走り鉄
俺は今、電車と並走している。
がたんごとんと鈍い音を発しながらも、俺の横を走る電車はあまりにも軽やかにその速度を上げていく。
まるで、俺を置き去りにするように。
まるで、俺の存在を否定するかのように。
いや、それ以上に、俺の気持ちをわかっていて突き放すように、速度を上げていく。
そして、数十秒後。
電車の最後尾車両の後ろ姿を見つめながら、俺は足を止めた。
「……っはあはあ!」
俺は浅くなっていた呼吸を一気に深くする。
冬の朝特有のどこか鋭さをもった空気が肺を満たしていく。
痛い。
肺から入り込んだ冷たさが血管を通して全身を巡り、俺の体を苛んでくる。
全力で走り続けた数十秒。
普段、鍛えているはずの筋肉さえも、悲鳴を上げている。
足の震えが止まらない。
「くそ……! まだ、まだ足りない! 並走するのがこうも大変だなんて」
俺は走り鉄としての自身の想定の甘さを悔やんだ。
もともと俺は乗り鉄だった。
日本全国津々浦々。
仕事の合間を縫っては、いろんな電車に乗って仲間内できゃっきゃうふふしていた。
それで満足だった。
それで満足していた。
しかし、とある路線に乗ったとき、ふと思ってしまったのだ。
ああ、電車と一緒に走ってこの景色を見たい、と。
乗せてもらって見る景色も悪くない。
けれど、本当にそれでいいのだろうか?
ただ、愛する者に乗せられている人生でいいのだろうか?
そう考えてしまった。
愛しているのなら、並んで走りたい。
一緒に走って、この景色を見たい。
それが愛するということなんだ。
徐々にその考えが脳を満たしていった。
それに、俺の並走を電車も望んでいるように感じた。
電車は基本的に並走することはない。
もちろん、複数の路線が入り乱れる大規模な駅、その前後の線路では一時的に並走することもある。
けれど、駅から駅、始発から終点までを並走し続けることはない。
つまり、電車は一人なのだ。
ずっと、一人で走り続けているのだ。
その事実に俺は思わず涙した。
いや、わかってはいた。
けれど、愛する者をただ一人で走らせていたという事実と、その事実を当たり前のこととして受け止めてしまっていた自身があまりにも情けなかったのだ。
その日から、俺は走り鉄になった。
風の日も、雨の日も、どんな日であろうとも、俺は並走するためのトレーニングを続けた。
あの日のTOKIOだ。
鉄腕ダッシュで電車と競い合っていた、あの日のTOKIOみたいに、真摯に電車と向き合おうと決意したのだ。
そして、今回が10回目のトライ。
前よりも並走時間は伸びたものの、やはり、電車がその速度を上げると途端に距離を離される。
それはそうだ。
走りに特化したテクノロジーの塊と、だらけた生活をしてきた中年男性ではそもそものベースが違う。
「まだまだ……!」
俺は決して諦めなかった。
それから数年、トレーニングにトレーニングを重ねた俺は、なんとか山手線の西日暮里から日暮里間くらいならギリギリ並走できるようになっていた。
「けど……! まだだ! もっと長く一緒に走っていたい……よな?」
俺は荒くなった息を整えながら、停車した電車にそっと触れた。
実は、電車に触れるのは数年ぶりだった。
なぜなら、走り鉄になって以降、電車に乗ることはしなかったからだ。
走ることで愛情を表現しようとする者が、愛する者に乗るなんてどうかしている。
愛する者への裏切り、それ以外の何者でもないと考えていたから。
なので、仕事は電車に乗らなくてもいいよう、リモートワークメインのものに切り替えた。
給料は多少下がったが、電車に乗るための遠出をしなくなった分、むしろ余裕はできた。
住む場所も変えた。
いつでも並走トレーニングができるよう、ドラマとかでよくあるフェンス越しに電車が通過する立地の場所を選んだ。
そう、この数年、生活の全てを走り鉄活動に捧げてきた。
けれど、そんな俺の熱意、愛とは裏腹に、数年ぶりに触れた電車は、あまりにも冷たかった。
こちらの想いなどまるで意に介さないかのように、冷たかった。
俺はあまりの衝撃に言葉を失った。
そのまま、家へと帰り、保育園時代からの親友に電話をかけた。
辛い時はいつだって彼に電話をすることで救われた。
きっと、今回もこちらの心を優しく包み込むような言葉をくれるはず。
そう信じて。
「日の当たってる方、触ってみたら?」
「え……?」
俺は涙した。
俺はもっと本質的な話をしているのに。
心と心の話をしているのに。
どうしてそんな押して駄目なら引いてみろ的なことを言うのか。
信じられなかった。
そう伝えると彼は。
「お前が走る前に触ってみ? たぶんそんな冷たくないよ?」
と返してきた。
違う!
違うんだ!
俺は手を変え品を変えて、相手の心を手に入れたいわけじゃないんだ!
