アイアンメイデンは恋を知らない
その日、ハンジは次の議会で話し合う案件の過去資料を調べるため、ふだんはあまり使わない王宮庭にある石楼地下の閉架図書を閲覧しに来ていた。空気の入れ替えを目的とした小さなはめ殺しの窓がひとつあるのみのその場所は埃っぽく、本が日に焼けるのを防ぐ目的で昼間にもかかわらず、ろうそくの灯りを伴わなければならないほど暗い。
昼食を軽く摂ってから地下へ向かったハンジが目当てのものを見つけ、メモを取り終えたのはおよそ2時間後で、そのころにはすっかり目がしょぼついていた。ほとんど飾りの大きな眼鏡を少しずらし、乾燥した手で右目をこする。
それから緩慢なしぐさで腰と首を数回回し、固まっていた身体をほぐすとゆっくりと立ち上がった。仕事柄、長時間同じ姿勢でいることが多いせいか先輩や上司にも腰や首を痛めている者が多数いる。ハンジが王宮の文官として採用されたのはおととしの春。年若いこともあってまだあまり支障をきたしていないが、慢性的な痛みを抱えるのは避けたいところだ。
「よいしょっと」
目的だった文献を確認し終えたハンジは、肘と肩で書庫の扉を押し開ける。片手にはすでに火のともっていない燭台、片手には大量の紙束を胸に抱えているのでこれしか方法はない。薄闇の中、慎重に階段を上り、重たい外扉を肩で押す。ずりずりと地を擦る音とともに差し込む陽の光に思わず目を細めた。まぶしすぎる。
視界が明暗差に慣れず、扉を細く開けたまま動きを止めていると、しっかりと抱えていたはずの紙の束からメモがはらりとハンジの手を離れ、風に乗って飛んでいってしまった。
「あちゃー…」
しかしいまいち目が慣れきっていないし、運動神経もあまりよろしくないため紙の行方はすぐには追えそうにない。まあ、書き写した時点でだいたいの内容は頭に入っているので、ハンジは小さく声を漏らしただけで早々に諦めた。いわゆる機密情報なんかを記載しているわけでもないので扱いが雑だ。
あとで適当に探そう。
そう結論づけ、ようやく視界がクリアになってきた頃、ハンジは石楼から抜け出て扉に鍵をかけ、ほっと息を吐いた。
燭台をそっと地面に置き、自由になった右手で衣服を軽くはたき埃を落とす。眼鏡が少し汚れているが、今は拭けないので放っておく。左手で抱え込んでいた資料を両手で整えなおし、右手に持ち替えてついでに燭台を取ろうとかがんだ。
「これは、あなたのものですか」
中腰の状態で誰かに声をかけられ、ハンジが見上げる形で声の主のほうへ視線を向けると、ややつり気味の大きなガーネットの瞳が彼をじっと見つめていた。これが、女性騎士ハナミとハンジの出会いである。
+ + + + + + + + + + + +
「ハナミさーんおはよーございまーす!」
大きな声で自分を呼ぶ声にハナミは思わず眉根を寄せた。ここ1か月、ほぼ毎日のように聞く男の声だ。朝の鍛錬をしていたハナミに向かって走り寄ってくる男は名をハンジといった。
「…物好きな人だわ」
はぁ、と一瞬動きを止めてため息を吐いたハナミは、すぐに素振りに戻った。一日500回の素振りは彼女のルーティンのひとつで、今日はちょうど300回を振り終えたところだった。素振りのあとは軽く走ってから水を浴び、食事代わりの栄養ドリンクを飲むまでが一通りの流れだ。静かに己の精神や身体と向き合い、対話をする時間をハナミは気に入っており、10歳の少女が騎士を志すようになってから早7年、トレーニングの内容が変化しても朝の鍛錬は欠かさず行っている。
そう、彼女は毎朝静かに一人で己の精神と身体と向き合っていた――つい1か月ほど前までは。
「ハナミさん!今日も美しいですね。おはようございます!」
この、ハンジという男に出会ってしまうまでは。
「……毎日毎日、よく飽きませんね」
ハナミのほとんどため息に近いぼやきをハンジは聞き逃さない。
「飽きる?何にですか?」
「………」
顔半分ほどを覆う大きな眼鏡越しにまっすぐこちらを見つめる瞳は純粋な色で、ハナミは困惑した気持ちと胸の奥がくすぐったいような気持ちの両方を堪える。
騎士たるもの、感情の揺れを決して表に出してはならない。それは主君や仲間の死に直結する。
「いいえ、なにも」
表情を変えず素振りを続ける彼女をハンジはにこにこと眺め、結局残りの素振り200本分の時間、彼はハナミのそばでじっとしておりランニングを始めるタイミングで「ではまた!」と笑みを浮かべたまま官舎へ戻っていった。
「…いつまで続くのかしら」
もともと言葉少なであまり自分の思いを発出しないハナミからこぼれ落ちたのはそんなつぶやきだった。
1か月ほど前、見廻りの時間中に幾枚かの紙切れが地面にはらはらと落ちるさまを見つけ、拾い集めたものを近くにいた文官に声をかけ、手渡した。それがどうやらハンジだったらしい。
