五月三日(水・8)。一家、だんらん。
濃密なカオスに覆われてしまったこの暗黒の大地にあって、一番早く正気を取り戻したのは、聖光属性と同時に悪魔属性をも併せ持つ異端の銀龍・詩乃梨さんであった。ちなみに彼女は性交属性と小悪魔属性も持っているのだゼってやかましいわ!
「あ、あっ、あやね、だいじょうぶ!? どうしたの!? 病気? 心臓? おなか!? 産まれるの? 産まれるのっ!?」
詩乃梨さんは香耶を放置し佐久夜を押し退け俺を飛び越え、綾音さんの元へと文字通りすっ飛んでいった。そのまま、胸元を押さえて蹲る綾音さんにすぐさま手を伸ばしかけるが、『病気だったら動かすとまずいかも!?』なんて感じであわあわおろおろと両手をばたつかせながら、超涙目で俺へとSOS。
とりあえず絶対出産ではないだろうし、さっき微笑みながら挨拶(アイコンタクトのみだけど)してくれたことから考えても、命に別状はなさそうとは思う。でも普通に急病の可能性も無いでは無いし、それに詩乃梨さんを早く安心させてあげたいし、あと挨拶フリーク綾音さん的にはきちんと挨拶し直したいだろうし、俺もひとまず現場へ急行した。
ちょっぴりマジ泣きし始めた詩乃梨さんに軽く『大丈夫だから、下がってて』とジェスチャーし、素直に従ってくれた彼女と入れ替わりで綾音さんの傍らへしゃがみ込む。薄手のカーディガンに包まれた背を優しく撫でてあげながら、荒い息と困惑の瞳と遠慮の雰囲気を向けてくる綾音さんに優しく囁いた。
「緊急じゃないなら、喋らなくていいから、まず息整えて。はい、すー…………、はー…………、すー…………、はー…………」
「…………っ、す、は、……、すー、はー、すー、……はー、…………すぅ~…………、はぁ~……………………」
そんな風に二人ですーはーしてるうちに、いつしか詩乃梨さんも一緒にすーはーしてて、数分後には佐久夜と香耶が互いを小突き合いながらとことこ歩いてきてすーはーし始めて、みんな仲良くすーはー、すーはー。
そのうちすーはーがゲシュタルト崩壊し始めた頃、ようやく呼吸が整ってきた綾音さんがラーニングスキル『もう大丈夫だから』のジェスチャーを発動。でも俺は所により一時KYと評判のエセ紳士であるため、俺を遠ざけようとする彼女の細やかな手をそっと握り、ついでにくびれた腰に手を添えてあげながらゆっくりと立ち上がらせる。
一瞬びくりと身体を離しかけた綾音さんだったが、ちろりと上目遣いに俺の表情を窺い見ると、そっと目を伏せながら躊躇いがちに体重を預けてきてくれた。……ここは普通だったら、介抱に見せかけたセクハラをはたらく最低愚劣のゲス野郎に侮蔑の眼差しを送ってくるところだろうに、この娘ほんと空気読める子だよね、
このエアリーディング能力を、そこの黒猫や犬娘にわけてあげてくれませんかねー……。こいつら、なんつーひっどい眼で俺のこと見てやがる……。いや違うんだって、これほんとにただの介助なんだって、ほんとなんだって、お願い信じて。
「ほらほら、茶化すな、お前らはベッドと水分の用意でもしといてくれ。しのりんは綾音さんの靴脱がせてあげてくれる?」
「「はーい」」
わざとぞんざいな風を装って指示を下す俺に、白々しい響きの返事を返して来た二人。……あれ、二人だけ? カギ括弧一人分足りなくない? 詩乃梨さんどこいった?
