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四月九日(日・了)。いずれ、愛に至りうる好意。

 土井村、琥太郎。


 特筆すべき所の無い、凡庸な男だ。


 高校を卒業後、就職先の都合により地元を離れて単身越境。以降、現在までの約十年間、ひとり暮らしを続けながら公私共にとりたてて問題もなく過ごしている。


 実家の家族との仲は良好。地元の友達も、少ないながらもそこそこ居る。残念ながら恋人はいないが、そのことを本人は残念と思うでもなく、恋も愛も知らないままにのほほんと生きてきた。


 普通。或いは、普通より地味。そんなプロフィールを持つ土井村琥太郎について、ほんの少しだけ特異な点を上げるとすれば、世間一般のそれより少しばかり好待遇の会社に入社できたことだ。


 入社当初は諸事情によりむしろブラックな労働環境だったのが、諸悪の根源であった上司が左遷となり、それと入れ替わりでやってきた新たな上司が、社内の改革に努めた。


 結果。土井村琥太郎は、土日祝日完全休暇と、大卒平均の二倍近い年収を得ることとなる。


 休みは多い。金もある。だが、それらの使い道が無い。


 趣味に費やす? ――いや、特に熱中できるような趣味も無い。多少PCをいじったり、本を読むくらいのものだ。


 彼女と過ごすために使う? ――いや、彼女どころか女友達すらいない。風俗に行くのも何か違う気がするし、そもそもヤーさんと病気が怖いから却下。



 では――友達と、過ごすために使う?



 そう考えた時。その考えを、一切の逡巡も無く切り捨ててしまったことに、気がついた時。土井村琥太郎は、己が今立っている場所を識った。


 友達。喜怒哀楽に満ちた学生時代を共に過ごし、馬鹿なことも色々やった、気の置けない仲間達。


 十年という月日は、単身で越境してのひとり暮らしという状況は、かつての仲間達との間に取り返しようのないほど深い溝を刻んでいた。


 自分の知らない間に、結婚していた悪友。自分ではない友達と、つるむようになった親友。自分ではない誰かと、自分の知らない世界で生きている、自分の知らない顔で笑う仲間達。


 帰省したときには、少しばかり遊んだり、話したりもする。しかし皆一様に、夜には他の友達グループへと合流。自分といる時とは違う、心からはしゃいだ表情で、自分の元から去って行く。


 自分のことなど、振り返りもせず。自分がこれからどうするかなど、一切関心を示さずに。



 友達という概念について、疑念が生まれ始めた頃。土井村琥太郎は、家族のうちの一人に『金を貸してくれ』と頼まれる。


 自分より少し上の兄。自分が、憧れと、嫉妬と、そして親愛を注いでいた家族。


 土井村琥太郎は、何の疑いも無く大金を差し出す。「返すのはいつでもいい」と言い、「絶対すぐに返すから」と言われた言葉を信じて。


 結果から言おう。借金はきちんと返済された。


 代わりに、その兄に嫌われた。


 返済の延滞に次ぐ延滞、「返す」と言った年に返さない、「用意する」と言った年に自己申告より少ない額しか用意していない、返す時には嫌そうな顔で投げつけるように「ほらよ」と剥き出しの金を手渡される。


 そんなことが、一年ごと、帰省の度に繰り返される。しかも兄は、借金を抱えている身でありながら、自分の生活の質を落とそうとはせず、毎年会う度に新たな趣味の品を増やしていた。


 兄は、自分が知らない間に変わってしまっていたのだろうか?


 否。兄は、最初から何も変わってなどいなかった。最初から兄はそういう人であり、そんな兄を慕っていたのは、自分の一方的な都合なのだ。



 そして土井村琥太郎は、その日もまた、屋上へと向かう。


 十年前と比べて、目に見えて環境が改善された職場。十年間の間に、少しずつ磨り減っていき、やがては無くなった、家族や友達との関わりを希求する想い。それらの果てに、健康な身体と空っぽな心を有するようになった土井村琥太郎は、何者にも患わされることのない静寂を、なにものにも関わらなくていいことが約束された空間を求めて、自分が住むアパートの屋上へと踏み入れる。