どうやら、というのはハナミはすっかりそのときの文官の顔を忘れており、ある日突然知らない文官が一直線に近づいてきたかと思ったら、
『こんにちは。先日はありがとうございました。お礼に今度おいしいお茶でもいかがでしょうか』
とにこにこと人好きのする笑みを浮かべて話しかけてきたのが初対面だと思っていたからだ。
『…失礼ですがどこかでお会いしましたでしょうか?』
辺境伯家出身の娘騎士らしく礼には欠かないが、しかしどうしても困惑する声音になってしまったハナミにハンジはきょとんとした表情を浮かべた。それから、やっぱり満面の笑みで
『すみません、この間あっちのほうで資料を拾っていただいたハンジといいます。議会つきの文官をしています』
と庭の石楼を指差し、身分を明かした。ハナミは少し逡巡してから自分の名と騎士であることを告げたのち、自身が行ったことは大したことでないと伝え、改めて茶の誘いは断ったのだが――
顔半分ほどの大きさの眼鏡をかけたハンジという文官は、ちっともめげずそれから二日とあけずに姿を現し、婚約者をもたない妙齢の女性騎士に文官が夢中らしい、という噂はこの1か月であっという間に城内を駆け巡った。
『ハナミさん、お茶がだめならピクニックはどうですか?』
『自主トレーニングの邪魔はしませんので、ここに座ってもいいですか』
『こんにちは、今日は訓練なんですね。ハナミさんは防具もよくお似合いです』
『徹夜明けに見るとハナミさんがより一層まぶしいです!』
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「いいじゃない、かわいくて」
「そうよ、ハナミもそろそろボーイフレンドの一人くらい作ったら?」
「うんうん、そしてさ、私たちにも文官のお友達を紹介してもらいましょ!」
女子騎士寮の浴場は、うわさ話の温床だ。井戸端会議ならぬお風呂場会議。2人に1部屋あてがわれる個室でもおしゃべりはできるが、ルームメイトとそりが合わないこともあるし、複数人で集まるといつの間にか声が大きくなり薄い壁を叩かれる。食堂は男の騎士も使うし、外で話すなんてもってのほか。仲の良い騎士仲間にこっそり相談するのに浴場はうってつけなのだ。
「ハンジさん、だっけ?ハナミに目をつけるなんて見る目あるよねえ」
くるくるとカールする金髪を無造作にまとめながらそう言ったのは従妹のメリル。三歳年上の彼女には幼なじみで騎士の婚約者がいる。ハナミも幾度となく顔を合わせているが、実直そうな太い眉毛の持ち主で、性格もとてもまじめだと聞いていた。メリルは彼についてしょっちゅうこういうところがかわいい、ああいうところがかわいいと口にする。
「うーーーん…でも紙を拾っただけで、あんなふうに追いかけられるのはちょっと…」
「こわい?」
「こわいというか、うーん…よくわからないというか…」
「理解できない?」
「うーーーん…」
うなるハナミに淡々と問いかけてきたのは妹のユン。ハナミと同じ美しいロングヘアを持つ彼女は洗髪のために水桶から湯をかぶり、石鹸を泡立てながら言葉を続ける。
「何が引っかかってるの?悪い人じゃなさそうだけど…」
「あれ、ユンあなた、あの文官と会ったことがあるの?」
「会ったことはないけど、ガインがちょこちょこ絡んでるんだって」
「ガインが?」
ガインというのはユンのふたごの弟で、つまりハナミの弟でもある。二卵性双生児のユンと同じ銀髪に緑がかった青い瞳をもつ彼も、一家の道を逸れず騎士見習いとして王城内の寮に住んでいる。ちなみにユンは一足早く見習いを卒業した。
「そりゃあ姉に懸想する文官がいるとなれば気になるのが下の子のさだめですもの。ね、ユン」
したり顔でお姉さんぶっているのはハナミの同期で友人でもあるライラ。身分の位は異なるが、バワード辺境伯領で生まれ育ったライラは幼いころからハナミやユンとともに辺境伯家の英才教育を受けたエリート女騎士だ。バワード家はハナミ、ユン、ガインの三人きょうだいだが、実際はライラもきょうだいのようなものだとハナミは考えている。
「それでユン、ガインはなんて?」
「ちょっとライラ、面白がっていない?」
「んーとね、ハンジ文官はよく川に泳ぎに行ってついでに魚釣りもするみたいだって。それと、読書家で文官寮の部屋の床が抜けそうなくらい蔵書があって、管理者にしょっちゅう注意を受けてるって」
すらすらと男の情報を口にするユンに、ライラは片眉を上げて見せてからよく泡立てたボディスポンジで体をこする。メリルはすっかり汗や汚れを流し終えて、ようやく髪をくしでとき始めた。ハナミは興味がなさそうな様子で髪の水気を絞り、髪を結わく。
「あとは、ガインは飲んでないけどハンジ文官はお酒に強いって。ハナ姉とのうわさが出てすぐ男騎士の連中が飲み比べをしかけたみたい。文官がアイアンメイデンに手を出すなんて生意気だって」
「ふぅん。ってことは、文官が勝ったの?男騎士のやつらに」