香耶と佐久夜の背中を見送りながら、周囲を見回――すまでもなく、すぐ足元に人の気配。
「あやね、足上げて。こたろーも、こっちに足ちょうだい」
言うが早いか、詩乃梨さんは綾音さんのブーツを魔法のようにすっぽすっぽ脱がせ、裸足で靴脱ぐとこに降りてしまった俺の足を塗れタオルでせっせと拭ってくれた。まるで、長旅に疲れた客人に足湯とマッサージを勧める仲居さんの如き甲斐甲斐しさである。俺の不貞なんぞ微塵も疑ってないご様子で、むしろねぎらいいたわる気持ちが大いに溢れ出てる所作であった。
んー……。疑われてないのは、良いっちゃ良いんだけど……。……ぬぅ~ん…………。
「……っと、ありがとな、しのりん。……綾音さん、動ける?」
「あ、うん。もう、だいぶ平気、かな?」
未だ完全には復調していないのか、途切れがちに返事を寄越してくる綾音さん。そこに妙なぎこちなさを感した気がして『ん?』と首を捻った俺は、綾音さんが紅潮した頬にびみょーな微笑みを貼り付けながらこちらちろりと見上げてきた瞬間、己が裡の醜悪な心がサトリさんに暴かれてしまったことを知った。
それが俺の単なる思い過ごしでないことを証明するかのように、綾音さんはわざと俺にぐっと密着してきながら――フォーマル風味なブラウスに包まれたお胸のやわらかさや、ぱりっとしたロングスカートに覆われた滑らかなふとももの弾力を存分に押しつけてきながら――足元の詩乃梨さんの反応をじーっと観察し始めた。
これはまさか、人を観察する猫の目? さっき俺の『大丈夫だから』ジェスチャーを何気にラーニングしていたことといい、どうやら綾音さんのサトリ能力は俺と同等以上の精度で他者のスキルを読み盗ることができるらしい。最終的には俺と綾音さんによるラーニング能力対決が始まりそういや始まらねぇよ。
ていうか、現在進行形でなぜか綾音さんと詩乃梨さんの観察対決が勃発していた。俺におっぱいおしつけたままの綾音さんと、しゃがんで俺の足を拭き拭きしてるポーズのままの詩乃梨さんが、微動だにしないまま互いを猫の目でじーっと見つめてる。
『……………………………………』
…………………………え、えぇと……。あ、綾音さん、もう完全に呼吸整ってるね、それ以外で体調悪そうな気配も無いよね、じゃあこれもう俺が支えてる必要無いよね、じゃあもう身体離してもいいよね……? いやでも、綾音さんこれ、詩乃梨さんの嫉妬心を煽るためにわざとくっついてきてくれてるんだろうから、俺から離すわけにも――あ、今詩乃梨さんの眉がちょっぴり不機嫌そうにぴくって動いた。なんだか猫のおひげみたい、かわいい♡
「ん。よし!」
そんなどっかの白猫さんみたいな短い台詞と共に、綾音さんは満足そうな笑顔を花咲かせながら俺の身体を解放した。何もわかってない俺と詩乃梨さんのダブル間抜け顔を放置して、スキップするように部屋の奥へと去ってゆく。
「ごめんねー、佐久夜ちゃん、香耶ちゃん。電車遅れてたから、とりあえず向こうからがんばって走って来たんだけど、結構待たせちゃったよね?」
「待ったよ待ったちょー待ったー! んもー、お腹空きすぎてうちのおへそと背中がべったりくっついて離れなくなっちゃったぜよ――え、やだ、うちの身体ってば細すぎ……?」
「それ、細いじゃなくて薄いって言うんですよ。……いえ、薄くもないですし、普通にお肉ついてますよね、これ。いえ、これ、まさか……普通に留まらないほどに……太っ……! なんて極太っ……!?」
「うちで極太なら、かやちーなんて土管じゃん」
「………………………………………………。え、今素で言いませんでしたか……? えっ、私って……そんな、に……?」
姦しい雰囲気から一転して戦慄に震え上がる香耶。だったが、それに対して佐久夜が「てへっ☆」と思いっきりとぼけた変顔を見せると、からかわれたと気付いて一瞬で沸騰して声にならない罵声と共に佐久夜へと掴みかかる。
そのままどったんばったんのキャットファイトへ発展しかけた所で、綾音さんがいつもののほほん笑顔で「まーまー」なんて仲裁に入り始めた。
ふぎゃふぎゃもぎゃもぎゃ喚く香耶(うるちゃい)、欠伸かましながら耳くそほじってる佐久夜(きちゃない)、まーまーまーまーと『まーまー』のゲシュタルト崩壊へ果敢に挑む綾音さん(まーまー)。
そんな一部始終をなんとなく眺めてた俺と詩乃梨さんは、これもなんとなく、お互いの顔を見合わせると――。
「ぷいっ」
詩乃梨さんに顔背けられた!? なぜに!? ていうか今の超かわいい擬音何!? ちょっとひとっ走りしてICレコーダー買ってくるから後でもう一回言ってくれない!?