 彼は、出会う。幸峰詩乃梨という、かけがえのない存在と。



 見返りを求めない思い遣りを与えれば、何の疑問もなく自然に受け取ってくれる少女。


 そうして受け取った思い遣りを、同じく何の見返りも求めず自然に返してくれる少女。


 春も、夏も、秋も、冬も。彼女との、想いのやりとりは、降り積もるように重ねられて。


 二度目の春に、彼、土井村琥太郎は――




 ――俺は。幸峰詩乃梨に、恋をした。

 


◆◇◆◇◆◇◆



 詩乃梨さんと連れ立って、玄関までの短い廊下を歩く。


 彼女の手には、こたつの上に置いてあるものとはまた別のケーキの箱。自分用に回そうと思って取っておいた、安くてお味も値段相応な品だ。詩乃梨さんに差し上げるにはちょっとランクが低い品なので躊躇したが、落ち込んだような空気の詩乃梨さんを少しでも元気づけられればと思って無理矢理押しつけた。


 落ち込んでいる。詩乃梨さんは、なぜか、とても落ち込んでいらっしゃる。なんでだ。破廉恥漢の棲まう魔窟からようやく脱出できるんだぞ、もっと笑顔を見せておくれ。ほぉら、笑って笑って。俺はあなたのかわいい笑顔が、愛しくてたまらない――


 ………。


 愛しいとか、もう、やめとくか。


「詩乃梨さん、忘れ物は無い? あったら俺がこっそりもらっちゃった上でべろべろナメ回して『これが詩乃梨さんのエキスなのねん!』とか一人遊びしちゃうから、ちゃんと確認しなさいね」


「……うん」


 うんて。ツッコミ、ツッコミが足りない。元気も足りない。


 詩乃梨さんはのろのろと自らの靴を履き、立ち上がってドアノブに指先だけをそっと触れた。


「……こたろう、さ」


 こちらに、背中を向けたまま。詩乃梨さんは、俺の名を呼ぶ。


「こたろう、また来週も、屋上……来るよね?」


「当たり前だろ。俺にとってあそこは憩いの場なんだから。来るなと言われても行かざるをえないね! ああでも、来週はちょっと用事あるから、次に詩乃梨さんに会えるのは再来週以降になっちゃうかな」


 行かない。


「そっか。わかった。……こたろう、またね」


「うん。またなー」


 手をひらひらと陽気に振ってみたが、詩乃梨さんは俺の姿を瞳に映すこと無く、扉を開けて、そして消えた。


 訪れる、独りの時間。


 知らず、溜息が漏れた。


「……ばいばい、詩乃梨さん」


 ぐっばい、初恋。ぐっばい、俺が十年間通い詰めた憩いの屋上。ぐっばい、雷龍の乱入にもめげずに十年間続けてきた俺ルール。


 ……あれ、俺なんでこんなに、何もかも終わったような気分でいるんだろう。俺、明確に詩乃梨さんに拒絶とかされてないよな? それがなんで、もう二度と合わない方向で心が固まってるんだろう。


「………」


 玄関の扉を、その向こうへ消えてしまった彼女の姿を幻視しながら、俺は再度溜息をついた。


 気持ちの、勝手な押しつけ。俺が、ずっと、避けてきた、浅ましくて醜い行為。そのどうしようもなく醜悪な物を、よりによって愛する女性に――詩乃梨さんにぶつけてしまった。


 詩乃梨さんは、俺のことを好きだとか嫌いだとか考えていなかったと言った。俺とえっちしたいとか考えたこともないと言った。俺にどうしてもと頼まれればしてもいいとは言ったけど、それは俺が頼み込まないであればしたくないということだ。


 それなのに。俺は、そんな彼女に、何をした。


「……死にてぇ」


 わりと本気で。俺の人生って、今わりと、詩乃梨さん一人の力で支えられてたからさ。


 詩乃梨さんと出会わないままでいれば、きっと俺は、一人で立ち続けることができていた。でも俺は、詩乃梨さんを知って、彼女に支えられる心地よさを知って、彼女を支える心地よさを知って、どうやったら一人で立てるのかなんて、もう二度と思い出すことができない。