「うん、4人か5人いたらしいんだけどみーんな潰されちゃったらしくてガインが呆れてた」
「へぇ、ちょっと意外。ひょろっとしてるのに」
ハナミをよそに3人は感心したように頷きあっている。ふだん鍛えているいわゆる脳筋の男騎士は酒盛りも多いせいかめったな量では酔い潰れたりしない。それは女騎士にも同じことが言える。
ちなみにハンジをひょろっとしていると評したメリルは、ハナミとトレーニングを共にした際に彼と顔を合わせたことがある。大きな眼鏡が印象的なせいか顔の造作はあまり記憶に残っていないが、上背は174、5センチ程度で風が吹けば飛びそうなくらい薄いからだをしていた。
「それで、悪い人じゃなさそうだっていうのは酔っぱらわないから安全ってこと?」
「ううん、そうじゃなくて…」
話の続きを促されたユンは泡だらけの髪を湯で流しつつ、隣でからだを洗うハナミの顔を窺う。簡素な化粧が洗い落とされた姉のかんばせは陽に焼けているがつるりとしていて、長いまつげが頬に影を作っている。色を載せていない唇もさくらんぼのような紅色で、わが姉ながら美しい人だと心でつぶやく。感情を読み取らせないハナミの表情をユンは見慣れているが、これを口にしていいのか少し悩む。姉はあの文官を実際どう感じているのだろう。
「なあに、ハナミには言えないこと?」
機微に聡いライラはどうやら全身を洗い終えたようで、口ごもるユンをいたずらっぽい目で見つめる。その横でハナミは親友の言葉に目をまたたかせた。ほとんど口を挟まず、黙々と湯を浴びていたが、その実しっかりと話を聞いていたハナミは、口数が少ないだけで恋バナにもうわさ話にも人並みに興味は持っている。その当事者が自分になるとは今まで思いもしなかったが。
「言いにくいっていうか、ハナ姉ってハンジさんのこと…」
「あー、たしかにそこは大事よね。ハナミ、実際どうなの?」
「えっ…」
ぴきっと固まってしまったハナミにライラはやれやれ、といった風情で立ち上がった。それからすでに湯船に浸かっていたメリルの隣にそっとすべり込む。ほどよい温度の湯がじんわりと足先や指先からからだをほぐしていくのは心地がいい。
「メリルはどう思う?」
「ん?文官のこと?」
「うん。いや、ハナミと文官のこと」
この4人の中で唯一、婚約者――というか恋人――がいるのはメリルなのでこういう色恋沙汰は基本的にメリルがいちばん理解しているはずだ。少なくとも恋人ができたことのないほかの3人に比べれば。
「そうねえ…ハナミは文官のこと、生理的に嫌というわけじゃないのよね?」
ゆったりとした口調でそう言ったメリルは広い浴槽でくるりと姿勢を変え、まだ固まっているハナミに向き合う。姉の様子を見守っていたユンはやや安心した表情を浮かべ、丁寧にブラシで髪をとき、ゴムでしばる。
「生理的に…は、たぶん嫌ではない、と思う…」
「さっきユンも言ってたけれど、何か引っかかっているの?」
「引っかかる……うーん…」
あごに手を当て、またうなり始めたハナミの背中をユンは流してやると、そのままそっと手を引く。自分の発言がきっかけで、姉が風邪をひくのは望むところではない。すでに二人が浸かっていた湯に姉妹も加わり、浴槽からわずかに湯があふれた。
「……アイアンメイデン、に興味があるのかな…って」
好奇心旺盛そうな文官の顔を思い出しながら、ハナミは途切れ途切れにそうこぼした。その声にほんの少しの拗ねた色が乗っていることに気がつかないのは本人だけだ。
「あー…なるほどね」
「そっか…」
「うーん、そうね…」
ようやく理解した、という様子でハナミを囲む三人は顔を見合わせて神妙にうなずいた。
+ + + + + + + + + + + +
アイアンメイデン
古来、拷問の器具として使用された道具の呼び名で、鉄の処女とも呼ばれるそれは実際に目にした者は――厳密に言えば、目にした者はすべからく死んでいるので――いない。
鉄でできたその道具は大柄な男をもすっぽりと覆い、その内部に施された無数の鋭い棘で肉体を貫き、失血死させる恐ろしいものらしいが、その一方で外側に模された女性は大変に美しく、一目見れば誰もを魅了したと文献が残されている。
そしてそのアイアンメイデンは戦時中に活用されたのち、国境を守る辺境伯家の敷地のどこかに眠らされた——と戦後50年を超える現在もまことしやかに囁かれているのだ。
「へえ、そうなんですか」
「はい。えっ、いやもっとなんかあるでしょ?!気にならないんですか、アイアンメイデン」
ガインは思わず、といった様子で目の前の文官に食い下がった。姉に懸想している、大きな眼鏡の文官ハンジは、丸い目をきょろりと回してから首をかしげた。
「アイアンメイデンに関する書物はいくつか読みましたが、現在の所有者がわからないこともあって、あまり有益な情報として処理していなかったんですよね」