「し、詩乃梨さん? 後で今のもう一回言って――じゃなくって、えっ、と、なんで貴女の愛らしいお顔を見せてくれないのでしょうか……? ほらほら、姫様のご尊顔を一目見ようと、下々の者共(←全員俺)が大勢押しかけているのですよ? ここはちらっとでも顔を見せて――」
「ぶハっ!?」
お、今度はさっきみたいなあざとかわいいリアクションじゃなくて、結構豪快に吹き出しおった。なんか知らんけど、小声で囁いた(全員俺)の部分が大ウケしたらしい。しのりんは想像力がとっても豊かな女の子なんだね、またひとつ詩乃梨さんについて知っちゃった♪
ところで、この子腹抱えてうずくまったたまま声も無く痙攣しとるけど、これ今度はしのりんの介抱をみっちりねっちょりしていい感じ? いいよね? いいよね! いいよOK!
と無事にゴーサインが出たので、嬉々として詩乃梨さんの背中をさすり、頭をわしゃわしゃ撫でさすり、ついでにむぎゅ~っと抱き締めて、抱き締めながらわしゃわしゃしてあげた。子猫を撫でる感じじゃなくて、詩乃梨さんがやってくれたみたいな、大型犬をめいっぱいおーよしよしってやる感じ。撫でる度に楽しそうに笑い声を漏らしてくれる詩乃梨さんがおもしろくて、ついつい興が乗り過ぎちゃったぜよ。あ、この笑いってさっきの(全員俺)が尾を引いてるだけだったりする? どっちにしろ、このまま撫でてると詩乃梨さんが笑いすぎの過呼吸でぶっ倒れてしまうかもしれない。
ひとまず、しのりんの痙攣が治まるまでずっと抱き締めとこう。そう決めて詩乃梨さんを両手両脚でがっちり抱き締めた俺は、いつの間にやらこちらに戻って来ていた綾音さんが無邪気ににっこにっこ笑いながらこちらを見つめていることに気付く。香耶と佐久夜の方は一段落したんだろうか?
「ね、ね、琥太郎くん、詩乃梨ちゃん」
「え? あ、はい、なんですか?」
ごきげんで名を呼んでくる綾音さん。俺は反射的に返事をし、俺の腕の中の詩乃梨さんも、未だ絶頂中のナカのようにびくっびくっと震えながら「んぅ、っ?」と返事らしき喘ぎ声と共に綾音さんを見上げる。あれ、しのりん今発情してる? んなわけないかー。ちなみに俺は既にいつでも発射OK状態にまで昂ぶってます、男なんて好きな子抱き締めたらムード無視してこうなるもんなんだよ俺は悪くない!