 ……いや。俺は、きっとまた、立ち直れるのだろう。


 友達への信頼を失った人生に、俺は適応できた。家族への親愛を失った人生に、俺は適応できた。なら、女性を愛しく思う気持ちを失った人生にも、俺は適応できる。できてしまう。


 人として欠陥品であるがゆえに、俺は、人生を最後まで歩ききることができる。


 たった、一人で。人という字は支え合ってできているのだ、などという理屈の存在しない世界を。


 延々と。ただひたすらに、延々と。


 時空の牢獄の中を、俺は生き長らえて――




 がちゃり。




「こたろう、忘れ物した。弁当箱、弁当箱返して」


「………」


 二度と開くことの無いように固く閉ざされていた扉は、か弱い少女の手によっていとも容易く開けられた。


 彼女の顔に浮かぶのは、頬をほんのりと朱色に染めての、ばつの悪そうな顔。謎の落ち込みは未だ尾を引いているのだろうが、今は『忘れ物はないか』と聞かれたにも関わらず忘れ物をしたことへの羞恥の方が勝っているらしい。


 俺がひたすら無言で見つめていると、詩乃梨さんは少しだけいつもの鋭さが戻ってきた眼で睨んできた。


「こたろう、今、わたしのこと『ばかだなーこいつ』とか思った?」


 完全なる冤罪である。言いがかり甚だしい。


 だが、俺は反論をしなかった。ただ、わけもわからず可笑しくなって、喉の奥でくっくっと笑う。


「こたろう、嗤った。よし、これは殴っていいね」


「ひでぇ理屈だな、おい」


 ツッコミを入れる俺は、その間も小さな笑いが止まらないまま。


 詩乃梨さんは、俺の態度を不審に思ったのか、やや怪訝そうに首を捻りながら上目遣いに覗き込んできた。


「……こたろう、なんか、さっきまでより元気になってる?」


「さっきまでも元気だっただろうよ。軽妙なトークと小粋なジョークが炸裂してたでしょうに」


「え、あれ怖かった」


 ……こわかった。……怖かった? まさか俺、本気で詩乃梨さんの忘れ物をべろべろナメまくるとか思われちゃってた!?


 詩乃梨さんは、俺の不安を払拭するかのように内心を吐露した。


「さっきのこたろう、おかしかったから。……ケーキ、まだ食べかけだったのに、いきなり帰れって言ってくるし。無駄に、明るかったし……。それに……」


 詩乃梨さんは半開きのままだった扉を閉めて、そこに寄りかかった。胸に、俺が先程持たせたケーキの箱を抱き締めて、しょんぼりとした様子で口を開く。


「こたろう、わたしに、もう何も期待してないって眼してた。……あれが、一番、こわかった。……もう、こたろう、屋上来ないかもって、二度と会えないかもって、思った」


 直前にしていた話のせいか、それとも俺の眼がよほど雄弁に物語っていたのか。とにかく、詩乃梨さんは、俺の内心を正確に理解してしまっていたらしい。あの落ち込みようはそれでか。


 ………。


「詩乃梨さん。その考え、当たり」


「………………………………え?」


 詩乃梨さんは、不意を突かれたかのように、ぽかんと口を開けて俺を見上げる。想像はしていても、まさか本当に俺がそんなことを考えていたとは思わなかったのだろう。


「……で、でも、こたろう、わたしに、もっとさわりたいとか、愛してるとか、結婚してくれとか、色々……」


「それ全部、俺が勝手に詩乃梨さんに押しつけたものだって、気付いちゃったからさ。そういう独り相撲って、やっぱり――」


「ばかくさくなんてないよっ!」


 詩乃梨さんが、俺に詰め寄るようにして叫んだ。


 彼女は、腕の中の箱を潰れんばかりにぎゅっと抱き締めて、身体を上下にぴょんぴょん揺らしながら訴える。


「ばかくさく、ないからっ! あ、じゃなくて、えっと、確かにこたろうの言った感じの独り相撲はばかくさいけど、でも、こたろうが信じてる相手が、こたろうのこともちゃんと信じてたら、それは二人での相撲だから、相撲は二人で取る物だから、えっと、あと行者さんも必要だけど、えっと相撲って他に必要な人いたっけ!?」