「ゆうえき…」
「もし新たな武器や拷問器具を開発したいという命があれば、調べなおしますが…」
「かいはつ……いやいや、そうじゃなくて、うーん…」
至極まじめな顔で拷問具について話すハンジに、ガインは頭を抱えそうになりながら言葉を探す。しかし元来が体育会系、生まれも育ちも騎士団仕込みの彼はいわゆる貴族らしい物言いはできない。だから結局、
「本物のアイアンメイデンの話じゃなくて、うちの姉の話、なんですけど」
直球勝負しか手段がないのだ。
「ハナミさんの話」
「はい、姉のハナミ、というか女騎士団全体がその…アイアンメイデンって呼ばれてるのは知ってますよね」
「そういえば、そういうふうに話す人もいますね」
「それ、最初は姉個人のことをそう呼んだ奴がいて」
――ハナミは、幼いころから辺境伯家の長女として父母をはじめとする大人たちにみっちり鍛えられ、鍛錬に事欠かず育った。貴族の子女として最低限のマナーや社交に関する知識はもちろん学んだが、騎士としての素養を持つ彼女は周囲の期待や環境のせいもあり、建国以来王女を主とする女騎士団への入団を10歳になる年に志した。誰に言われるでもなく、自分の意志で。そうして入団テストを12歳で突破し、13歳で騎士見習いを卒業し、14歳で戦場に出た。
「13歳10か月での出陣は歴代最年少記録なんですよ。ハナミさんさすがだなあ」
うっとりとした表情を見せつつもさりげなく数字を訂正するハンジに、ガインは苦笑しながら話を続ける。
「姉は、優秀でした。今ももちろん優秀ですけど、もっと…すごかったんです」
「14歳で王女から褒賞を授かったんですよね、たしか」
「はい。前線で隊を率いて仲間を鼓舞し、戦況を見て中央に意見する。さらに後方支援への物資まで目を配って、声をかけて…姉が入団してから死傷者の数が大きく減ったと聞いています」
――しかし、それを喜ぶ人間がいれば、利用しようとする人間ももちろんいるのだ。
「褒賞を戴いてから、姉にいくつか婚約の打診があったんです。父と姉はあまり乗り気ではなかったようですが、母は前向きでしたし断る理由もなかったのでまず一度顔合わせを、と」
「うらやましいかぎりです」
「……いくつかの家を相手に1回ずつ場を設けてそのほとんどはつつがなく終わったと聞いています。でも、」
説明しながら、ガインは歯噛みする。男騎士団でもよく話題に上るこの内容は、ハナミの弟であるガインにとっては耳にタコができるほど聞かされ揶揄われた。お前があのアイアンメイデンの弟か、姉は相当強くて硬いらしいな、と。
「これまでと同じ流れで親を交えて茶を飲み、じゃああとは若い二人で庭を散歩でも…と。初夏になる少し前の良い季節だった、と母は話してましたけど」
「…バワード辺境伯領は薔薇が有名でしたね」
「はい。その日の相手は、どうやら王宮騎士を目指していたそうで、すでに名を挙げていた姉の評判に乗っかるのが目的だったようなんですが」
――バワード家自慢の薔薇園をハナミは静かに案内した。貴族令息相手に何を話したらいいのか、場を何度こなしてもいまいち掴めず、話を弾ませる話術も持ち合わせていなかったためだ。辺境伯家の長女としては落第点といってもいい。かたや客人はぺらぺらとよくしゃべり、相槌すらする間がなかったらしい。何を話していたかそのほとんどがハナミの記憶には残らなかったが、婚約したらすぐ女騎士は辞めて僕を立てろ、というセリフだけは看過できなかった。
「ふふふふふ…ハナミさんらしいなあ」
時折目を細めながらガインの話を聞いていたハンジはうれしそうに笑った。それは本当にやわらかな笑みで、ガインは少しだけまぶしいような気持ちを持ってから、言葉を継ぐ。
「…俺も、そう思います。そもそも騎士というのは誰かに強制されて始めたり、辞めたりするものではありませんから」
「それで、かの有名なアイアンメイデン事件が起きたんだね」
「知ってたんじゃないですか、やっぱり」
責めるような声音になってしまって、ガインはすぐに反省した。けれど、目の前の男はちっとも気にしない様子で首を横に振る。
「正確には、知らないよ。人からの伝聞でしかないから」
「…ありがとうございます」
「……お礼を言われるようなことでもないですけどね」
「姉は、騎士を辞めるも辞めないも自分で決めることだ、と相手に伝えたそうです。そしたら相手が怒って…」
――ハナミの淡々とした様子も良くなかったのかもしれない。騎士は感情を表に発出しないという教えはすでに体に染みついていて、相手が顔を真っ赤にして起こったさまにもハナミはいっさい動揺しなかった。けれど続いて振り上げられたこぶしには、しっかり身体が反応した。令息が大きく振りかぶった右手は、ぶん!と音を立てて空を切り、勢いよく彼はすっころんだ。ハナミが華麗に避けた結果、薔薇園の生き生きとした薔薇の茂みに。
