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仲良し姉妹

悪女と聖女。

作者: 月森香苗
掲載日:2026/07/02

姉妹それぞれの恋愛要素があります。

いつも通り仲良し姉妹です。

 王立エルディア学院の卒業祝賀会は、その年も王宮に隣接する白薔薇の大広間で開かれていた。

 春の終わりを告げる夜。三年の学びを終えた子女たちが礼装を纏い、未来への第一歩を踏み出す祝宴である。

 高い天井からは水晶の灯火が幾重にも吊るされ、磨き上げられた大理石の床には、白薔薇と金の燭台が淡く映り込んでいる。開け放たれた硝子扉の向こうでは、夜風に庭園の花々が揺れ、噴水の水音が遠く銀の鈴のように響いていた。

 その美しい夜に、誰よりも人目を集めていたのは、卒業生代表でも、王族でもなかった。

 ヴィオレッタ・ヴェルナー公爵令嬢。

 十八歳の彼女は、黒に近い紫の髪を高く結い上げ、深い菫色の瞳を持つ妖艶な色気を持つ令嬢である。白い肌に映えるのは、深紅のベルベットドレス。光を受けるたび、毛足の向きによって赤黒く艶めき、まるで夜に咲く薔薇の花弁を纏っているかのようだった。

 細い首筋、まっすぐな背、扇を持つ指先の動きまでもが美しく、その身には誰をも寄せ付けぬ威厳が静かに宿っていた。

 社交界での彼女の評判は、決して良いものではない。

 悪女。

 誰が最初にそう呼んだのかは知らない。けれどヴィオレッタは、一度としてそれを否定しなかった。否定するほど暇ではなく、訂正してやるほど親切でもなかったからだ。

 彼女の隣に立つ青年は、銀灰色の髪に青い瞳を持つ伯爵令息、エリオット・レインフォード。ヴィオレッタより二歳年上の二十歳。柔らかな物腰と穏やかな微笑みで知られ、誰にでも等しく優しいことから、学院では『春風の君』と呼ばれていた。

 もっとも、本人はその呼び名をやんわりと否定していたのだが。

 ヴィオレッタとエリオットが並ぶたび、人々は決まって囁く。

――あの方は、悪女に無理やり婚約者にされたのだ。

――本当なら、あんな冷たい公爵令嬢ではなく、もっと優しく愛らしい令嬢と結ばれるべきなのに。

 誰もがそう信じて疑わなかった。

 ただ一人、当のエリオット本人を除いて。


 その「優しく愛らしい令嬢」として必ず名を挙げられるのが、ヴィオレッタの妹、リリアナ・ヴェルナーだった。

 ヴィオレッタより二歳年下の十六歳。この一年間は姉と同じ王立エルディア学院へ通っていた。淡い金の髪を白百合の髪飾りで編み込み、薄桃色のシフォンを幾重にも重ねたドレスを身に纏っていた。大きな菫色の瞳は潤み、微笑むだけで周囲の空気をやわらかくしてしまうような少女だった。

 卒業生ではない彼女は、在校生代表の一人として祝賀会へ招かれていた。


 片や聖女のような妹。

 片や悪女と恐れられる姉。


 人は、分かりやすい物語を好む。容姿も纏う空気も正反対の二人は、対立の構図に当てはめやすいのだろう。

 けれどリリアナは、その噂を聞くたび、胸の奥で静かに冷笑していた。

 この世で最も美しく、最も気高く、最も愛おしいお姉様を見てもなお、その価値に気づけない者たちに、お姉様を語る資格などない。


 リリアナの隣には、黒髪に琥珀色の瞳を持つ侯爵令息、ノア・グランヴィルが立っている。彼もまた卒業生で、リリアナの婚約者だった。

 端正な顔立ちだが、笑みは少なく、無駄を嫌う性格から血も涙もないと噂されている。悪い商人と通じているだの、邪魔者を裏から潰しているだの、根も葉もない話は多い。

 実際のノアは、悪事に手を染めてはいない。ただ、非効率なものを切り捨てる判断が早いだけだった。もしも彼の悪事が事実ならば、そんな噂が今でも流れているわけはない。早々に潰されていたはずだ。

 リリアナは、そんな彼を気に入っていた。余計な同情をせず、耳当たりのいい慰めで誤魔化そうともしない。リリアナが姉のためならば平然と他人を踏みつける女だと知っても、幻滅しなかった。

 それどころか、彼は分かりやすくていい、と言ったのだ。その一言で、リリアナは彼との婚約を受け入れた。

 リリアナが柔らかく微笑みを浮かべていると、隣から聞き慣れた低い声が名を呼んだ。


「リリアナ」

「はい、ノア様」

「今、三人ほど消す目をしていた」

「まあ。三人で済んでいました?」

「……正確には五人だ」

「ふふ。控えめにしたつもりでしたのに」

「ああ。私はそういうところも好ましいと思っている」


 リリアナは一瞬だけ言葉を失い、それから白百合のような頬に淡い色をのせた。


「……ノア様は、時々ずるいですわ」

「リリィ。あなたには敵わない」


 二人の声は低く、周囲には届かない。だから誰も知らない。

 聖女と呼ばれる少女が、婚約者の前でだけ、こんなにも自然に毒を吐くことを。

 冷血と噂される青年が、その毒さえも、愛おしそうに受け入れていることを。

 少し離れた場所では、ヴィオレッタが赤黒い扇を閉じていた。繊細なレースの施された扇はヴィオレッタが長年に渡り愛用している逸品だ。その送り主は当然、彼女の婚約者である。


「楽しそうね、あの子」

「ノア殿は相性がよろしいのでしょう」


 エリオットが柔らかく答え、その答えにヴィオレッタは目を細めた。

 誰に対しても同じように微笑む男だと、社交界の者たちは思っている。けれどヴィオレッタは知っていた。彼の優しさは、冬の庭に差す薄い陽光のようなものだ。誰にでも等しく降るが、誰のためにも熱を持たない。

 ただ一人、ヴィオレッタを除いて。


「ヴィオ」

「何かしら?」

「今夜も僕の女神は美しいね」

「まあ。あなたがわたくしを褒め称える言葉は聞き飽きたわ」

「なら、明日はもっと違う言葉を考えるよ」

「ふふふ。ねぇ、毎日言うつもり?」

「六年求婚した男だよ。今さら遠慮を覚えるとでも思う?」


 ヴィオレッタは再度広げた扇で口元を隠した。笑ったことを悟られたくなかったからだ。けれどエリオットは、それだけで満足そうに目を細める。

 彼を善人だと思うのなら、本物の善人に謝った方がいい。

 他人に平等に接するのは、他人に興味がないからだ。誰かに怒るほどの関心もなく、誰かを特別に助けたいとも思わない。ただ、社交上そう振る舞う方が面倒が少ないから、優しく見えるだけである。

 そんな彼の唯一の例外が、ヴィオレッタだった。

 彼はヴィオレッタだけを見ている。ヴィオレッタだけしか見ていない。だから、それ以外はどうでもよかった。

 彼女だけを大切にしたい。彼女のためなら、穏やかな笑みのまま敵を踏み潰せる。


「あなた、今夜は機嫌がいいのね」

「僕のヴィオの卒業祝いだからね」

「わたくしの卒業が、そんなに嬉しい?」

「もちろん! そりゃあね、ヴィオを学院まで迎えに来る口実が減ってしまうのは残念だけど、これからは毎日、ヴィオの隣にいられるだろう?」


 あまりにも真面目な声だったので、ヴィオレッタは今度こそ小さく笑った。卒業してしまえば、待ち受けているのは結婚式。しかし、年上なのもあり、エリオットは既にヴェルナー公爵邸へ身を寄せ、次期公爵の伴侶として現当主から領地経営や政務を学ぶ日々を送っていた。

