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最終章です。
四一
一二月一二日、エリコちゃんがニューヨークに出発する三週間前の今日、いつも二人で会うカフェに、彼女を呼び出した。
パーティションで区切られた席の中で、彼女と対面する。今日こそは告白しなければ。絶対に今日、告白しなくてはいけないのだ。
今日は特別な日だ。一年前、サンマリオでコーヒーを零し、エリコちゃんのことを好きになった日だ。その日に告白することに、きっと意味がある。
しかし、いつもと変わらないように見える彼女の笑顔に、心が揺らぐ。俺の告白など、必要としていないのでは? と。
だって、俺と付き合いたいのなら、そもそもエリコちゃんから告白してくれているだろうし、もし俺のことが好きなら、もう別れる間際だっていうのに、こんなににこにこしていないだろう。
揺らぐ。決意がぐらぐらと。
「もう少しで、アメリカだよー。いきなりの命令が出たからびっくりしちゃった」
「お、俺もびっくりした。すごく」
「あは。でも、私も望んでいたことではあるんだよね。こういう話があることは知ってたし、ステップアップに繋がるんじゃないかって。そのために、ずっと英会話も勉強してきたし、いざ任されたとなったら、奮えてきちゃって。やるぞーって」
本当に嬉しそうに話している。この表情に嘘はないんだ。だとしたら、俺と別れることも問題にしてないんじゃないだろうか。俺だけが一方的にエリコちゃんのことを好きだと思っているんじゃないだろうか。だとしたら、告白しても、やっぱり振られる。
勇気が萎んでいく。ちっぽけな自分が俯瞰で見えてくる。この席に座り、縮こまっていく情けない自分が見えるのだ。
「このままだと、もう会えなくなるかもしれないね」
エリコちゃんの言葉が、巨大な槍となり、ぐさりと胸を貫いた。そして心にぽっかりと穴があく。行き着く先に心臓があると信じて流れていた血液が路頭に迷う。俺も路頭に迷う。何かいわなければいけないのに、言葉が出ない。苦しい。視界に靄がかかっている。
「私、いっとかなきゃいけないと思って」
さよならを? 別れの言葉? 今までありがとうって? 終わる。ここに来るまでに、今まで築き上げてきた自分が崩壊する。なのに何もできない。視界にかかった靄の量は最高潮に達し、もはや闇だ。何も見えない。
「あのね」
エリコちゃんが口を開く。ああ、終わった。
「小説、好きだよね?」
視界にまとわりついていた靄が、すっと引いた。わずかに視界が拓ける。エリコちゃんの表情が見えるまでに。何か逡巡しているような顔をしていた。
そして、聴覚が捉えた音を、はっきり認識した。小説……。え、小説?
「小説?」
「うん。好き、なんだよね」
確かに小説といっている。なんのことだろうと思い、エリコちゃんの言葉を頭の中で繰り返す。『小説、好きだよね?』小説を好きかと訊いているんだ。小説。うん、好き、だけど。でもなんで?
とりあえず答えなければと思い返事をする。
「うん。好きだよ」
「だったらやめなくてもいいんじゃないかな。コウタロウは就活を始めるときに、夢ばかり追ってられないしっていってたけど、人間にとって、夢って大事だよ。私も社長になるっていう夢があるから、がんばれるし、今回のニューヨーク出張の話も受け入れられた。何より好きなことはさ、つづけるべきだと思うんだよね。一回きりの人生で、そうそう見つからないよ。自分が心から好きって思えるものなんて」
エリコちゃんは言葉を切って、笑顔を作る。寂しそうな笑顔だった。
「私、ちょっとでも、いいこといおうとしてる。あは」
まっすぐな眼差しで俺を見ている。俺が迷っていたことの答えを示そうとしてくれているのだ。
パン屋の仕事が決まり、パン職人という新たな目標もできた。地に足の着いたものだ。芽のでない小説など、もうやめてしまおうと思っていた。だけど、小説を書くのが好きだという気持ちに変わりはなく、小説家になりたいという夢を捨てきれずにいた。だからこそ、そこに目を向けないようにすることで、逃げていた。
だけど、心は正直で、融通が利かず、完全に迷いを吹っ切ることはできずにいた。好きなものを放り捨てる。それは、自分という個性を捨て去るということに等しい。エリコちゃんは、俺の心の葛藤を見抜いていたのだ。
