二章 その11
僕は走った。
進行方向はるか彼方には沈みかけた太陽が赤々と輝いていて、太陽に向かって走るだなんて、安っぽい青春ドラマのラストシーンみたいだ。しかし、それでは安っぽくない青春ドラマのラストシーンとはいったいどんなものなのか? やっぱりラストは夕日に向かって走るのが一番おさまりがいいのかもしれない。
明日への希望にあふれた少年少女たちの笑顔を思い浮かべて、ふと、中身のない空っぽのカバンがパタパタと背中で跳ねまわり、邪魔なことに気づく。僕は教科書のほとんどを学校においていて、だからこのカバンは飾りでしかなく、お父さんがうるさくなければ持っていく必要のないものなのだが、普段はあんまり邪魔だとは思ったことがない。そもそも何でこいつは跳ねているのか? ああ、僕が走っているからだ。僕は走るのをやめた。
すると、先ほどのことが思い出される。
星野さんの憎しみをこめたまなざしや、『帰れ』という言葉が、たった今聞いたかのようにリフレインされ、なるほど僕は自分が怒っているのだと気がついた。僕はボランティアだ。ちょっと正義感を感じ、星野さんに付き合っていたにすぎない。そう、『負い目』だとか『使命感』だとか、そんなものは僕にはない、僕にあるのは知り合いのよしみで星野さんに付き合ってやろうというちょっとした気まぐれ、あとかしこさんが心配だというのもある。僕は星野さんの部下でも下僕でもなく善意の協力者であり、僕のほうから辞表を提出ことこそあれ、星野さんから一方的に解雇されるいわれはない。
頭の中で言葉を連ねるにつれ気持ちが整理され、僕は不可解なモヤモヤの原因を突き止めた。
結論、星野さんは理不尽だ。
家に着いた。時刻はこの前、お父さんとお玉フェンシングをしたときと同じくらいか。
「ただいまっ!」
僕だって学習能力はあるのだ。廊下の向こうからエリート顔を、にゅ、っと突き出していたお父さんは満足げにうなずき。
「元気でよろしい、何があったのですか?」
やはりお玉を構えて近付いてきた。しかも『何があったか?』とは、やはり彼はエスパーなのだろうか? いやそんなことはさすがに、ないとも言い切れないところがなんとも、しかし、誘導尋問の可能性もある。僕は慎重に言葉を選ぶ。
「何かって?」
「何か……感情の高ぶるようなことがあったのではないですか。たとえば嫌なこととか」
脱力。絶対心を読まれているに違いない。
「どうしてそんな……」
「いつもより声が大きかったですよ」
それだけ……? しかもそんな大きくなかったような……いつもよりって何デジベルくらい?
「さあ、お父さんに相談するのです」
笑顔で両手を広げるお父さんをみて、僕は悟った。逃げ場はない、と。
「ふむ、つまり『帰れ』と言われて腹が立ったから帰ってきたと……」
僕はだいぶ端折って説明した。つもりなのだが、お父さんは足りない情報を頭の中で補完し、全体像をつかんでしまったようだ。眼鏡をひからせ、じーっと僕を見る。子どもの頃の刷り込みか、僕はこうやってお父さんに見つめられると怒られているような気持ちになるのだが、お父さんは突然、優しく微笑んだ。
「そうですか。あなたも、もうそんな年頃なのですね……」
「はぁ」
しみじみと言われても、何の事だか。
「私は答えを与えたりはしません。ですがヒントを上げましょう」
教師のような口調、何もかもを見透かしたような顔、多感な年ごろの僕はちょっとカチンときながら、でもヒントは欲しくて待つ。
「どうして彼女は怒ったのだと思いますか?」
ヒントなのに質問?
「え~と、さあ?」
三つ編みのくだりは、諸事情により省略した。
「考えてみましたか? 安易な解答に至ってはいませんか? Hさんというのは理由もなく怒るものなのですか?」
「……」
「あなたの視点だけでなくて、他人の視点に立ってみることは大切です。
大人でさえ、いえ年齢云々ではありません、私の認める大人でさえ、時には、特に感情が高ぶっているときは判断を誤ります。自分以外の目で周りを見ることができなくなるのです。私だってそうですよ。理不尽な態度をとられれば怒ってしまうのも仕方ありません。しかし、理不尽な態度をとった彼女はそうするしかない理由があったのかもしれないし、理由を知ってしまえば本当にくだらないことで、あなたが怒るのも仕方ないかもしれない。その理由を完全に理解することは不可能なのでしょうが、理解しようとすることは大切です。
それが私のヒントです。夕飯でも食べながら考えるといいでしょう」