 現当主のヴィオレッタとリリアナの父から教えを受けているのだ。


 ヴィオレッタの零した笑みは一瞬だった。毒花が夜露を受けて、ほんのわずかに綻ぶような笑み。エリオットはその表情を見逃さず、青い瞳に柔らかな熱を宿した。


 大広間の中央では、卒業生たちが音楽に合わせて踊っている。白薔薇の香り、香水、絹擦れの音、笑い声。祝賀会にふさわしい華やかさの中に、今夜だけはどこか不穏な気配が混じっていた。

 原因は第三王子、ユリウス・アルヴァンである。

 ヴィオレッタやノアと同じ十八歳で今宵の卒業生の一人でもある彼は、金髪に緑の瞳を持つ、華やかで人目を引く青年だった。

 だが、その出生は王宮内でも扱いに困るものだった。彼の母はかつて国王に近づき、騙し討ちに近い形で関係を持った女である。

 王子として認められたものの、王妃にも、第二王子の母である側妃にも歓迎されることはなかった。

 国王に愛されない王子として育ったせいか。それとも、男児を産みながら思い描いた未来を手にできなかった実母から、十分な愛情を与えられなかったからか。

 その歪みが、今夜、リリアナへ向かっていた。

 彼は本気で信じていた。周囲の噂は真実で、リリアナは悪女である姉に抑え込まれ、恐ろしい婚約者に縛られているのだと。

 そして自分こそが、彼女を救えるのだと。

 それが正しいのだと何度も何度も教えられ、いつしかそれは、自分の考えなのだと信じ込んでいた。


「リリアナ嬢」


 ユリウスが近づいてきたとき、リリアナは柔らかく微笑んだ。完璧な、聖女と言われるのも当然の、朗らかで慈悲深い微笑みだった。


「ごきげんよう、ユリウス殿下」


 その声は鈴のように可憐だったが、隣に立つノアだけは、彼女の指先がほんのわずかに冷たくなったのを見逃さなかった。

 ユリウスの背後には、第一王子セドリックと、その婚約者であるミレーヌ・ロゼットがいた。

 セドリックは二十三歳。王妃の実子で、王太子に最も近い存在とされていた。だが、その表情には以前のような自信がない。

 学生時代、彼は公爵家の令嬢との婚約を破棄し、元子爵令嬢だったミレーヌを選んだ。真実の愛を掲げ、多くの者が見守る前で。

 しかし今は違う。

 妃教育が進まないミレーヌ。礼法を軽んじ、政務を退屈だと言い、王族としての責任を理解しようとしない婚約者。冷めきった関係を前に、セドリックはようやく自分の選択が過ちだったと気づき始めていた。

 ミレーヌは赤みがかった茶髪と蜂蜜色の瞳を持つ、可愛らしい女だった。二十一歳という年齢より、どこか幼い印象を与える。

 愛らしい容姿と明るい仕草で人を惹きつけるが、その瞳の奥には、この世界をどこか舞台のように見ている気配があった。


 それも無理はない。彼女は信じているのだ。ここが乙女ゲームの世界だと。

 セドリックはもとよりミレーヌ以外は誰も知ることはないが、ミレーヌは今の生よりも前の生の記憶を持っていた。

 学園に通う直前に記憶を甦らせたミレーヌは、ここが自分の愛した乙女ゲームなのだと心から信じた。

 自分はそのゲームのヒロインで、第一王子を攻略するのは当たり前で、それを成し遂げた。

 そしてリリアナは、続編に登場する聖女ヒロインなのだと、ミレーヌは心から信じていた。

 だから、リリアナは味方につけられる。

 そう思い込んでいた。

 それもあって彼女はユリウスを焚き付けたのだ。ゲームと同じように、愛に飢えていた彼を。


 ミレーヌが第一王子セドリックと第三王子ユリウスに挟まれるような立ち位置から、胸の前で手を組み、「ヒロインらしく」潤んだ目でリリアナに声をかけた。

 自分は味方なのだと訴えるように


「リリアナ様。あなた、本当はお辛いのでしょう?」

「何がでしょうか」

「お姉様や婚約者に縛られていることですわ。大丈夫。私たちはあなたの味方です」


 その瞬間、リリアナの心から温度が消えた。


 ――ああ。この女、お姉様を侮辱しましたわね。


 リリアナの心の中で瞬時に苛烈な怒りが生み出された。ミレーヌは、リリアナが最も許せない一線を、何の躊躇いもなく踏み越えたのだ。

 しかも、その婚約者本人を目の前にしてである。配慮の欠片もない物言いだった。

 ノアが隣でわずかに目を伏せた。彼は知っている。この顔をしたリリアナは、もう相手を人として見ていない。



 ヴィオレッタは少し離れた場所で、エリオットと共に王族の動きを見ていた。彼女の菫色の瞳は、夜の湖のように静かだった。


「始まったようね」

「そうだね」

「あなた、怒っている?」

「もちろん。怒ってないと思った?」


 エリオットは穏やかに微笑んでいる。その笑みは優しい。だが、彼をよく知る者なら、その奥に一片の慈悲もないことに気づいただろう。


「我慢しなくていいんじゃないかなぁ? 参加しちゃう?」

「まだよ。舞台は整えてから潰すものよ。知らなかった?」

「もちろん知ってるよ。なら僕は、幕が上がるまでヴィオの隣で特等席を楽しもうかな」

「いやね。最初からそのつもりでしょう?」

「ヴィオが拒まない限り、これから先もずっと変わらないよ」


 ヴィオレッタは答えなかった。ただ、彼の腕へ添えた手に、ほんの少しだけ力を込める。それだけで、互いの想いを確かめるには十分だった。




 大広間のざわめきが、少しずつ変質していく。ユリウスがリリアナの前に進み出たからだ。


「リリアナ嬢。私はあなたを救いたいんだ」

「救う、ですか?」

「君は姉君に支配されている。そこにいる君の婚約者も恐ろしい男だ。だが、もう怯えなくていい」


 リリアナは瞬きをした。くるりと上向いたまつ毛が震え、華奢な肩が僅かに震えた。

 その仕草は可憐だった。周囲の者たちは、彼女が驚き、怯えているのだと思った。

 実際には全く違う。欠片もかすりもしていない。

 あまりにも理解の及ばない相手を前にすると、人は一瞬だけ言葉を失う。今のリリアナがそうだった。


「殿下。どなたに対して、私が怯えていると?」

「無理をしなくていい。君は優しい。だから、姉君を悪く言えないのだろう」


 リリアナは微笑んだ。美しく、清らかで、聖女のような笑みだった。

 ユリウスとは、最初から最後まで話が噛み合っている気がしなかった。

 言葉が通じない。そう判断しながらも、リリアナは礼儀として微笑みだけは崩さなかった。


「お姉様を悪く言う必要など、一度もございません」


 その声には、白百合には似つかわしくない鋭い棘が潜んでいた。ノアはその棘に気づいた。だがユリウスは気づかない。気づけるほど、彼はリリアナを見ていなかった。

 彼が見ていたのは、自分が救うべき可哀想な少女という幻であり、現実の彼女ではない。

 ミレーヌが一歩前へ出る。まるで、自分こそが物語の主役であると信じて疑わない女優のように。


「リリアナ様、分かりますわ。私も昔、私をいじめる令嬢に苦しめられましたもの。でも勇気を出したから、今こうして幸せを掴めたのです」


 その隣で、セドリックが顔を強張らせた。セドリックがかつて真実の愛を掲げて婚約を破棄してから、五年。

 ミレーヌの口から紡がれる「幸せ」という言葉は、今の彼にはあまりにも空々しく響いた。


 会場の奥では、第二王子アシュレイ・アルヴァンが静かに事態を見守っていた。丁度セドリックとユリウスの中間の年齢である二十一歳の彼は、王族の義務としてこの場に立っていた。

