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交易都市ヴァルトにようこそ、おじさん

 誠二郎せいじろうの今世の名前はどうも「ルツ」らしい。


 生まれて初めて見えたのは、クヌギで築かれた古びた部屋の中で自分を大事に抱いていた美しい西洋のお嬢さんだった。銀髪碧眼の彼女は知らない言語で速射砲のようにまくし立ていたが、だった一つだけは誠二郎せいじろうにでも聞き取れることができた。


「ルツ! アァ、ルツ!」


 彼女は相次いで「ルツ」と呼び、とても嬉しそうな表情で誠二郎せいじろうの顔に頬をこすりつけてくる。生まれたてのまだ敏感な肌だったので、擦れたところがひりひりする。


 結構痛い。涙が出そうだ。


「アァッ! ルツ! ルィ・ブレート! ルツ!」


 それにしても……ルツか。


 不慣れたその名前をしばらく嚙みしめてみる。うん。悪い気はしない。そう思ったルツは、慌てたまま自分に手を振っていた彼女の人差し指を精一杯握り締める。上手に動かない顔の筋肉に最大限の力を入れて、当惑している彼女に辛うじて笑顔を見せた。すると彼女はほっとしたような表情で、ルツのおでこに軽くキスをした。


 そうやって現世の母との初出会いも一段落した後、ルツは一週間のほとんどの時間をベッドで過ごした。


 息苦しい。体をひっくり返すことさえ易しくない。なるほど。春菜が赤ちゃんだった頃に終始泣いていたのは、こんな理由だったわけか。ルツはずっと背中が床と接している苦々しさに耐えながら、春奈はるなが初めて自らの力でうつぶせたあの時を思い出してみる。


 ルツはそれを参考にして身体に力を入れてなんとか動こうとした。


 無理だ。びくともしない。この状態でできるのは、この小さな手で何かをつかむことだけだろう。勇士で生まれたとしても、ルツはまだ赤ん坊に過ぎなかった。


木で作られた監獄みたいなベッドに横になって、ルツはただ天井に向かって手を伸ばした。おそらく今、泣き出したら親が助けに来るだろう。しかし、ルツはせいぜい体をひっくり返す程度で働いている彼らを煩わしくさせたくなかった。


 するとその瞬間、伸びていた右手に色とりどりのビー玉のようなものが集まり始めた。ルツは思わずそれらを手にした。やがてその玉たちは水で洗った綿菓子のように、ルツの手のひらの真ん中に溶け込んだ。


 一瞬、心臓が止まったかのような感じがした。いきなり呼吸しづらくなったルツは、子供の不器用な手つきで心臓付近を叩く。


 苦しい……苦しい苦しい苦しい……っ!


 自ら胸をえぐりたくなるほどの圧迫感が血管に乗って心臓に押し寄せてくる。その得体の知らない感覚はそのまま心臓の周りを十一周してからやっと収まった。一体何だったんだろう、この感覚は。


 安堵のため息をつきながらルツは上半身をすくっと起こした。


「……は?」


 ルツは突然、現実から放り出されたような気がした。確かさっきまでは体をひっくり返すことさえ不可能だった自分が、今はこうして座って自らの足を見下ろしていたのだ。


 こんなことが起こり得るというのか。試しにルツは簡単なラジオ体操の動作を取ってみた。……問題ない。何でも難なくできる。むしろ赤ちゃんの体だったので軽い分だけに、足に力を入れただけでそのまま天井まで飛びそうだった。


 ルツはどうしようもないほど浮かれていた。 これまで動けなかったことに対する補償でも受けようとするかのように、監獄のようだったベッドから飛び降りて部屋中を目一杯走り回った。


「リィーヴェタ⁉ ヴォ・ブレート・ルツ⁉」


 しまった! あまりにも浮かれすぎたせいで下の階にある今世の母にまで足音が聞こえたようだ。ルツは彼女が部屋に入る前に素早くベッドに戻った。


 頭に布製の頭巾をかぶっていた彼女は、おとなしく寝ているふりをしているルツを見て安心し、彼のおでこを優しく撫でてくれた。その後、彼女はかすかな笑みを浮かべながら階下に下がった。


 彼女の反応を見る限り、やはりこの世界でも赤ちゃんが走り回るのは非常識なことのようだ。ルツは自分が走ってる姿を親にばれなかったことを幸いに思った。前世の自分よりはるかに若く見えるけど、それでも彼女は自分の親だ。故にルツは余計な心配をかけたくなかったのだ。


 しかし、体が自由に動くという事実に気づいてから、ルツは外の世界がとても気になった。この世界で娘は、どんな景色を眺めていただろうか。それを自らの目で確かめたいとルツは思った。


 なので下の階にいる彼女にはばれないように、ルツは開いていた窓を通じてこっそりと家の外に出てみることにした。自分の身長と比べたら六倍以上の落差だったにもかかわらず、ルツは何の躊躇なく一気に飛び降りた。本能的に怪我しないと確信したからだ。


「なっ……!」


 そうやって地面に着地したその瞬間、正面を見つめたルツはただ口をボカンとするしかなかった。


 すぐ目の前にファンタジー映画でしか出てこなさそうな馬みたいなドラゴンが馬車を引いていた。路地側では頭の方がトカゲだった者が通り過ぎる人々に緑色のリンゴを売っていた。


 そして何よりも先ほどの馬車が進んでいた方を眺めると、その規模に鳥肌が立つほど巨大な広場が現れた。 そこで鎖帷子を身につけていた人々が書類の束を直接持ち歩き、様々な種族の取引を仲介していた。


 本当にここは違う世界だなぁ。 それを実感したルツは、両親に気づかれないうちに部屋に戻るため、その場でジャンプした。


 水ロケットのように対角線に飛び上がったルツは、ニ階の窓枠をつかんで部屋の中に入った。足の裏についた土を窓の外にはたいた後、そのままベッドに横たわった彼は、今後のことについて悩み始めた。


 娘は自分の願いを叶えるためにここに来た。自分の願いはその娘が望むことを叶えることだ。なら自分が先に魔王を退治すれば、春菜の願いも叶えることになるだろう。であると娘もこれ以上は苦労しないだろうし、ルツ的にはこっちの方がベストだけど。


 しかし果たして自分が代わりに討伐しても本当にいいのだろうか。もし、娘がその過程にも自分なりの意味を持っているとしたら?


 分からない。ルツは深いため息をついた。


 その時、とある考えが雷に打たれた避雷針のようにルツの頭の中に流れ込んだ。……そっか。それなら娘の冒険を支える方にすればいいんだ。魔王なんかよりずっと強くなって、娘の冒険を陰から守ればいいだけじゃないか。


 ルツはにっこりと笑いながら決意した。陰から娘を支えるために、この世の誰よりも強くなってみせると。

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