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おじさん、転生される

「……ここは」


 見知ってる天井だ、と誠二郎せいじろうは思った。

 毎日の出入りで慣れていた玄関の匂い。ここからは見えない台所の方には、ぐつぐつと何かを煮るような音が聞こえる。春奈はるなが代わりに夕飯を作っているのか。と思ったとたん、そんなことあるわけないと悟った誠二郎せいじろうはすぐ立ち上がろうとした。


 しかし、体はびくともしなかった。


「け……健介けんすけ? 一太郎いちたろう? それに……はじめまで⁉」


 気を失っていた健介けんすけたちが、誠二郎せいじろうの体を押さえつけるように倒れていたのだ。

 何とか起きるためにもがいてみる誠二郎せいじろう。口の中から血の味がするほど精一杯あがき、やっと彼らから抜け出した誠二郎せいじろうは何の躊躇もなく台所に向かって走った。


 その瞬間、誠二郎せいじろうは気づいてしまう。

 仕事が忙しすぎて家事がまともに手につかなかったから、普段なら少しべたついていた床の感触が、まるで妻が生きていた頃のようにすべすべになっていたことを。


「あら、お目覚めになられたのですね、誠二郎せいじろうさん」


 そして今、台所から料理をしている存在の正体についても。


「そんな……ありえない!」


 誠二郎せいじろうは目の前の光景が信じられなかった。

 腰まで伸びている長い髪を紫色のリボンで結び、綺麗に整えたポニーテール。人の心を癒す、母性溢れる垂れ目。灰色のエプロンを付けたまま包丁でパプリカを切っていた彼女の横顔は、男性の理想の塊で作られた妻のような雰囲気を醸し出していた。


 しかし色々と清純に見える外見と違って、そんな彼女の唇にはキスをねだるような色っぽい薄い紫色の口紅が塗られていた。エプロンの胸のあたりは張りに満ちていている。何よりも張り裂けそうに極限まで膨張していたそのジーンズは、彼女の肉感的な体型をより強調していた。


 一言でいうと、清純かつ色っぽい。

 目の前の人を一文で表現するには、これ以外の言葉は存在しないだろう。


「おや、何かいけないものでも見たような目付きしてるんですけど。どうかしました?」


 だが、強いて違う言葉で表現してみるとしたら。


「だって、君は確か十六年前に……私の腕の中で……っ!」


 この人のことを「誠二郎せいじろうの妻」とも言えるのだろう。


「はい。確か春奈はるなを生んでから間もなく……でしたっけ? あぁ、懐かしいですね」


「懐かしいって……君は本気でそう思っているのか?」


 でも、それはあくまでも「強いて」の話。

 彼女の見た目は確かに十六年前の妻と同じ姿をしているけど、やっぱり違ったのだ。


「それもそのはず、生まれたての春菜を目前として抱き上げることすらできず私、死にましたよね? とっても無様な姿のままで」


「なのに、懐かしいと?」


「はい。それ、結構黒歴史だから十六年も過ぎた今でも時々思うんですよ。ほら! あの時、惨めな表情で泣いていたじゃないですか、私」


 妻なら……美穂みほならこんなことを口にするはずがない。

 誠二郎せいじろうは今も脳裏に刻印されている、あの日の妻の顔を思い出してみる。


 美穂みほは生まれたばかりの自分の娘を前にして上がらなかった自らの手を、病衣の肩線を口でくわえてでも持ち上げようとした。たった一度でもいいから死ぬ前に直接抱いてみたい、って絶叫しながら美穂みほは泣いていた。


 悔しかった。

 その感情だけは美穂みほも自分と同じだろうと……この十六年間、誠二郎せいじろうはそう思っていたのに。


「恥ずかしくもあるし懐かしくもあるので、より忘れられない思い出的な感じ? あははっ」


 目の前にある妻っぽい人は、ただ頬を搔きながら照れくさそうに笑っていた。

 誠二郎せいじろうはまるで妻の体に、魂だけ別のものが入ってきたかのような異質さを感じた。


「……ならば、君は……」


 そこで誠二郎せいじろうは感づいた。


「あ、はい。何でしょうか」


「あの少年が言ってた女神で間違いなさそうだな」


 こんなことができるのは、生物としての限界を超えた存在のみだと。


「……どうやって分かったんですか?」


 美穂みほの姿をしていたそれは驚きを隠せなかった。

 話す時の口調やジェスチャー、状況に応じて表そうとする感情による顔の筋肉の動き、包丁の持ち方、普段家でよく着る服装、そして誠二郎せいじろうを対する時の呼吸状態まで。


