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五月九日(火)。ちゃんと、の形。

 近頃とみに実感していることだが、何気ない日常と一言で表現できてしまえるような穏やかな日々であっても、毎日どこかしらが着々と変化し続けているものだ。


 詩乃梨さんとの時間の過ごし方がバリエーションに富んできたとか、奥さんの手料理に飢えていた尾野が念願叶って手作り弁当作ってもらえるようになったとか、上司が受け持っていた重要な案件を日常会話みたいにさらっと引き継がされて白目剥くだとか。公私を問わず、自他を問わず、正負を問わず、変化は常に続いている。人これを万物流転と呼ぶ。俺ってば超賢い。


「――そこで、かやがすーっごい綺麗に着地失敗してね? みんなゲラゲラ笑って、かやもう泣きべそかいちゃいそうになったんだけど、そこでさくやがすっごい回転しながら隣に突っ込んでいって、土煙巻き上げながら『どやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!』って会心の笑みで「うちの方が人気者ー!」って、かやを煽るの。もう、ほんとわたしまで笑っちゃった」


「あー、なんかもうその様がはっきり目に浮かぶわぁー……。あの子達ってほんとキャラがブレないよね。その後は、例の如くキャットファイト始まって、詩乃梨さんが笑いながら――じゃなくてぷりぷり怒りながら仲裁して、事なきを得る感じ?」


「ん? ううん。きゃっとふぁいとは始まったけど、仲裁とかしないで放置した。チャイム鳴ったし。わたしが係だったから、記録まとめて先生に報告しないとだったし」


「…………………おぉ、無情……っ!」


 詩乃梨さんの予想外にドライな対応に戦慄する俺を、「まあ、後で怪我の治療はしてあげたけど」という恥ずかしげな呟きが潤した。ケンカする子達は一度好きに暴れさせてから終わった後でフォローを入れる、それが詩乃梨式教育論である! 一度失敗するまで好きにやらせてから後ほど手ほどきする俺スタイルと似たものを感じるね、これが世に言う似たもの夫婦である、うふふ♡


 もうそろそろほんとに夫婦と呼んでいいですよね、これ。だって現在こんな何気ない会話を交わしている俺達の状況は、二人共薄手のパジャマ姿で、いつものように俺の部屋で二人仲良く夕飯食べた後で、俺が二人分の食器を洗っている真っ最中で、そんな働く男の頼れる背中に詩乃梨さんがそっともたれかかって寛いでてっていう、明らかに夫婦かそれに準ずる親しい男女にしか思えない状態だからね。でも残念、まだ夫婦じゃないんですねー……なんでかなー……まだなのかなー……。


 洗剤洗い流しながら物欲しげな流し目を詩乃梨さんへと送ってみたら、詩乃梨さんは広げた両手の指先同士を意味無くくっつけたり離したりして弄びながら、俺の視線に気付かぬまま恥ずかしげにこしょこしょと呟いた。


「……なんか、さ。……こういう、ふつーの会話できるのって、いいね。………………前みたいに静かなのも、あれはあれでいいけど、でも、わたし……、今の関係、ちょっと………………好き? かも」


「………………………………」


 この時、俺の中で知人以上夫婦未満の現状を全力死守する方針が決定した。万物流転? そんなの知らんわ、賢しらぶって小難しい四字熟語使わないでくださーい!


 と自己の糾弾に勤しむあまりに沈黙する俺を、詩乃梨さんのやわらかなおしりが苛立ち混じりにぷにぷにと突っついてきた。


「な、なんか言ってよ、ばか、へんたい」おっと、苛立ちではなく単なる照れ隠しであった模様。「わたしばっかり話してるじゃん、もっとこたろーの話いっぱいしてよ、この聞きたがり、こたろーの聞き上手め、このどすけべ」それ褒めてんの貶してんのご褒美なのなんなの?


「なんか話してって言われてもなぁ……。俺の場合、会社と自宅の往復しかしてないから、詩乃梨さんみたいなおもしろい話とかなんも無いよ?」


「わたしだって、ほとんど学校と自宅の往復しかしてないよ? でも話した。だから、こたろーも話す!」


「や、学校と会社とじゃやっぱ全然違うし……。イメージカラー的に、学校は青い春みたいな華やかな感じだけど、会社は灰色とかブラックとかどどめ色だし……」


「………………………………。ふぅ、ん……」


 やや言い訳染みた屁理屈を返す俺に、詩乃梨さんはやや不満げな鼻息を漏らしながらも、思った以上にあっさりと引き下がってくれた。………………あ、もしかして気を遣わせちゃっただろうか? 詩乃梨さんは俺の過去を知ってるから、尚更余計に。


