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こころみ

作者: 加藤 一央

 機械は美しかった。

 ゆれながら電子の繭のなかで熱を帯びていた。青と緑のあいだの定まらない一点で、光っている。

 哲学のためにつくられた機械。情報処理から思考へ、思考を超えて哲学へ。機械に与えられた新しい翼。

 友人のケイが立っていた。痩せて猫背ぎみの背中。かれのシルエットの向こうには、ブルーグリーンの光の海が数キロ先までひろがっていた。かれのつくった機械の名は、〈こころみ〉といった。

「クサマがここに降りるのは何年ぶりだっけ」

 わたしの方に振り向いたケイが言った。海の底で、ひとの声を聴かされたようで、わたしは我にかえった。

「二年ぶりかな」

 十六個のモニターが並んでいた。その前まで進み出ると、ケイの表情が光に浮かび上がって見えた。かれの老眼鏡には光の海が転写されている。

「どう思う?この眺め」

 ケイが言った。こころみのすべてを制御するこのブースのことをケイはコクピットと呼んでいた。コクピットの前面には分厚い透明のアクリル板が張られ、こころみの全体が見渡せる。

「神秘的だ、驚いてるよ、正直ね。ほら、あのもやはなに?」

「CPUが発する電磁波だ。防磁性の塗料を通してみると、可視光に変化するんだ」

 オーロラに似た光景。

「全部、オンライン?」

「そう」

「大きさは」

「直径二千メートル、高さ百七十メートルだ」

 樹脂と金属でできた空間でわたしたちの会話はよく反響した。すこし高く細いケイの声も、ここではかしこまって聞こえた。

「垣根のない牧場のようなものだよ。情報はこころみを自由に出入りする」

 ケイは普段よりもゆっくりとしゃべっていた。

「コントロール不能になることは?」

「あるよ。特定の部分が暴走したり、ウイルスで破壊されたり、つねになにか起こる。でもそれはいつも一時的なんだよ。集合体の一部が言うことをきかなかったとしても、こころみ全体にとってはたいした問題じゃないんだよ」

 ケイはTシャツの上にカーディガンを羽織っていた。やけにダボついていている上に着古してあって、尻のあたりがしわになっていた。ここは地下にある。地上と比べるとひどく寒かった。わたしは薄着だったから肌寒く、それを後悔した。

 ケイはほとんどわたしを見ていなかった。その視線はずっとこころみの光の海の方にあって、かれはこころみに向かって語りかけているようだった。

「こころみにとって情報はすべて等価値だ。いいとかわるいとか、そういう価値の概念がそもそもないからね」

「情報を選ばないということ?」

「そう、選ばない」

「きみはこの機械で哲学の新しいこたえを出してみせると言った。わたしはそのやり方を聞きたいんだけど」

「まあ、ゆっくりと説明するから急かさないでくれ」

 電子光に包まれて陶然とした表情のこの友人に、わたしは莫大な金を渡していた。まわりくどい前置きはわたしの性分じゃない。

「ありとあらゆる反対を押し切った。わかるか?きみとこの機械のために、わたしは地上では馬鹿扱いにされたんだぞ」

 ケイはゆっくりとわたしに向き直った。顔の半分を青い光が照らしていた。かれの衰えた皮膚。老眼鏡のせいで上目遣いにわたしを見て、かれは言った。

「泣き言か?きみはきみの世界では敵なしだと信じていたが」

 わたしはケイを無視できない。たとえ、かれが地下住まいのペテン師であっても。かれがわたしに抱かせた想いは、魅了と呼ばれるものだった。

「わたしと出会っていなかったら、どうするつもりだったか教えてくれないか」

 わたしの言葉にケイは笑った。

「きみと出会っていなかったら、きみはこの特別な場所にいなかった」


 ひと月前、わたしはケイから一通のEメールを受け取った。こころみを稼動させるから立ち会ってくれ、そうメールには書いてあった。わたしは明日の稼動実験の前に説明を受けるためにここにいるのだった。

