シアのピアノと街の鍵盤
ピアノの音の鳴る階段を、リイとふたり、息せき切って駆け上がっていく。
この階段は、どの段でどの音が鳴るのかはいつも誰もわからない。さいしょの一歩目がドの音のときもあれば、ソの音のときもあるし、じゃあドの次の音はレなのかと思いきや、それがミの音とかだったりする。でも、そんな調律の狂いまくったみたいな鍵盤を一歩ずつ踏んでいってもめちゃくちゃな音の並びには決してなっていなくて、不思議に心地良い旋律が私のこころに向かって響いてくる。私はもう、初めてこの階段を上がったときみたいに音が鳴ること自体には何も驚かなくなったけど、それでも往来のたびに変わっていく旋律を楽しみにする気持ちはずっと変わってない。
この階段に身を預けるときはそうやって、必ずその風来坊ないたずらごころに乗せられる。
なんとなく空を見上げてみると、ちょっと曇りがちな白い塊のそばから一本の飛行機雲が伸びている。その飛行機雲の母親は私たちの頭上遥かを、右から左にまっすぐ通り越して、ちょうど階段の最後の段と並行な位置に雲を伸ばした。私はリイよりも二歩ぐらいはやく最後の音を聴いて、まっすぐな飛行機雲の下をゴールテープみたいにして横切った。
「ねえ」
リイの口が開く。開いて、ピアノの残響の隙間に切れ切れの息が混ざる。
「今って何時?」
「えーと……6時!……あーじゃなくて……4時!」
あわてて言葉を付け足す。
「あと20分ちょっとで鐘が鳴る時間だよ」
手のなかのスマホが映している時刻は、16:07。この表記を見るといつも読み間違えてしまう。
「ちょっと急がないとね」
「うん」
息が整うのも待たずにリイははやめの歩調で歩き出す。私もそれに続く。
歩き始めて五分もしないうちに、私たちはいつもの見慣れた小屋の前に到着した。日に日に少しずつ増えてきたもみじの落ち葉を踏み分けて扉のところまで進み、リイはいつものようにさっと取り出した鍵を回して、きーっと嫌な音を立てる扉を開ける。その開けた先にはやっぱりいつも通りの、古びた真っ黒いピアノがあった。
手のなかのスマホが映している時刻は、16:11。あ、ちょうど今時刻が動いて、16:12。
「ねえ今何時?」
またリイの口が聞いてくる。
「4時12分だよ!」
うん、今度は間違えない。ていうかこんなので間違えてたら阿呆みたいだ。
「……今度は間違えないんだな」
「うるさいわ」
リイの妙にスカした笑いが鼻に付く。学校じゃ無口なくせにこういうときばっかり口を開くからもう余計にって感じよ。
虫の居所をごまかすために、私はピアノの前で静かにたたずむ椅子に腰かけ、重厚な鍵盤に手を置いた。このピアノは、いつ誰が何故どうやって何のためにここに置いて行ったのかとかいう情報がひとつもわかっていないらしく、誰にどう聞いても「さあ……」以上の答えは返ってこない。こういう得体のしれない謎を抱えたものは、得てして子供たちの噂の格好の的になるもので、実際に小学生男子たちの間で幽霊がどーとかこーとかっていう噂になってたこともあったらしいことを、つい最近弟から聞いた。来年のサマーキャンプのときにこの場所を肝試しスポットにしようぜ、とか言ってるやつもいくらかいるらしい。じゃあこの場所に毎日足を運んでいる私とリイは、その子らからしてみれば世界を救う命知らずな大勇者一行に見えてたりでもするんだろうか。いやもしかしたら私は、幽霊の正体を誰よりも近いところで知ってるのかも。……ちょっと笑えてくる。
「あれ」
「今日はシアが弾くのか?」
あーそういえば今日はリイの番だったんだっけ。二日連続になっちゃうけど……まあいいか。今更交代するのもそれはそれで面倒だし。
「うーん、今日は私がやる。もともと今日は弾きたい気分だったし」
「……そうか。わかった」
やっぱりちょっと無愛想なやつだよなあって思いながら、手のなかのスマホにもう一度目をやる。映っている時刻は、16:24。いつもの時間がもう意外に近くまで来ているのを感じ、ちょっとだけ身がこわばる。てか時間経つのなんかはやいな。
目前の重厚な鍵盤に向き直り、もう一度手を置いてゆっくりその鍵盤を押し込んでみる――。
やっぱりこころが震える音。こころを揺さぶる音。こころを優しく撫でる音。だいたい二十四時間ぶりくらいにこの音を聴いて、やっぱり私この音好きなんだなってのを感じる。古惚けた見た目のせいでかえって厳かな雰囲気を纏っているこのピアノのイメージに違わず、鍵盤のひとつひとつの手ごたえはかなり重い。でも重い分、鮮明に指先から振動が伝ってくるのが心地良い。
「シア、そろそろだよ」
唐突にリイの声がピアノの音の渦を裂いて、私の耳に届く。ポケットのなかからスマホを取り出して開くと、時刻はもう16:29。ちょっと焦る。
