱れた銀色の長髪の向こうからこちらを覗く、彼女の瞳。今度はばっちり視線が合ってしまったというのに、彼女の眼も顔も剃らされることはなく、何やらひどく緊迫した雰囲気と「こー……、ほー……」という臨戦態勢へ移行したっぽい低く細い呼吸音が俺を刺し貫いている。マジでどうしたのこの子……怖いよぅ、ふぇぇ…………。


「……い、いただき、ま、す……よ?」


「…………………………めしあがれ」


 内心涙目になりながら震える声でお伺いを立ててみたら、意外と素直なGOサインを戴いてしまった。むしろ『いいから早く食え』と急かされている空気すらある。


 俺は若干キョドりながら、指の震えが収まるまでのワンクッションとして、ひとまず味噌汁のお椀を手に取り「あっ」。


『…………………………』


 俺のモノローグに食い込む勢いで鋭く叫ばれた彼女の悲鳴に驚き、びくんと手を引っ込めて再度詩乃梨さんとお見合いする。けれど、詩乃梨さんは先程までと変わらぬ様子で――否、少しだけ羞恥の色が濃くなった細い目で俺を急かし続けていた。


「…………………………」


 汁を飲む前から、別の理由でごくりと咽を鳴らしつつ。俺は再度手を伸ばし、今度こそしっかりと味噌汁のお椀を手に取った。


 ここでまた詩乃梨さんの様子を確認しようかと思ったけど、今度はもう怒られちゃう気しかしなかったので、湯気立つ熱々の水面を箸で軽く混ぜてから、ふーふーと息を吹きかけ、ずずっ……と一口啜る。


「――――――――ふぅ」


 普通に美味い。あったかくて、しょっぱさ控えめで、身体と心に優しい感じの味。謎の一仕事終えた感も相俟って、我知らず心の底から弛緩しきった溜め息が盛れた。


 さらにもう一口、二口すすって、「ほぁー……」とアホみたいに蕩けながらしばしぼんやりしてたら、詩乃梨さんが袖をくいくいと引っ張ってきた。


「………………おいし?」


「んー……? そうだなぁ……」


 顔の下半分はタオルで隠しっぱなしな詩乃梨さんに、俺はちょっと考えてからこう答えた。


「俺のために、これから毎日味噌汁を――」



「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああもうぁああああああぁああああああああああぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁああああああやだぁもやだぁ!!!!!」



 びっくり仰天。俺が台詞を言い終える前に、詩乃梨さんはいきなりごろんと仰向けに倒れてそのままじたばたごろごろ転がり出した。ええぇぇぇぇぇぇぇ、マジでちょっとこれどうしたのしのりん????


「お、おい、落ち着け、落ち着け、味噌汁こぼれちゃう、あぶない、危ないから!」


「あああああああぁぁあぁぁうぁぁぁああぁあああぁああぁぁあぁぁぁぁあぁぁ!!!!」


 聞いちゃいねぇ。でもこたつにぶつからないようにしてるあたり、ちょっとは自制心が残ってる模様。


 おろおろおたおたすることしか出来ないままあわあわ言う俺に、ゴロゴロを急にぴたりと止めた詩乃梨さんのうるうるな涙目が向けられた。


「…………………………ばかぁ……」


「なんでいきなり罵倒されとんの俺……。いやマジでどうしたよしのりん、貴女今ちょっと乙女心が豆腐のように不安定よ? 何かあったの? 俺のおっぱいでも揉んで一回落ち着こ? ね?」


「…………………………おっぱいは、揉みま、…………………………、せん!」


 若干悩んでくれたようだが、結局カッと力強く拒否られた。しょぼーん……。はぁ、大人しく味噌汁啜ってよう……。ああ、美味し……。


「…………………………。それ、おいしい?」


「ええ、ちょー美味ぇっす。なんなら、毎日でも飲みたい――」


「ふっしゃー!」


 威嚇されちった。なんでやねん!


 もう困惑を通り越して、あまりの理不尽さに思わずじろりと半眼を向けてしまう。すると詩乃梨さんは狙撃された子鹿のように「ひぃん」と悲鳴を上げ、弱々しい四つん這いで俺のすぐ隣へと戻ってきた。