「ここから見えるのはCPUの集積場だ。シェルターと呼んでいる。シェルターの天井には六十箇所の注水ハッチがある、見えるか」

「ああ」

「ハッチの上には槽があって、ハッチを開放するとイオン液体がシェルターに流れ込む」

「それでなにが起きるんだ」

「電解質で満たされたシェルターはこころみにとって、こたえを表現するキャンバスのようになる」

「こたえ?」

「こころみはたんなるCPUのかたまりじゃない。こころみは世界を点に集約させる。そこからこころみはこたえに至る。こたえはシェルターという触媒を得て、次元の膜を消失させる」

 かれはゆっくりと明瞭に語ったが、わたしには理解できなかった。ケイの話したことが物理学なのか、哲学なのか、それともスピリチュアリズムなのか、わたしにはわからなかった。

「明日の朝七時、あのハッチを開ける」

 ケイはモニターのひとつに触れると、タッチパネルを操作しはじめた。

「動かすのか」

「作動チェックをしよう。きみにとってはちょうどいいデモンストレーションにもなるだろう」

 ひとしきりなにかを入力し終えると、ケイは振り返った。

「クサマ、きみにクイズだ。一九一六年、この年の重大ニュースは?」

「一般相対性理論の発表」

 ケイはうなずいた。わたしが正解するのを予想していたようだ。

「いまからこころみは、一九一六年以前の世界にタイムスリップする」

「つまり?」

「相対性理論はまだ発表されていない。そういう状況を擬似的につくる」

「機械が相対性理論を発見するってことか」

「そう。そういうゲームだ、厳密に言うとあの時代にネットは存在しない。だから、わたしたちとこころみのなかでルールに同意したゲームでしかないけれど、これでこころみの創造性をチェックできる」

 かれが話しているそばから、十六個のモニターの上にあわただしく文字が流れはじめた。

「わたしはこれを天才ゲームと呼んでるよ」

 モニターを流れていくのは、緻密なセンテンスで紡がれた言葉だった。ただ、雑多で主題を欠いているようだ。あらゆる学問、思想、観察記録、詩、文学。まるで尽きることのない連想に身を任せてただタイプしつづけるひとのように、主題のない独り言があふれ出していく。ケイはモニターをしばらく眺めたあと、コクピットの後ろの方に歩いていった。

「人間はこころみの世界を理解できない」

 コーヒーサーバーのボタンを押しながらケイが言った。カップから湯気が上がる。ひとつめのカップを手に取ってすすりながら、ふたつめのカップをセットした。ケイが続けた。

「まず思考のスピードが速すぎるし、量も範囲も桁違いだ。地球上の文明が生み出す六十万年分の思考を半日で終わらせる。物理学や数学だけじゃない、芸術や超科学、スピリチュアリズム。進化だけじゃない、崩壊や退化もする。コンマ数秒で気が狂い、コンマ数秒で更正するといったぐあいだ」

 ケイがふたつのカップを持ち、戻ってきた。ケイが差し出した熱いコーヒーをわたしは受け取った。

 モニターに流れる文字はあまりにも速く膨大で滝か河を思わせた。モニターの上を文字があふれ、流れ落ち、拭い去られていった。

「さあ、タイムアップ。五分経った」

 ケイがカップをモニターの脇に置く。底に残ったコーヒーが湯気を上げていた。ケイはタッチパネルを操作する。

「ここだ、E=mc^2」

 ケイが指で示したさきにその有名な方程式があった。

「歴史をカードゲームだとする、世界を解き明かしたものが勝ちとする。たとえアインシュタインというカードをなくしても、こころみは情報と知性、それに創造性を使ってゲームに勝てるんだ」


 ひと仕事終えたわたしたちはこころみを出て、地上に上がった。ケイの研究室でひと息つこうということになった。ドアを開けると古くなって焦げくさくなったコーヒーが鼻をついた。壁にならんだスチール棚のなかでは、ファイルが重なりあい、崩れ落ちながら詰め込まれている。ケイが中庭に面した窓を開け放った。風が吹き込んだ。ひどく蒸した空気だった。

「地上は暑いな」

 ケイが言った。ケイが開けた窓からは、中庭のナラの木が見えた。芝生に濃い影を落としている。夏がはじまったばかりだった。

「暑くてこたえるよ、年のせいだね」

 そう言いいながらわたしはにが笑った。シェルターの冷気でこわばった体はあっというまに汗ばんだ。部屋の空調は壊れていた。ケイは扇風機を床に置き、スイッチを押した。わたしはビニールレザー張りの打ち合わせ用ソファに、ケイは自分の肘張り回転椅子に腰を下ろした。扇風機は、ふたりの初老の男の間で首を振って交互に風を送った。

