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三月二十六日(日)。声を拾い、声を投げる。

 一年。


 互いの存在を知ってから、約一年もの間。俺と少女は、言葉を交わしたことがなかった。


 本来ならば、そんな関係であっても何ら問題は無い。なにせ、俺はこの春から社会人十年目に突入する営業戦士、彼女はたぶんこの春から高校生活二年目に突入する女子高生。家族や親戚でもなければ接点など生まれないはずの、ねじれの位置に存在している二人なのだ。


 なの、だが。俺と少女の場合は少々事情が異なっており、わりと接点自体は多いというか何というか。具体的に言えば、一年間ほぼ毎週、ひとつのベンチに並んで座ってご飯を食べるような関係だったりする。ついでに言うなら、他にもまぁ、少女が知らない所や知っている所で、ちょこちょこお世話したりされたりしていたり。


 だというのに、出逢ってから今の今まで、俺達の間には一切の会話がまるで無し。


 原因は、ファーストコンタクト時の失敗だ。


 初めての邂逅が、無言で始まって、無言で終わってしまったから。それが延々と尾を引いて、いつしか、顔を合わせても挨拶すらしないのが暗黙のルールと化してしまっていた。



 アパートの屋上、入り口のすぐ横に備え付けられたベンチに、二人で並んで腰掛けながら。それぞれの朝食を取り終えた俺達は、淡く煙る空をぼんやりと眺め続ける。


 そして唐突に世界は変革の時を迎えた。




「寒い」




 ぼそり、と。少女はしかめっ面で小さく呟いて、身に纏っているダッフルコートの胸元を掻き合わせた。


 ――寒い? 寒いと言ったのだろうか。聞き間違いか。いや、確かに言ったはずだ。

 

 自分の耳と頭をいまいち信じ切れず、思わず少女を凝視してしまう。


 少女はこちらを一顧だにしない。一顧だにしないというか、首を痛めそうなほどにわざとらしくそっぽを向いてしまわれた。頬の赤さが先刻までより明らかに増してきているように見えるのだが、それは寒さによるものか、それ以外の要因によるものか。


 俺はかなり迷ったが、少女の視線の先を追いながら口を開いた。



「俺も寒い」



 私服の上に着込んでいる半纏の袖に腕を突っ込んで、背中を丸めて見せる。


 返ってくる言葉は無い。けれど、少女は一瞬だけ横目に俺を見た。その目が再びあらぬ方向へ向く頃には、彼女の頬どころか耳の先まで、熱は広がりを見せていた。



 ◆◇◆◇◆



 残念ながらというか、有り難いことにというか、その後少女は逃げるようにして屋上を立ち去って行った。


 別れの挨拶は無し。当然だ、これまでにだってそんなもの交わしたことはない。挨拶どころか、声すらまともに聞いたことがなかった。


 今日、ついさっきまでは。


「……意外と、可愛い声、してたんだな」


 予想よりも幾分幼いというか、高音というか。ちょっぴり不良っぽい風味を醸し出している子なので、ドスの聞いた声を無理矢理捻り出してくるかと思いきや、全くそんなことはなかった。


 しばし、彼女の容姿について思いを馳せてみる。


 一番の目を引くのは、純粋な日本人にあるまじき、灰色がかった色彩を持つ長髪。一目見ただけは色を染めたか抜いたかとあらぬ誤解を受けそうだが、その実純粋な天然物であることは、枝毛も痛みも知らない艶やかな煌めきが雄弁に物語っている。外国人、というわけでもなさそうだが、あの髪色はどういうわけなのだろう。と、それはさておき。


 次いで印象的なのは、鋭すぎる眼光。元々の造詣がやや吊り目がちで性格がキツそうに見える上、日頃からストレスを抱えているのか、内心の不満や苛立ちを反映して尚更鋭くなっていることが多い。

 だが、というか、だからこそ、というか、それ以外の表情――例えば、コーヒーを飲んでほっとした瞬間の安らいだ顔や、間近に降りてきたスズメの動きをなんとなく見守っている時の優しげな微笑み――の有り難みと破壊力が凄まじかったりする。


 破壊力ということで言えば、そもそも彼女の肢体そのものが必殺ブローである。といっても、ただいたずらに肉欲のみを掻き立てるような『ボン・キュッ・ボンのナイスバディ(←死語)』というではなく、愛おしいというか愛らしいというかとにかく愛でてあげたいと思うようなバランスで全てが整っていた。

 高校生にしてはちょっぴり小柄な部類の体躯でありながら、ナチュラルにくびれた腰、手の平に収まる程良い大きさに育った胸、華奢さの中に確かなメリハリが利いた四肢。まこと、素晴らしいの一言である。