 アシュレイは薄い金髪と灰青の瞳を持つ、穏やかな王子である。彼は王妃の妹である側妃から生まれた。王妃が第一王子を産んだ後、もう子を望めぬと分かったため、国王に召し上げられた女性だった。

 その決定には反発もあったが、王家と生家との結びつきをより強固なものとするための政略でもあった。

 確実にその血を残す為に、セドリックに何か起きても大丈夫なように。アシュレイの母は政治的に必要とされて召し上げられた。

 王妃と側妃は、今も姉妹仲が良い。

 だからこそ王妃は、妹に対して深い申し訳なさを抱えている。二人目を望めるからだであれば、妹は側妃ではなく誰かの唯一の妻になれたのに、と。

 アシュレイはその事情を知って育った。王家の都合で人の人生が変わることを、誰よりも近くで見てきた。

 だからこそ彼は、人の人生を勝手に決めつける者を、何より嫌っていた。

 救済を口にする者ほど、信用ならないものはない。救うと言う者ほど、相手を見ていないことがある。


「ユリウスは止まらないな」


 アシュレイは低く呟いた。異母兄のセドリックは二人を制御しきれていない。国王と王妃の入場はまだで、王子たちの役目は、緊張する卒業生たちの心を解きほぐすことだった。

 それなのに、現状は緊張を解すどころか、別の緊張を生み出していた。

 アシュレイはセドリックを兄として慕い、スペアであることを受け入れていた。五年前までは。その信頼を裏切ったのは兄自身の手であった。

 視線の先で、ユリウスは高らかに言った。


「ヴィオレッタ・ヴェルナー公爵令嬢。あなたの妹への支配、そしてレインフォード伯爵令息との不当な婚約について、ここで明らかにさせてもらう」


 大広間の空気が凍った。目に見えない薄氷が張り詰めたように、誰も迂闊には動けなかった。


 卒業祝賀会で、王子が公爵令嬢を糾弾する。それは一夜の騒動では終わらない。それを大人たちは五年前に経験していた。

 セドリックの顔色は益々悪くなっていた。客観的に五年前の光景を、今、まさにこの瞬間突きつけられたのだから。

 五年前の卒業祝賀会でセドリックは公爵令嬢だった婚約者を断罪したのだ。

 彼にとっては悪夢の再演だろう。


 ヴィオレッタはゆっくりと歩み出た。赤黒いドレスの裾が、夜に咲く毒花のように静かに揺れる。

 その隣にはエリオットがいた。半歩後ろではない。伴侶として当然のように、彼女の隣に立っている。


「不当な婚約、ですか」


 祝いの席で突然糾弾されたにもかかわらず、ヴィオレッタは微塵も動じなかった。


「殿下は、どの権限に基づいて我が公爵家の婚約へ異議を唱えておいでですか」


 その声は静かだった。怒鳴り声ではない。震える声でもない。白薔薇の大広間に残る音楽の余韻を、細い銀の刃で断ち切るような声だった。


 ユリウスは一瞬、言葉に詰まった。彼は王子である。王族である。その身分だけで、多くの者は頭を垂れ、道を譲り、問い返すことすらしなかった。

 王族の中で愛されることはなくとも、彼が紛れもない王子であることに変わりはない。

 けれど、ヴィオレッタ・ヴェルナーは違う。彼女は次期公爵である。王家に仕える臣下ではあっても、王子の感情に従う人形ではない。


「私は王子だ」


 ようやく絞り出した言葉は、あまりにも弱かった。

 ヴィオレッタは扇を持つ指をわずかに動かした。嘲笑ではない。ただ、不要なものを一つ脇へ避けるような仕草だった。

 淑女は扇で感情を示す。表情は笑みを浮かべ続ける代わりに、扇が、指が、気持ちを示す。

 その点でミレーヌは淑女とは言い難かった。

 ぼんやりとした頭で、セドリックはようやく気づく。かつての婚約者も、ヴィオレッタも、ああして扇一つで感情を伝えていたのだと。

 当時は、それを薄気味悪い作り笑いだとしか思えなかった。

 それを淑女の嗜みとしたのは、男たちが築いた歴史である。


「王子であることと、公爵家の契約に介入する権限は別物です。それとも、国王陛下の正式な命をお持ちですか?」

「それは……」

「ないのですね」


 大広間の空気が僅かに変わった。張り詰めた薄氷に小さな罅が入る。

 先ほどまで、ユリウスの張り上げた声に飲まれていた者たちが、ようやく落ち着きを取り戻す。

 これは可哀想な聖女を救う美談などではない。王族による、根拠なき公爵家への干渉である。

 ヴィオレッタは悪女という噂があった。伯爵家の心優しい令息を無理やり婚約者にした。可憐でまるで聖女のような妹を虐げる酷い姉だ、と。

 しかし、被害者と思われていた二人はヴィオレッタを悪女だと一度も言ったことはなかった。

 そもそもの話、まだ未成年のヴィオレッタが社交界で「悪女」と噂されることがおかしいのだと、漸く大人たちは気付いた。

 噂はどこから出たのだ。


 ユリウスは大きな声を上げて注目を集めて押し切ろうとしたが、それは上手くいかないどころか失敗した。

 だからだろう。己の理想の展開に持ち込みたいミレーヌが焦ったように声を上げた。


「でも、リリアナ様は苦しんでいます!」


 彼女の記憶の中で、ゲームのシナリオでは第三王子の卒業祝賀会で悪役令嬢ヴィオレッタを断罪し、冷酷な婚約者ノアから救われたリリアナが、いずれ王妃となるミレーヌを支える展開になっていた。

 助けられたリリアナが口添えしてユリウスの協力をしていたミレーヌに感謝するのだ。

 王太子妃、そして、王妃になるためにはリリアナの協力が不可欠だと考えたミレーヌの暴走。


 そんなミレーヌの醜態など素知らぬようにヴィオレッタは妹を見た。その瞬間だけ、夜の湖のようだった瞳に、ほんの少しだけ柔らかな光が差した。


「わたくしの可愛いリリアナ。あなたは苦しんでいるの?」

「いいえ、お姉様。少なくとも、お姉様とノア様に関しては何一つ」


 リリアナは花が綻ぶように可憐に笑った。それを横目で見ていたノアが隣で小さく息を吐いた。

 最愛のお姉様から「わたくしの」「可愛い」と、リリアナが何より喜ぶ二つの言葉を続けて贈られたのだ。こうなるのも当然だった。


 リリアナが姉に捧げた心からの笑みを、正面から見てしまったユリウスは顔を赤くした。

 だからこそ彼はリリアナを救わねばならないと考え、またもや大声を出した。


「君は洗脳されている!」


 もしも、ユリウスの置かれた環境を、誰か一人でも理解していたならばこう言っただろう。

――あなたこそ、ミレーヌに洗脳されていますよ。

 と。


 リリアナの笑みが瞬時に消えた。

 大広間の温度が、一段下がったように感じられた。燭台の炎は変わらず揺れている。白薔薇の香りもそのままだ。けれど、その場にいた誰もが、春の夜へ、不意に冬の風が吹き込んだような感覚を覚えた。


「殿下。私の意思を、勝手に奪わないでくださいませ」


 その一言は短かった。けれど、ユリウスが描いていた美しい救済の絵を破るには十分だった。

 リリアナは一歩前に出た。薄桃色のドレスをまとった、白百合のような少女。社交界が聖女と呼んだその令嬢は、まっすぐに王子を見上げていた。


「私はお姉様を愛しております。尊敬しております。お姉様の才覚も、覚悟も、冷酷さも、すべて。お姉様が次期公爵として非情な決断をなさることを、私は誇りに思っています」