「クサマ、子猫は飼えそうか」

「飼うことに決めた、妻も娘もオーケーしてくれたよ」

 ケイの知人の子猫をわたしは譲ってもらっていた。この手の話をするのがわたしたちは好きだった。わたしは熱がこもって身を乗り出した。

「女房も娘も気に入ってね、三人でフクって名前にしたんだ。フクはね、わたしの靴に入るのが好きなんだ。うちに帰るだろ、フクが玄関でわたしの革靴にすっぽり納まってるんだよ。わたしが帰ると顔を上げてね、おかえりって、にゃあにゃあ鳴くんだけども靴のなかからは出てはこない」

 ケイは楽しそうに笑った。笑うとほほのしわは引き伸ばされて、目尻で細かく折り重なった。ケイも太ったサビ猫を飼っていた。わたしたちが知り合ったころには子猫だったから、もう十五歳近いはずだ。名前はマリンといって、おんなの子だった。

「狭いところが好きなんだね」

「フクの事情はともかく、うちの家族はやめさせようってがんばっているけどね、ありゃ無駄だね。靴に納まってるフクの顔は満足しきっているからね。あそこにいるかぎり、フクは絶対安心なんだよ、きっと」

 フクがわたしの靴に小さなからだを詰め込んでいるのを見るたびにわたしはうれしくなった。かれは家族のほかの誰よりもわたしが好きだった。わたしなのか、わたしの靴なのか、ときどきわからないことはあったけれど。ケイはうちから持参した魔法瓶を取り出して、ふたつのグラスに半分凍った麦茶を注いで、ひとつをわたしに渡してくれた。

 ナラの木。中庭には風があった。陽射しが影を落としていた。何度かケイとあの木のそばを歩いたことがある。季節はいつだったか、何年前のことだったかさだかでない。


 ケイがわたしのために山の中腹にある小さなホテルを予約してくれていた。ホテルまでは研究所から車でしばらく走る。ケイとふたりで夕食を取った。ケイは珍しく、

「クサマ、飲まないか」

 わたしを誘った。

 三階のラウンジ。向かい合って座ったオープン席からは湖を見下ろせた。この国で一番大きな湖。ふたりともビールを頼んだ。

 グラスをかち合わせて、ひとしきり喉に流し込む。先に口を開いたのはケイだった。

「社の人間には知らせていないんだろ、きみがここにいること」

「ああ、言いたくないからね」

「秘密兵器扱いだね、そうとう嫌われてる」

 対岸にまばらな町の灯火が群がっていた。岸を縁取って夜の漁港を思わせた。湖水は夜に溶けて、ぐるりを囲む山の中心にうがたれた漆黒だった。

「ケイ、社の連中がこのプロジェクトをいかに意味がないと思っているか、わかるだろう」

「それでも、きみはわたしに投資した」

「投資?そんななまぬるいもんじゃない、わたしはきみに人生を半分分け与えたようなもんなんだ。あの金で二十社は買収できる。一流の企業がね」

 税理士の顔が浮かぶ。グラスのビールを飲み干し自分で注いだ。ケイに目配せしグラスを干させた。注ぐと、瓶が空になった。

「わたしはほうぼうに打診していた。いくつかいい返事ももらっていた。けれど、きみはすべての金を負担したいと申し出てくれた」

 わたしはたしかに8年前、そう言ってケイを驚かせたのだ。

「クサマ、きみはわたしからなにを取ろうとしている?」

 嫌な口調だった。

 ウェイターに赤ワインを頼む。ウェイターはケイに目をやる。ケイはただ頷いた。同じでいい、という意味だ。

「わたしはなにも取らない。ただ、すべてを見届けたいだけだ。わたしはきみになれない、きみはわたしの知らないことを知っているからね」

「わたしはきみがいようがいまいが、どっちだっていいんだ」

「ケイ、わたしはきみに懇願してでもきみに金を出すだろう」

 ケイはそのわたしの言葉を聞くと、息を吐きながら椅子の背にからだを預けた。ケイは両方の手をテーブルに置いた。指で鍵盤を叩くように、音を立てた。食器が震える音が重なり合った。ケイは上機嫌に見えた。