エリコちゃんのいうとおりだと思った。一度きりの人生、仮に長い人生にしても、心から好きだと思えるものなんて、そうそう見つからない。就活をしてみて、よくわかったことだったのに。なのに俺は、それを捨てようとしていた。なんて愚かだったのだろう。
そして、彼女を好きになったという奇跡も、また、得難いものであるのだ。
その彼女がここにきて、俺のことを本当に想ってくれている。大切な言葉を紡ぎだしてくれた。本当にいい女だ。
『君は、がんばれ』そのとき、マサシさんの言葉が心に浮かんだ。
『人生、一度きりです』グッサンの言葉も浮かんだ。
『情熱だと思う』つづけざまにエーイチの言葉も。
思えば長い道のりだった。グッサンをきっかけに始まり、ようやくエリコちゃんと友達になれた。エーイチには煙たがられとんでもない事実まで知らされたが、結局は、諦めかけていた俺を後押ししてくれた。そして、ライバルであるマサシさんまで、ここに来るための声を、勇気を与えてくれた。
いろんな人に助けてもらった。誰一人欠けていても、ここに来れてはいない。
胸に開いていた穴には、いつのまにか心臓が戻ってきていた。俺の中の血液は、迷いなくハートに流れ込む。もう俺も迷いはしない。最後の一押しをしてくれたのは、エリコちゃん本人なのだから。
「エリコちゃん、好きだ」
エリコちゃんをまっすぐに見て、心を伝えるんだ。
「このまま、離ればなれになるなんて嫌だ。小説もやめない。エリコちゃんのことも。だって大好きだから」
俺の言葉に、エリコちゃんは目を大きく見開いた。彼女の視界いっぱいに俺が映っている。俺は、まっすぐストレートな言葉を放った。高校時代のマックス一三〇キロを超えろ。
「俺と付き合ってください」
二人の間に沈黙が横たわる。長い長い時を経て、ようやく告白できた。しかし、それに比べれば、わずかな時間であるこの沈黙は、俺の忍耐を試すかのように長く感じられた。告白までの一年間という長い時間は、このわずかな沈黙を耐えるための訓練だったのかもしれない。
エリコちゃんが、ゆっくりと、丁寧に口を開いた。
「私ね、実はアメリカ出張が決まってから、マサシに告白された」
知ってるよ。マサシさんから聞いたから。
「でもね、断ったの。私には気になる人がいるからって」
それも、知ってる。エリコちゃんは、今までにないほど真剣な目で訴えかけてくる。試練はつづいていた。だけど、どんな相手にもひるまない覚悟が今はあった。何度でもアタックするんだ。だって、そいつより、俺の方が絶対、エリコちゃんのことを好きだから。
「でもね。気になる人がいるっていうのは方便で……」
え、方便?
「コウタロウには本当のこというね。私、実は……年上しか愛せないんだ。それも五〇歳過ぎたようなおじさんしか。おじさんコンプレックスっていうのかな。オジコン?」
時が止まったかのように感じられた。それほどの威力を持った言葉がエリコちゃんから放たれた。これは……この展開は……。
「だから、ごめんなさい。コウタロウは若すぎるの」
こっちもかー! えええええ? なんで? なんでよ? エーイチがゲイで、エリコちゃんがオジコン? なんだ? なんなんだ、これは?
急転直下の衝撃だった。俺は頬をひくつかせながら確認した。
「ほ、本当におじさんしか駄目なの?」
「うん。黙っててごめんね」
心底申し訳なさそうな顔をするエリコちゃん。ご、ごめんって、そんな。そんなんで、納得できるかー!
ここまでエリコちゃんへの気持ちを盛り上げてきた俺は、もう引けなかった。無理かもしれないが、ていうか無理なんだろうけど、食い下がった。
「でも、俺には友情を感じてくれてるんだよね!」
「うん。だからこのことを話したし」
「友情ってのはさ、恋愛対象の性別間だともう、恋愛になるんじゃ!」
気づけば俺は、エーイチの言葉をそのまま伝えていた。
「ごめん。恋愛にはならないと思う」
がびーん、がびーん、がびーん。思わずがびーんって思っちゃうくらいショックだ。どうすりゃいいんだ。これ、どうすりゃいいんだ! こんなの一六〇キロのストレートでも通用しないじゃないか!