 大広間に沈黙が落ちた。宮廷音楽家ですら、次の一音を奏でることをためらうほどの静寂だった。

 その中で、聖女と謳われたリリアナはゆっくりと口角をあげた。


「それを支配と呼ぶのなら、殿下の目は節穴ですわ」

「リリアナ嬢、君は……」

「気安く名を呼ばないでくださいませ。私を名で呼んで良いのは家族とノア様、ついでにエリオット様だけです」


 ユリウスの唇が震えた。

 可憐な声が紡ぎ出す拒絶は残酷なほど鮮やかだった。

 ミレーヌが一歩後ずさる。彼女の蜂蜜色の瞳には、理解できないものを見る恐怖が浮かんでいた。


「おかしいわ。あなたは聖女ヒロインのはずでしょう? 悪女の姉に苦しめられて、王子に救われて、そして……」

「ミレーヌ」


 セドリックが低く呼んだ。

 元々ミレーヌはセドリックには分からないことを言う時があった。それでも愛があったから気にしなかった。

 だが、幻想は晴れていき、現実と直面するようになったセドリックに、ミレーヌの異常さがようやく伝わってきたのだ。

 「聖女」とはあくまで社交界の比喩にすぎない。本来、聖女とは教会が死後に列聖する称号であり、生きているリリアナがそう呼ばれることはあり得ない。

 セドリックの声には、疲労と後悔が滲んでいた。だがミレーヌは止まらない。彼女の中では、世界はすでに決まった物語だった。決められた役割があり、決められた結末があり、自分はそれを知る特別な存在であるはずだった。

 だから、目の前の人間が役割から外れることを、彼女は許せなかった。


「悪女は断罪されるの。ヒロインは救われるの。そう決まっているのよ」


 ヴィオレッタは冷ややかに彼女を見た。


「ここは物語ではありませんわ」

「そして私は、あなたのヒロインではありません」


 最愛のお姉様の言葉に続いたリリアナの声は凍てつく氷のように冷ややかなものであった。

 ノアが懐から書類を取り出した。几帳面に折り畳まれた書類を、静かな所作で開いていく。

 彼の動きには一切の無駄がない。まるで、最初からこの瞬間に差し出すためだけに用意されていたかのようだった。


「ついでに申し上げますが、私が悪事に手を染めているという噂の出所も調査済みです。三件はミレーヌ様の茶会、二件はユリウス殿下の側近、残りは第一王子宮の侍女経由でした」


 ミレーヌの顔色が変わった。それが事実でなければ焦る必要は無いのだが、事実だったからこそ問題でしかなかった。


「な、何を……」

「効率が悪いので、証拠の写しは各家に送付済みです。原本は王宮法務官に」

「そんな、勝手に」

「虚偽を流すのは勝手ではなく、調査することだけが勝手だと?」


 ノアの声は淡々としていた。怒りも嘲りもない。ただ、事実を整然と並べる声である。

 その冷たさが、かえって恐ろしかった。

 ミレーヌは第一王子の婚約者ではある。だが、それだけだった。妃教育を修めた者には準王族として扱われる立場が与えられる。しかし、彼女はまだそこへ至っていなかった。

 一方のノアはグランヴィル侯爵家の嫡男で、在学中にお披露目も済ませている。

 立場としてはミレーヌよりも遥かに上のノアを侮辱しており、貴族における身分の序列を蔑ろにしていることは明白であった。

 ユリウスの側近も同じである。少なくともノアに匹敵する立場のものはいない。

 誰も彼も考えが甘すぎる。貴族として生きるために必要な知識が不足していると言わざるを得ないだろう。

 ノアを見上げたリリアナの瞳は、星を映したように輝いていた。彼女がただ守られるだけの儚い存在ではないことを教えてくれる。


「ノア様、いつの間に」

「君が二度目にあの方を嫌いだと言った日からだな」

「まあ。私の言葉を覚えていてくださったの?」

「婚約者の嫌悪対象を把握するのは当然だろう?」

「好きですわ、そういうところ」


 リリアナの感情を込めた愛の言葉を耳にして、ノアは少しだけ目を伏せた。


「知っているさ」


 そこに込められたのは場にそぐわぬ甘さだった。けれど、その甘さは柔らかなだけではない。刃を握った者同士が、互いの手の温度だけを確かめるような、静かで危うい親密さだった。

 それまで影のようにヴィオレッタの横に控えていたエリオットが一歩前に出た。


「僕からも一つ。僕がヴィオレッタ様との婚約を強いられている、という噂についてですが」


 彼は懐から古い封筒を取り出した。厳重に保管されていたのだろう。封蝋は古びていたが、紙には皺一つない。


「求婚したのは僕です。六年前から、毎年」


 会場の一部から、信じられないというざわめきが起きた。ヴィオレッタがわずかに視線を逸らす。傍目には分かりづらいが、隣にいるエリオットにはヴィオレッタの白い肌がほんのりと赤く染まる変化に気付いた。


「今、それを言う必要があって?」

「あります。僕は無理やり婚約者にされた哀れな男ではないからね」


 エリオットは穏やかに微笑んだ。

『春風の君』と呼ばれた穏やかな微笑み。そのはずだった。同級生たちは、その違いに初めて気づいた。

 違ったのだ。笑みの種類が。

 今彼が浮かべているのはヴィオレッタの心を和ませる為の柔らかな春風だ。過去に彼らが見ていたものは、ただ春の陽気な日にたまたま吹いただけの風だと分からされてしまった。


「ヴィオレッタ様は毎年、僕の求婚をお断りになりました。僕は毎年、申し込みました。最終的に受け入れていただけたので、僕の粘り勝ちです」

「もう。その言い方はおやめになって」

「事実だからね」

「あなた、恥というものをどこに置いてきたの」

「六年前、あなたに初めて求婚した日に」


 ヴィオレッタは扇で口元を隠した。つん、と顔を逸らしたものの、笑ったのだと、エリオットだけが分かった。

 彼はその小さな勝利に満足して、けれど次の瞬間には青い瞳から熱を消した。


「僕はヴィオレッタ様を望んでいます。彼女が悪女と呼ばれていることも、次期公爵として苛烈であることも、必要なら非情な判断を下すことも、すべて知った上で」


 穏やかな伯爵令息。

 誰にでも優しい春風の君。

 その仮面の下にあるものが、今、初めて大広間に晒された。


「彼女を勝手に憐れみ、僕を勝手に不幸だと決めつけ、挙げ句の果てに婚約を壊そうとした。その無礼を、僕は許すつもりがありません」


 声は荒げていない。けれど、そこにいた者たちは思い知った。彼は優しいのではなく、どうでもいい相手に、怒る労力を使わなかっただけだ。

 ヴィオレッタが静かに扇を閉じた。隠していた口元が現れたが、既に淑女の仮面を被っていた。

 次期公爵として幼い頃から厳しく教育をされていた彼女は、己の手で事態を収められるだけの実力を持つ。だからこそ、当主である父はこの騒動に割り込みはせずに様子を見ているはずだ。

 たかがこれだけのことを処理出来なければ、権力を有する公爵家の跡取りにふさわしくないと判断されるだろう。

 扇の閉じる乾いた音が、近くにいた者の耳に届いた。


「ユリウス殿下。ミレーヌ様。あなた方が今夜なさったことは、卒業祝賀会における公爵家への名誉毀損、婚約契約への不当介入、そして複数貴族への虚偽流布です」


 彼女は淡々と告げる。

 ミレーヌはゲームと同じように断罪劇を起こそうとした。彼女の目に現実は見えないまま、人々が血の通った人間であり、思考するということも考えず。

 最後まで一人の人間としてではなく、物語の登場人物としてしか見なかった。その時点で、この結末は決まっていた。

 否、元々起こしてはならなかったのだ。

 ここはゲームの世界ではなく、どこまでも現実でしかないのだから。


「ヴェルナー公爵家は、正式に抗議いたします」


 その言葉は、断罪より重かった。

 王族に対する公爵家の正式抗議。それは王宮内の権力均衡を揺らす。王子が若さゆえに騒いだ、では済まされない。公爵家の後継を公衆の面前で侮辱し、二つの婚約に介入し、さらに虚偽の噂を流布した疑いがある。