「で、薔薇の棘がいくつか刺さったらしいんですけど跡が残るほどのものでもなく、そもそも騎士を目指す男が、相手が女騎士とはいえ令嬢に手を上げようとしたこと自体が悪質ということで、双方の当主同士の謝罪で手打ちとなりました」
「…僕が聞いた話だと、ハナミさんの手を握ったら手が棘だらけになったとか、転びそうなところを抱きとめたら体がとげとげで支えられずに転んだとか、薔薇園の蜂を素手で切り刻んだ、とかだったけど。やっぱりうわさはうわさでしかないね」
「そんな話もあるんですか、くそが」
苦々しげにつぶやいたガインは、ぎゅっと唇を噛んだ。姉の婚約未満話はどこからともなく人々の口火にのぼり、ハナミが社交界デビューするより早く浸透した。15歳のデビュタント前に一方的に泥を塗られた形だ。当の本人が年に一度程度しか夜会や茶会に参加しないことや、気にするそぶりを見せないこともあり、尾ひれや背びれがつき放題なのも癇に障る。
<女騎士団のハナミは身も心も鉄でできているアイアンメイデンだ、触れると棘が突き刺さる>
まだ15歳にも満たなかったハナミを貶めた男は、速やかに対処されたがうわさはそう簡単には消えない。せめても、と女騎士団全体をアイアンメイデンと呼ばせるよう計らったのは父だったか、それとも母だったか。
「…ガインくんは、お姉さん思いですね」
「いや、そういうわけじゃないですけど…」
「バワード辺境伯領は皆さん仲良しでうらやましいです」
「…領ってことは、ライラ姉も来ましたか」
「メリル嬢の婚約者殿も文官の寮まで様子を見に来られました」
「すみません」
ハナミさんは愛されてますねえ、とハンジは感情の乗らない声でぼそりと口にしたが、それはガインの耳には届かない。
「ハンジさん、あの」
「大丈夫ですよ」
「……冷やかしだったら、」
「冷やかしに見えますか」
大きな眼鏡の向こう側で薄茶の瞳が強い光を放つ。ガインはゆっくりを頭を振った。姉を傷つけないという心配がないとは言えないが、しかし信用に足ると判断した。だから、話したのだ。
「そんなことよりガインくん」
「そんなことより!?」
「ハナミさんの好物だって教えてくれたあんず、食べすぎてもう見たくもないそうなんですが」
「あ~、ハナ姉はそういうとこあるんですよ…」
+ + + + + + + + + + + +
「ハナミさん!おはようございます!」
「……おはようございます」
ほとんど毎日、凝りもせず姿を現す文官にハナミは最近、あいさつを返すようになった。このやり取りももうすぐ2か月となる。はじめのうちはうるさかった視線も気にせず、素振りや筋力トレーニングに取り組めるようになった。自分の順応力に感心したくらいだ。
「ハナミさん、今日もきれいですね」
満面の笑みでそう言いながら、文官はこちらをうれしそうに見つめてくる。この大きな眼鏡や屈託のない笑顔もそろそろ見慣れてきた。
「…よく、ここがわかりましたね」
外はようやく訪れた雨期で、昨晩からしとしとと雨が降っている。いつもの場所では濡れてしまうため、ハナミは屋根のある運動場で素振りを終え、柔軟体操をしていたところだった。もちろん、ハンジには場所の移動も何も伝えていない。そもそも、伝達手段を持っていないし伝える義理もないのだ。
にもかかわらず、ハンジはこれまで通りハナミの元へやって来た。正確には、素振りが終わっているのでいつもよりは少し遅いかもしれないが、昨日と変わらず朝の鍛錬に顔を出した。今日は来ないだろう、あるいは見つけられないだろうと考えていたハナミは少しだけほっとして、それからほっとした自分を不思議に思った。
騎士仲間で共に訓練をするならまだしも、いてもいなくても同じ存在の文官が来なくたっていいじゃないか、と。
「ガインさんがこの前、教えてくれたんです。ハナミさんは雨の中、木刀を振ったりしない。道具を大事にする人だから、って。でもルーティンを崩したりもしないから雨期は屋根のあるところでやっているはずって話してましたよ」
「…ガインが」
「はい。そのとおりでしたね」
「……でも、それでここに?」
屋根付きの運動場はいくつかある。王宮騎士用、男騎士団用、女騎士団用、合同演習用など用途もさまざまだ。ハナミが今日いるのは、頻繁に使用する女騎士団用ではなく――
「ここは確か、大会用でしたね。騎士団どうしの大きな大会や民間の方々の利用も可能だとか」
「ええ。年に数回使用されますが、ふだんはあまり人が来ないので…」
「そうなんですね。僕が今日こちらでハナミさんを見つけられたのは、偶然ですよ」
やわらかな声音でそう言って、ハンジはすっと天窓を見上げた。つられてハナミもそちらを見上げる。
「なんとなく、ここかなと思っただけで。ほら、天窓から外の様子が見えるので天気も確認しやすいですから」