泡を吹きそうな勢いの俺に、エリコちゃんが困ったように笑う。
「あは。でも、もしかしたらコウタロウならって、思ってるのも事実なんだ。コウタロウのことはいいなって思ってるから。だって、すごく私に夢中になってくれてるのがわかるから」
はっとしてエリコちゃんを見る。あいかわらず困ったような顔をして俺を見ている。
「それは、可能性はあるってこと?」
「うーん。コウタロウのことを男として見てるのか、自分でもよくわかってないところがあって。でもコウタロウなら、ずっと私に夢中でいてくれるかなって思うと、少しときめくような。今はなんともいえないの。だから、時間をちょうだい」
「ま、待つ! いくらでも待つよ!」
「ありがとう。努力はしてみる」
とんでもない展開になってしまったが、可能性は残った、と信じたい。それにしても、まさかオジコンだなんて。冷や汗をかいた。
期待していいのかどうか、戸惑っている俺に、エリコちゃんは明るい表情でいった。
「コウタロウがおじさんになったら、もしかしたら好きになるかもね。私もおばあさんになっちゃうけど」
待つとはいったものの、はたしてそこまで自分を保てるだろうか。そもそも付き合えない彼女のことを好きでいつづけられるのだろうか。俺はあいまいな笑みを浮かべるだけだった。自信がなかったのだ。
四二
「ご注文を伺います」
ファミレスの店員さんの声に先に答えたのは、エーイチだった。
「ポンドステーキを。和風ソースで」
ぎょっとして、思わず彼を見る。ステーキ? いつもほうれん草のバターソテーばかり注文するエーイチが、たまにカレーなんかも頼むが、あのエーイチが、肉?
「和食セットで。ドリンクバーもつけて」
店員さんに、ドリンクバーの割引チケットを渡すエーイチ。自分を見ている俺に気付き、「ほら、おまえも注文しろよ」と急かす。店員さんが去った後も、俺たちのテーブルには、妙な空気が流れていた。
肉? 食うんだよな。あのエーイチが。どういうことだ?
「珍しいか」落ち着き払った声だった。表情も。「たまには肉も食ってみようと思ってな」
そのまま席を立ち、ドリンクバーに向かった。俺も後を追うようにドリンクバーに。横目でグラスにコーラをついでいるエーイチを見る。いつもと違う彼の空気感に、戸惑う。
「エリコちゃんとのことは、そういうことだから」
先ほど事の顛末を話していた。
「思ってもみない方向に転がったな。俺も、なんかすまん」
「い、いや。でもエーイチのおかげだ。おまえが応援してくれなかったら、俺は諦めてたかもしれない」
「別に俺は何もしてないよ」
無表情にいうエーイチに伝えたい言葉があった。もしかしたら、彼を傷つけることになるかもしれない。だけど、いわなきゃと思った。
「俺にだって、可能性ができたんだ。だから、エーイチも……」
「俺は一人でもいい」
俺の言葉を遮ったエーイチは、肉を注文していても、やはりいつものエーイチだった。
「俺は一人でもいい。二次元とともに行く。これは俺が決めていることだ。俺には俺の道がある。おまえはおまえの道を行け」
悲しい気持ちになった。俺の行動や思いは、エーイチには伝わっていなかったのだ。俺を応援してくれるようになってくれた今の彼になら、と期待しかけていたのに。たとえ、エリコちゃんと二人で幸せになれたとしても、エーイチが幸せになれないんじゃ、本当の幸せではないんだ。
どうしたらいいのかわからなかった。エーイチの抱えている事情は簡単ではないのだ。涙が出そうになった。エーイチの心を覆う暗黒の壁があまりにも高くて強固で、太刀打ちできない俺は無力で。
「だけどな」
壁の向こう側からエーイチがいった。それは暗黒に光を射すような、優しい言葉だった。
「俺は俺という人間を知っているのと同時に、自分と同じ草食系だったクサタロウのことも知っている。そのおまえが危険を承知で、テリトリーの外に出て、チャレンジしたことは、賞賛に値すると思っている」
「エーイチ……」
また涙が出そうになった。さっきとは違う意味を持った涙が。