親友にそのことを毎日ラインしていたらブロックされた。
でも、電話は普通に繋がるので、定期的に電話はした。
ミュートしている気配はあったけど、たぶん気のせいだと思う。
その後も、俺は悩み、考え続けた。
何がいけなかったのかを。
けれど、答えが出ることもなく、並走はすれど、触れることはできなかった。
愛する者に触れることが怖くなっていた。
だが、そこから数か月後。
どうしようもなくなった俺は、一度、電車に乗ってみることにした。
もしかしたら、嫌われるかもしれない。
もう二度と、俺の方を向いてくれないかもしれない。
愛する人と共に走らない俺はなんて最低なんだ。
そんな恐怖と自己嫌悪を心の湖に沈めながら、俺は電車の中へと足を踏み入れた。
いや、心をそっと乗せてみた。
「……!!! そういう、ことだったのか……」
瞬間、気づくことになる。
連結した車両で構成される電車は1人じゃないんだ。
俺はこれまで車両数で電車の自意識を捉えたことはなかった。
けれど、見れば、連結部は常に揺れ、それぞれがそれぞれの動きをし、それぞれの役割を果たしている。
それはまるで、シンフォニー。
各車両が互いの呼吸を合わせながら、互いに尊重し合いながら、確かな旋律を奏でていたのだ。
俺はそこに確かな愛を感じた。
感じ取ってしまった。
「はは……。これは俺の入り込む余地なんかあるわけないよな」
これまで積み上げてきたすべてが崩れていく。
足腰は鍛えてきたはずなのに、力が入らない。
そのまま俺は席へと座り込むと、終点で車掌さんが肩を借してくれるまで立ち上がることができなかった。
車掌さんに理由を伝えると。
「あー、なるほど! なるほどー!」
とご理解いただけた。
本当に、救われる。
その後、なんとかタクシーを捕まえて家に辿り着いた俺は、そのままベッドへとダイブした。
視線をふと机に向けた。
そこには、撮り鉄時代に撮った写真がずらりと並んでいる。
愛する者、愛してきた者のあまりにも荘厳かつ麗しい姿に、俺は思わず目頭を熱くする。
こんなにも愛する者は気高くいてくれていたのに、俺はなんて無様なんだ。
独りよがりの愛を押し付けようとして、拒否されて、それに勝手に傷ついて。
なんて、情けないのだろう。
なんて、身勝手なのだろう。
と、そこまで考えて、俺はふと、思い出す。
「待てよ。じゃあ、あの時の感覚はなんだったんだ?」
走り鉄になると決めた時、俺は確かに電車から発せられる寂しさを感じ取っていた。
それは嘘じゃない。
確かにそう感じたんだ。
「たしかあれは……」
走り鉄になると決めた日に撮った写真を見て、俺の中の疑念は確信へと至る。
「やはりそういうことか」
そう、俺が走り鉄になると決意した時に乗っていたのは、一両編成の電車だった。
つまり、あの人は一人だったんだ。
だからこそ、俺の並走を望んでいたんだ。
その結論に達してからは早かった。
俺はすぐに有休を取得して、愛する人のもとへと向かった。
「お待たせ」
とある地方のローカル線。
その人の姿はそこにあった。
そっと触れた、愛すべき人。
俺は二人の間を行き交う確かな熱と愛情に思わず表情を緩める。
「待たせて、ごめん」
そして、走り出した俺たち。
二人の息はぴったりという言葉を超えて、一つとなった。
俺の加速する足も徐々にその回転を増していく。
ああ、このまま一緒になるんだな。
そう思った。
思えた。
二人の間に溢れる愛そのままに、俺たちは走り続けたのであった。
☆
「ていうシチュエーションにも対応した、新しい角度から攻めた対電車恋愛ゲームを開発したいんですがどうですか?」
社内。
俺はとある会議にて提案をした。
資料と俺のプレゼンを見た上司は一言。
「いや、『ときめきガタゴトン』って、誰がやるんよ? 攻めないで。その角度は攻めないで」
「えー」
「もっと一般受けしそうなの作ってよー。君、優秀なんだからさ」
「ええー」
「ええーじゃないの。作ってくださいお願いします。怖い。目が怖いよやめて」
けど、俺は諦めなかった。
あの日、とあるローカル線の電車と走り、そして、そのまま線路を超えた電車と共に、どこかに消えていった親友。
その姿を後世に伝えるために、俺はこのゲームの開発を諦めたくなかったのだ。
いや、もしかしたら、彼の事を俺が忘れたくなかったのかもしれない。
あの時、もっと親友の言葉に耳を傾けていれば、失わずとも済んだのかもしれない。
そんな悲鳴にも似た後悔が心に刺さり続けているのだから。
だからこそ、俺は、彼と彼の愛の形を残したい。
残して、あわよくば彼の愛を普遍的なものとして歴史に刻みたい。
「まったく、難儀な親友を持ったもんだぜ」
俺は過ぎ行く日々に親友、そして彼の信じた愛を重ねながら、ただ前を向き歩いていく。