 祝賀会の空気は、もはや華やかな夜会のそれではなかった。

 祝われ成人として一歩を踏み出すはずだった卒業生達の見る目は厳しい。

 確かにヴィオレッタは学院でもその顔立ちや厳しい物言いから敬遠されていたが、このような場で断罪されるべきではないことくらい分かっていた。

 一生に一度しかない大切な一夜を台無しにされた卒業生達は、燻る気持ちの行き場を失いかけていた。

 白薔薇は相変わらず美しく咲いている。水晶の灯火も変わらず輝いている。けれど、その光は今や、罪を照らし出す冷たい月光のようだった。


「私が証人となる」


 奥から静かな声がした。それまで様子見をしていた第二王子アシュレイ・アルヴァンが歩み出る。薄い金髪に灰青の瞳。派手さはないが、その落ち着きには、王族としての重みがあった。

 ユリウスが慌てたように振り返る。ユリウスは己が好意を寄せていたリリアナを助けたかった。未来の義姉がそうあるべきだと繰り返したことも大きかった。

 彼は、セドリックのように真実の愛でリリアナを助け出し彼女の英雄になりたかった。それだけだったのだ。


「兄上!」

「私は今夜の一部始終を見ていた。ユリウス、お前に公爵家の婚約へ介入する権限はない」

「でも、私は……」

「救いたかった、か」


 アシュレイの声は静かだった。兄に信頼を裏切られてから、アシュレイは思慮深くなった。王族は無責任こそ罪であると、それを突きつけたのは兄だった。


「相手の意思を聞かずに差し伸べる手は、救いではない。ただの支配だ」


 ユリウスは言葉を失った。その横で、セドリックがかすれた声で言った。幻想から解き放たれた彼は、過去を思い出していた。


「ミレーヌ。君は、また同じことをしたのか」

「またって、何よ」

「かつて私の婚約者を悪役だと決めつけた。今度はヴィオレッタ嬢を悪女と決めつけ、リリアナ嬢を味方だと思い込んだ」

「だ、だって、そういう物語なのよ!」


 叫んだ瞬間、会場は静まり返った。ミレーヌだけが、自分の失言に気づいていなかった。


「私は間違っていないわ。前もそうだったもの。悪役令嬢は断罪されて、ヒロインは王子に選ばれる。だから今回だって、聖女は王子を選ぶはずなのよ」


 ブツブツと妄言を繰り返すミレーヌに余裕はなかった。周りが彼女にどんな視線を向けているのかを気に出来なかった。

 セドリックの顔から、わずかに残っていた血の気が引いた。彼はようやく理解した。

 ミレーヌは自分を愛して選んだのではない。彼女にとって彼は、勝ち取るべき王子という役割でしかなかったのだ。

 そして自分もまた、かつて同じように、人を見ず、表面だけを見て選んだ。愚かだった、あまりにも。


 ヴィオレッタはミレーヌを見つめる。ミレーヌよりも三歳年下のヴィオレッタだが、ミレーヌよりも遥かに完成された淑女であり、確かに物語に出てくる「悪女」のようでもあった。

 赤く塗られた唇から発せられた言葉は、まるで見えない刃のように容赦無く振り上げられた。 


「あなたが信じる物語の中で、悪女は断罪されるのでしょう」

「そうよ」

「では、現実を教えて差し上げます」


 その菫色の瞳に、赤黒い薔薇を思わせる妖しい光が宿った。


「現実では、備えた者が勝つのです」


 大広間の扉が静かに開いた。

 エリオットはヴィオレッタの隣に立ち、リリアナは姉の少し後ろで、白百合のような顔をして微笑んでいた。

 その微笑みは、清らかで、愛らしく、そして恐ろしい。

 ユリウスとミレーヌは、ようやく悟り始めていた。自分たちは、救う相手を間違えたのではない。

 敵に回す相手を、根本から間違えたのだ。

 王宮法務官たちが大広間へ入ってきた瞬間、祝賀会は完全に終わった。

 音楽は止み、踊っていた者たちは壁際へ退いた。白薔薇の香りだけが、場違いなほど甘く漂っている。春の夜のために磨かれた大理石の床には、水晶灯の光が冷たく揺れていた。つい先ほどまで祝福に満ちていたはずの広間は、今や罪を裁くための法廷に似ていた。


 国王陛下と王妃殿下は臨席を控えられるとの沙汰が下った。両陛下がこの場で言葉を発すれば、その一言一句が正式な記録となってしまうためである。


 ノア・グランヴィルが差し出した書類は、法務官の手に渡った。封蝋、署名、証言の写し、茶会での発言記録、口止め料などの金銭の流れ。そこには余分な装飾が一つもない。怒りを混ぜれば曇るものを、彼は徹底して感情を取り除き事実だけを纏めていた。


 ミレーヌ・ロゼットは青ざめていた。けれど、なおも自分が敗北したとは理解していない顔だった。彼女の世界では、悪女は最後に断罪される。ヒロインは最後に選ばれる。王子は必ず、自分を愛する。その物語だけが彼女を支えていた。

 けれど現実は、彼女を支えない。


「これは、どういうことだ」


 セドリック第一王子の声はかすれていた。法務官の一人が頭を下げる。

 彼らは賄賂では決して動かない。それだけの信頼を積み重ねてきた法務官たちだった。懐柔など出来ない法務官は、証拠だけでなく、それを裏付ける証言まで確認を終えた上で、この場へ臨んでいる。

 ノアがこの日に合わせて入念に準備をしていたのだ。

 最愛のリリアナとその姉の悪評を、本格的に社交界に出る前に撤回させるつもりで。

 あくまでも偽りに関してだけである。二人の性格の悪さは事実なのでその点は撤回も何もない。


「ミレーヌ様の茶会にて、グランヴィル侯爵令息およびレインフォード伯爵令息に関する虚偽の風説が複数回流布された記録がございます。また、ユリウス殿下の側近方からも同様の証言が確認されております」


「嘘よ! だって、私はただ、皆が知っていることを……」

「皆が知っている、ですか」


 ミレーヌの震える声を遮るようにヴィオレッタの声が落ちた。

 その声には怒りがなかった。だからこそ、聞く者の背筋を撫でるような冷たさがあった。


「噂を真実に変えるのは、声の大きさではありません。証拠ですわ」


 ミレーヌはヴィオレッタを睨んだ。彼女はここがゲームの世界であると信じ、リリアナが続編のヒロインだと考えていた。

 ミレーヌの中では、自分の物語は終わっていなかった。

 リリアナは続編の主人公。だから自分は彼女の味方となり、未来の王妃として迎えられる。そう信じて疑わなかった。

 だが、その前提そのものが間違っていた。


「あなたは、悪女でしょう」

「ええ。そうですわね」


 ヴィオレッタはあっさりと頷いた。


「私は悪女と呼ばれております。気に入らぬ相手には容赦がない。不要な情けはかけない。次期公爵として、守るべきもののためなら非情な判断もいたしましょう」


 赤黒い扇が、彼女の指先で静かに閉じられていた。


「ですが、それとあなた方の虚偽が許されることは別です」


 白薔薇の大広間に、誰一人として反論できない沈黙が落ちた。

 リリアナはうっとりとお姉様の横顔を見ていた。夜の毒花のように美しいお姉様。怖い、と人は言う。冷たい、と人は言う。けれどリリアナは知っている。お姉様の冷たさは、人を傷つけるためのものではない。守るために必要な刃を、誰よりも早く握れる人なのだ。

 だからリリアナは、お姉様を愛している。敬愛している。お姉様が悪女ならば、己も悪女でありたい。いや、お姉様とお揃いの悪女。

――ああ、ああ! なんて素敵なのだろう!