でも罪悪感でついついついっと目を逸らしちゃう俺でした。詩乃梨さんは元より、綾音さんの顔もまともに見れない。でも遠間からこっちを見て無駄にオーバーリアクションしてる佐久夜と香耶には真っ向からガン飛ばしてやった。どこの家政婦だお前ら、こっち見んな。
「ね。ね。ねえってば」
おっと、綾音さんを放置してしまった。再度呼びかけられ、詩乃梨さんの瞳にも急かされて、改めて綾音さんを見つめる。
綾音さんは俺と詩乃梨さんの顔を見比べると、より一層頬を緩めながら恥ずかしそうに囁いた。
「あの、さ。さっき、助けてくれて、ありがとうね。あと、おはよー」
どうやら、挨拶フリーク綾音さんであっても、完全にタイミングを見失った後に改めて感謝とおはようを口にするのは気後れするもののようだ。……或いは、詩乃梨さんの恋人(予定)であるところの俺にわざと密着してきた件について、謝罪を『敢えて』口にしないことにばつの悪さを感じてしまっているのかもしれない。
なんて、相変わらず読めもしないひとの心を読もうとしてる俺とは対照的に、詩乃梨さんはただただ思いのままに微笑みながらひとつ頷くと、
「ん。おはよ」
と、彼女らしい端的ながらも心に響く素直な挨拶を返したのだった。
◆◇◆◇◆
「さって! じゃー、いっちょ!! タコさん!!! たくさん!!!! 焼いちゃいましょーやぁー!!!!! うぇっへへぇ~イ――」
「うるさい」
「……………………………………あ、ごめんさぁーい……」
借り物のパーカーの袖を乱暴にまくり上げ、丈の短いスカートを盛大に翻しながら他人の家のこたつに片足を乗っけて、近所迷惑を考えずに高らかに叫び声を上げかけ、詩乃梨さんにぴしゃりと怒られてすっかりしょぼーんしながらこたつに潜り直した彼女は誰か? そう、真鶴佐久夜である。
佐久夜、ほんと学ばないなぁー……。ここまでくるとむしろ、『相手に構ってもらえる方法』を学んだからこそ、今の彼女があるんじゃなかろうか。ほら、小さな男の子が、好きな子にイジワルするのと似たような感じでさ。こいつ、なんだかやんちゃなガキみたいなとこある――ってより見た目と性別以外は思いっきりそのまんまだから、有り得るなこれ。
もしかしたら、しょぼーんしてる佐久夜に「しかもこの生地、タコ入ってないですけどね。昨日の余りの肉と野菜入れただけですから」なんて小馬鹿にするようにつっかかっていってる香耶も、実は好きな子にいじわるしてるようなノリなのかも……? こいつ、ガチ百合になるのは詩乃梨さん相手だけとか言っておきながら、実は佐久夜に対して熱烈な慕情を……、…………慕情、を………………。
「いや、無いわー」
「あ、タコ欲しいなら私買ってくるよ? 私のせいで朝食がほとんどお昼ご飯状態になっちゃったし、それくらいはしないと――」
言いながら既に腰を浮かせかけていた綾音さんを、俺は慌てて押しとどめた。いかにサトリさんと言えども、脈絡無く呟かれたセルフツッコミの真意までは見通せないらしい。いやそれ当たり前やんけ。
でも、俺が佐久夜と香耶について何か考えてるってことくらいは見通したようだ。生地入りのボウルを取り合い始めた犬娘と黒猫を見ながら、ついでに俺のこともちろりと見ながら、綾音さんは詩乃梨さんへひそひそと耳打ちする。
「二人共、完全にこの部屋に馴染んでるよねー。前はまだ、『ちょっと固さ残ってるかな?』って感じだったけど、今はなんかもうほんと、心から『りらっくすぅ~』って感じ」
りらっくすぅ~って。顔までほにゃりと蕩けさせて見せながらそんなこと言ってる貴女も、相当な馴染みっぷりだと思いますよ。……いや、俺に蕩け顔を凝視されたせいで今度は必死に真面目な表情繕おうとしてるあたり、まだ『ちょっと固さが残ってる』のかな?
詩乃梨さんは、たこ焼き器に引いた油の温まり具合を手の平翳して測りながら、綾音さんの問いにピンと来ていない様子で小首を傾げる。
「固さ、残ってた? 前もけっこう馴染んでたと思う」
「えぇ~? 残ってたよー、絶対。……まー、半熟の目玉焼きの、もう潰れかけーくらいの固さではあるけどさー。それでもこう、ふとした拍子に琥太郎くんのこと警戒してたよ?」
…………………………………………………。え、マジで? なにそれショック。
一瞬で真っ白になってしまった俺の脳裏に、嫌な可能性が浮かび上がる。俺の目には既にリラックスしているように見えた佐久夜と香耶が、実はその裏では『そう見えるように無理をしていた』という可能性。単に仲良くなるために無理をしてくれたというならまだしも、そう見えるポーズを取り繕っていたというだけであった場合、なんかもうそれ無理マヂでむりぃ。
……………………でっ、で、でも、綾音さんの見立てによると、今は本心からリラックスしてくれてるらしいし。じゃあ結果オーライだな、過去にこだわるのはやめよう、うん。そもそも、たとえポーズを取り繕うためであっても、生娘が全裸晒して疑似的な性行為してくれるなんてのは絶対ムリ有るだろ。じゃあ俺はある程度以上に二人に好かれていると思っていいのではないだろうか? いいのかな?