 そのすべてが美穂みほと一致したはずなのに、彼に気づかれてしまったのだ。


「この身の過去の記憶たちをすべて参考にして、土間美穂みほという人物を完璧に演じたつもりなんだけど」


 でも、それはあくまで見た目に限るものだけ。美穂みほの夫である誠二郎せいじろうにとってのその演技は、残酷すぎる悪ふざけに過ぎなかった。


「君の意見は妥当だよ。確かに言葉遣いや仕草、人に向かう時の温かい視線や笑うとパッと花が咲いたようなその綺麗な笑顔などは……君の言う通り「完璧」に美穂みほと似ているだろう」


 誠二郎せいじろうは腕の血管が浮き出るほど、自分の拳に精一杯力を入れた。歯が割れるんじゃないかと思うくらい歯噛みをした。亡き妻を冒涜している神と名乗る者に、このまま怒りを込めた一発を食らわせたかった。


「しかし……記憶の活用があまりにも雑過ぎじゃないか」


 それでも誠二郎せいじろうは暫し深呼吸をして、その怒りを何とか抑えた。


「……へぇ。どの点がですか?」


美穂みほなら必ず、あの時のことを「悔しい」と思うはずだからだ」


 あの時、生まれたばかりの娘を置いて世を去らなければならなかった妻のためにでも、誠二郎せいじろうには娘を幸せにする義務があったのだ。故にその機会をくれるかも知らない目の前の相手に、機嫌を損なうような態度をとることはできなかった。


「案外と人間って、奥が深い生き物なんですね」


 嘲笑しながら目の前の相手を堂々と皮肉っている女神とやらの蛮行を身に受けていても、誠二郎せいじろうは努めて平静を装う。


「まぁ、理解できないものを抱いていても、分かるはずもないでしょうし。余興もたっぷり楽しめたんだから、そろそろ本題に入りましょうか」


 そんな誠二郎せいじろうの反応が相当気に入らなかったのか、彼女はすぐ冷たい表情になって彼を睨む。その後、女神は舌打ちをしながらも右手を上げて指パッチンした。


 すると食卓のそれぞれの椅子に慣れ親しんだ三人が現れた。


「ほら、寝坊助さんたち! もう目を開けてください」


 未だにも気絶したまま正気に戻ってない健介けんすけたちに向かって、彼女は幾何学模様の円盤みたいなものを持っていた手のひらを突き出した。


「プハッ⁉ けほっ、けほっ! な、何すかっ⁉ いきなり鼻に水が……っ!」


「こ……ここはどこだ……? 俺は確か、トラックにひかれたはずじゃ……?」


 そしたら三人の頭の上にも同じ模様が現れて、そこから滝のように一瞬間大量の水が流れ落ちた。


「あ、あぁ……っ!」


 一太郎いちたろうはじめが突然の水の感触に驚いていた一方、健介けんすけだけは他のことでさらに驚愕して青ざめた顔になってしまった。


「あぁ……あり得ませんっ! あ、あの……誠二郎せいじろう先生⁉ 何で奥様が生きていらっしゃるんですかっ⁉ それも……昔のあの姿のままで……?」


「はいはい。そのリアクション、すでに飽きるほど味わいました」


 しかし、女神はこれ以上その反応に付き合うつもりはなかった。


「私は無数の世界を司る女神。そして、あなた達に世界を救う命運を託し、その対価として何でも一つの願いを叶えてあげる存在」


 その言葉と同時に、熱くない真っ白な炎が彼女のエプロンだけを燃やしていく。灰になったそれは彼女の周りだけに散らばっていて、やがて風の流れに乗って彼女の胸のあたりまで上がってきたエプロンの灰は神々しい灰色のドレスに化けた。


