まったく一言もしゃべらないんですが
彼が入ったのは高級そうなマンションだった。
広いエントランスを通り、エレベーターに乗り込むと、彼は最上階の12階の丸いボタンを押す。
エレベーターはスムーズに最上階に着くとドアを開く。
彼はエレベーターを出ると、誰も通っていない静まった廊下を奥へと進む。
そしてあるドアの前で止まった。
顔を上げて表札を見ると「白井」という名前が書いてある。
そのまま彼の行動を見ていると、彼はドアの横にあるプレートに人差し指で触れると、ピッと短い電子音がして次にカチンと音が聞こえた。
そして彼はドアの取っ手に手をかけ、ドアを開けたのだ。
鍵を出すこともなく、プレートに触れただけでドアの鍵が開く。
そんな最新のセキュリティの場所に住んでる彼は、ただのサラリーマンじゃない?
唖然としていた私が中に運ばれると、もっと唖然としてしまう。
入った瞬間、部屋の明かりが点き、照らされた部屋の中は、黒、黒、黒。
壁が白いのと、銀が時々混じっているだけで、インテリアは黒色ばかり。
真っ黒な部屋だった。
私をガラステーブルの前に降ろすと、彼はキッチンに向かった。
それを目で追う。
彼は大きな銀色の冷蔵庫から牛乳瓶を出し、お皿に牛乳を注ぐと、これまた銀色のオーブンレンジにそれを入れる。
この行動って……もしかして、もしかしなくてもだけど、猫にミルクをあげる行動?
それ以外思い浮かばない私の前に、そのお皿が置かれる。
平たいお皿に入ったミルク。
スプーンもない。
ちょ……、これってミルクを舐めろってこと?
いくら猫のコスプレをしてるからって、猫扱いって……。
困惑しているといつの間にかスーツからゆったりとした服装に着替えた彼が隣の部屋から出てきた。
しかし、その服装はやっぱり上下とも黒。
なぜ、ここまで黒に拘るのだろうか?
彼は真っ黒なコンポに近づき、リモコンのボタンを押す。
コンポからはクラシックが流れ出し、彼は私の横にあるソファーにゆっくりと座り新聞を広げた。
それに比べ、私は床にじか座りだ。
まあ、下にはふかふかのジュータンがひいてあるけれど。
私はミルクの皿と彼の顔を何度か見比べるが、彼は新聞から顔を上げようとしない。
なんとなくむっとした気持ちになりながら、両手でお皿と掴むと、皿の端に口を直接つけてミルクを飲み干す。
しかし、彼はそれからずっと私を放置したままだった。
私を見ないし、話しかけもしない。
そんな態度がますます面白くない。
勝手に拗ねた私は、暇を持て余し、その場にごろんと横になる。
こうなったらしゃべってやらないんっだから!
床にだら~と寝そべっていると、新聞を読み終わったらしい彼にいきなり抱き上げられた。
いったい何事?と驚いていると、彼は私を風呂場に連れて来た。
そして何も言わずに私の目の前でシャワーの出し方などの使い方を見せてみると、次は洗面所の下から何かを出す。
それを私に渡してきた。
私の手にはハブラシとか、タオル、パジャマまで、しかもやっぱり色は黒。
どうやらお風呂に入っていいらしい。
人様の家でいきなりお風呂をいただくというのもどうかと思うけれど、一人暮らしの男性の家に上がりこんでしまった時点でアウトになっている。
いまさら気にしてもしょうがないと思うことにしてお風呂をいただくことにした。
ボタン1つで快適なお風呂タイムが送れるという贅沢を満喫した私はほかほか。
気分は上昇中。
私が出ると彼は入れ替わるように風呂に入っていった。
泊まるということを想定しなかったので下着の替えを持っていなかった私は、真っ黒なパジャマの下は何もつけていない状態だ。
少し落ち着かないけれど、私の下着はお風呂の説明と一緒に教えてもらった洗濯乾燥機の中に入っている。
乾燥するまでの我慢だ。
勝手に部屋を動き回るわけにもいかないので、最初にいた場所に座って置いてあった新聞を見る。
「日本経済新聞」と書かれた新聞は、私が普段見ているような新聞とはちょっと違う。
興味から新聞には触れずに記事を読んでいると、彼がパジャマを着てお風呂から出てきた。
彼は私に近づき持ち上げて、また脇に抱えて歩きだす。
まるで荷物の移動みたいだ。
まあ、彼にしたら猫を移動させているだけなのかもしれないけれど。
彼が連れてきたのは大きなベッドのある寝室だった。
彼はゆるぎない足取りでベッドに近づき、私をベッドの上に降ろす。
まさか、一緒に寝るつもりなんだろうか?
これにはさすがに焦る。
動揺している私をよそに彼はさっさとベッドに入ると、半分スペースを空けて横になった。
ドキドキしつつ、そのスペースを見る。
これって、私のスペース?
もう目を閉じてしまった彼をちらちらと見ながら、しばらく考えたのち、私はそのスペースにお邪魔することにした。
万が一襲われそうになったら、噛み付いてでも抵抗する覚悟がある。
また、もし襲われてしまったら復讐する気概で彼の横に滑り込んだ。
ふかふかのベッド。
さっきの絨毯といい、彼はふかふかが好きなのだろうか?
なんとも言えないくらい気持ちのいい寝心地に、いつの間にか私は夢の中へと落ちていった……。