五月八日(月)。変わる、代わる。
さて。新章に突入したことだし、俺と詩乃梨さんのほぼ無言で寄り添い合うのがデフォルトであったはずの過ごし方が一体どのような進化を遂げたのかについてちょいと端的におさらいしておこう。
『なんと、会話量が劇的に増えちゃいました! ちなみに主な話題はオタクな趣味についてです☆』マジかよ…………oh…………まじかよ……。
会話の絶対量が増えたことは素直に嬉しい気がする反面、内容がギャルゲーの考察であったり百合コミックの感想であったり女主人公無双系オンライン小説への感想コメントの文面についてであったりするのはマジこれどうなの……?
ちなみにオンライン小説はGWラス日近くに手を出し始めたんだけど、この混沌渦巻く魔の大海原に対しても予想外の順応力を発揮した詩乃梨さんが「これ、感想送れるの? 送ってみたい! すっごくおもしろかった!」って興奮覚めやらぬ面持ちのままに鼻息荒く詰め寄ってきたので、俺は半ば気圧されながらもさらっと初歩的なレクチャーをさせていただきました。俺と一緒に練りに練った感想文を、ややぎこちないタッチで「お、も、し、ろ……」と呟きながらかこかこ打ち込んでゆく詩乃梨さん。なんだか見てるだけで俺まで初心を思い出してはらはらどきどきしちゃったよ。
とまあそんな感じで、一人の時ともこれまでの二人の時間ともまた違う過ごし方をしてたわけなんだけど、このまま英才教育を施してしていいものか若干心配になってる過保護なわたくしです。でも実の所、そんな心配なんぞより『俺の好きな作品、詩乃梨さんにも大好きって言ってもらえた! 嬉しい!』っていう本音の方が大きすぎて心がふわふわうきうきしちゃってるダメな夫がわたくしです、いや夫じゃねぇけど。まだ。
おっとー。あなた、今夫と言いましたね? じゃあ折角だし、このどこまでもどこまでも限りなく自然な導入から、今回はちょいと俺の会社の同僚兼後輩であるあの尾野(夫)に起きた変化についても一文で端的に述べさせていただくとしましょう(強引)。
『GW明けていざ出社してみたら、尾野が―――――――めっちゃキモくなっていた』
◆◇◆◇◆
「ぶぇっへっひぇっひぇっひぇっふぇっぶふぇっひょっほっほ~♡」
はい。まるで詩乃梨さんに睾丸舐められた時並みに超絶キモいアヘ顔を晒しているこの男こそ、かつてイケメン・今キモメンな尾野正祥その人である。ちなみに今は、エロい要素なんぞどこにも一ミリたりとも影も形も見当たらない、連休明けの挨拶回りと御機嫌伺いという純度百パーセントの『仕事』で錬成された二人きりのドライブの真っ最中だ。
俺と、尾野が、車という密室の中で二人きり。狭い路地の対岸で信号待ち中のおっさんドライバーが、ふと尾野のアヘ顔を見てギョッと目を剥き、俺と尾野をしきりに見比べて『あー…………』と何故か納得したような顔をする。おい貴様今何を納得した。そして目の前の歩道を渡りながらこっち見てきゃあきゃあ言ってるママ友さん方、あんたら何を想像したいや待て言うな心が折れる。
ただでさえ、今日の俺は約一ヶ月というブランクを抱えての運転手業務なのだ。これ以上余計な負荷かけるとうっかり事故るぞこれマジで。
だから俺は、信号が切り替わってアクセルを踏む寸前に、俺のSAN値をごりごり削ってやがるアヘメン尾野に一撃膝を入れといた。
「おい、いつまで浮かれてんだ。もう会社着くぞ、そろそろシャッキリしとけ」
「はぁ~いっ♡ …………むっひゅっひゅっひゅっぶっひゅっひゅ~♡」
「………………はぁー……」
何度目になるかわからない注意も案の定徒労に終わり、俺はとうとう白旗を揚げて半ば突っ伏すような体勢で駐車場へと向かった。
尾野から目を逸らすついでに今更だけどざっと説明させてもらうと、俺らの勤めている会社は日本中はおろか世界各国に支社・支部を展開している結構な大企業だ。で、俺等は一応本社勤務ではあるんだけど、社長や会長なんかのお偉いさん方がたむろしてる都心の第一本社タワービルではなく、郊外にある平べったくて古ぼけててくすんでて白いペンキが所々剥がれてるとにかくボロい家屋――旧本社社屋が現在の俺達の巣である。
本社ビルとは遠く離れてはいるものの、便宜上ここは本社の別館的な扱いとなっており、現在は本社から出向(厳密には異なるが)してきた専務をトップに戴いてほぼ独自に業務を回している。……なんかふわっとした説明で申しわけないけど、守秘義務に抵触する部分とか出てきてめんどくさいから、今回はこのへんにしておこう。