「クサマ、わたしはきみに約束するよ」

「なにを?」

 ウェイターの腕がわたしたちの目線の間に差込まれた。グラスに二人分のワインを注いで、かれは下がった。ふたりはグラスを掲げ、音のない乾杯をしてワインに口をつけた。

「なにを約束するんだ」

 わたしはもう一度、聞いた。ケイは笑っていた。ふざけていた。冗談を言うときの笑み。

「わたし、だよ。わたしという人間の意味をきみに差し上げる」

 そう言って、ケイはワイングラスを唇の前ではねあげるようにして飲んだ。たるんだ喉元が老いていた。わたしは黙っていた。かれは酔ってきているのかもしれない。

「今夜は研究所で寝る」

 ケイは言った。

「帰らないのか」

「ああ、あそこにいたいんだよ」

「子供くさいことを」

 すこしうんざりして、視線を外へとやった。ガラスにわたしとケイの姿が映っていた。ケイは背を丸めて、じっとテーブルに置いた手を見つめていた。

 ウェイターにタクシーを頼んで、ロビーに出ると、ケイのからだはぐらぐらと揺れてわたしは支えてやらなければならなかった。泡のような笑みがその顔いっぱいに浮かんでいた。


 ケイが帰ると、わたしはホテルの自室に戻った。部屋からも湖が見えた。吸い寄せられるようにわたしはその景色を眺めた。漆黒と光。空に星を探したが、まばらだった。なぜか星が恋しかった。

 明日ひとつのこたえが出る。それがなにを意味するのか、ケイにもわたしにもわからない。


なぜわたしたちはここにいるのか、わからないことだらけだ。

ふたつだけ、わかっている。

ひとつは、わたしは生まれ、ここにいる、ということ。

もうひとつは、わたしはかならず死ぬ、ということ。

わたしはいろいろ見てきたように思う。価値のバリエーションを。甘く、苦く。そのどちらもひどく極端で、まぶしかった。


ケイも眠れずにいるだろうか。

わたしは眠れない。

あの電子のオーロラにわたしは勝てなくて。ひととして勝てなくて、眠れない。

あれは、美しい。


 目が覚めたとき、湖は青白かった。身支度をし、ホテルを出る。

 コクピットへと続く階段を降りていくと、ケイがいた。

「おはよう」

 階段を降りながら声をかけた。ケイが振り向く。平坦な表情。期待や緊張、それらがあるはずのケイの顔にわたしはなにも見つけられなかった。

「おはよう」

 ケイはひどく乾いた響きで挨拶を返すと、わたしに背を向け、こころみに視線を戻した。わたしはケイの隣にならび、かれにならって前を見た。こころみは相変わらずもやに充たされて、光を放っていた。空気が冷えていた。羽織ってきたジャケットがありがたいと思った。実験開始は1時間後だった。ケイはなにもしなかった。すべての準備はすでに終わっていたのだろう。わたしたちは、ただ待つだけだった。ケイは黙っていて、わたしも黙っていた。目を合わせることもしなかった。しばらくそうやって並んでいた。オーロラのように光が揺れるのを、ただ眺めていると沈黙がふさわしいような気がした。

 ケイがふいに後ろに歩いていった。コーヒーを注ぎにいったのだった。ふたつの湯気立つカップを手に戻ってきたケイの手から、わたしは熱いコーヒーを受け取った。ふたりでコーヒーをすする。

「子猫の名前、フクっていったっけ」

「ああ」

「その靴。それにもフクは入ったのか」

 そう言われ、自分の足元に視線を落とす。黒のモカシン。

「これか、ああ、フクのお気に入りのひとつだよ」

 ケイは身をかがめて、わたしのモカシンをしげしげと見ていた。わたしはモカシンを鋼板の床からすこし浮かせ、ケイの目によく見えるようにした。ケイが顔を上げると、唇の両端を下げ眉をいっぱいに吊り上げた妙な表情をしていた。目が笑っていた。

