二章 その12
お父さんに何も言われなくとも、たぶん僕は星野さんのところへ行ったろうと思う。この辺はそんなに治安の悪いところではないし、不良少年グループがうろついてるなんてことも、変質者が出たなんてことも、たぶんない、強いてあげるとすれば警官に補導されないかが心配だが、まあそのくらいならかわいいものだ。でもやっぱり、女の子がひとり屋外で夜を明かすというのは危ないし、僕は星野さんを見捨てるほど薄情ではない。おそらく、かしこさんを見張る星野さんを、こっそりと後ろから見守るくらいのことはしたのではないかと思う。見張ってるつもりが見張られているわけだ、
……ん?
僕は勢いよく後ろを振り向く。かしこさんを見張る星野さんを見張る僕を見張るものお父さん、という構図が頭に浮かんだのだが、幸いにしてそこに広がるのはただの闇だった。本当に? 目を凝らすがそれらしいものは見えない。もっとも、お父さんが本気で身を隠していれば、僕なんかでは見つけることはできないだろう。まったくなんなんだ、あの人は。
お父さんは、僕が食事を終えて、すぐ出かける準備を始めるのを、まるでそうなることは分かっていたような顔で見ながら、今晩は雨が降りますとか言って傘を手渡した。何もかも見透かされているようで気に食わない、でもきっと、僕が本当に困った時、最後に頼るのはお父さんなんだろうと思う。そしてお父さんは助けてくれるのだ。やっぱりまだまだ子どもですね、あなたは、とか言いながら。
星野さんがなんであんなに怒ったのかは分からないけれど、きっと僕も悪かったのだろう。何が悪かったのか分からないから謝りようがないけど、まあ、僕が謝ればすべてまるく収まる。なら謝るのが大人というものだ。
公園、いつものブランコに星野さんの姿はなかった。
帰ってしまったのかな? それならそれで、僕も安心して家に帰れるというものなのだが、いや、しかし、星野さんの性格からいって、途中で投げ出すようなことはしないだろう、ということは一時的にどこかへ行っているのか、トイレとか食事とか、さすがにずっとここにいるわけにはいかないだろう。
と、ベンチが目についた。僕からは背もたれの側しか見えず、あそこに寝っ転がっていたら見えないだろうな、なんて考えながら覗き込んで、
で、いた。寝てる。
なにか夢でも見ているのか、眠っているというのにしかめっ面だ。しかし、こうやって無防備な寝顔を見せられると何かいたずらしたくなってくるのが僕というもので(ヘンな意味ではない。僕にそんな度胸はない)、いい具合に近くにはボールペンが落ちている。一緒に教科書も落ちてるから、眠る前は勉強でもしていたのかもしれない。そんなことをすれば眠くなるにきまってるのに、つくづく真面目な人だ。
さて、落書き落書きっと、
「……」
ボールペンを拾ってから、止めた。寝かせといてあげよう。
どうして教科書と言うのはこんなにも面白くないのだろうか? だいたい名前からしてよくない。“現代国語”だなんて、いや、国語について書かれた本なのだということは分かるから名前の目的は十分果たしていて、それどころか無駄のない素晴らしいネーミングだと思うのだが、しかしもっとインパクトを大切にすべきだ。最近本屋でよく見かけるようになった“萌える~”みたいなのはさすがにないにしても、“誰でもわかる~”くらいの名称にすべきだと思う。そうすれば、きっと教科書を手にしたその瞬間ぐらいは目を通そうという気持ちになるだろう。そのあとのことは知らない。
星野さんはなかなか起きない。暇だ。あまりの暇さに、ついに僕は教科書を開いたのだった。もしかしたら、無人島に漂流するときに教科書だけしかもっていかなかったら、僕はすごく成績が良くなるのではないか、そんな妄想はしかし妄想で、チンプンカンプン、数学の教科書は宇宙語で、歴史の教科書は怪電波、読めるのは国語だけだ。無人島では燃料として有効活用されることだろう。それにしても暇だ。そして眠い。でも星野さんは寝てるし、僕まで寝てしまったら何のためにここにいるのか分からない。
「……さい」
ん?
声がした。方向は星野さんのほうからで、そっちには星野さんしかおらず、星野さんでなかったら幽霊の声だ、それは怖い。
「……寝言?」
僕はゆっくりと星野さんに近づく。星野さんは僕に背を向けているので顔は見えない。起きているかは分からない。でも、起きたらもっと別のリアクションをとるだろうからきっと寝言だ。しかし、『さい』とはなんぞ?
覗き込む。やっぱり寝てる。僕は相手が寝ているのをいいことにずいぶん長いこと、星野さんの寝顔を見ていた。そして気付いた。これはしかめっ面じゃない。これは……。
音を出さず、星野さんの口が動く。
ご、め、ん、な、さ、い。