「ミレーヌ様」


 リリアナは柔らかく呼んだ。その声だけを聞けば、聖堂で祈りを捧げる少女のようだった。


「あなたは私を、続編のヒロイン、と仰いましたね」


 ミレーヌの唇が震えた。かたかたと震えるミレーヌは、底知れぬリリアナの笑みに圧倒されていた。


「だって、あなたは……」

「続編とはなにかは分かりません。ミレーヌ様がお読みになられた物語に私を投影したのでしょうか? ですが、私は私です。お姉様の妹で、ノア様の婚約者で、ヴェルナー公爵家の娘です。どなたかの物語を完成させるために生きているわけではございません」

「で、でも」

「それから。私を味方につければお姉様を追い詰められると考えたのなら、あなたは本当に、人を見る目がございません」


 その笑みは可憐だった。可憐で、清らかで、底がない。


「私はお姉様の味方です。お姉様が正しくても、間違っていても、必要ならば地獄の底までお供しますわ」

「その場合、私も同行するからな」

「あら。ノア様まで?」

「婚約者だから当然だろう?」

「地獄でも?」

「君がいるなら、退屈はしないだろう。地獄の底でいつまでも踊ろうか」


 リリアナは一瞬、聖女の仮面を忘れた。

 熱烈で、深い愛を全身に注がれている。

 白百合のような頬へ、ふわりと朱が差した。ミレーヌもユリウスも、周囲の視線も、断罪の場であることすら、その瞬間だけ彼女の意識から遠のいた。


「……本当に、ずるい方」

「褒め言葉として受け取っておこう」


 二人の声は静かだったが、その親密さは隠しきれなかった。誰もがようやく理解する。リリアナは哀れな少女ではない。ノアは恐ろしい婚約者ではない。二人は互いの本性を知り、その上で並んでいる。

 それは、救済を必要とする関係ではなかった。ユリウスは拳を握りしめた。


「違う。そんなはずはない。リリアナ嬢、君は優しいはずだ。君は私を拒絶するような人では……」

「ユリウス」


 アシュレイが静かに遮った。弟の独り善がりを止めてやりたかった。


「まだ分からないのか。お前が見ているのは、リリアナ嬢ではない。お前の願望だ」


 ユリウスの緑の瞳が揺れる。

 愛されなかった王子。母の罪を背負わされ、王宮で居場所を持てず、それでも自分だけは誰かを正しく救えると思いたかった青年。彼の歪みは、憎しみだけでできていたわけではない。哀れみも、孤独も、承認への飢えも混じっていた。

 だが、それでも、誰かの孤独は、他人の人生を奪ってよい理由にはならない。


「私は、救いたかっただけだ」


 ユリウスの声は、先ほどよりずっと小さかった。ヴィオレッタは彼を見た。


「救うとは、相手の声を聞くことから始まるものです。殿下は一度でも、リリアナに尋ねましたか。あなたは本当に苦しいのか、と」


 ユリウスは答えられなかった。

 リリアナは一度も助けを求めていない。苦しいとも言っていない。姉を悪く言ったことも、婚約者を恐れたこともない。

 何よりも、ユリウスは今日この場に至るまで、まともにリリアナと話したことはなかった。ただ、周りの者にリリアナへの好意を伝えただけだ。

 それだけで周りは勝手にユリウスの心情を察して動くだけ。

 すべては、彼が勝手に作り上げた筋書きだった。


 法務官たちの確認は続いた。

 ユリウスの側近が流した証言には、ミレーヌの言葉が根拠として使われていた。ミレーヌの茶会では、第一王子宮の侍女が出入りし、貴族令嬢たちに意図的な噂を広めていた。第一王子セドリックは直接命じてはいない。だが、己の婚約者と宮の者を御せなかった責任は免れない。

 セドリックは黙ってそれを聞いていた。

 彼の脳裏には、かつて自分が切り捨てた元婚約者の姿があった。彼女もまた、あの日、悪役のように扱われた。自分はミレーヌの涙を信じ、婚約者の沈黙を罪と決めつけた。愛を選んだつもりで、ただ責任から逃げた。

 今になって、ようやく分かる。沈黙は罪の証ではない。泣かない女が、傷ついていないわけではない。

 普段泣かないからこそ、その涙には重さがある。

 あの日、元婚約者が流したたった一筋の涙が、今になって胸へ重く落ちる。対照的に、ミレーヌの涙は、もう彼の心を揺らさなかった。


「私は、間違えたのだな」


 セドリックの声は、誰に向けたものでもなかった。ミレーヌが彼を振り返る。


「セドリック様?」

「君を選んだことだけではない。選び方を間違えた。見ようとしなかった。聞こうとしなかった。あのときも、今も」


 ミレーヌの顔が歪んだ。今にも泣きそうな顔。かつてはその涙を流さないように、笑顔でいて欲しかったが、いまやそのようにしようとは思えなかった。


「そんな言い方、ひどいわ。私はあなたのために」

「私のためではないだろう?」


 セドリックは初めて、はっきりと彼女を見た。現実に戻ってきたセドリックの眼差しはとても厳しいものだった。


「君は、君の物語のために動いたのだ」


 ミレーヌは言葉を失った。

 大広間の奥で、扉が再び開いた。国王の代理として、王宮長官が姿を見せる。すでに報告は上がっていたのだろう。彼はアシュレイへ一礼し、法務官から簡潔な説明を受けた。

 その後の決定は、華やかな祝賀会にはあまりにも重いものだった。

 ユリウスは、王位継承順位を大きく下げられ、離宮での謹慎と側近団の解体を命じられることになった。彼の側近たちには、それぞれ実家を通じて処分が下る。

 ミレーヌ・ロゼットは、第一王子婚約者としての資格を停止され、妃教育の不履行、虚偽流布、王族婚約者としての品位失墜を問われる。第一王子セドリックとの婚約は白紙に戻され、ロゼット家には厳しい調査が入る。

 セドリックもまた、監督不行き届きと過去の婚約破棄にまつわる再審査のため、王太子候補から外されることが告げられた。

 ミレーヌは崩れ落ちるように膝をついた。


「どうして……私は、ヒロインなのに」


 誰も答えなかった。答える必要がなかった。

 この世界には、彼女の思い込む役割など存在しない。人は物語の駒ではない。王子も、公爵令嬢も、聖女と呼ばれる妹も、誰かの筋書き通りに生きるためにここにいるのではない。

 アシュレイは静かに目を伏せた。

今夜の姿を見れば、この先、王家が誰へ重責を託そうとするのか。居合わせた者たちは、おぼろげながら悟っていた。

 複雑な出生を持ちながら、誰よりも王家の歪みを冷静に見ていた青年。

 彼はユリウスのように救済を叫ばず、セドリックのように恋に目を眩ませず、ただ必要な時に必要な証言をした。

 それが、今夜の王家に残された唯一の救いだった。


 やがて、ユリウスは側近たちと共に連れて行かれた。ミレーヌもまた、侍女に支えられながら退場する。セドリックは最後まで何も言わなかった。ただ一度だけ、ヴィオレッタとリリアナに深く頭を下げた。

 そこに謝罪の言葉はなかった。

 今さら言葉で許しを請うことが、どれほど軽いかを、ようやく理解したのだろう。

 白薔薇の大広間には、複雑な感情が静かに漂っていた。

 音楽は鳴らず、誰も踊りを再開しようとはしなかった。祝賀会の終わりとしては、あまりにも歪で、あまりにも忘れ難い夜だった。

 ヴィオレッタに動揺の色はなかった。

 彼女は王宮長官へ正式な抗議文の提出予定を告げ、法務官へ証拠の扱いを確認し、関係各家への連絡順を簡潔に指示した。その姿は十八歳の卒業生ではなく、すでに公爵家を背負う者のそれだった。