 そのまま女の子座りに移行した詩乃梨さんは、俺の肩にそっともたれかかってきて、さらに二の腕を優しく撫でてきながら観念したように口を開く。


「……こたろー、ぜーったい、それ言うと思った……」


「……? いや、美味かったら美味いってそりゃ言うよ」


「そっちじゃなくて。……………………だから、その、なんていうの? こう、みそしるが、毎日、飲みてーなー、的なにゅあんすの、あれでそれなこれみたいな?」


「果てしなく曖昧だなぁ……。でも言いたいことはわかった」


『毎日、貴女の作った味噌汁が飲みたい』。この言葉が額面通りのものであるならば「ふーん」程度の感想しか抱かない……ってこともないだろうけど、とにかく、俺はこの台詞に別の意味を込めて口にして、そして詩乃梨さんはその隠された意味をきちんと解読してくれたわけだ。だからこんなにも大層恥ずかしがっていらっしゃる、と。


「でも、流石に全力で恥ずかしがりすぎだろ……。俺がしのりんのお手製味噌汁なんて飲まされたらどんな反応するかなんて、最早考えるまでもなくわかりきってね?」


「だからだよ……。………………まるで、わたしが、言わせたみたいじゃん……。う、うぅぅぅぅぁぁあぁぁぁぁぁぁぁ………………!」


 羞恥の炎を再燃させて、詩乃梨さんは俺の腕を抱き締めながらうねうねうにょうにょと身悶えまくった。なんかもう見るからにほんとにいっぱいいっぱいって感じで、真っ赤っかなお顔から今にも本気でファイヤーしそうな勢いである。


 あー、そっか……。俺の反応わかりきってる上で、それでも尚やっちゃったわけだから、完全に誘い受けだよねそれ……。貴男にプロポーズされたくて味噌汁作りましたーに取られちゃうよね……。


 いや、もしかして実際にプロポーズされたかったのか? と一瞬思ったものの、詩乃梨さんのこの恥ずかしがりっぷりからして違うだろう。じゃあなんで、わざわざ見える地雷を踏み抜きに行ったんだ?


「今日、味噌安かったりしたの?」


「………………………………。こたろー、わたしのこと、何だと思ってるの?」


「もし食品のタイムセールや安売り遭遇したら瞬時に頭の中で献立を組み立てられる頭脳を持ち、実際にそれを作れてしまう匠の腕を持つ、超デキるスーパー敏腕若奥様」


「…………………………………………ふ、ふぅん」


 一瞬じろりと睨んできたけど、最後は結局嬉し恥ずかしで唇をむにむにさせるチョロいしのりんであった。この子マジチョロいわー、とんでもないチョロインだわー。試しに男主人公が無双する系のネット小説見せた時に「この娘達なんでこんなに簡単にこの男に惚れてるの?」とか素で首を捻ってた失礼な娘とは思えないチョロさである。でもしのりんがこんなにチョロいのは俺相手の時だけなんだぜ、ぐっふっふ。


 ほくそ笑む俺とは対照的に、詩乃梨さんは溜め息と共に脱力してとっても素直な微笑みで見上げてきた。


「こたろー、さ。『昇進するー』、って言ってたじゃん? でもまだしたわけじゃないから、お祝いするのも何か変かな、って思って……。でも、やっぱり祝ってあげたいな、よろこんでほしいな、って、思っ、て………………、みそし、る、とか、いい、か、な…………、ひ、ひぃ、ひぃぃぃぃぃぃぃ…………!」


「素直タイムがとことん続かない難儀な子よのぅ……。よしよし、恥ずかしくなーい、恥ずかしくなーい」


 俺の腕に顔面をぐりぐり擦りつけてくる詩乃梨さんを、ぽんぽん優しく叩いたり髪を梳いてあげたりして落ち着かせる。


 そんな風に余裕ぶってる俺だけど、内心は詩乃梨さんばりに身悶えてて心臓ばくばくだ。この味噌汁に込められた詩乃梨さんのストレートな真心が、熱くて、熱くて、もう顔まで熱くなっちゃってたまらない。



 その後。詩乃梨さんと、そして俺がなんとか落ち着く頃には、折角の熱々味噌汁もちょっと冷めてきてたけど。それでも温め直す必要なんて全然無いくらいに、ふわふわとした微熱が俺達の胸を炙り続けていた。



◆◇◆◇◆



 未だに熱の残る身体をクールダウンするかのように、食後の皿洗いに没頭し。エプロンで適当に手を拭き拭きしながら居間兼寝室へと戻ってきてみれば、詩乃梨さんはまだ風呂にも入らぬまま、こたつの前で――というよりその上に広げた一枚のプリントを前に、何やらうんうん唸っていた。


 俺と同じく熱のやり場を求めて宿題でも始めたのかと思い、話しかけずにいたが……。進学校で不動の学年一位として君臨し続ける詩乃梨さんを悩ませるとは、一体どんな難問なんだろう? 俺に解ける気は毛ほどもしないけど、だんだん純粋に気になってくる。