 と、ちょっと見ないくらいに素晴らしいカラダをお持ちなのだが、残念ながら、それを包む衣にはあまり頓着しないタチであるらしい。

 カラダのラインがわからなくなってしまうような大きめのジャージを基本装備としていて、それ以外の私服は一切見たことが無い。制服を着ているのはわりと頻繁に見かけるが、着こなしは若干スカート丈が短い以外は基本に忠実で、自分らしい着崩しやお気に入りのアクセサリーの追加といった自己主張が介在する余地はまるで無し。まぁ、基本に忠実ということはやっぱり不良ではないということだから、その点についてはむしろ安心かもしれないけど。


 ……と、長々と考えてはみたものの。俺が言いたいのは、つまるところたったひとつだけ。



「好きだ」



 ――まあ、あくまでも好意止まりだけど。愛しているのかと問われると、それは明確に否だ。


 だって、俺とあの子は、言ってしまえばただの顔見知りでしかないから。休みの日の朝や昼に、今日はアパートの屋上でご飯を食べようかと向かうとたまたま鉢合わせるだけの、それ以外や以上の繋がりなんて一切無い相手。

 

 そもそも、俺、あの子より十歳くらい年上なんだし。本気で懸想してしまったら、ロリコン扱いはどう足掻いても免れない。


 だから、まあ。俺にとってあの少女は、目の保養的な対象でしかないわけだ。


 ……と、すっかり割り切ってしまっていたのだけど。


「………」


 見上げれば、相変わらずの粉雪と、その向こうに広がる掠れた水墨画のような空。


 この光景は、あの少女と初めて出会った時のことを想起させる。


 あの時も俺は、このベンチに座って、飯食いながらぼんやりと空を眺めていて。


 そこに、やたらめったらピリピリした空気を撒き散らす、不良と思しき少女がやって来て。


 俺が驚愕と恐怖で絶句してたら、少女は俺のことなんて眼中にないみたいな態度で隣に腰掛けてきて、パンを食べ始めて。


 だから俺も、仕方無くパンを囓る作業に没頭するフリをして。


 目線の置き場に困ったから、仕方なしに空を眺めていたら。いつしか、少女も俺を真似するかのように雲の行方を目で追っていた。


 終始、無言。当然、「寒い」なんて、言い合うこともなく。


「……ふむ……」


 ふと思い出す。あの頃の少女は、なぜかとりわけ苛立っていた。しかも、一過性の物では無く、数ヶ月間にわたってピリピリしっぱなし。おかげで、当初の俺は声をかけることはおろか、満足に少女の方を見る事すらできなかったのだ。


 そんな状態にも関わらず、それでも俺がこの屋上に通い詰めていたのは、別に少女のことが好きだからというわけではなく、ただ単に習慣によるものだった。


 俺を突き動かしたのは、このアパートに住み始めてから約十年間欠かさず続けてきた、『休日の朝は屋上でパンと缶コーヒー』という俺ルール。


 社会の荒波を生き抜くための、息継ぎのような憩いの時間。文字通りの死活問題なのだ、たかが雷属性不良少女の乱入なんかで断絶していいものではない。


 というわけで、少女が俺を居ないものとして扱うように、俺も少女をわざと気にしないようにして過ごす事、数ヶ月。正確にどれだけの月日が過ぎた頃だったかはわからないが、ある日、少女の纏う雰囲気が出逢った当初より随分と柔らかくなっていることに気付いた。


 しかしその頃には、声を掛けるという行為が『今更』に成り果てていた、というわけだ。


 俺は、既にかける言葉を持たなかった。それは少女の方も、きっと同じだろう。


 ……ならば。今日少女が発した、あんな『うっかり漏れた独り言』みたいなへたくそなパスには、どれだけの想いが込められていたのだろうか。


 一年前の、俺と彼女が初めて出逢った日と、同じような空模様の下で。まるで不本意な出逢いをやり直すかのように、俺との新たな縁を紡ごうと健気に頑張った、あの少女の心の裡は――


「……はぁ。やめとこ」


 これ以上キモいセンチメンタリズムに浸るのは不味い。このままだと、「あの子、実は俺に気があるんじゃね?」とか思い始める、間違いなく。これで、少女が呟いたあの「寒い」という台詞は俺へのパスなんかじゃなくてその実本当にただの独り言でしたざんねーん! とかだったらもう目も当てられないどころか息の根止まる。


 ……で、でもさ。一年も一緒に飯食ってたんだからさ、少なくとも嫌われてるってことは、ないよ、ね? え、えへへ。


「――戻るか」


 本格的に脳味噌が腐り果ててきたので、今日の所は何も考えないでおくことにした。


 次にあの子と会った時には、俺の方から何か声をかけてみよう、とだけ決意して。

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