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民俗学准教授岩崎学の事件簿  作者: 甘利日斗
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序幕きたないへや

 岩崎准教授の研究室といえば、大学で一番汚いので有名だ。

 彼は民俗学を専攻として研究をしているのだが、そもそも民俗学科のテリトリー自体があまりよろしくない。蔦の張った外壁、日陰の立地、カビた臭いのする廊下。岩崎准教授の研究室は、その中でもなかなか行こうと思わないような隅っこに所在していた。

 加えて言えば、彼は掃除が嫌いだった。それはもう、遺伝子レベルで。

「そこの掃除が終わったらコーヒー煎れて肩を揉め、茶っ葉」

「茶っ葉じゃないです、茶橋(ちゃはし)です先生!」

 茶橋行宏、23歳。大学院の岩崎ゼミに所属し、更には私生活においてもこき使われるヘタレ男子院生である。

「呼びにくい。…………うえに生意気な」

「なっ。今、最後何かボソッと言ったでしょう!?」

「さてな」

 ガタイはデカイくせに妙に女々しい茶橋を放っておいて、岩崎はぎしぎし音のなるデスクチェアで脚を組む。

 きっちりと着込んだスーツ。たまにかける眼鏡。そのわりに無造作な黒髪。人を食ったような笑い方。

 学内でも有名な変人教師にとって、自分の生徒をパシリにすることは当然のことだった。それが知人の息子だったら尚更だ。

「どうでもいいが右手が留守になってるぞ、茶っ葉」

「…くっ。我慢だ俺……! 相手は先生、俺は生徒。単位のためなら何じゃらほいっ」

「聞こえてる」

 歴史的価値が認められたボロボロの文献や、一見ガラクタにも見える物体がところ嫌わず放り散らされている室内を甲斐甲斐しく片付けながら、茶橋はグッと涙を飲んだ。

 汚い。あまりにも汚すぎる。かれこれ数時間は掃除をしているはずなのに、いっこうに綺麗になる様子がないのは気のせいだろうか。

「……全部燃やしてしまいたい」

「怖いな」

「俺だって自分がこんなこと言うとは思いませんでしたよ。だいたい、何ですかこの『平成十五年』ほ、ほど『村』……? ひょう……ぼう? …『祭り』って。こんな昔の、もう捨てたらどうですか…ッイテ」

「大馬鹿者。『平成十五年 保土(ほづち)村氷瀑(ひょうばく)祭り』だ」


 プリントで叩かれた後頭部をさすりながら、茶橋はいつの間にか近くに来ていた岩崎を見上げた。何も叩くことないじゃないですか、と文句を言いかけた口は、岩崎の興味深そうな珍しい表情に、思わず閉じてしまう。

「……何かあるんですか、それ」

「懐かしい。そういえば、あったな。こんなものが」

 聞いちゃいない。

 ムッとした茶橋は、わざとらしくゴホンゲホンと咳払いをした。

「岩崎先生、氷瀑祭りって何ですか?」

「東北地方で主に見られる、滝の氷結現象を崇める祭りだ」

「…………え。滝が凍るんですか!?」

「だから、そうだと言ってるだろう」

 うるさそうに片耳を塞ぎながら、岩崎はチラシをピッと指先で弾く。

「もっとも、それは雪による気温と水温の低下によって引き起こされる現象のことを指していて、他にも湖による氷瀑も存在するんだが」

 意味がわからない。

 飛んできた紙が顔面に直撃するのを避けつつ、茶橋はあまり出来がいいとは言えない頭を捻った。

「どう違うんです?」

「氷結の仕方だ」

 岩崎は眼鏡を抑えて即答した。

「滝の氷瀑は降雪による水温低下が原因だ。その形は氷柱となって現れる。しかし、湖の場合は違う。湖の氷瀑は昼夜間の気温の激しい差異によって凝縮した氷が割れ目から吹き出すんだ。つまり、凍った湖の上に、突き出た氷の道ができる」

「はぁ…」

 もっと馬鹿にもわかりやすい人語を喋って欲しいが、賢明にも口をつぐむ。数年岩崎にパシられ続けた故の慣れだった。

 また甲斐甲斐しく掃除をしながら片付けに精を出す。

 すると、無表情でそんな茶橋の背中を見ていた岩崎は、ふと顎に手をあてて呟いた。

「ふむ。言ってわからないなら見てみるか?」

「…………はい?」

「保土村も最後に訪れて久しい。そろそろ条件にも合う季節だろう。良い経験になるぞ、茶っ葉」

「…………え? ちょ、まさか俺も行くんですか!? ……って、頭の悪いものを見るかのような目でこっちを見るのはやめて下さい!」

 無表情でジッと見つめてくる准教授に、普段パシられ続けている一介の院生でしかないヘタレは、ビクリと体を震わせた。

 本気だ。

 この目はマジだ。

 この男なら、きっとやる。

「事実馬鹿だろう」

 涼しげな顔で罵倒する岩崎に、茶橋はガックリと肩を落とした。

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