……………………………………いい、よ、ね?
「――――――――――――こたろー、聞いてる?」
「ちょっと、琥太郎くん? 琥太郎くんっ?」
「え? あ、聞いてます聞いてます。俺ラノベ主人公じゃないんで、難聴じゃないんで」
肩を優しく揺すられ脇腹を軽く突っつかれ、俺の意識が現世へ無事に舞い戻る。俺の瞳に映るのは、ほっとした様子で微笑んでる綾音さんと、さっきとは逆方向に首傾げながら「らのべ……?」とか呟いてる詩乃梨さん。ああ、この二人のこれは素の表情見せてくれてるな。それに、相変わらずボウルの取り合いしてる佐久夜と香耶にしても、あの生き生きしてる顔が演技だなんて思えない。
……まあ、詩乃梨さんは別として、他の娘達は俺と二人きりにされてしまったらどんな表情見せてくれるかってのは、わかんないけど。……ああいや、それぞれと一対一で話したことって一応あるんだな、意外なことに。でもそれは毎回、会話の主題――というか議題となるものが有った状態だから、詩乃梨さんみたいに『何の理由も目的もなく二人きり』なんて状態になったことは流石にない。
そういう機会が有ったら、その時にこそ『本当の距離』が見えてくるんだろう。今は、まあ、みんなでいる時に肩肘張らずにいてもらえたら、それでいいや。
「――はい、うちの勝ち-! かやちーは焼くの最後ねー! ま、そこまで生地残ってないだろーけどねー! しのちーには、うちが一番に焼いた一番イイトコを一番最初に食べさせてあげるねっ♪」
「ちょっと待ってくださいふざけないでください今の絶対卑怯です私が中身零さないようにしてるのに佐久夜ちゃんだけ全力で奪いに来るのずるいじゃないですかずるいずるいやだやだ私が詩乃梨ちゃんの初めてを奪うんです強奪です略奪です略奪愛です!」
「……どっちでもいいから、早く焼いて。油、ちょっと煙出て来ちゃってる……。もうわたしが焼くから、それよこして――」
『よこしません!』
思いの外力強い二人の抵抗に、詩乃梨さんは「う、う、う、うん」と思わず頷きながら引き下がってしまった。香耶的には詩乃梨さんの初めてを奪うという行為に並々ならぬ思い入れが有って、その想いの強さが佐久夜のイタズラ心を助長して、その障害が香耶の愛に油を注いで、エンドレス。いいから早よ焼け。あと詩乃梨さんは俺のだ。
そして、栄えある本日のたこ焼きトップバッターの座は、綾音さんのものだ。なぜなら、プレートから結構な煙を出し始めた油を見た喫茶店の娘が、そっとボウルMk-Ⅱとお玉を両手に持ちながら『ごめん、これ以上熱すると流石にまずいから、ひとまず私いっていい?』と心底申し訳なさそうにアイコンタクト送って来て、それに俺が『OK。GO!』と握り拳を突き出して見せたから。
俺の後押しを受けた綾音さんは、一瞬ほっとした様子を見せたものの、また心苦しそうな表情に逆戻りしながら――意を決してたこ焼きプレートへ生地をじゅわぁっと流し込んだ。
生地の焼ける音が、乳繰り合っていた犬娘と黒猫から、言葉も、呼吸も、色も奪い去る。佐久夜はともかく、香耶がやばかった。元々病弱っぽい白さのある顔を更に白くしながら「ひょー」なんて掠れた奇声を上げている。
その様があまりに哀れ過ぎたのか、俺の隣からぞもぞと這い出した詩乃梨さんが、香耶の隣へと座り直して「よしよし」と慰めてあげた。詩乃梨さんの声も仕草もわりとぞんざいであったが、撫でられた香耶ちゃんは、すぐさま顔色が良くなってきて、朱色を通り越して、紅に染まり、真っ赤っかに茹で上がってしまった。へェい、茹でダコ一丁上がりィ!
