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「ここの庭園は海岸に繋がってるんだ」
「わあ、スゴイ……!」
ユーリに案内されながら、城外までやって来たヴェドーラ。もちろん彼女がここに来るのは七度目だが、初見の演技をした。二人は順調に親交を深めていた。
(ふぅ……あとはユーリが『僕はシェリルと結婚する』と宣言すれば、任務完了だな)
ヴェドーラはそう思い、一息ついた。その時だった。
「……!」
彼女は向かいから歩いてくる人物を見て目を丸くした。
(あ、あれは……リリアンヌ! なぜだ。確か今は部屋にいるはずじゃ……)
向かいから近付いてくるリリアンヌは、まだヴェドーラを認識していない様子だ。しかしそれも時間の問題だろう。
焦りから彼女の身体中には冷汗が伝い、青白かった顔がさらに青白くなった。ユーリはそんな彼女を心配そうに見つめた。
「シェリル、どうしたの? もしかしてまた気分が悪くなった?」
「いえ、大丈夫です。なんでもありません」
そうは言ったが混乱していた。リリアンヌはもう近くまで来ている。
彼女からすれば、唯一の協力者であるヴェドーラが自分を邪魔しているという状況だ。怒り狂ってもおかしくない修羅場である。
(今ここで騒ぎになるのはまずい。一刻も早くここから逃げなければ……)
しかしリリアンヌは早足で近寄ってきた。そして大きく口を開いた。
「ヴェドーラ! なんで貴女が陸にいるのよ!!」
「……これは、その……そなたの父上に頼まれて仕方なく」
ヴェドーラは迷わず腐れ縁の幼馴染を売った。それを聞いたリリアンヌは眉を顰めて怒りを父に向けた。
「パパの仕業なの!? ありえない! うざっ! きもおやじ!」
「……直接言ってやってくれ。リリアンヌ、それよりそなた声が……それにその足もどうしたのだ」
声を取り戻したリリアンヌの足には、元々あった鱗が少しずつ浮き出てきていた。
(まだ私は何もしていないのに、何故人魚に戻りつつあるんだ?)
「ああ、これね。私、もう王子のことは諦めたから人魚に戻るのよ」
「なんだって?!」
ヴェドーラは驚きのあまり声が裏返った。
まだヴェドーラが何も仕掛けていないうちに、自ら人魚に戻るなんてことは今まで一度もなかったのだ。
「だってさ、王子は初恋の人を今も想い続けてるんだよ。いくら私が超絶可愛くても、こういうタイプを三日で落とすなんて出来っこないのよ。だから海に帰るの!」
「はあああ?」
ヴェドーラは彼女の言い分に仰天して声を張り上げた。
(それでは私は何のために陸まで来たんだ……)
ヴェドーラは愕然とし、そしてすぐに隣にユーリがいることを思い出した。ユーリは困惑気味に声を上げた。
「えっと……シェリルと君は知り合いなんだね。君はどういう……」
「シェリルって誰? もしかしてヴェドーラのこと?」
「え? ヴェドーラって……?」
ユーリは戸惑いながらそう訊いた。するとリリアンヌは呆れた様子でヴェドーラを一瞥してから口を開いた。
「王子、ヴェドーラはこの人の名前よ。この人は海の魔女なの。ヴェドーラは私のパパに頼まれて、私が貴方にキスをしないように見張りに来たのよ」
「リリアンヌ、もうそれ以上言うな」
ヴェドーラが止めに入ったが、リリアンヌは話すのをやめない。
「私達はね、三日以内にキスしないと人魚に戻っちゃうのよ。ま、私はもう陸に未練ないから海に帰るんだけどね。それで、ヴェドーラはどうするの?」
「どうするも何も、リリアンヌがもう海に帰るのなら私も帰……ヒエッ」
そこまで言いかけたヴェドーラだったが、隣にいたユーリから刺すような視線を感じて口を閉ざした。
先程まで静かに話を聞いていたユーリは、いつの間にか冷淡な顔つきへと変貌していたのだ。今までの彼とはまるで別人のようである。
「シェリル……いや、ヴェドーラと呼ぶべきかな。まさか海に帰るなんて言わないよね?」
笑顔でそう話すユーリの目は笑っていない。
彼から殺気のようなものを感じ取ったヴェドーラは、何とか誤魔化そうと笑いかけた。しかしそんな事ではこの状況を誤魔化せなかった。
(まずい、全て知られてしまった。こうなったら手っ取り早くの記憶を消すか?)
