一章 その12
速い。
星野さんのほっそりとした背中がぐんぐん遠ざかる。
「びょれをおいていげ(俺を置いていけ)」
わずかに後ろを走る大山が言った。自分が足手まといになることを恐れたらしい。
大山、お前は男だよ……。
「びょれはにぼいでわがるから(俺はにおいでわかるから)」
……大山……。
僕はピンクのハンカチをひらつかせる大山を背に、ギアを上げた。
脚力には自信がある。それは僕が日常的にされされてきた生命の危機に由来するわけで、ジャ〇アンに追いかけまわされる〇び太君の逃げ足が速いのと同じ理屈であるのだ。
「納得した?」
僕は隣を走る星野さんに尋ねた。
あっという間に追いついた僕に向かって、
『速っ!』っと突っ込んだ星野さんに説明してあげたのだ。
「ぜんぜん!」
つれない返事だ。話題を変えよう。
「どこに向かっているの?」
「教えない、ついてこないで!」
ますますつれない。
「なんでさ?」
「ついてきたら君死ぬよ」
「またか……」
「信じてないでしょ」
「いや、そういうわけじゃなくて……そういうの言われ慣れてるからさ、死ぬとか、呪われてるとか」
軽い感じにニヤけて言ってみた。
「だったらなおさらついてこないで!」
叫ぶような返答、声が少しかすれているのは息が上がっているからだろう。
「でも……」
ここまで来て帰れと?
「でも、じゃない! いい? よく聞いて。この先に川があるのは知っているでしょう? 私はそこに向かっているんだけど、もし君がついてきたらその川でおぼれて死ぬ。間違いない」
それなら問題ないな。
「大丈夫、おぼれた経験もあるから」
「何が大丈夫なの!?」
「それにしょうがないよ、もう見えてるもん」
橋が。
もちろんその下には川が流れていて、なんと僕はそこで溺死するらしい。
……一応、川には近付かないでおこう。
そんな決心は川を見たとき一瞬で砕け散った。
「川に近付いちゃ駄目だよ」
星野さんの声がひどく不明瞭に聞こえた。
だって、僕の五感は川の一点に集中していて、聴覚も平常業務を放棄していたのだから。
人がおぼれていた。