「おら、着いたぞ。はーい、お客さん降りてくださーい」
げしげし蹴り飛ばすジェスチャーをしながらぞんざいに宣言してやると、尾野は相変わらず蕩けたツラで「はぁい、了解っすよ~♡」なんてハートマークを乱舞させてお尻と通勤鞄を無駄にフリフリくねらせながら車を降りた。うぜぇ通り越してただただひたすらマジキモい……。
鳥肌浮かぶ二の腕を擦りながらエンジンを切り、俺も鞄を――というより言わずと知れた人類の至宝を大事に抱えながら降車する。
「あー、疲れた……」
久方ぶりの運転を終えてようやく人心地ついた俺は、ドアをケツで閉めた体勢のまま空を仰いでしばしぼーっとした。ここらは都心から若干距離が有るせいか、緑や公園も多めで空気がそこそこ美味い気がする。嗚呼、マイナスイオンが五臓六腑に染み渡るぜ……。
今日は元から俺が運転手をするつもりでいた――いつか詩乃梨さんと連休にドライブとかする時に困らないように――から、多少の負荷は想定済みだったのだが……。尾野がずっとこんな有様でまるで使い物にならないどころかSAN値摺り下ろし機と化していたせいで、ホント無駄に疲れまくったわ……。開けたままの口から魂的な何かの流出が止まりませんわ……ぼくちかれた……。午前だけでこれとか、午後もう早退していいかな俺……あ、ダメっすね、はい……。
「せーんぱいっ♡ お昼、ごいっしょしましょーよっ♡ ウフッ♡」
「……………………………………」
あざとい後輩女子高生並みに媚び媚びのおねだりをすぐ隣から投げかけられて、俺は死者も裸足で逃げ出す虚ろな瞳をそいつへ向けた。
そこにいたのは、いつかの俺と――今の俺と同じように、平べったい通勤鞄を水平に保ったまま大事に抱えてる尾野の姿で。そして、そいつの顔中に広がる歓喜でとろとろになった表情もまた、いつかの俺と似たり寄ったりの実にだらしない笑顔であった。
――まったく。男ってやつは、たかが愛妻弁当ひとつでこんなんなっちまうんだから、ほんと単純な生き物だよなぁ。
「百年の恋もいっぺんで冷めるひでーツラだよなぁ……。ああ、なんとぶさいくなのでしょう……」
「あー、それ先輩が言っちゃうんすかー? オレ、先輩にだけはそれ絶対に言われたくないんすけどー」
「逆だよ逆、俺だから言えちゃうんだよ。お前その顔なんとかしてから中入れよ? 俺以外の人間が見たらうっかり三メートルくらいドン引きするレベルだぞ」
「愛希ちゃんはこのくらいで俺から逃げたりしませんも~ん♪」
いや、そりゃ奥さんはそうでしょうけども……ああもういいや。最愛の妻にうつつを抜かす男に何言ったところでばじとーふーなことなんて、それこそ俺が一番良く知っている。そんな俺に出来ることはただひとつ。ヤツが、零れさせてしまっている幸せの受けとめ方を覚えるまで、適度に茶々でも入れながら苦笑交じりに見守ってやることだけだ。以前のこいつが俺にそうしてくれたようにさ。
そう結論した俺は、尾野同伴の昼メシに備えてネクタイを緩めながら、何の気なしに問いかける。
「愛希さん、お弁当作ってくれるようになったんだ? 料理苦手とか言ってたのに、きっとがんばったんだろうな――っていうのはなんか上から目線すぎるな、悪い……」
尾野相手ならいくらでも高慢にも高圧的にもなることを辞さない俺ではあるが、その奥様相手にまでそんな態度というのは全力で気が咎めてしまう。
だが尾野はとんでもないというように首と手ををぶんぶん横に振りまくった。
「いやいやいや、今のは素直に褒めてくれただけじゃないっすか! そりゃ、先輩以外が言ったら『こいつオレの愛希ちゃんのこと何偉そうに批評してんのブッ殺すぞ』って思う前に頭掴んで地面に叩き付けてから踏んづけて潰すとこですけど」
「ご、ごごごごごごごごべんなさい!」
「いや、だからやりませんてば……。まー、オレが前の会社クビになった理由知っててそんなふうにおどけられるのが先輩で、愛希ちゃんのことを知っててもそうやって素直に褒めてくれるのが先輩だから、オレもそんな先輩の言葉を素直に受け取れるんす。マジあざっす!」
久方ぶりのイケメンスマイルですっごい爽やかにお礼言われたけど、オレ今おどけるとかじゃなくてわりと本気でガクブルしてたよ? だってこの子一瞬目が完全にカタギの人間のそれじゃなかったもん。でも言わんとこ、俺まだ潰れたトマトになりたくない!
