五月三日(水・9)。罰なのか、ご褒美なのか。
俺が、香耶の――千霧家の複雑なご家庭事情について知ったのは、つい昨晩のことだ。
肉食って、野菜食って、てきとーにダベって、お腹も心も満たされて。最後にシメのアイスやコーヒーをちびちびやりながら、またてきとーなおしゃべりのネタをってことで、誰ともなく何とはなしに持ち出してきた。それが、『友達』や『家族』といった、各々の人間関係についての――その『裏側』についての話だった。
人は誰しも、大小や多寡はともかくとして、人間関係というものに何かしらの負の想いを抱えているものだろう。とりわけここに集った面々はその傾向が強く、詩乃梨さんは元より、俺も、そして香耶も、ついでに佐久夜までもが、およそ余人に語って聞かせることが憚られるような暗くて重い一面を抱え込んでいた。綾音さんは残念ながら昨日はいなかったけれど、普段のほほん笑顔な綾音さんにも、やはりその笑みの裏に押し込められた重き想いがあることを俺は知っている。
ただ、幸いなことに――或いは救いようのないことにかも知れないが――、俺達はほぼ全員が、父も母も健在で兄弟姉妹もいたりするという、いわゆる『普通の家庭』と呼べる環境に一応恵まれてはいる。……産まれてこれまでずっと『片親』という特殊な環境で過ごしてきたというのは、この場では香耶だけだった。
「…………………………」
母子家庭とか。片親とか。普通の家庭とか、特殊な環境とか。俺からすると、それらはどこか差別的というか失礼な気がして、口にするのが憚られるような言葉に思える。けれど、自らの家庭環境を語る香耶の口からは、驚くほど自然にそういう単語が出て来ていた。
それは、あの場のゆるくてまったりとした空気がそうさせたからなのか。
それとも、香耶自身が、それらの単語を――それ以上に差別的な言葉を、周囲から聞かされ続けてきたからなのか。
「…………………ふむ」
まあ、あまり重く考える必要はあるまい。過去がどうあれ、香耶は今こうしてみんなと一緒に楽しく過ごせている。詩乃梨さんや佐久夜という友達がいて、俺という兄(仮)もいて、綾音さんという姉(と思っているかはわからないけど)もいる。それに、母子家庭だからこそなのか、お母さんとはそれなりって以上に仲が良いらしいし。
だから、香耶は大丈夫。……でも、ちょっとだけ頭撫でてあげとこう。
「よし、よし」
「……………………なんでいきなりまた人の頭撫でてるんですかこの男……。なんですかそのいけ好かない微笑み。本気でぶっとばしますよ?」
しのりんの口癖と雷龍の瞳が伝染しとるがな。でも香耶のラーニング能力は中途半端な代物のようで、俺を睨め上げる眼にも見せつけてくる拳にもまったく脅威を感じない。つか、真っ赤なほっぺと泳ぎがちな目線のせいで『こいつ照れてるだけじゃね?』としか思えない。撫でられるの嫌ならそのご自慢の拳で俺の手打ち落とせよ。なんで唯々諾々と撫でられ続けてるの? お前俺のこと好きなの――っと、そんなアホなこと考えてる場合じゃなさそうだ。なぜなら、
「………………むー」
なんて不満げながらも可愛さ満載の唸り声を上げる詩乃梨さんが、香耶の照れ顔の横からものっそい睨み付けてきてるから。これぞ元祖雷龍の瞳! でもやっぱりあんま怖くねぇな、なんでだろ?
「しのりんどしたね、そんな顔して」
「………………………………こたろー、今、かやのこと考えてた。……『ふむ』とか言ってた。…………頭も撫でてた。………………すごく優しい顔、してた……。……………………わたしのこと、一瞬でも、ほったらかし、で……。………………かや、だけ…………」
最初は威嚇めいた響きを伴っていたというのに、言葉を続けるにつれて徐々に悲しみが混じり始めた、愛しいあの子の涙声――涙声っ!!!???
「お、おおお、おうおう、おうおうおうおうおう……!」
思わずおうおう言いながらしのりんの頭と髪の毛を全力でわしゃわしゃわしゃわしゃ掻き混ぜまくる俺。泣かないで、泣かないで詩乃梨さん、違うの、俺が欲しい嫉妬はそういう本気のアレじゃなくてもっとスパイス程度のやつなのイタズラ程度のやつなのそんな本気っぽいのはヤなのダメなの違うの待って!
「おうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうおうお―うおっ!?」
「こたろー、おうおうるさい!」
撫でてた両手が雷龍の爪によってぱしりと叩き落とされてしまった。『むっすー!』と擬音が聞こえてきそうなくらい盛大にブンむくれてそっぽ向いてしまった詩乃梨さんに、けれど俺は尚も追いすがるべく両腕を広げて襲いかか――れない!? なんだ、俺と詩乃梨さんの間に見えない壁が有るかのように胸がぐいぐい押し返される!
「琥太郎さん、重い、重いです、私まだここにいますから!? 詩乃梨ちゃんに夢中になるとほんっと周り見えなくなりますね、貴方!?」
「……え、あ、ごめん……」
詩乃梨さんに襲いかかろうとしていたはずが、いつの間にか香耶に襲いかかっとった。持ち前の身体の小ささと非力さで存在感を消すとか、さては貴様ミスディレクション使いだな? はいごめんなさい、今すぐ退きます……。
肩を落として粛々と引き下がった俺に、香耶は「まったく……」と心底呆れたように軽蔑の溜め息を吐きつけると、くるりと表情も身体も翻して詩乃梨さんへ抱き付いた。お前何しれっと抜け駆けしてんだコラ。
「詩乃梨ちゃん、大丈夫ですよー。琥太郎さんは、いつでも詩乃梨ちゃんのことで頭がい~っぱいですから」
「…………それ、この前、あやねも言ってた……」
「そうですねぇ。きっと琥太郎さん本人もそう言うでしょうから、これで説得力は三倍ですね。じゃあ、詩乃梨ちゃんは、どう思います? 琥太郎さんが、詩乃梨ちゃんのことを一瞬でも忘れることがあるなんて、そんな馬鹿げた話が本当にあると思いますか?」
「……………………………お、おっ、お、思わなく、なく、なくなく、なくなくなくなく――」
「はいはい、ばかっぷるばかっぷるー」
こいついきなり投げ槍になりやがった!? 超優し~く詩乃梨さんを慰めてたと思ったら、いきなりゲロ吐きそうな顔で虚空見上げて脱力! やるなら最後まで責任持って慰めてくれよ、でもそれ言うならしのりん泣かせた最大にして唯一の責任は俺にあるよねマジごめん! あと想い人と恋敵の橋渡しさせたみたいになって十重二十重にマジ陳謝ッ!!
仰向けに倒れかかった燃えカス香耶ちゃんを優しく抱き留めながら、俺は詩乃梨さんにキリッとした凛々しい顔を向けた。
「そうだぜ、詩乃梨! 俺が一瞬でも詩乃梨さんのことを忘れて香耶にうつつをぬかすなんてこと、あるわけないじゃないかゲボゥ!?」
ビンタされた! 香耶と詩乃梨さんに顔面挟む感じでビンタ食らった! しかもそのまま圧かけられ続けてる、潰れる、潰れて俺の凛々しい唇がタラコ唇になっちゃう!?
「腕の中に私抱いたままでイイ顔して何言ってるんですかこの人、馬鹿ですか馬鹿ですね馬鹿なんですね? 私の血反吐吐くような努力による説得を何だと思ってるんですか?」
「かや、こたろーのこれは『つっこみ待ち』ってやつなんだよ。わざとばかなことやって、こっちの攻撃を誘ってから、カウンター入れてくる気なんだよ。わたし、知ってます! もう騙されない!」
「ああ、確かに琥太郎さんってそういうとこありますよね……。狙ってやってたんですか。詩乃梨ちゃんみたいな純真無垢な女の子に、なんって卑劣な手を……!」
「い、いだい、いだいでぶぅ」
くそっ、あまりに図星突かれすぎてて反撃も反論もできないよ……。いや、カウンター狙いは決して狙ってやってるわけじゃないんだよ? でも詩乃梨さんとのあれこれを振り返ると、わりと『雨降らせて地固める』みたいな感じになってること多いから、結果だけ見ると全くの濡れ衣とは言えないんだよなぁ……。じゃあこのままノーガードでタラコになってるしかないのかなぁ……これ結構本気で痛いんだけど……まあ仕方ないよな……。
とうとう観念し、ぐりぐりと押しつけられてくる二つの手の平を粛々と受け容れるべく、そっと瞳を閉じようとした俺。だがしかぁし! なんとそこに、救いの女神がほかほかのたこ焼き片手に舞い降りた!
「はい、あーん♪」
………………………………綾音さんが、爪楊枝に刺したほかほかのたこ焼きを俺に向かって差し出しながら、実にイイ笑顔で『はいあーん』してるんだけど、貴女一体何やってんの?