ちなみに佐久夜はというと、香耶に聞こえるか聞こえるか聞こえないくらいの声量で「ごめんね、かやちー……」と謝ると、不思議そうな顔をする詩乃梨さんに音源を特定される前に素早く卓上へ身を乗り出して来た。
「へー、あやちー結構豪快に注ぐねー! ま、うちほどじゃないけどさ!」
全力で話題を逸らしにかかってる佐久夜の必死な姿に、綾音さんはくすりと笑いかけながら、生地を追加しつつ答える。
「これくらいで限界、かな? 本当はもうちょっと入れた方が綺麗に丸く出来るけど、これ結構縁が浅めだから、こぼれちゃうと困るし……。私の家のとかだったら、お父さんが勝手に無駄遣――じゃなくて、見栄張――でもなくて、ええと、『奮発』したやつだから、もうちょっと盛れるんだけど……」
「あー、フチかぁー……、やっべー、うちそこまで考えてなかった……。一番にやらなくて助かったわぁ。ウチのもお高いやつなんかなぁ? おとんが調子こいて『どばぁー』っていっちゃっても超余裕だし。『てか、これもうたこ焼きじゃなくてお好み焼きになっとるやん、このおばか!』みたいなねー」
快活な佐久夜にしては珍しく、結構本気の苦笑いであった。綾音さんも『あー、あるある』みたいに脱力した苦笑を返し、ついでに俺もひっそりと苦笑に便乗しておく。クックック、こんな顔をしている俺も実はボウルから直で豪快に注いでみせて『ワイルドなこたろーもかっこいい!』と思われようとしてたなんて誰も思うまい、あっぶねー……。
まあまあ、いいじゃないか、とりあえず綾音さんのおかげで事故は未然に防がれた、それだけが事実なのさ……。でもいつか詩乃梨さんにワイルドな俺を褒めてもらうために、マスターが買ったってやつ今度見せてもらおう、あわよくば強奪しよう。え、なぜ自分で買わないかって? だって詩乃梨さんに無駄遣いとか見栄っ張りとか言われたくないし!
「…………ん?」
ふと。慰めたり慰められたりしてたはずの香耶と詩乃梨さんが、焼けゆくたこ焼きを――そのあたりの空間を何やらぼんやりと見つめていることに気がついた。
詩乃梨さんはともかく、香耶までどうした。お前今詩乃梨さんの手を頭に乗っけてるんだぞ? そんなぼーっとした顔でたこ焼き眺めてる場合じゃないだろうに。……いや、単にぼーっとっていうより、なんだか物憂げっぽい雰囲気……かも? 自信は無い。
綾音さんの能力を使えばもうちょい正確な所を読み取れるだろうけど、綾音さんは佐久夜と二人がかりで生地のひっくり返し作業中だ。安物の薄っぺらいプレート使ってる上に予熱しすぎだったせいで軽く焦げて引っ付いちゃってるみたいで、二人共わりと焦りながら球体量産に死力を尽くしてる。
今俺が手出すと逆に邪魔になりそうなので、ここはおとなしく戦線を離脱しておくことにした。そっとこたつから抜け出して、綾音さんの後ろを通り、詩乃梨さんとは反対側から香耶の隣へと腰を下ろす。観戦者チームに合流である。
「香耶、もうちょいそっち詰めて。俺にもこたつ分けてくれ」
「え? あ、わかりま――いえなんで貴方いきなりこっちきてるんですかちょっと意味わかんないです」
素直に頷いて場所を空けようとしてくれた香耶ちゃんだったが、一転して嫌悪と拒絶の眼差しを向けてきながらドン引きなされた。おっ、結果的にスペース空いたぞ、ラッキー。あとさりげなく場所詰めてくれた詩乃梨さんにセンキューベリーマッチ、そして投げキッス。しかし、キスはきまぐれしのりんの猫又しっぽに「ていっ」と振り払われました。チッ!