と、気の置けない先輩と後輩による談笑(俺の冷や汗まみれの内心を除けば)に興じていたら。門の方から俺らのと同じタイプの社用車が一台、ベテランを思わせる危なげの無い動きで静かに入場してきた。
それなりの速度は出ているはずなのに、まるで水の上を滑るように淀みなく安定したハンドリング。そんな長年の経験によってしか為し得ない技術で俺等の斜向かいにバックで入れたその人は、フロントガラス越しにこちらへ気楽に手を振ってきた。
それに俺と尾野がぺこりと会釈を返している間に、その人物は「よっこいしょ」と気の抜ける――或いは気合を入れる掛け声と共に車を降りると、そのままこちらへ歩み寄ってきて、また律儀に軽く手を挙げて挨拶してくる。
「どうも、土井村君、尾野君。お疲れ様」
「ども、お疲れ様っす」
「お疲れぇっす!」
尾野っぽいフランクな挨拶を返したのが俺で、いつも以上にフランクな挨拶を返したのが尾野だ。ではそもそもこの都合三度も挨拶をしてくれた御仁は誰なのかというと、俺の同僚でも同年代でもない、上司で年上の――具体的に言うなら階級は部長で来年定年予定の、浜津部長である。
ちなみに下の名前は、確か和気介。一部の女子社員には『わっきーさん』と呼ばれ、男子社員には『ハマさん』と呼ばれている、親しみやすい――ともすれば親しみやすすぎる、極めて穏和な気質の男性だ。
しかし、俺は心の壁を築き上げることにかけて右に出る者はいないと評判の土井村琥太郎。なので俺は口調は他者に倣いつつもあくまで姿勢としては尊敬を示したままで、彼のことをこう呼ぶ。
「浜津さんも今から昼飯ですか?」
「ああいや、私はちょっと忘れた資料取りに戻ってきただけだから。やっぱりこのくらいの年になってくると、物忘れが多くなって駄目だね。ははっ」
陽気に笑って見せてはいるが、照れくさそうに掻いている頭の見事な白髪と、苦笑いを浮かべる口の端の深い皺が、実際の年齢以上に苦労と気苦労を重ねたことを物語っていた。……今のは半分冗談で、半分は本気、といったところだろうか。
それを察してしまった俺と尾野が曖昧な笑みを浮かべていると、浜津さんもまた察せられたことを察してか、「そういえば」と何でもないことのように話題を変えた。
「土井村君。今度時間がある時でいいから、沢不二専務の所に顔出しておいてくれる?」
「え? あ、はい、わかりました。……面談ですか? ボーナスとか昇給査定の」
「いや、そういうのじゃなくて。ほら、例の、ね?」
例の、と濁された言葉の真意をまた察して、俺は「ああ、わかりました」と当意即妙に頷いた。尾野は今度のはわからなかったようで疑問符を浮かべていたが、話に割って入ってくることもなく、愛妻弁当を鞄の上から愛おしげになでりなでりと撫で続けている。ああうん、早くお昼食べたいのね。
尾野の弁当関連の事情なんて知らないはずだけど、浜津さんはベテラン営業戦士の勘で何かを察したらしく、俺と尾野の二の腕をぽん、ぽんと一度ずつ叩いてから足を社屋へと向けた。
「じゃあ、二人共またね。今度よかったらコーヒー奢るよ」
「あ、どもっす。お疲れですー」
「あ、オレ、コーヒーよりワインがいいです! ワインなら先輩もイケるらしいんで!」
尾野の元気良くついでに厚かましいリクエストに、浜津さんは苦笑しながら手を挙げて応え、足早に去っていた。
それを見送ってから、俺は尾野の脇腹に軽く肘鉄を入れてたしなめる。
「やっぱちょっと図々しいだろ今のは……」
「いやいや、ちょっと図々しいくらいが人間関係を円滑にするものなんすよ? まあ相手によりますけど。てか、先輩は普段ちょっと遠慮しすぎだと思うっす。もうちょっとくらい、わがまま言っていいんすよ? オレや、奥さん以外にも」
「………………………………」
最早ぐうの音が1ヘルツたりとも出なかったので、代わりにさっきより強めの打撃音をお見舞いしてやった。