にこっと笑った文官にハナミは虚を突かれた様子で固まった。弟が、彼に自分の情報を伝えるような関係になっていることには大して動揺しなかった。文官が女騎士――アイアンメイデンである自分を追いかけているというのはここ2か月ですっかり周知され、浴場でも俎上に上がる程度には面白がられていることは分かっているからだ。
けれど、きょうだいや幼なじみにも話していない屋内の個人修練の場所を、知り合って数か月の相手が引き当てたことに、ハナミの警戒心ははね上がった。だいたい、最初からうさんくさかった。紙を拾った程度でお茶に誘うなんてナンパにしてはへたくそだし、一目ぼれというには強引すぎる。なにせハナミはいつだって、ほとんど着飾っていない状態でしかハンジに会っていないのだ。夜会や茶会ではなく、自主練習やトレーニング後の汗だくの女を見初める男がどこにいる、そんな奇特な男いるはずがない。
「…何が目的ですか」
「えっ?」
「わざわざ棘だらけのアイアンメイデンに近づいたのは、どんな理由が?」
ハナミは珍しく、眉間に浅いしわを寄せてハンジを見つめた。睨む、というほど力を入れていないがそれでも感情を表に出さないことを常としている彼女のあまり見せない表情に文官は少し後ずさった。その様子を見とめ、ハナミは拳を軽く握った。雨だからと、湿気に弱い木刀を持ってこなかったのは失敗だったかもしれない。
臨戦態勢に入ったハナミに、ハンジは慌てて両手を上げて見せ、首をぶんぶんと横に振った。
「ちが、違います。僕は間諜ではありません。ただの文官です」
「間諜が自分から間諜と名乗り出るとでも?」
「それもそうですが!でも僕は違います、あなたのお顔を見に来ただけでっ」
「なんのために?」
聞きながら静かな怒りが胸を満たしていく。相手を信用しきっていたわけではないが、しかし裏切られたという気持ちを持ってしまう自分にも腹が立つ。自覚はなかったが、浮足立っていたのかもしれない。
目の前の文官はやや焦った様子でハナミを見つめ、少し考えるそぶりをした直後に天窓を手で指し示した。
「あの、ここからだと王女宮が、よく見えるなと」
「……なるほど」
「待ってください違います王女様を狙っているわけでは!王女宮が見える運動場は、ここと女騎士団用の二択で!ハナミさんはきっとどっちかにいるだろうなと!それだけです!先に女騎士団のほうも見てきましたしっ、本当にあなたに会うためだけです!」
息継ぎもせずまくし立てたハンジは、そう言い切ってから顔を真っ赤にして大きく息を吸った。
「だからその、でも、すみません。疑いが晴れないようであれば調べていただいても構いませんし、あなたにそんな顔をさせたいわけではなくて」
拳を構えたままのハナミへ、ハンジは苦しそうに謝ってきた。自分がどんな顔をしているかはわからないが、怒りはまだ体内で渦巻いていて、ほだされてやるつもりはない。しかしその怒りがハンジへ向けたものなのか己へ向けたものなのか、すぐには判断がつけられそうにないのもまた事実だった。
眉尻を下げて困ったように笑う文官を一瞥し、ハナミはゆっくりと拳を下ろす。本当はわかっている。好ましくない人物だったら、妹や従妹や、仲間たちがあんなにけしかけるはずがない。でも、疑念がすべて消えたわけでもない。
「…なんでいつも笑ってるの」
雑な口調で文官に訪ねる。それは出会ってからずっと抱いていた疑問だった。へらへらと笑みを浮かべて近づいてくる輩は掃いて捨てるほどいたので初めはそのたぐいだと思っていたが、しかしそれにしては要求があまりにもおままごとだ。
「当家には知ってのとおりガインがいるし、私も妹もいるから跡継ぎには困ってない。伯爵家三男には悪くない物件かもしれないけど、もっと利のある家もあるはず」
「…ちゃんと調べてくれてたってことですか」
「当然でしょう」
ハナミに寄ってくる男は件の事件以降、数をぐっと減らしたがそれでも我こそはという奴もいることにはいるのだ。だからその都度、辺境伯家はきちんと相手の出自を確認する。
ハンジ・アデルフェル文官。生まれは東の伯爵家、アデルフェル家で代々優秀な人材を輩出している家系、ハンジも例にもれず王宮つきの文官だ。次男であればスペアの可能性もあったかもしれないが、三男ともなれば継ぐ爵位は期待できず、自らの身を立てるために働く。大きな眼鏡が特徴の目の前の文官はまっとうなルートで職に就き、まっとうに働いているという報告がすでにハナミの父母から届いていた。だからこそ、不思議だった。
「褒賞つきだからといって叙爵が約束されているわけではないし、そもそも一代限りだろうからわたしが死んだらそれでおしまい。配偶者には遺族謝金くらいしか入らない。それに、アイアンメイデンと呼ばれていることも知っているでしょう」
「…なんでそんなに自己評価が低いんですか」
「…は?」
「は?じゃないですよ。なんで自分が好かれてるかもって思わないんですか」
「……好かれてる」