 冷酷な悪女。


 誰かがまた、ひそりと囁いた。

 ヴィオレッタは振り返らない。その代わり、エリオットがそちらを見た。最愛の人を貶した者に対して、ただ微笑んだだけだった。

 それだけで、囁いた者は青ざめて口を閉じた。


「もう。エリオットったら」

「なにかな?」

「脅さないであげて」

「微笑んだだけだよ?」

「あなたの微笑みは、時々刃物より物騒なのよね」

「それは光栄だなぁ」

「褒めていないわ。まったく、どうしてわたくし以外にはそうなのかしら」

「ヴィオに見てもらえたから、褒美と受け取るね」


 ヴィオレッタは呆れたように息を吐いた。だが、扇で隠した口元はかすかに緩んでいた。その小さな変化に気づいたのは、今日もまたエリオットだけだった。

 その後、四人は大広間を出て、白薔薇の庭園へ向かった。

 月は高く、庭園の噴水には銀の光が落ちていた。薔薇の生垣は夜風に揺れ、花弁の影が石畳に淡く散っている。遠くではまだ人々のざわめきが続いていたが、庭園の奥まった一角だけは、世界から少し切り離されたように静かだった。

 二手に別れた後、東屋のベンチに腰を下ろしたヴィオレッタは深く息を吸った。夜気に混じる白薔薇の香りは甘い。甘すぎて、少し毒に似ている。


「疲れちゃった?」

「少しだけね。まさか糾弾されるとは思わないでしょう?」

「それはそうだよね。じゃあ帰ろうか」

「まだ後始末が残っているわ」

「明日でも出来ると思うんだけど?」

「明日では遅いものもあるわ。こういうのは早く済ませておいた方がいいのよ」

「それなら僕が代わりにするよ。君の手を煩わせる必要はないよね?」


 ヴィオレッタはエリオットを見上げた。彼の眼差しは、ヴィオレッタに向けられた時だけ熱を持っていた。


「あなた、わたくしを甘やかしすぎよ。駄目になってしまうわ」

「六年待ったからね」

「それは理由になるの?」

「僕にとってはね。だから、駄目になってくれていいんだよ」


 エリオットは彼女の手を取った。手袋越しの触れ方は礼儀正しく、けれど指先に込められた熱だけは、隠す気がないほど甘かった。


「ヴィオはいつも、先に立とうとするよね。公爵家を背負い、妹君を守り、領地を見て、敵を斬る。だけど、僕の前でまで一人で立たないで」


 ヴィオレッタは何も言わなかった。彼の言葉を途中で遮るほど、無粋ではない。

 噴水の水音が、銀糸のように夜へ落ちていく。


「僕は、ヴィオの隣に立つために求婚したんだよ。君を後ろへ下げるためでも、飾るためでもない。ただ、君が剣を持つなら、僕は鞘にも盾にもなるからね」

「ずいぶん重い愛ね」

「軽いものが好き?」

「いいえ。嫌いではないわ。違うわね。その重さがいいの」


 エリオットの青い瞳が柔らかく細められる。


「それは、ほとんど愛の告白だよね」

「違うわよ。あなたへの返答よ。それだけだわ」


 ヴィオレッタは扇を持っていない方の手で、そっと彼の指を握り返した。

 それはとても小さな仕草だった。けれどエリオットにとっては、今夜のどんな言葉よりも甘い返答だった。


 少し離れた場所で、リリアナが白薔薇を見つめていた。

 薄桃色のドレスは夜の中で淡く光り、編み込まれた金髪の白百合飾りが月を受けて揺れている。誰が見ても、そこにいるのは清らかな少女だった。先ほどまで王子を冷たく切り捨て、敵を排除すると宣言した女には見えない。

 ノアはその隣に立った。


「寒くないか?」

「少し。でも平気です」

「東屋に行かないのか?」

「お姉様がエリオット様と二人でお話ししていますもの。邪魔したくありません」


 庭園の向こう、東屋に並ぶ二つの影は、夜に咲く毒花へ寄り添う月光のようだった。


「まだエリオット殿が嫌いですか」

「嫌いですよ、もちろん」


 リリアナは即答した。あまりにも潔すぎて、表情が変わりにくいノアが思わず笑ってしまう勢いだった。


「だって、お姉様を奪う方ですもの」

「だけど認めてはいる、と」

「……お姉様が、あの方といる時だけ少し休むから……だから、少しだけ許してあげているんです」

「少しだけ?」

「本当に少しだけですよ」


 ノアは口元に手の甲を押し当てながら笑った。

 一番年上のエリオット、その下のノアとヴィオレッタ、一番年下のリリアナの四人は正式な婚約を結んだ後から四人で頻繁に交流をしていた。

 リリアナがエリオットに何度も噛み付いてはいなされるのを見てきた。彼は伯爵家出身だが、格上の面々に臆すことはない。

 彼にとって大事なのは一目惚れをしてからずっと愛を捧げてきたヴィオレッタのみ。

 その他は平等にどうでも良いが、ヴィオレッタが可愛がっているリリアナは少しだけ特別で、ノアのことは邪魔をしないしリリアナの手綱を引くものとして見ていることくらい分かっている。

 つくづく癖が強いものばかりである。


「君は本当に分かりやすいな」

「ノア様にだけです」 リリアナはそう言ってから、自分の言葉に気づいたように頬を染めた。ノアはその反応を見て、珍しくはっきりと口元を緩める。


「それは嬉しいことだな」

「からかわないでくださいませ」

「本心だが?」

「なお悪いです」


 夜風が吹き、白薔薇の花弁が一枚、リリアナの肩に落ちた。ノアはそれをそっと摘み上げる。彼の指先は冷たそうに見えて、触れ方は驚くほど丁寧だった。

 リリアナは白薔薇を見つめながらぽつりぽつりと言葉を零す。


「ノア様。今日、怒りましたか?」

「ああ。腸が煮えくり返るとはこのことかと思ったな」

「私のためですか?」

「君と、君が大切にするもののためにだな」

「その中にはお姉様もいましたか?」

「当然だろう。君の世界の中心は彼女だろう?」


 リリアナは視線を白薔薇からノアに移し、彼を見つめた。


「私が、お姉様ばかり大切にしても?」

「君がヴィオレッタ嬢を大切にするところも含めて、私は君を好ましく思っているよ」

「私、面倒な女ですよ。苛烈だし、たぶん、優しくもありません」

「全部知った上で、私は君がいいんだよ」


 リリアナの瞳が揺れた。

 彼女は聖女の仮面をかぶることに慣れている。優しく、清らかで、誰も傷つけない少女。そう見せることは簡単だった。けれど、その仮面を外したあとに残る自分を、誰かが好ましいと言ってくれるとは思っていなかった。