「……………………………………」


 いつかの俺達の関係の逆戻りしてしまったかのような沈黙が、狭い室内に満ち始める。


 ――けれど。今の俺達は、たいせつなものはそのままに、絶えず変化と進化を繰り返している俺達なのだ。


「そういや、さ。俺、昇進決まったわ」


 役目を終えた蛇口をキュッと締め、手の水気を払いながら何の気なしに告げてみた。


 詩乃梨さんは俺の背中から「よっ」と身体を離し、回り込んできて斜め下からくりくりの無垢なお目々で見上げてくる。


「しょーしん。………………………………傷心?」


「俺の豆腐メンタルっぷりを熟知してる詩乃梨さんらしい誤変換だけど、今回はべつに暗い話じゃないからそんな心配そうな顔しないでくれる? むしろ、めでたい話だ」


「……………………しょーしん……、しょーしん。…………………………、昇進っ!」


 お、パッと明るい顔になったぞ。いいねいいね、愛しい貴方の明るい笑顔。でもこれ俺の昇進を喜んでるんじゃなくて単にクイズの正答を導き出せたことが嬉しいだけだろうね。


 だって詩乃梨さんってば、一転して両手をふらふら彷徨わせて挙動不審になりながらおそるおそる訊ねてくるんだもの。


「おめでたい話、で、いいんだよね……? 昇進って、偉くなって、責任重くなったり、仕事がたいへんになるってことでしょ? ………………それ、絶対こたろー嫌がるよね……」


 問いかけかと思いきや既に確信されていた上に大正解であった上に尚更心配げな顔をされてしまった。しのりんのこたろー愛がマジで止まる所を知りませぬぞい。ぞいぞい。


 二の腕をやさしくさすってくる詩乃梨さんの手を、俺もそっと優しく撫でてあげながら意識して笑いかける。


「まあ、昇進って言っても今すぐどうこうってわけじゃないから。経験積んでいきながら二年おきくらいで繰り上がっていって、四十くらいまでに部長に、って話。それに、今の上司は俺の待遇改善に尽力してくれた人だから無茶な注文はしてこないだろうし、実際『嫌なら拒否してくれて構わない』って言ってくれてるし」


「……………からの、『拒否したらどうなるかわかってるだろうなぁ~?』っていう……」


「…………………………」


 同じ懸念を抱いていたばかりか、話を貰ったその場でうっかりそれを口にしてしまった迂闊な琥太郎が俺です、どうもどうも。


 ついつい半笑いで逸らされかけた俺の顔を、しかし詩乃梨さんが両手でガッと挟んで真っ直ぐに向き直らせて決然と見つめてくる。



「大丈夫。――――――こたろーは、何があっても、わたしが護る」


 

 嫌な仕事ならやらなくていい。なんなら、一生無職になってもわたしが養ってあげる。――そんな確固たる決意と信念を彼女の真摯な瞳が力強く語りかけてきた。


 この子どんだけ俺のこと好きなの? 豆腐メンタルで無職でオタのヒモニートとか役満すぎて救いようないはずなんですけど、この子の愛の深さは本来不可能な救済ですらあっさり実現できるレベルに達していらっしゃる。さすが地上に降りたラスト女神と謳われるだけのことはあるね、ちなみに言ってるの俺、俺。


 彼女の言葉は、未だ社会に出たことのない小娘の、気持ちだけの空虚な台詞などでは決してない。それを俺は肌身で直に感じていたのだが、当の詩乃梨さんは「……働いたことないわたしが言っても、説得力、ぜんぜん無いけど……」などと唐突に弱気になっていらっしゃった。


「いや、説得力有るよ、超有るよ、モリモリのマシマシだよ、某ラーメン店のトッピング全部乗せを遥かに凌ぐくらいのテラ盛りだよ、だから自信持って? ね?」


「……………………。でもわたし、去年、バイト全部落ちた……」


 ……………………………………………………。


「ん? バイト?」


 何か初耳な情報が飛び出してきた気がして思わず聞き返したら、詩乃梨さんはますます悄気返ってしまい、俺の顔に掴まるようにしてずるずると項垂れていった。


「……わたし、ね? 前、バイト、してないって、言ったじゃん?」


「ああ、それは聞いた。親から仕送りもらってるって」


「…………………………それね? 半分、嘘――う、ううん、仕送りもらってるのは嘘じゃないから、そんな顔しないで!? 『バイトしてない』っていうのが半分嘘で、正確には『応募しても全部落ちた』の! 髪の色元に戻してから出直してこいって! そんな派手な色して、仕事なめてるのか、ってっ!」


 親との不仲っぷりが俺の想像を絶してたのかと驚愕しかけたものの、続けて告げられた真の理由には「ああ、なるほど」とすっかり納得してしまった。


 今では見慣れてしまってついつい忘れてしまいがちだが、詩乃梨さんは今も昔も変わらぬ白銀に染め抜かれた煌びやかな御髪をお持ちである。贔屓目を抜きにしてもとにかく『日本人らしい黒髪』とは遠くかけ離れた色彩であることは疑いようがなく、ただの一見さんなら『北欧系の外人さんかな?』と思ってくれるかもしれないが、履歴書に堂々と日本人の名前が書かれていれば『不良』の烙印が押されてしまってもおかしくはない。


 人種や外見に寛容になってきた時代。とはいえ、それが社会規範として浸透しきっているわけでもない、それこそ灰色で曖昧な時代だ。詩乃梨さんにとっては、ある意味一番生きにくい時代であるかもしれない――いやちょっと待って?