「だから、もしもこの先、ないとは思うが、もしも俺が心変わりすることがあれば、三次元にその価値を見いだせる相手が現れたときは、経験値のあるクサタロウに、相談することはできる。おまえの勇気のおかげで、選択肢というか、可能性が、俺にもできたわけだ」
泣きそうになりながら見るエーイチの顔は、仏頂面だ。しかし、次の瞬間、彼の相好が崩れた。
「そのときは、よろしく」
「もちろんだ!」
思わずテーブルの上で、右手を差しだした。エーイチも億劫そうにではあるが、右手を差しだし、握ってくれる。握りしめた手をぶんぶんと振った。エーイチとの間で、こんなアクティブなコミュニケーションは初めてかもしれない。今後の二人の未来にふさわしい門出だ。
テーブルの上に注文した料理が並べられる。エーイチは、慣れない手つきでステーキにナイフとフォークを入れる。
「ところで、この間、谷先輩から連絡があったんだ」
「谷先輩って、大学のアニメ同好会の谷さん?」
きょとんとする俺。谷さんといえば俺たちをアニメ同好会に誘って出会わせてくれた偉大な先輩だ。久しぶりに聞いた名だった。
「そうそう。アニメ同好会の谷さん」
「懐かしいな。元気そうだった?」
「ああ。あいかわらずだった。それでなんの用かと思ったら、今、俺とクサタロウに恋人はいるか、と訊いてくるんだ。おまえには候補がいるから、いっておいた」
「エーイチはなんて答えたんだ」
どきどきしながら訊いた。二次元に愛するキャラはいるのだろうけど、まさか……。
「俺はリアルな世界には、いないといった」
ほっと胸をなで下ろす俺。リアルとか関係なしに、アニメキャラのことを指して、好きな人はいると答えでもしたら、どうしようと思ったのだ。
「で、で?」
「そうしたら、ちょっと紹介したい女の子がいるから、会えないかというんだ」
「あ、会うだけでも会ってみたら」
エーイチがアニメでは女の子が好きなのを知っている俺は、可能性を探る意味でそういった。
「うん、だからこの間、会ってきた」
「え、もう会ってるの?」
ひどく驚く俺に、エーイチは気にするそぶりも見せずに話しつづける。
「ミーナさんといってな。歳は俺らと同じくらいで、レイヤーだ。コスプレイヤーな。趣味でいろんなキャラのコスプレをするらしい。俺もすでにその姿を見せてもらったが、正直、似合っていた。可愛い人だ。俺の知ってるアニメのコスプレもするしな。特に俺の好きなモミジのコスプレは、驚くほど似合っていた。声もいいぞ。アニメ声というやつだ。声は大事だ。好きな声で語りかけてこられたら、それだけでファンタジーだからな」
一気にまくしたてるエーイチ。急な展開についていけない俺。俺を置いてきぼりにして、話を進めていた彼だが、こほんと咳払いをして改まっていった。
「で、今度、初デートだ」
ええええええええ?
自分の出した声に驚いて、周りのテーブルを見る。目の合った人もいるが、慌てて視線を外し、エーイチの方を見る。エーイチの顔が、あ、赤い。
「え? え? エーイチって女の人でも好きになれるの?」
「いや、俺もよくわかっていなかったのだが、ミーナさんと会って話してみると、なんかいけそうな気がして。そもそもアニメの女の子キャラは好きだしな」
こ、これは、バイセクシャルというやつか。驚きの展開に目を丸める。
「良かったじゃないか」
「まあ、悪くはないな。ニクさんも若者もいけるようになったらいいのにな」
「あ、本当だ」
エーイチが両方いけるのなら、もしかしたら。
目の前のエーイチを祝福したくなった。抱きしめたいほどに。そして、ふとテーブルの上のステーキに気付く。
「あ、もしかして、それで肉?」
「ああ。気合いを入れようと思ってな」
なんだ。エーイチもここぞというときは、肉食うんだ。なんだか安心してしまった。彼も知らない内に、前に進んでいるじゃないか。
「ミーナさんの声は、萌えだ」
「そうか、萌えか」
「ああ、萌えだ」
今は冬だけど、このテーブルにだけは、春が訪れていた。俺とエーイチの間に今までなかった春の季節感が。そんな話をできるようになったことに、俺は、いや、きっと目の前で肉を食っているエーイチも、嬉しいに違いない。これからも二人で春の話をしよう。