などと相変わらずいちゃこらする土井村夫妻にサンドイッチされて、香耶は不機嫌と朱色をミックスした複雑な表情を浮かべながら、首を竦めるようにして身体を縮こまらせた。こいつ元々ちっこいから、更にここまで圧縮されると俺と詩乃梨さんの間に置いといてもあんまり違和感無いな。……いや、普通に考えて流石にそこまでミニマムなわけないから、この違和感の無さは心理的な距離の近さに由来するものだろうか?
なんとなく、詩乃梨さんの頭をぽんぽんと撫でて、ついでに香耶の頭も同じくぽんぽんと撫でてみた。うん、どっちにも無理なく手が届く。中々良い配置かもしれない。片足しかこたつの恩恵にあずかれてないから、寒い時期にはキツいかもだけど。
「こたろー、なんで頭叩いた? でぃーぶい? でぃーぶいなの? それとも、反抗期? とりあえず、ぶっとばしていい?」
「いえ詩乃梨ちゃん、この場合ぶっとばすのは私の役目だと思うんです。なんで私まで頭撫でられたんですか? 詩乃梨ちゃんは、まあかろうじていいとしても、私は激おこですよ?」
二人して膨れっ面しながらバイオレンス宣言や激おこ宣言してるけど、どっからどう見ても二人共喜んでんだよなぁ……。詩乃梨さんは笑いをこらえるみたいに口元によによさせてるし、香耶も照れくさそうに唇むずむずさせてる。
俺は二人の怒りを鎮めようとするポーズだけ繕いながら、内心笑顔で言い訳した。
「や、二人共なんか微妙に憂鬱っぽい雰囲気だった気してさ。……たこ焼き、思ったほど凄くなくて拍子抜けだったか? なんなら、今からマスターに豪勢なたこ焼き器借りてきちゃう?」
詩乃梨さんと香耶は、家でやるたこ焼きというのが初体験だったはずだ。少なからず期待するものがあっただろう。それなのに、その記念すべきハジメテがこのお一人様用でたこ焼き専用ですらなくて値段も安いたこ焼き器に散らされるというのは、流石にちょっとかわいそうだったかもしれない。
……むぅ、心配し始めるともっと心配になってきちゃった。早速綾音さんに頼んでマスターにおねだりしてもらおうか?
「綾音さん、悪いんだけどちょっと――」
「――いやいや、あやちー、そこはもうちょっと『くりんっ』って感じだってぇ。一息でくるっとイくんだってー。そんなちまちま突っついてたら破れちゃうっしょー? なぁーんでわっかんないかなぁ~?」
「――佐久夜ちゃんこそ違うよー? そこはもっと『こつこつ』って感じだってー、ちょっとず~つちょっとず~つ小まめに回しながらムラを無くしていくんだよー? こんなの常識でしょぉ~?」
「――ハッ、じゃあ今からここが国境ね! こっちの陣地はうちがちょぉ~丁寧に育てるから、あやちーはそっちを好きなだけ小突き回してればいいさ! 後で出来映えの差を見せつけてむせび泣かせてやっかんね!」
「――じょーとーだよっ! そっちこそ、私の子達のあまりの煌びやかさに眼を潰されて、泣き喚きながらのたうち回ることになるんだからっ!」
………………………………いつものほほん笑顔な綾音さんが、完全にキャラ崩壊しとる……。佐久夜まで香耶相手みたいなノリ発揮してるし、あんたらどんだけたこ焼きに熱中してんだよ。そんな犬歯剥き出しで火花バチバチ散らしてないで、もうちょっとこっちの初心者達に配慮して和気藹々とやってくれませんかね? まったく、たこ焼きガチ勢はプレートなぞよりよっぽと熱くなりやすいから困る。
――でも。たかが焼き方ひとつに拘って、無駄に白熱しちゃうこの感じ、なーんかすげー懐かしいなぁ…………………………。
「……こたろー、遠い目」
背中を撫でられながら寂しげな声をかけられて、彼方へ旅立とうとしていた意識がすぐさま我へと帰ってくる。しのりんどした、なんでそげな寂しげな声出しとん。
少し首を傾げて見せて追加の発言を促す俺に、詩乃梨さんが返して来たのは台詞ではなくぶーたれたような膨れっ面のみ。
俺は今度こそ本気で首を傾げてしまったが、詩乃梨さんの心を推し量るためのヒントが香耶の口から囁かれた。
「琥太郎さん、さっき、なんだかおじさん臭い顔してました」
お前それのどこがヒントじゃ!? 単に俺のことディスっとるだけやんけ!? しかもおっさん臭い顔ってどんなのだよ、それってそんな寂しげな声音で指摘することなの!? ……………って、あれっ、なんでお前まで寂しげなの……?