一口ドーナツのように綺麗にまん丸に焼けたたこ焼き。そこにふんだんに絡められた瑞々しい光沢を放つ濃口ソースと、その上で蠱惑的に踊る鰹節、そして花吹雪のように彩りを添える青のり。刺された楊枝から今にも蕩け落ちてしまいそうなその焼き加減は、それを食べた物のほっぺたまで落ちてしまうのではないかと思わせるほどにとろっとろのふわっふわ。
それを差し出す綾音さんのお顔まで、とろっとろのふわっふわのどやっどやの『ドヤァァァァァァァ!』顔であった。田名部綾音、会心の一作! 一方その陰では、焦げっ焦げのぼろっぼろになったチョコドーナツみたいな塊を泣きながら食ってる佐久夜がいた。
見事に明暗分かれたなぁー……。焼き方は別に二人共問題無かったと思うけど、一体何が原因でこんなことに……?
「ほらほら、あーん♪ 琥太郎くん、あーんっ♪」
「あんひゃほれのひょうはいふぁみえないんぶばびょっぼ(あんた俺の状態が見えないんすかちょっと)?」
「見えてるよー? だから私も参戦するのー♪ は~い、あ~んっ♡」
ハートマーク付きだと……!? 貴女今どんだけテンション高ぇんだよつーか貴女本気で何言ってんの!? 空気読んでよ、俺今不貞疑惑からのお仕置き折檻受けてる真っ最中なんだよ余計な火種ブチ込まないでよほっぺた痛い痛い痛いいだいだだだだだだだだだだだ!
「あやねー、わたしにもちょーだい。いー匂いするー」
「私も、おひとついただいていいですか?」
「いいよいいよー、どんどん食べちゃってー! はぁーい、あーんっ♪」
綾音さんは益々ごきげんさんになりながら、俺に差し出していたやつをそのまま詩乃梨さんの口の中へと持っていくと、詩乃梨さんにまでごきげんさんのふわっふわのとろっとろのキラッキラな笑顔を伝染させた。おぉ、しのりんが超眩しい……! でも俺のほっぺたを嬲る強さが一向に弱まらない……。
香耶は香耶で、しれっと俺の腕を背もたれ代わりに寛いだまんまで、綾音さん謹製の極上たこ焼きを爪楊枝でぷすり、ぱくり。もぐもぐ咀嚼しながら「んむぅー!」なんて目を見開いてキラキラキラキラキラ盛大に輝きだした。香耶のこんな弾けるような笑顔ってレアだな。そんなレアな笑顔のまま俺のほっぺぐりぐりし続けるのやめてほしいです、嫌な方向にレアな状況が醸成されちゃってんじゃん……俺今これどんな状況なの……。俺もたこ焼き食べたい……ソースのイイにほひする……。
詩乃梨さんと香耶が綾音さんと一緒にたこ焼き談義に花を咲かせ始め、俺のたらこ唇からヨダレがたれ始め、めっちゃ美味そうな極上たこ焼きが次々と女の子達の唇の間へ消えていき、俺の口と腹から「ぐぅぅぅぅぅぅ…………」と悲痛な呻きが上がる。
目と鼻の先で繰り広げられる華々しい宴を、遠巻きに女々しく見つめ続ける俺の肩に――ぽん、と優しく置かれる手があった。
自由な眼だけでそちらを振り向いてみれば、そこには綾音さん並みに超絶イイ笑顔を携えた佐久夜と、差し出された山盛りチョコドーナツ(仮)。
「はぁい、あぁ~んっ♡」
「………………………………………」
何事も無かったフリをして目線を戻そうとしたけれど、不意に詩乃梨さんと香耶のビンタが弱まり、咀嚼可能なだけの余裕が生まれてしまった。
どころか。二人の手は、確かな意思と意図を持って、俺の唇を上下へと割り開いた。
「…………………………………………………」
食えと仰るか。このチョコドーナツ(仮)を。発がん性物質煮詰めて錬成されてそうなこの暗黒物質を。
「………………………………………………………………フッ」
是非も無し。それが貴女達の望みだというのなら、俺にはそれを裏切ることなどできはしない。ていうか食べ物粗末にするのもなんだし。それに女の子のあーんを断ることもできな――いや、こいつ爪楊枝じゃなくて皿ごと突き出して来てんだけど、これって『はい、あーん』なの? なんか何かが絶望的に違くない?
まあいいや。そろそろ本気で腹減った。一応ソースの香りはするから、多少苦くてもきっと食えるよな。ソースの力は絶大也。でも青のりや鰹節はおろか肝心のソース様すらかかってるようには見えないんだけど、どこなのソース様。
「……んじゃ、まあ。………………いただきます」
ひとまず食べる決意を固めた俺は、山の頂上から球体をひとつ歯で挟み、それを舌と重力を使って口内へと運んだ。
ぎゃりっ。