「僕、毎日ハナミさんに告白してたと思うんですけど」
「こくはく」
こくはくってなんだろうとハナミは首を傾げ、それから3秒くらい考えて、
「そういう作戦だったのでは」
と返す。好意を持っていると示して顔見知りとなり、関係を構築する。それは貴族の常とう手段だし、騎士団内でできた縁で商談が発生したこともある。男女となると婚姻関係がなにより強固なつながりとなるので、よりわかりやすい方法を取ったのだとハナミは捉えていた――否、捉えるようにしていた。
「…何にも伝わってなかったってことですか」
ざらっとした声で自嘲気味に笑ったハンジに、ハナミは少し困惑した。飄々とした底を見せない笑みがデフォルトの彼の初めて見る顔にほんのわずかな怒りを感じ取ったからだ。
「そんな顔もできたの」
思わずそう漏らしてしまったのは、ハナミのささやかな乙女心が首をもたげたせいだ。いつもにこにこと笑みを崩さない文官を、どこか呆れた気持ちで見ていた彼女だが、まるっきり興味がなかったわけでもない。目的が別にあったとしても、慕われ、追いかけられることにどこかくすぐったいような気持ちを持っていたことは認める。
けれど、どうにも本音が読み切れない相手を観察するという側面もあったので、見たことのない表情にうっかり言葉がこぼれてしまった。
「毎日毎日、俺がどんな思いであなたに会いに来ていたと?」
「おれ」
「ハナミさんが通るであろう城内ルートや見張り番のシフトを先輩のつてでどうにか入手して、一目でも姿が見れたらうれしくて、」
「…ちょっと、待って」
「遠征に出ると決まってからは仕事の合間を縫って神殿に通ってあなたの無事を祈って、」
「最後の遠征は半年前だったはずだけど」
「やっとお話しできたと思ったのに当の本人に全然覚えてないと言われた俺の絶望がわかりますか!」
うなるような低音で口火を切ったハンジの言葉にハナミはぱちぱちと目をまたたかせた。数センチほど見上げる位置にある眼鏡のレンズがきらりと照明の光を反射する。どこかで見たことのある、光だ。しかしそれがどこで見た光か、ハナミは思い出せない。
「…なんでいつも笑ってるのか、ってさっき聞きましたよね」
「ええ」
「あなたが好きだからです」
「…………いつから」
「……言えません」
「間諜」
「1年半ほど前です!」
怒鳴るようにして返ってきた内容に、また驚く。1年半も誰かに見られていたことに気がつけないなんて、辺境伯家の長女としてどうなのか。家族には知らせないほうがよさそうだ、と一人頷く。それから数歩ほど後ろに退いて、ハンジを上から下まで眺めた。
「やっぱり、覚えがないわ。ごめんなさい」
「……ハナミさん」
「ごめんなさい」
「言っておきますけど、俺はしつこいですよ」
「…それは知っているけれど」
すっかりラフな口調でそう答えると、ハンジがにっこりとうれしそうに笑った。
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一番最初は、きれいな髪だなあと思った。
半世紀前に迎えた終戦を機に、現在は友好関係を築いている隣国カーライル王国との軍事合同演習に駆り出されることになったのは、西の辺境伯家を筆頭とした女騎士団だった。1年に一度行われ、昨年は南の国境を領地とする伯爵家が持つ少数精鋭の騎馬隊が参加したこの演習は約3週間、国境付近の山中で行われるのが慣例で国内外へ向けての関係良好アピールに有効と考えられている。ハンジは広報紙を制作するための文官として今回、かの有名な女騎士団に帯同することが1か月ほど前に決まっていた。
この任に就くことが決まってからハンジはバワード家の長女をはじめとした”アイアンメイデン“について丁寧に下調べを行った。昨年、弱冠14歳で王女から褒賞を賜ったハナミは15歳となり、王都内では知らない者がいないといっていいほどの有名人だ。いくつかのくだらないうわさや陰口に近い情報も得たが、ひがみや妬みのたぐいと言っていい。周囲の評判も高く、うってつけの広告塔とハンジは見ている。
「しっかし、ねむい…」
文官という仕事は基本的に情報が命で、真偽の定かでない内容を確認・精査し、誰が見ても理解できるようととのえ、不特定多数の相手に届ける力が必要だ。役職のない文官は地味な作業が多く何でも屋のような側面もあることから馬鹿にされることもままあるが、ハンジはあまり気にしていない。むしろ、古今東西のさまざまな文献に目を通すことができるので活字に目がない自分にとって天職である。
とはいえ机に向かって活字だけを追い、紡げばいいというものではなく、なにがしかの文章を書くため取材に赴くことも少なくない。人手不足もあるが何よりハンジは若手で、議事会の記録に始まり、資料作成、情報収集に整理、果ては記録写真の撮影まで――と無茶ぶりされることの多い立場だ。今回のように事前に出立日が分かっている場合は大抵、早くに就寝して心身の状態を万全にしておきたいのだが、昨夜は王太子を交えた定例議会が長引き、深夜までかかってしまった。