もうすぐ、エリコちゃんは旅立つ。でも、寂しくなんかない旅立ちだ。俺たちはお互いの本音をぶつけあえた特別な関係になれたのだから。エリコちゃん、俺のこと恋愛対象になってくれたらなあ。
四三
それから一年が経った。エリコちゃんはニューヨークで仕事をしている。エーイチはミーナさんとデートを重ねているらしい。グッサンからは、あいかわらず合コンの誘いのメールが来る。マサシさんとは、あれから連絡は取っていないが、彼女によると、もう立ち直って仕事をばりばりこなしているらしい。
今日も朝七時、ニューヨークでは夕方五時のいつもの時間に、インターネットに繋いだパソコンの前に座って待つ。静止画の画面を見ていると、すぐに画面が切り替わり、ネットの向こう側の世界と繋がった。画面の向こうで、エリコちゃんがいそいそと椅子に座る様子が見える。
俺たちは、いつも休みが重なった日に、インターネット電話を使って、お互いの顔を見てコミュニケーションをとるようになっていた。俺が提案したのだけど、これなら物理的な距離も乗り越えられると思ったのだ。登録しておけば安価な値段でやりとりできるので、とても便利だ。
「パン屋さんの仕事、慣れてきたんじゃない?」
「あいかわらず、朝早いのはきついけど、充実してる。今日は新作のアイデアも求められた」
「へー、すごいじゃん」
「エリコちゃんの方は?」
「うーん。現地のスタッフとのコミュニケーションがまだうまくいってない感じ。なんか、いうこと聞いてくれないんだよね。なめられてるのかな。でも大丈夫。うまくやってみせるよ」
「はは、頼もしい」
「明日だよね。正社員の試験」
「うん」
パン屋の仕事が始まってから、もう三度目の正社員への挑戦だった。オーナーは俺に早くモノになってほしいようだ。
「リラックスして。深呼吸ね。コウタロウならやれるって信じてる」
「ありがとう。ベストを尽くすよ」
「受かったらパン職人の第一歩だね。楽しんできて」
「うん、全力で楽しむ。成るよ。パン職人」
なんとしても正社員になりたい。エリコちゃんは、おまじないといって投げキッスをしてきた。て、照れる。
「でさ」彼女は改まった様子で、目の前に、ダブルクリップで綴じられた、A4の紙を置いた。
「読んだよ、新作」
エリコちゃんが旅立つ前から書いていたものをじっくり書いて仕上げたものだった。一ヶ月前にメールで送っていた。
どきどきしながら、画面に映るエリコちゃんの感想を待つ。なんだか嬉しそうな表情をしているように見えた。
「面白かったよ、コウタロウの小説! 以前、読ませてもらったものより、ずっと!」
「本当?」
六年間書いてきた。その六年間の成果がようやく出た気がした。
「才能あるじゃん、コウタロウ。あは」
「へへ」
つづけよう、小説。パン屋で地に足をつけて働いて、小説家という夢を追う。それが俺のスタイルだ。念ずれば花開く。一念、岩をも通す。つづけていれば、いつか小説家になれる日が来るかもしれない。
そうでなくとも、小説は好きだから。そしてーー
彼女を見る。時空を越えても、やっぱりエリコちゃんはエリコちゃんだ。
「エリコちゃん、今日も好きだよ」
一四時間の時差があったって、一万キロメートル以上距離が離れていたって、可愛いものは可愛いのだ。簡単じゃない事実を知ったって。
そう思っていた。
だけどやはり、性癖という問題はどうしたって覆るものではないのかもしれないと思い悩んでいる。エリコちゃんのいったとおり、おじさんになるまで待つしかないのかもしれない。だけどその時間をあまりにも長く感じてしまう。彼女の恋愛対象という五〇歳になるまで、あと二五年間。二五の俺は折り返し地点にいる。なあに、今までも彼女なしで耐えられたのだ。今までと同じ時間過ごせばよいだけのことさ。同じさ。
……いや、同じじゃない。
俺は恋を知ってしまったのだ。恋の甘美さも切なさも、そして欲しくて欲しくてどうしようもないのに、手に入れることのできない、頭と胸がおかしくなってしまうんじゃないかと思うようなつらさも、エリコちゃんによって教えられたのだ。もう同じじゃない。
あと二五年間。その間にどれだけの女性との出会いがあるのか。それをすべて捨ててまで、キスひとつできないエリコちゃんを好きでいつづけることは、とても難しい。