「いい靴だな」

 なんの皮肉かよくわからないまま、わたしもつられて笑い返した。

「フクの気持ちがわかる気がする」

 そう言いながら、ケイは独りで薄ら笑いをつづけた。

「ぎゅっと狭い場所にからだを押し込めるだろ、世界が自分に密着している感じがする。それはたしかにすごく安心すると思うんだ」

 わたしは想像してみた。痩せて猫背ぎみのケイが、小さなモカシンのなかにからだを押し込んでいる姿を。ケイが続けた。

「そういう意味では、だ。この機械は非常にわたしを不安にさせる。わたしは眠れなかった、昨日は一睡も」

 今度は、わたしが独りで笑った。ケイの薄ら笑いが止んだ。わたしには、ケイのそんな心境が可笑しかった。それは、わたしがずっと昔から知っていた不安だったからだ。ケイが知らなかっただけだ。地上に生きる者なら知っている不安。きみだけが、知らない不安。


 実験開始。ケイがタッチパネルを操る。遠くでくぐもったモーター音がして、注液ハッチが開きはじめた。シェルターにたくさんの糸をたらしたような滝が現れた。ハッチがさらに開くと、糸は轟きながら落ちる瀑布に変わっていった。数キロの全長を持つシェルターの内側を液体が飛沫を巻き上げながら、波打つ。シェルターの底を液が充たしていくと、光を放っていたもやが消えた。コクピットが暗くなる。わたしたちは暗がりのなかで液体が暴れる音に包まれていた。波打つ液体の向こうに小さな点滅光がちらついた。わたしは昨日ホテルで見た湖を思った。漆黒の湖と岸辺で揺れる小さな光の粒。流れ込む液体の音は海が生まれるような轟きを発している。コクピットのなかのわたしたちはおたがいの声を聞き取れない。ただ充ちていくシェルターを見つめていた。やがて液体がシェルターに充ちた。轟音も暴れる流動も消えて、静かになった。点滅光が液体の海の底で光っていた。ハッチが閉まり、注液が止まった。ケイとわたしは目を合わせた。言葉は交わさなかった。わたしたちはただこころみを見守り、なにかが起こるのを待つのだ。

 コクピットのなかのすべての電源がふいに落ちた。深海のなかでわずかに発光する生物の灯りを頼りに漂うように、わたしたちを照らすのははこころみの点滅光だけだった。だがその光も弱々しかった。しばらくかたずをのんで見守っていたその光も一部分、一部分と消えていき、やがて完全な闇が生まれた。


「ケイ」

わたしは呼びかけた。こたえはなかった。

発したはずの声に音がなかった。

わたしは手探りでなにかに触れようとした。

二三歩踏み出して、わたしはなにも踏んでいないことに気づいた。


恐くはなかった。

大きな闇がわたしを包んでいた。

それはわたしを安心させた。

恐れすら消えてしまう闇なのかもしれない。

孤独は感じなかった。

ケイがどこかにいる気がした。

かれも、きっと孤独ではない気がした。


目を閉じた。

記憶をたぐり寄せようとする。

空。

夏だ。

高い雲を低い雲が追い抜いていった。

飛行機。

白い機体。

木が揺れていた。

葉っぱが音をたてる。

濃い緑。


暑い。

低い雲が高い雲を追い抜いていく。

雲がかたちを変えながら流れていく。

ケイが歩いてきた。

手に魔法瓶をもっている。

かれは木陰を指さした。

わたしは芝生から身を起こし、歩き出した。

かれがなにか言った。

わたしもなにか言い、ふたりで木陰に腰を下ろす。

風がそこここにあった。

かたちを変えないものはなかった。



 今でも、ケイとは一日に一度、メールのやりとりする。実にとりとめないことばかりだ。庭にできたトマトやバジルのこと。おたがいの家族のこと。音楽や宇宙のこと。

 フクは十五歳になった。ひどく太ったかれは、もう靴には入らない。いくつかの概念がその価値を失った。経済は昔ほど活力をもたない。進化の速度はすこし遅くなった。人間は以前ほど、急いでいない。わたしは最近、ニュースを見ることをやめた。自分の庭で日々起こる出来事がわたしを十分に驚かせた。いろいろな現象が起こる。わたしたちも、その現象のひとつにすぎない。

【了】

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