 お姉様は別だ。お姉様は自分のすべてを知っている。

 けれど、婚約者であるノアが、同じように目を逸らさないことが、リリアナには少しだけ怖く、そして嬉しかった。


「ねえ、ノア様。私は、あなたのことが好きです」


 短い言葉だった。けれど、リリアナにとっては勇気のいる言葉だった。

 ノアは一瞬だけ黙った。それから、白薔薇の花弁を持っていない方の手で、彼女の指先に触れる。


「知っていたよ」

「そこは、私も好きです、と返すところでは?」

「では、改めて」


 彼はリリアナの手を取り、手袋越しに指先へ口づけた。


「私も、あなたを愛している。苛烈で、残酷で、ヴィオレッタ嬢を誰よりも愛していて、私の前でだけ時々顔を赤くするあなたを」


 リリアナは完全に黙った。耳まで赤い。ノアはそれを見て、少しだけ満足そうにした。


「可愛いな」

「……ノア様のそういうところ、ずるいです」

「君ほどではないと思うがな?」


 四人が庭園で過ごした時間は、長くはなかった。

 それでも、その夜の記憶は後々まで残った。白薔薇の香り。月光に濡れた噴水。大広間から遠ざかるざわめき。終わった断罪の余熱。握り返された手の温度。

 王宮ではその後、多くの処分が正式に下された。

 ユリウスは離宮へ移され、政治の表舞台から遠ざけられた。彼の母の実家もまた、長年見逃されてきた不正を掘り返され、力を失った。

 ただ、ユリウス自身の罪と、親の罪は分けて考えられた。守るべき大人も、導くべき親も、その責務を果たさなかったことが考慮されたのである。彼は心穏やかに過ごせる南部地方の離宮へと移送された。

 ミレーヌ・ロゼットは王族婚約者の地位を失い、ロゼット家は社交界での信用を大きく損なった。彼女が最後まで、自分はヒロインなのだと繰り返していたことは、やがて奇妙な噂として語られるようになる。

 セドリックは王太子候補から外され、自ら望んで一時的に公務から退いた。彼がかつて切り捨てた元婚約者へ正式な謝罪文を送ったと聞いたが、返事があったかどうかを知る者はいない。

 第二王子アシュレイは、王家の中心へ近づいていった。王妃は複雑な顔でそれを受け止め、彼の母である妹と長い時間を過ごしたという。王家の歪みは一夜で消えない。けれど、少なくともあの夜、最も冷静に人の意思を尊重した王子が残ったことを、貴族たちは忘れなかった。

 そしてヴェルナー姉妹についての噂は、少しも消えなかった。

 ヴィオレッタは相変わらず悪女と呼ばれた。

 リリアナは相変わらず聖女と呼ばれた。

 だが、あの夜を見た者の中には、もう一つの噂を口にする者も現れた。ヴェルナー家の姉妹を敵に回してはいけない。

 あの家には、悪女が二人いる。



 春が過ぎ、初夏の光が王都に満ちる頃、ヴェルナー公爵家の庭では、姉妹とその婚約者たちが茶会を開いていた。

 庭の薔薇は白から淡い紫へと色を移し、木漏れ日は薄絹のようにテーブルへ落ちている。銀の茶器には澄んだ紅茶が注がれ、皿には蜂蜜菓子と小さな果実のタルトが並んでいた。

 リリアナは楽しそうに菓子を選びながら、ふと顔を上げる。


「お姉様、最近また悪女という噂が増えていますわ」


 ヴィオレッタは平然と紅茶を口にした。今日の紅茶は新しく取寄せたもので、香りの高さが素晴らしいと評判のものだった。その評判に偽りはなく、芳しい香りに目を細めた。


「そう」

「訂正なさらないの?」

「面倒だわ」


 エリオットが微笑む。


「僕が訂正してこようか?」

「あなたがすると、相手が黙るでしょう。やめてちょうだい」

「訂正としては成功だと思うんだけどなぁ」

「脅迫と訂正は違うのよ。わかっているのでしょう?」

「ヴィオのためなら、多少の違いは誤差だよ」


 ヴィオレッタは呆れたように彼を見たが、拒まなかった。

 リリアナはその様子をじっと見つめ、やがて深いため息をつく。この男がいるとお姉ちゃんの視線はそちらに向けられるのだ。気に食わない。

 そんなリリアナの気を逸らすのはノアの役目で、今日もお茶会の席は賑やかだ。

 ヴィオレッタは紅茶の水面を見つめた。そこには、淡い空と薔薇の影が揺れている。あの夜から多くのものが変わった。王宮の勢力図も、社交界の噂も、王子たちの立場も。

 けれど、変わらないものもある。

 妹は今日も姉を慕い、姉は今日もそれを当然のように受け止める。エリオットはヴィオレッタだけを見て、ノアはリリアナの苛烈さに少しも怯まない。

 それで十分だった。彼女にとっての平穏の形はまさに今の状況である。


「ねぇ、お姉様」

「何?」

「私、お姉様が悪女と呼ばれるのは嫌ではありません」

「そうなの?」

「ええ。だって、皆様が恐れるお姉様を、私は一番近くで大好きでいられますもの」


 ヴィオレッタは一瞬黙り、それから妹の額を指先で軽く押した。


「本当にあなたは、時々困った子ね」

「お姉様に似ました」

「わたくしはそこまで素直ではないわ」

「では、私の長所です」


 リリアナが笑う。その笑顔は清らかで、愛らしく、確かに物語に出てくる聖女のようだった。ただし、その聖女は姉のためなら刃を取るし、言葉に棘を生やす。

 ヴィオレッタは小さく笑った。


「そうね。あなたの長所だわ」


 エリオットがその笑みを見て、嬉しそうに目を細める。


「ヴィオ」

「何かしら」

「今、とても綺麗だったよ。ああ、画家に描いてもらいたいほどだ」

「またそれ?」

「言葉を変えるね。今の君を、誰にも見せたくないな」


 ヴィオレッタは紅茶を置いた。呆れた顔を浮かべるが、内心は高鳴りが止まらない。


「……あなた、そういうことを平然と言うのね」

「平然とはしていないよ? こんなにも緊張しているのに」

「嘘ね。顔はいつも通りよ」

「それじゃあ、触れて確かめる?」


 彼が差し出した手を、ヴィオレッタは少しだけ見つめた。そして、仕方なさそうに自分の手を重ねる。


「今日だけよ」

「明日は明日で、またお願いしようかな」

「懲りない人ねぇ」

「六年求婚した男だからね。社交界でもそう呼ばれるようになってきたよ」


 リリアナが向かいで唇を尖らせた。完全に拗ねている。頬をふくらませながら二人の世界にはいられたことに不満をこぼしていた。


「やはり嫌ですわ」


 ノアが菓子皿を彼女の方へ寄せる。


「蜂蜜菓子をどうぞ」

「それで誤魔化されると思って?」

「思っているな」

「……いただきます」

「素直でよろしい」

「ノア様。あとで覚えていてくださいませ」

「楽しみにしているよ」


 庭に笑い声が落ちた。それは、噂の中の悪女たちには似合わない、やわらかな笑い声だった。

 だが、本当の彼女たちを知る者なら、きっとこう言うだろう。

 悪女とは、人を傷つける女の名ではない。

 大切なものを守るために、嫌われる覚悟を持てる女の名である。

 そしてヴェルナー家には、そんな悪女が二人いる。

 夜に咲く毒花のような姉と、白百合の顔で刃を隠す妹。

 二人は今日も仲睦まじく、婚約者たちに甘やかされながら、社交界の噂など知らぬ顔で紅茶を飲んでいる。

 敵に回した者だけが知っている。

 あの家には、悪女が二人いる。




これは、ざまぁなのかな?


ネトコンに引っかからなくて悔しくて、スキル磨いてやらぁ!

断罪系苦手な私だけど頑張ってやるわ!

と息巻いて書きました。


聖女みたいな妹が一番悪女向きならいいなと思って書き始めたのですが、悪女度足りなかったなぁ。

反省反省

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― 新着の感想 ―
あー楽(////)しかった♪ この4人もー(*`艸´)ちょっと見ていたい気がしますね~♪ とても《絵》に成る!(しかも美しい!)けれどw各々の個性がvisualを裏切っている感じが楽し♪ 素敵な物…
ミレーヌが断罪されていないし反省もしていないし後悔もしていないしざまぁもしてない。 1度目もそうだったみたいだしこれまた同じこと繰り返すでしょ。二度あることは三度あるっていうし
姉妹もその婚約者達も皆強いのが良かったです。読んでいてスカッとしました。
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