さすがにあくびは出ないが太陽は高く、眩しい。ハンジは光を遮るようにして大きな望遠レンズを構えた。二百名を超す騎士団員らは皆一様に帯状の紅い布を身につけており、鈍い銀色の装備と快晴の青空によく映える。隣国との終戦のきっかけとなったとされる紅色の花をモチーフとしたそれは、リボンのようにして髪を結わく者や、腰ベルトに提げる者、額に巻く者などさまざまだ。
「騎士に洒落っ気なんか必要ないだろう」
「着飾ってカーライルに媚びようって腹づもりなんじゃないか」
出立の儀に伴い、それなりの身分や役職を持つ人間が集まるとそんなふうに揶揄する連中もいる。ハンジはシャッターを切り続けながらにこにこと彼らに近づいていき、それを一蹴した。
「あの” 紅華帯“ですが大変に丈夫なものでロープ替わりに使ったり、負傷時には止血などの手当てもできるように工夫されていると聞きましたよ。そもそも装飾品ではなく軍用装備として国から配布されているものだそうですが?」
人好きのする笑みを浮かべてそう放った文官に、やや面食らった様子の男らは言葉を返そうと口を開きかけ、しかしやめた。女騎士団の誓いの儀が始まったためだ。
アイアンメイデンたちの武器は体格や本人の希望、素質によって異なる。長槍、大槌なんかを扱う者もいるので主である王女へ尽くすのは、己の忠心のみ。よって誓いの礼は直立した女騎士団が王女へ歌を捧げる。
時間にして1分程度の曲を合唱する彼女らの表情は皆、凛としていて広報紙の一面を飾るにふさわしい佇まいだ。ハンジはカメラのレンズ越しに一人一人の顔を見つめ、時折写真に収める。かすかに吹く風が女騎士たちの髪や着衣をなびかせ、いい画が撮れている確信が得られ、内心うれしい。
合唱が終わり、構えていたカメラを下ろしかけ――ふと、視界の端になにかの気配を感じ、ハンジは体を斜め後ろへ動かす。その直後、突風が広場に吹き、整然と並ぶ女騎士団の最前列、アイアンメイデンの象徴ともされるバワード家の長女ハナミの鎧から、紅華帯がふわりと離れた。肩のあたりから胸元に垂れ下がっていた帯のむずび目が緩かったようで、風に乗って紅色が舞い、女騎士の礼を受けていた王女の足元に落ちた。
考えるより早く、望遠レンズをそちらへ向ける。
「……っ!」
王女の背後に控えていた王宮騎士が拾い、王女が受け取ったそれをハナミは直立不動、無表情で見つめている。直後、王女が一歩、前に足を踏み出した。次の瞬間、ハナミはきれいな所作で王女へ向かって膝をつき、頭を下げた。
その一瞬の出来事に、ハンジは何が起きたかわからなかった。わからなかったが、右人差指はカメラのシャッターを切るダイヤルをきちんと押さえていて、王女がハナミの髪に紅色の帯をリボンのように結び、淡く微笑んださまと、うつむく女騎士のわずかな笑みをしっかりと切り取る。
「…かわいい」
思わずこぼれたのは、ハンジがこれまで女性に抱いたことのなかった感情だった。
後頭部の高い位置で一つ結びにされた、銀がかった長い黒髪とそれに寄り添うようにして揺れる紅色から目が離せない。あのきれいな髪は、戦場でもあんなふうになびくのだろうか。敵の的になったりしないのだろうか。彼女のまっすぐな髪にくしを通してみたい、触れてみたい。
そこまで考えて、ハンジははたと気がついた。これは、なんだろう?自分は女性の髪にこんなに興味を持っていたか?黒髪が好きなのか、一つくくりの髪型が好みなのか?それとも、彼女だから気になるのか?
そんなことを思いふけりながらハンジは約3週間の軍事演習に同行し、仕事をこなしつつこっそり情報収集を進め、帰るころにはすっかり自分の気持ちを理解していた。
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「え、ってことはその文官、ハナ姉に1年くらい片思いしてるってこと?」
「たぶんな。でも姉貴気づいてなさそうだし、ハンジさんも内緒にしてくれって言うし。人によっては気持ち悪いだろうからユンもとりあえず言うなよ」
「えー…言うなって誰に?」
「全員だよ!!女騎士全員に言うな!」
「じゃあ何でユンに言ったの?そんなの聞いたら言いたくなっちゃうじゃん!」
「ハナ姉が危ないかもとか言うからだろ!探り入れてこいっていったのお前らだろうが!」
「…お前ら?」
「……………」
「……ハナ姉が気持ち悪がらなければ言ってもいいの?」
「…まあ、任すわ」
「ん。おけ」
女の子が騎士してもいいじゃない、と思って書きました。そしてそんな女の子を好きな男がいたらいいなと思って書きました。途中まで書いてから数か月放っていたのでつじつまが合わないところがあったらすみません。