「しのりん、それちょっと見せて?」


「…………………………、ん」


 一瞬何故か身体で隠すような仕草を見せかけた詩乃梨さんだが、ぐっと堪えて、すすーっとプリントを滑らせてきた。


 詩乃梨さんの横にどっくらしょと腰を下ろしがてら、その紙をひょいと取り上げてみると……。


「……『進路希望調査』?」


「ん」


 でかでかと書かれた表題を思わず読み上げた俺に、詩乃梨さんは特に何の感慨を見せることもなく首肯を返してきた。


 進路希望調査票、か。そりゃ、学生だからこういうプリントも渡されるわな。でも完全にちっとも予想すらしてなかったので、「ふぅん」とどっかの幸峰詩乃梨嬢みたいな鼻息を漏らすことしかできなかった。


 そしたら今度はその詩乃梨さんが、「『ふぅん』?」と俺の鼻息を真似しながら胡乱げな目で睨め上げてきなさった。あ、興味なさげに捉えられちゃっただろうか? 詩乃梨さんの第一希望をご提案させて頂いた身として、今の反応は無かったな。


「や、ごめん、違うんだ! 進路、進路ね、とりあえず第一から第三まで全部『土井村琥太郎のお嫁さん』でいいんじゃない? もしくは、専業主婦、とか……、……………………」


「……………………それで、本当に大丈夫だと思う?」


「……………………ダメかもですねー」


 俺も詩乃梨さんが何を悩んでいたのかに気付いてしまい、二人で一緒に肩を落として溜息を吐いた。


 そうだよね……。普通に考えて、学生の進路って『進学か、就職か』の二択だよね……。他にも留学するとか家業を継ぐとかあるかもしれないけど、何やるにしろ大抵は進学や就職の亜種みたいなものだろう。では、専業主婦は何に分類されるんだろうか? 『永久就職です!』で押し通したら生活指導の先生とかにぶっ飛ばされそうだなぁ。


「進学校なんだし、ここは嘘でも『大学進学』とか書くのが無難なとこだろうけど……」


「……あんまり、嘘つきたくない……」


 ぼしょぼしょ呟かれた詩乃梨さんの反論には、俺も同感だった。学校にというより、自分達の心に嘘をつくのが心苦しい。


「となると……、就職か……? フリじゃなく、実際詩乃梨さんが気持ちよく働ける職場が有ればそこ行けばいいわけだし……。いや、それ考えると進学も有りだよな。詩乃梨さんが行きたいって思うとこが有れば行けばいいんだから」


「………………わたし、…………こたろーの、専業主婦、やりたい……」


 先程以上にしょんぼりしながら吐露されたその台詞は、もし詩乃梨さん以外の女性が口にしたら『甘ったれんな』意外の感想しか出てこないものだろう。けれど、詩乃梨さんの場合は甘ったれるどころか心底真剣に考え抜いたからこそのこの台詞だ。


 だが現状それを理解できるのは、俺と、あとは詩乃梨さんの心の友であるあの娘達くらいのもの。学校側に素直に希望を伝えても、理解を得るのはやはり至難の業だろう。


「本来、こういう困ってることを相談するための、『こういう紙』だと思うんだけどなぁ……」


 俺は手の中のペラい紙をぺらぺらさせながら、また溜息を吐いた。


 ――そこで、ふと思う。

 

「学校にはこれまで何て言って通してたの? あと、親の意向とかは……」


 二つ目の疑問をほぼ口にしてしまってから、『あ、これ聞いたらまずいやつかも』と冷や汗が出て来た。詩乃梨さんの親関連の話題は、もう避けないと決めたとはいえ、今でも一等デリケートな部分であることに変わりは無い。


 だが、詩乃梨さんは今以上に特別落ち込むということもなく。


「ん、普通に『進学』で出してた。一回『就職』って書いたらうるさく言われたし、もし就職できなかったら、奨学金で本当に進学するつもりだったし。親は、何選ぶにしても『娘の意見を尊重する』って言ってる」


「あ、ああ、そうなのか……」


 ほぼ無意識みたいなスルーっぷりで、しっかりした回答を寄越す詩乃梨さん。なんだか慣れすら感じさせるのは、今みたいな質問も回答も何度か経験済みってことなんだろう。助かったけど、ちょっと拍子抜けだ。


 就職できればそれでよし、駄目でも詩乃梨さんの学力なら進学先に困ることもない。親も、仕送りしてくれてたり『詩乃梨さんの意見を尊重する』って言ってくれてたりで、心情を覗けば立ち位置的にはたぶん味方。……俺という存在が割り込まなければ、現時点では何も問題はなかったわけか。