ヴェドーラは魔法で全てなかったことにしようと考えた。しかし魔法を使うには、それなりの準備と時間が必要になる。もちろんユーリは彼女にそんな時間を与えるつもりはない。
ユーリは彼女の手首を掴み、強い力で引き寄せた。
(……これはかなり怒ってるぞ)
「ヴェドーラ、君は僕を騙してたのかい?」
「騙すなんてっ、まさか……」
確かにヴェドーラは何度もユーリに近付いて記憶を消したけれど、彼女は決して悪意を持っていたわけではなかった。
(いくら悪意がなくても、当事者としてはいい気分はしないだろうな)
今までの記憶が巡り、ヴェドーラは彼に罪悪感を覚えた。
「ユーリ、すまない。騙しているつもりはなかったけど、傷つけてしまったのは事実だ。もう金輪際関わらないようにするから……」
「何それ」
「す、すみませんでした!」
ユーリの圧に負けて、ヴェドーラは改まった口調になってしまった。三百年生きた海の魔女でも陸ではこのザマだ。威厳など微塵もない。
「ねえヴェドーラ、もう一度聞くけど……海に帰るの? 帰らないの?」
ユーリの口調は柔らかいが、決して帰るとは言わせない雰囲気を纏っていた。その目はまるで獲物を狩る肉食獣だ。
(今まで散々騙しておいて、ここで逃げるなんて許さないということか……?)
ヴェドーラは覚悟を決めた。
「大丈夫、……まだ帰らないよ」
「まだ?」
「ヒッ、帰らないよ! 安心して!」
彼女は半ばヤケクソだ。しかしユーリはその言葉に満足した様子で微笑んでいる。
そして二人のやりとりをずっと見ていたリリアンヌは、溜息混じりにわざとらしく声を上げた。
「なぁーんだ。二人ってそういう仲だったの」
「はあ? どういう仲だよ!」
リリアンヌの意味深な発言にヴェドーラは思わず反論した。しかし昨日までは脳内サンゴ礁だったリリアンヌも、今は冷静で鈍くはない。王子がヴェドーラへ向ける視線を見れば、ただならぬ感情が含まれていることぐらい理解できたのだ。当の本人は気付いていない様子だが。
「じゃ、私は帰るから。ユーリ王子、いろいろありがと! ヴェドーラもお幸せにね!」
人魚に戻りつつあったリリアンヌは、そう言って手を振ると足早に去っていった。ヴェドーラはそれを追おうとしたが、ユーリに手を強く掴まれているせいでそれは叶わなかった。
「リリアンヌ……! 待てっ!」
「もう行っちゃったよ」
ユーリは涼しげな表情でそう言った。そして再びヴェドーラを引き寄せた。
「なっ……」
ユーリの長い指先がヴェドーラの頬に触れた。突然の接触に、ヴェドーラは壊れた機械人形のように固まってしまった。
ユーリはそんな彼女を愛おしそうに眺めながら、小さく笑って言葉を発した。
「三日以内にキスしないといけないんだっけ?」
「え?」
「いいこと聞いたな」
ユーリはそう呟くと、自身の美しい顔をヴェドーラに近付けた。
「は? ちょっ……ええっ? んんっーーーー!!」
いきなり唇を塞がれてたヴェドーラは、頭が真っ白になった。そして唇から伝わった熱が、身体全身を駆け巡っていた。
「これで君は二度と海には帰れないね」
ユーリは屈託のない笑顔で恐ろしいことを口にした。突然の出来事にヴェドーラは放心状態だ。
(この私が……人間になってしまった……だと?)
ユーリからのキスにより、ヴェドーラの魔力は消えた。そして作り物だった足は本物に変わり、完全に人間になってしまったのである。
そしてユーリにも変化が訪れていた。ヴェドーラの魔力がなくなり、今まで消されていた記憶が全て蘇ったのである。
「……思い出したよ。君は去年、初めて花火を見て驚いていた。その前はここで花を摘んだ。そしてその前は……君は人魚だから魚介スープが苦手だったんだね。はは……全部思い出した」
ユーリは独り言のように饒舌に思い出を語り出した。
「僕は君に七回もプロポーズしたんだね。どうりでこんなに好きなわけだ」
「す……すき?」
「うん。だから、責任とらないと」
「へ?」
ユーリは柔かな表情のまま手際良くヴェドーラを抱えた。彼女はあっという間にお姫様抱っこされてしまったのである。
「な、何をする! 自分で歩けるぞ!!」
「はは、その話し方も可愛いね」
(可愛いだと?! さっきから何を……これはどういうつもりだ? それに先程の“責任とってね”とはなんだ?! 責任って……どうやって取るんだ?)
ヴェドーラは『責任』という言葉に引っかかっていた。何故なら彼女は人間がどうやって『責任』をとるのか知らないのである。
(まさか……)
ヴェドーラの頭には、いつしか食べさせられた魚介スープが浮かんだ。それは大きな鯛が丸ごと鍋に沈められていた代物で、城の人間たちに振舞われていた。あの魚たちを思い出し、ヴェドーラの背筋が凍っていった。
「……私を食うつもりか?」
「え?」
ヴェドーラの予想の斜め上をいく発言に、ユーリは面食らった。そしてその発言に似合わない彼女の深刻そうな顔を見ると、次第に笑いが込み上げてきた。しかしユーリは笑うことを堪え、負けじと真剣な表情を作った。
「さあ、どうだろうね?」
「ヒェッ……」
ヴェドーラは彼の言葉を真に受けて顔を青くした。
しかしその後、もちろんヴェドーラがスープにされることはなく、むしろユーリからは重い愛情を受けることになるのであった。
【完】