「観客とか? あとなんだろ、相撲の選手の名前を木の札に墨字で書く職人とか居るのかな。あれ、それは行者やるんだっけ?」


「国技なんだからそれくらいちゃんと知っててよ! こたろう役立たず! ……ってそうじゃないから! 相撲どうでもいいから! とにかくわたしがこたろうのこと、ちゃんと信じて、裏切らなければ、それでこたろうはばかくさくなくなるので、でもこたろうってばかなやつだなーと実はいっつも思ってました!」


「どさくさで俺のことディスらんといて? なんで俺馬鹿なんですのん?」


「だって! こたろうって、やさしいからっ!」


 優しいと馬鹿なのか。それは初めて知ったぞ、新発見。そして俺が優しいやつだという意見も初耳。


 詩乃梨さんは、先程までの勢いが嘘のように、ひゅるひゅると視線と頭を下げていってぽしょぽしょ呟いた。

 

「だって、こたろう……。ほんと、ばかみたいに、やさしいんだもん……。愛とか、えっちとか、よくわかんないけど……。わたしは、こたろうのこと、信じてるし、大好きだよ? だから、こたろうがわたしを信じても、ばかくせぇとか、には、ならないかなー、みたいな? ……ま、まじうけるー?」


 貴女にとってのマジウケるという言葉の使い所の基準って何なんですか!


 というツッコミを入れようと思ったが、おっと、なんか、心がいっぱい胸いっぱい、いっぱいいっぱいすぎて咽から言葉が出て来ない。


 詩乃梨さん、俺のこと大好きなんだってさ。好きとか嫌いとか考えたことないんじゃなかったのかね? 貴女ちゃんとよく考えてから琥太郎のこと大好きって言いましたの? 発言には気を付けてね? 自分が愛している子に「わたしもあなたが大好き!」って宣言されたあとに「やっぱうーそでーす。まぁじうぅけぇるゥー!」なんて言われた日にはちょっと三途の川で水遊びと洒落込みたくなっても不思議じゃないと思うの私。


 だから、どうか、お願いです。


「詩乃梨さん、俺のこと大好きなの?」


 貴女の言葉が嘘ではないのだと、俺に、信じさせてください。


 そんな切なる願いを胸に、やや腰を落として詩乃梨さんと目線を合わせる。


 詩乃梨さんは、勢いよく首を縦にぶんぶんと振り――そして、途中でぴたりと動きを止める。





「あ、う、ご、ごめ、ん、こたろう、やっぱり、ちがう、か、も」





 三途の川って渡し船とかあるんだっけ? 泳ぎ切れるかなぁ、最近運動してなかったけど。


「ち、ちがうって言ったのもちがうからっ!」


 詩乃梨さんの腕の中の箱、あまりにもぎゅっと抱き締められすぎて潰れかけである。しかし詩乃梨さんはそんなことに気付かずただただ俺に必死の熱意をぶつけてくる。


「ちがうの、ちがうの! 好きなのは好きなの、まちがいないの、大好きなのっ! でも、だぶんこれ、こたろうがわたしのこと『大好き』って思ってる気持ちにまで全然届いてないしょぼくれた『大好き』だから、だってこたろうとえっちしたいとか自分からはまだ思えないし結婚してくれとか叫びたくならないし、これは、そう!」


 詩乃梨さんは、己が抱く感情を的確に言い表す言葉を見つけたらしい。輝かんばかりの笑顔で、ぴょこりと小さく跳び跳ねた。


「これはね! 『いつかは愛になりそうな可能性のある好意』なのです!」


 ……いつも一緒に居る相手って、思考まで似るのかしら。似たもの夫婦とか言いますしね。いや夫婦じゃねぇけど。まだ。


 しかも詩乃梨さんのこれは、俺が自分の気持ちを無理矢理誤魔化すためにいっつも脳内で考えてたアレじゃなくて、本当に言葉通りの意味なんだろうなぁ。


「いつか、愛になるかもなんだ?」


「そう! そうなのですよ! ……あ、ご、ごめ、いつかなるかもだから、いつなるのかとかわかんないし、そもそもならないかも――いや、なるよ! わたしこたろうのこと愛するようになるよ! ……た、たぶん、きっと! だから、ね、わたし、こたろうがっ! あぁもおっ!」


