ホクロ
ほくろはなんのためにあるのかよくわかっていないらしい。あの子はいった。僕は話半分に聞きながら、ゆっくりと動くその唇を見ていた。ぽってりとして、可愛らしかった。君の耳のすぐ近くの頬のところに、一個だけ茶色いほくろがあった。漢字で書いたら黒子なのに、それは茶色かった。小さなチョコレートみたいだった。
ある日君は一冊の文庫本を差し出しながら言った。
「この本面白いから貸してあげる。」
僕は帰ってそれをすぐに読んだ。女の子が魔法使いで、小さな事件を人知れずに解決する、ありきたりな少女文庫だった。僕はそれを面白いと思い込みながら読んだ。3時間で読み終わったが、3時間とは思えないくらい長く感じた。だけど、すごく集中していたから、母親から晩御飯で呼ばれたことに気づかなかった。
あの子とは毎日会えない。何か習い事をしているらしいが、それが何なのか聞いたことがない。知りたいとも思わない。図書室で彼女と交わす会話だけが、僕たちの世界だった。次の日は会えない日だった。だから、僕は学校が終わったあとその本をもう一度読んだ。今度は1時間半で読み終わった。やはり面白くなかった。流石に2回目だから晩御飯に呼ばれたことも気づいた。そこで中断していなければ、もう10分くらいは早く読み終わっていたかも知れない。
次の日は会える日だった。夕日がやけに赤くて、僕たちは赤の中にいた。僕は彼女に本を差し出した。
「とても面白い本だったよ。」
「そうでしょう。学校より面白いでしょう。」
「そうだね。」
「本を読むのは退屈だけど、この本を読むのは好きなの。」
「そうなんだ。僕も同じだよ。」
「何が同じなの?」
僕は何が同じなのかわからなかった。わからないと言えばよかったのに、何も言わずに薄ら笑いをしていた。
「あなたって変ね。」
「そうだね。」
「今読んでいる本も面白いから、読み終わったら貸してあげるわ。」
「ありがとう」
僕はまた君の唇を見ていた。だから何の話をしているのかよくわからなかった。変と言われたことに違和感はなかった。むしろ変な高揚感さえあった。
本当は、僕は本を読むのが大好きだ。文字が読めるようになった頃、僕は暇な時間に辞書を読んでいたらしい。親が教えてくれた。暇さえあればどんな本だって読む。この歳では読まないようなびじねす本も、父の部屋に置いてあったものを読んだ。そんなことを言ったら、もう本を貸してくれない気がしたから、僕は嘘をついた。
週に1〜2回、図書室で会った時だけ話す。話す時間は大して長くない。せいぜい30分程度。大体は彼女の姉や母の愚痴、最近の授業の話、僕らはクラスが違うので、お互いのクラスの噂話についてなどだ。一見楽しそうに見えないかもしれないけど、少なくとも僕にとっては大切な時間だった。
授業を受けているときは、こんなことは何も思い出さない。ドッジボールをしているときも思い出さない。ただ、本を読んでいるときだけ、彼女のことを思い出す。今読んでいる本をおすすめしたら、面白いと言ってくれるだろうか。暇だから読んでいた本が、いつのまにか探し物になっていた。流石に少女文庫をおすすめするのは変だから、児童推薦図書などを読んでみる。思いのほかテーマが大人くさかったりして、読んでもらえないような気がする。かといって「かいけつゾロリ」ではあまりにも低学年くさすぎる。人に何かをあげるというのは難しいことを知った。
そんな風に本を読むようになってから一ヶ月が経った頃、いつものように図書館であったときに彼女は言った。
「再来週に転校することになったの。」
声が出なかった。僕はまた唇を見ていた。泳いだ視線は耳元のホクロに移った。話半分で聞いていたはずなのに、何度も何度も僕の中で言葉が響いた。
「残念だけど、もうすぐお別れね。私は本を読むのが遅いから、この間言っていた本も貸せそうにないわ。」
「僕も、君に紹介したい本があったんだ。次会ったとき、君にあげるよ。」
「本当に?嬉しいわ。」
本当は紹介したい本は決まっていなかったし、あげるつもりもなかったけど、咄嗟に出てきてしまった。言ったからには決めるしかない。
それから僕は毎日本を1冊読んだ。本当は2冊読みたかったけど、2冊目に入った途端急激に眠くなってしまうから読めなかった。色々なジャンルの本を読んだ。推理、恋愛、ファンタジー、SF、実用書。それでも僕は決められなかった。君が嫌いな本を選んで、嫌な顔をされるのが怖かった。
本は決まっていなかったけど、僕は君と話がしたかった。だから毎日図書館で本を読んでいた。けれども次の日も、その次の日も、次の週も、君は来なかった。
そして学期末になった。
全校集会で二つ隣の列を眺めてみたけど、君の姿は見当たらなかった。
もうずいぶん昔の話だけど、あれから僕は毎日本を1冊読んでいる。2冊目を読もうとすると眠くなってしまう。どれか一つのジャンルに絞ることができなくて、そのとき興味がある本を読んでいる。今読んでいるのは「わかる!相対性理論」だ。一つ前はなんとか賞を受賞した恋愛小説だった。電車に乗っているとき、仕事をしているとき、妻と買い物に行くとき、こんなことは思い出さない。ただ、本を読んでいるときだけ思い出す、ぽってりとした可愛らしい唇と、耳の横にあった茶色いホクロを。