あれから二人の関係に変化はない。いつまでも今のままではいられない。だから、今この場で勝負することにした。
俺の決め球はチェンジアップ。
「エリコちゃん、もしも俺が正社員試験に受かったら……」
画面の向こうの表情が固まるのがわかる。俺はかまわず投げた。
「もう二度と、俺には会わないでください」
エリコちゃんが驚きの表情を見せる。まさかこのタイミングでこの球が来るとは思っていなかっただろう。あのときのストレートとの変化、球速の違い。俺の渾身のブレイキングボール(変化球)。
エリコちゃんは眉を八の字にして言葉を探している。パソコンのディスプレイを通してでは、本当の気持ち、オーラまでもはきっと届かない。きっと物理的な距離は埋められないのだ。触れ合えなければ、気持ちが離れていくように。だからきっとこの気持ちは、届かない。わかってる。
――でも。
もし君が、そんなの嫌だといってくれたなら、俺は絶対に君を諦めない。
四四
あれから、ひと月が経ち、俺は、正社員になっていた。
試験に合格したのだ。なんとか合格を勝ち取った。これでようやく本当の意味でパン職人になるためのスタートラインに立てた気がしていた。
そして、エリコちゃんとは、別れた。
あの後、こんなことがあったのだ。
◇
「そんな、そんなのひどいよ」
エリコちゃんは、ひどく取り乱していた。見たことのない表情だった。
「もう私とは、会いたくないの? こんな別れ方って」
俺は黙っていた。俺の放った一球が、どんな結果をもたらすのか、見届けようと思っていた。
画面上の彼女が目をそらす。顔を背け、うつむき、声を絞り出した。
「でも、確かに、私もひどい女だ……。君をいつまでも、待たせてしまっている」
エリコちゃんの右手が動く。回線を切ろうとしているのだと気づいた。何か言葉をかけなければと戸惑っていると、彼女が口を開いた。
「試験、がんばって。応援してる」
目には涙をためていたが、笑顔だった。そしてパソコンの画面上に、相手の回線が切られた旨の表示がなされた。もう彼女は映っていない。
◇
これが事の顛末だ。フラれた。見事に。
あれから連絡は来ない。俺もするつもりはなかった。あの後、試験があったが、思いのほか冷静に受けられた。俺の中で、ああなる覚悟を決めていたせいかもしれない。
今、カフェにいる。サンマリオではないところだ。そこで新商品のアイデア出しをしていた。一〇分前には小説も書いていた。
まだ小説も諦めてはいない。いつか必ず。
「どうすっかなあ」
腕組みをする。なかなかビビッと来るアイデアがでないのだ。まあ、そんな簡単にヒット商品が生まれたら、誰も苦労しないのだけど。
書きかけのB5ノートをそのままに、一息つこうとコーヒーカップに手を伸ばす。その時だった。ある女性が俺の目の前を横切った。その女性の顔を確認した瞬間、ハートがビビッと来た。
ぱっと見でもわかる美人。思わず視線が彼女を追った。彼女は奥から二番目のテーブル席に着くと、淡いピンクの可愛らしい肩掛けカバンから、文庫本のようなものを取りだし読み始めた。
彼女の姿をじっくり見る。艶のあるセミロングの茶髪も顔の雰囲気に合っていた。二〇代だろう。
この感覚はエリコちゃん以来か。いや、それ以上かもしれない。
エーイチはミーナさんと上手くやっているようだ。グッサンは相変わらずナンパにいそしんでいる。エリコちゃんのことはわからないが、社長に向かって精力的に働いているのだろう。彼女と出会った日々は、自分を鍛え成長させてくれたと思う。
そして今の俺だ。
行くか。迷いはなかった。書きかけのノートも閉じずに席を立つと、まっすぐ女性の元に向かった。
「こんにちは」
警戒されないように、努めて笑顔で話す。とはいえ、さすがに驚いた様子ではあるが。でもこの表情も美しい。
「お姉さん、びっくりするくらい綺麗ですね! ちょっと、お時間よろしいですか?」
今度はどんな球を放ろう? ええい、心のままに……!
(了)
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