 詩乃梨さんは酷使しすぎた言語回路がショートしたようで、「ぬん!」と力を入れて眼力で訴えてくるのみとなった。


 目は口ほどに物を言う。詩乃梨さんの声が聞こえてくる。


「詩乃梨さんは、俺のことが大好き」


「そう! です! よ!」


「俺も詩乃梨さんのこと、大好きだ」


「……………………そ、そですか……。どもです……」


 照れすぎて半笑い浮かべて目線ふらふらさせる詩乃梨さんかわいい。


 かわいい。かわいいだ。あくまでもかわいいで止めておこう。愛おしいとか、抱き締めたいとか、結婚したいとか、そういう気持ちにはちょっとだけ休暇取らせて追い払っとく。


 だってさ。俺は、詩乃梨さんを引きずり回したいんじゃなくて、一緒に歩いていきたいんだよ。隣り合って、一緒の光景を見たいんだ。一緒のものに触れたいんだ。



 それはまるで、いつもの屋上で、いつものコーヒータイムを満喫している時のように。



「ところで詩乃梨さん、そのケーキ、潰れてない?」


「ケーキ? …………………………うえぇっ!?」


 詩乃梨さん、完全に自分が何持ってるか忘れていらっしゃった模様。クリームが漏れ出してきそうなほどに歪んだ箱を見て、ハルマゲドンに直面した卑小なる人類のごとく全身で驚愕と絶望を表した。


「つ、つぶれてる………。…なんということ……。………ケーキ様がご臨終……」


「死んでないよ。プラスチックのカップに入ってるタイプから、たぶん中身は大丈夫だと思う」


「ほんと!? こたろう最高! こたろう大好き!」


 満面の笑みである。あんまりそんな大好きのバーゲンセールしてるとなー、ありがたみがなくなっちゃぞー、でへへ。


 俺は半歩ほど横に身体をずらして、居間の方を手で指し示した。


「とりあえず、確認はしとこうか。てことで、中入って」


「……い、いいの?」


「いいぞー。あ、そういえば食い途中の苺ショートケーキ出しっぱなしだっけか。乾燥してたらやだなー、食べられないくらいになってたらどうしよ――」


「わたしが食べるっ! こたろう邪魔ちょっとそこどいて!」


 神業で瞬時に靴を脱ぎ捨てた詩乃梨さんは、一陣の風と化して居間へと走り去って行った。


 ほんと、おもしれぇ子だな。好きだわ、やっぱ。まぁ、まだ愛じゃねえんだけど。愛さんは休暇を利用してリゾート地で英気を養っているところですので。


「こたろうっ、コーヒーぬるくなってるよこれ!」


「あー、飲みかけのまま放置したからなー。もっかい湯煎する?」


「するっ! …………あ、じゃなくて、わたしがするから。こたろう、たぶんそっちの方が喜びそう――」


「貴女が女神か」


「……め、女神でも何でもいいから、はやくこっちきて、色々やろうよ……」


「はいなー」


 軽く返事を返し、居間への道を歩む。


 居間から、今を、始めよう。


 俺と、彼女の、今を、居間から、始めよう。


 なんちゃって。



 ◆◇◆◇◆



 今ではなく。現在ではなく。過去についての話を、ちょっとだけしよう。


 十年前。


 このアパートの屋上で、ひとつの出会いがあった。


 高卒で社会人となり、この地へとやってきた、ブラック業務に忙殺される日々に死にかけの青年。


 親族内での不和により、この地の知人の元へと預けられた、愛を知らない女の子。


 二人の邂逅は、青年に明日を生きる希望を与え、そして女の子には、甘い思い出と苦い思い出の両方を植え付けるものとなった。


 キーアイテムは、猫と、缶コーヒー。


 女の子のおかげで十年の歳月を生き延びることができた青年が、再び同じ女の子のおかげで未来を渇望する心を抱くようになったり。


 青年のせいでコーヒーを嫌いになった女の子が、十年後、同じ人物の影響によってコーヒーをこよなく愛するようになったりするのだが――



 詳しい話はまた、別の機会にということで。

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