 ――ならば、ってわけでもないけど。この問題はやはり、詩乃梨さんひとりに委ねるべきものではない。


「ペン、貸して」


 プリントをこたつに置き、空欄に目線で答えを投射しながら、手を詩乃梨さんの方へと伸ばす。


 詩乃梨さんは少し驚いた様子だったが、素直にボールペンを手渡してくれた。よし、じゃあ書くぞ――あれ、ペンが重い。ば、ばかな、まさかこの俺が自らの出した結論を書面にすることに怖れを抱いているなどと――


「こたろー、なんて書く気?」


 詩乃梨さんがペンの逆側を持ったままなだけででした。しかも結構強い力で、離してくれそうにありません。


 俺は綱引きみたいにじりじり力を込めていきながら素直に答えた。


「第一から第三まで全部『土井村琥太郎の嫁(専業主婦)』で埋め尽くして、直筆のサインと印鑑と拇印と電話番号、それに一応詩乃梨さんにも『この交際は真剣なものであり、卒業を待って結婚する予定』という旨を形として書いてもらって、あとは住民票の原本と準備万端の婚姻届と結婚指輪でも添付すればギリ合法ってことでイケるかなって。万一ご両親の同意が得られなければ、『成人まで待つ』って内容も追加してさ」


「………………………………い、いけ、る、……かな?」


 お、詩乃梨さん力が弱まったぞ。これ押せばイケる! いやこのまま引っ張ればイケるで! やっぱこの娘チョロインだわ!


「うんうん、いけるいける。ほらほら、早くペン貸して。はやくはやくぅ~」

 

「………………………………むぅ~」


 あ、不味った。調子に乗りすぎて軽い男に見られてしまったらしく、俯いた彼女の咽から不機嫌そうな唸りが漏れ出てきちゃった。ど、どどど、どうしよ、どうしよ。


 と、そんな風に狼狽している間に、無情にも俺の指から引ったくられてしまったボールペン。そして、乱暴に取り上げられてしまった進路希望調査票。ああああぁぁ、待ってぇ、行かないでぇ!


「こたろーくんの気持ちは、わかりました。こたろー、もう帰っていいよ。あとはわたし書いとくから」


「待って、今のは違うから!? あとここ俺の部屋、帰るなら詩乃梨さんの方――ちょ待って待って待って待って帰らないでえマジで帰るの待って待って待って待ってちょ待って!!???」


 野暮なツッコミのせいで本気で立ち上がりかけた詩乃梨さんに、全身全霊でひしっとしがみついて繋ぎ止める。女子高生の下半身に絡みつくパジャマ姿の男、はい違法でーす! いや待ってもうふざけないから帰らないでちょっと待って!?


「待ってぇぇぇぇぇぇ、行かないでぇぇぇぇぇぇ、捨てないでぇぇぇぇぇえぐえぐえぐえぐ……」


「泣かないでよ……。べつに、捨てないから、一回帰るだけだから、またすぐ戻ってくるから……。………………あと、こっち、絶対見ないで……」


「えう?」


 鼻水をぐすっと啜りながら、反射的に詩乃梨さんの顔を見上げてしまう俺。


 ――するとそこには。ひくひく笑う口元を片手の甲で必死に押さえながら、目線を軟体動物にようにぐにゃぐにゃ泳がせまくってる羞恥限界突破状態の茹で蛸しのりんがいた。あらぁ、なんて食べ頃のおいしそうな赤味なのかしらぁ。でもなんでいきなりこんなぐでんぐでんになってんだろう?


「しのりん、どしたの? 風邪? おねつ?」


「……うっせー、だまれ……!」


 久々に本気で口が悪い!? しかもかなり力任せに「ふんっ!」と抱擁から抜け出されてしまった! なんだ、何がそんなに逆鱗に触れた!?


 俺が引き留める間もなく、詩乃梨さんはダッシュで玄関へ突き抜けると、ローファーを蹴飛ばす勢いでつっかけながら捨て台詞を吐いていった。


「こたろーのばーか! 大好きだっ! …………………………あ、あとね、後でちゃんとまた帰ってくるからね!?」


「え? あ、う、うん」


 一回閉まりかけたドアから再度顔を覗かせた詩乃梨さんに、俺はなんとか首肯を返す。だが詩乃梨さんはそれを見届ける間もなく再び疾風となって彼方へと走り去って行った。


「………………………………。え、なんなの……?」


 文字通り完全に置いてきぼりにされてしまった俺が、独り寂しく呟いた疑問は。その後戻ってきた詩乃梨さんの『訊かないで……!』という懇願(に見せかけた脅迫)により、解消されないままであった。

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