リイはいつの間にかピアノの更に奥にある放送の機材みたいなものの前に座っていて、もうすでに色々とボタンを押したりなんだりしてスタンバイしている。機材の操作と言っても何も考えずにただ教わった通りにやるだけだから、お互い仕組みとかはいまだによくわかってないけど。
16:30が近づいてくる。あともう少し――。
――3、2、1――。
*****
私たちの住む街では、冬の時期は夕方四時半、それ以外の時期では夕方五時に、普通なら街じゅうをこだまするあの鐘の音が鳴らない。その状況が始まったのはかなり昔の話で、私たちのお父さんやお母さんはおろか、おじいちゃんやおばあちゃんですらこの街で夕方の鐘の音を聴いたことがないらしい。おじいちゃんおばあちゃんたちが、小さい頃に聴いたっけかどうだっけかみたいな話で笑ってるのを小耳にはさんだことはあるけど。
だから、その状況を寂しく思った数少ないお父さんお母さん世代の人たちがこの小屋を建ててピアノを置き、鐘の代わりにピアノの音を街じゅうに届けようっていう試みをし始めた。私たちはとっくに引退した上の世代からこの役目を受け継いだって形になってる。受け継いだって言うと聞こえは良いけど、実際はうちの高校で後継者を探すってことが決まって、クラスでそれ用の委員会をひとつ新設したときにクラスメイトにリイと一緒に押し付けられたってだけ。本当はそんなにやりたくなかった。こんなことなんて。どうせ街にはたいして人がいないのに。
この役割も本当はもっと何人も果たすべき人がいるんだけど、皆揃いもそろってサボるから、この委員会は学校じゃほぼ空気と化してる。そのせいで私はしだいに担当の日以外も毎日ここに来なきゃいけなくなって、おかげでそれなりにいた友達と放課後に遊ぶこともできずに、少しずつ疎遠になっていってしまった。結局、最後まで残ったのは役割を押し付けられた私と、リイのふたりだけだった。それで、そのままずるずると今日まで来てしまっている。昨日も一昨日もそうだったし、きっと明日も明後日も同じ場所で同じことをしてるんだろうなあって思う。
*****
鍵盤を叩く手に力がこもる。そもそもこのピアノは鐘の代わりだから、街じゅうに弾いて聴かせるのもそれほど長い時間じゃない。多分、いつもだいたい一分に満たないくらいで弾き終える。でも、街外れのこの場所にいる私の小さな指先から生まれたこの音がきっと、多くの子供たちの居場所を作ってる学校とか、生真面目なナキさんの勤める交番とか、陽気なサリさんがいる定食屋とか、お隣のリイの家とか、これから帰る私の家とか、色んな場所に届いてるんだろうなあって思うと、なんだか不思議なくらい自分のやってることが誇らしくも思えてくる。あー私きっと明日も明後日もここで同じことをしてたいって思うんだろうなあ。あの階段みたいに、気まぐれになって毎日色んな音を鳴らしてたいって思うんだろうなあ、って。
ふっと顔を上げるとリイが手を挙げて合図を送ってきてるのが見えたから、演奏を締めに持って行った。最後の音がいつまでもこの場所に残っていたそうに長く響いて、その姿が見えなくなるまでしばらくかかった。リイがまた、これも教わった流れを忠実になぞってボタンとかレバーとかをいじって機材の電源を落とすと、背もたれに寄りかかって大きく息を吐いた。
「今日はずいぶん気合が入ってたな」
「えーそう?」
「時間見てみ」
言われてポケットからスマホを取り出す。手のなかのスマホが映している時刻は、16:36。
「……えっもうそんなに経ってたの!?」
「長すぎだって。なんか良いことでもあったのか」
「まあ……あったというかなんというか……」
「ふーん。まあいいけど」
「……そろそろ帰るか」
「うん」
そんなに長居はしてないはずなのに、外の空気が小屋に入る前とちょっとだけ違うような気がした。私はすーっと深呼吸した。
リイは入ってきたときと同じように鍵をすっと取り出し、しっかりと扉を締めた。身に纏う肌寒さに少し震えながら、私たちは来たときと同じ道を帰った。途中あの階段を降りたときは、始めの一歩目はシの音で、踏みしめる足の底から来たときとはまた違う旋律がこころに届いた。本屋の前を通り過ぎ、校舎の裏門を通り過ぎ、定食屋の前を通り過ぎ、交番の前を通り過ぎ、畑と墓地の傍を抜け、やっと家の前までたどり着いた。帰る道中、ついさっきまでこの場所にも私のピアノの音が降ってたんだなあと何度も思った。
「……それじゃあまた明日ね」
「うん、またね」
きっと、また明日も同じようにここに帰って来るんだろうなあ。性懲りもなく、何度も何度もおんなじことを考えてさ。
「ただいまー」
いつもは言わない言葉で、小さく空気を震わせた。私は私の場所に帰ってきた。
どうも、瑪瑙です。
ピアノが弾けたらなあって最近よく思ってます。
満足していただけたら嬉しいです。