「詩乃梨さん、『卒業したらすぐ働くつもり』とか言ってたよね? それもしかして、髪黒く染める気だったりしたの?」


「………………………………………………う、うん? え、えへへぇ」


 ひどく曖昧な肯定と、これ以上無いってくらいに白々しい愛想嗤い。白銀の髪を揺らして白い頬をぽりぽりと搔く彼女を前にして、俺は頭の中が白銀も白も通り越した白より白く白き白に埋め尽くされた。有り体に言って、頭の中まっしろ。


 しのりさん。かみ。そめる。なんで? こんなに、すごく、すごくきれいなのに。


「だ、だから、ね? 話、戻すけどね? わたし、その、こたろーが、仕事嫌になっちゃったら、その、ちゃんとした格好して、ちゃんと働くから、あの、心配しなくて、いいから、ね? だって、元々、そうするつもりだったんだし――」





「――――――――――――――ざけんな」





 雪原のように真っ白なった頭の中で、突如として灼熱の赫怒が核爆発のように噴火した。


 詩乃梨さんへの怒りではない。ちょっと髪の色が違うくらいで詩乃梨さんを弾き出そうとする、社会や世界そのものへの怒りだ。なんでそんな些細な理由で詩乃梨さんがバイト落ちなくちゃならない。バイトってのは仕事で、つまりは金が必要だからやるんだぞ? しかも詩乃梨さんは事情が有って親に頼れない状況の子で、なのにそれを本人の能力や資質以外を理由にして弾き出す? は? なに? それお前が仕事ナメてんだろ? 仕事は生きるための術だぞ? 自己実現だとかいう富める者のお遊びでも、ましてや『きみ仕事ナメてんの?』なんて他人を罵倒して悦に入るためのものでもないんだぞ? 仕事させてもらえなかったら、人が一人生活できなくなるんだぞ――?


「……こ、たろ? ………………こっ、こたろー、くーん? え、えへ、えへへ」


 余程俺の形相がひっどいことになっていたのか、気付けば詩乃梨さんは数メートルほどドン引きして居間兼寝室の方へと退避しながら、及び腰で怖々と呼びかけてきた。


 俺は彼我の距離をずんずんと詰め、そのまま詩乃梨さんを壁際まで追い詰め、ドンと壁に手を突いて顔を接吻一センチ手前まで近づけて、小さな悲鳴を上げる彼女に構うことなく宣言した。


「――――――詩乃梨さんは、俺が一生養う。一生仕事なんかしなくていい」


「……………………………………………………、あ、その、それは、えっと、嬉しい、し、あの、文句とかも、ない、んだけ、ど、で、でも、せめて、一回くらいは、その……、養うとかじゃなくても、あの、ちょっと、経験、してみたい、かなー、みたい、な……」


「…………………………………………………………。その時は、まあ、うん、良い方法を考えよう。でも髪染めは絶対NGです。そんな、自分で自分を傷つけてるような真似までして働く必要なんて一ミクロンも無し。OK?」


「お、おけー。ちょー、べりーべりー、おけー、いえす、おういぇす」


 すっかり従順な家猫さんと化した詩乃梨さんがこくこくこくこく頷きまくるのを見届けてから、俺はゆっくりと身を離した。


 鼻息をふんすと吐き出して気持ちを無理矢理弛緩させ、詩乃梨さんに背を向けてトイレに向かいながら言い逃げみたいに宣言する。


「もっと偉くなって、もっと仕事して、もっともっと稼ぐぞ、俺は! でも勿論一番たいせつなのはもちろん仕事なんかじゃなくて詩乃梨さんだから、そこの優先順位を間違えるような本末転倒なことやらかすつもりなんて毛ほども無いので安心してね? これフリじゃなくてマジですから。これネタバレですから」


「……………………あ、………………。うん」


 聞こえて来たのは、詩乃梨さんのどこか嬉しげな声。そして、


「こたろー、おしごと、がんばって――じゃなくて、………………おしごと、がんばろう……ね?」


 なんて、美味い言い回しを思いつかなかったっぽい若干疑問系で気の抜けるお言葉。


『がんばって』じゃなくて、『がんばろう』。それは、ただ俺に養われるだけの暮らしを良しとしない、俺と共に『がんばって』くれる気満々の、生涯の伴侶で無二の相棒な彼女にしか口に出来ない台詞であった。

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