……おっさん臭い……、遠い目……。老けてるってことか……? ああいや、そっか。
「俺、過去の思い出に浸ってるような顔してた?」
「ん。過去の人になっちゃってた」
「おじさんになってました」
……………………。詩乃梨さんのは単なる口下手ゆえのチョイスミスだろうけど、香耶、お前それ二回も繰り返す必要あるか? おじさん泣いちゃうぞ?
先程郷愁に駆られたこともあって、わりと本気で涙ぐんでしまう俺。その背中を、香耶がなんか苦虫噛みつぶしたようなひっどい顔しながらばしばしと叩いてきた。痛っ、いたっ、お前また狩猟本能剥き出しかよ! なんでお前はそうやって俺がショック受けてる時に必ず追い打ち掛けてくる――
………………あ、これもしかして、香耶なりに元気づけようとしてくれてたりする……のか?
「で、どうしてそんな顔してたんですか、琥太郎おじさん?」
「よしわかった、お前はただのサディストだな! つか、せめておじさんじゃなくてお兄さんって言ってくれ、切実に頼む。……いや、本心からのおじさん呼ばわりだっていうなら、意味無いから訂正は求めな――」
「お兄さん」
超速であった。食い気味どころか食い千切る勢いで前言の撤回を行った香耶は、土下座的な意図は無いだろうけど頭も上体もがっくんと倒し、表情を髪で完全に隠してしまう。
あ、うん。えっと、その。……………あ、はい。俺、おじさんじゃなくて、お兄さんらしいっす。うっす。なんか気恥ずかしいな、おい! このままだとお尻むずむずしてきちゃうから、さっさと話題逸らしとこう――じゃなくて、話戻しとこっと。
「ん、ま、まあ、あれだな! えっとな、あれな。俺にもこんな『お兄さん』になる前の、子供だった時代っつーものが人並みにあってさ。あの頃の俺も、今の綾音さんと佐久夜みたいな感じで、兄貴と無駄にバチバチやり合ってたなぁって。そんなこと思い出してた。……香耶達の方こそ、なんで憂鬱っぽい顔してたの?」
香耶は絶讃土下座中なので、台詞の最後の疑問符は詩乃梨さんへのパスだ。
しっかりとキャッチした詩乃梨さんは、けれど受け取ったボールをどう扱っていいのか困っているような風情でまごつきながら、自信なさげにもにょもにょと問い返してきた。
「……ゆううつな顔、してた? ……わたしと……、かやも?」
「ん。二人共。あくまで俺の主観だけど」
「……………………ん。そっか。……じゃあ、こたろーと、おなじだね」
一人で勝手に納得したように頷いたと思ったら、そんな不思議なことを言って、どこか儚げな笑みを見せてくる詩乃梨さん。
――ああ、そっか。二人があんな顔で眺めていたのも、ただのたこ焼きじゃなくて――。
「…………………………」
この手からこぼれ落ちてしまった風景を想う俺と、一度も手にすることの出来なかった風景を想う詩乃梨さんや香耶では、根本的な所で違いがあるとは思う。でも、綾音さんと佐久夜のやりとりの背後に『家族の団欒』の面影を透かし見たせいで、なんだか急に寂しくなっちゃった、っていうのは、きっと一緒だ。
俺は、家を出てからのあれそれで、家族と疎遠になってしまって。詩乃梨さんは、家にいてもいなくても、家族と寄り添うことがついぞできなくて。それに、
「……ええ、おんなじです」
なんて、顔を伏せたままでいつになく素直な口調で同意してきた香耶も――、
――『母子家庭』というわかりやすすぎる欠落を抱えてしまっている身としては、ある意味、俺や詩乃梨さん以上に家族や愛というものに思う所があるのかもしれない。