「……のはず、だったんですけどねぇ」


 ようやく女神らしい姿になった彼女だけど、そんなことは全く気にせずにドレス姿のままで片足を椅子の上に乗せてはしたない格好を堂々と見せていた。


「「君らは」全員、年齢超過なんだよ! この老い耄れ野郎どもが!」


 そして、女神は強い口調に合わせて四人の中年男性たちを一々指差しながら、ブツブツと文句を言い始めた。その迫力溢れる姿に当惑した誠二郎せいじろうたちはボカンとして、女神が吐く暴言をただ耳にするしかなかった。


「誰がっ! アラサーとかアラフォー勇者なんかを欲しがるもんですかっ!」


 すると、そんな彼らの顔を見て呆れた女神は食卓をドンッと叩き、軽蔑に満ちた視線で彼らを見下ろした。


「ピッチピチの十代に比べたら積極性に欠けているし、体の反応も落ちてるし、新しいことを学ぶ速度も著しく遅いオッサンたちを一体どこに使えろっていうのよ⁉」


 ここまで言われたにもかかわらず、ちっとも言い返そうともしない彼らに対して女神は腹が立った。どうして彼らは歯向かってこないのか、その理由はわかっている。すでに俗世の垢にまみれた彼らにとって自分は、逆らえない絶対的な甲の立場だったのだ。


 勇者たる者にはどのような絶対的なことにも、決して屈服しない精神が何よりも必要なのに、彼らは年を取りすぎていた。これでは魔王を討伐できるわけがない。


「気持ち的には全員、犬死したことにしたいところだけど……」


 でも、女神はそんな彼らのことを見過ごすわけにはいかなかった。それは以前、ここで契約を結んだ誠二郎せいじろうの娘、春菜の願いに反するものだから。契約違反は勇者にとっても、女神にとっても致命的なリスクを背負う行為だ。なので魔王を討伐したのに、勇者の願いが叶わない状態っていうのだけは避けなければならない。


「私の管轄に入った以上、あなた達も勇者になってもらうからねっ!」


 だから仕方ない。契約を守るためには、一度死んだ彼らを生き返らせる必要がある。だとしても、女神だからって何の対価もなく彼らを復活させるような都合のいい魔法はない。


 故に彼らにも勇者になったもらうんだ。そうすれば彼らの魂は自分に隷属され生き返るんだし、契約も守れるから万々歳だ。


「……ただし」


 しかし、こんな古臭い肉塊のままでは転移させられない。いくらすごい才能を持っていても、それを成長させて実戦で活用するには時間という絶対的資産が必要だからだ。


 女神の祝福を独占して戦った初代勇者すらも、一体の魔王を倒すのに五年もかかった。でなると、今の若き勇者たちにもたぶん十五年くらいはかかるであろう。


 少なくとも六十歳だ。彼らが魔王に挑むときのその年齢は、空言でも若いとは言えない。討伐のところか、異世界の文明レベルや平均寿命を思うとすでに半分は死んだり、病魔に侵されている年だ。


「その年老いた肉塊はここに置き去りなさい」


 そこで女神は一つの条件を追加した契約を強制的に取り決めた。そう、転移ではなく転生させれば何の問題はない。仮に彼らが魔王討伐に失敗して、死ぬことになっても実の体と魂は変わらずこっちに隷属されているはず。なら春菜が魔王を退治してあの願いを込めれば、魔王の死体から出た膨大な魔力放出を使って彼らのことはいつだって復活させられる。


 そうだ。こうなったら彼らを春菜の担当する世界に転生させるのも良い考えなのかも知らない。

 赤ちゃんから始めなきゃならない彼らには特に期待してない。これから十年後には魔物が波のようにこの世界を押し寄せてくる。十歳の身体では耐えられる環境ではない。だが、これにて春菜すら失敗した時には五人をいっぺんに処分することができる。成功しても失敗しても、どっちにせよ自分は責任を一切背負わないのだ。


 女神は自分の聡明さに戦慄して武者震いした。


「君ら全員は生まれ変わってもらうよ。あなたの娘が転移したあの地に勇者として」


 そう言いながら指パッチンした女神は、目の前に召喚されたいくつかの書類にサインし始めた。それが終わると、彼女は誠二郎せいじろうの胸倉をつかんで食卓の方に放り投げた。


「それじゃさようなら」


 女神は再び彼らに手を向ける。手のひらには幾何学的模様の小さな紫色の円形があって、その後ろに次第に大きなものたちが重なっていく。もう手のひらに新しい模様が浮かばなくなると、それと同じ模様が食卓にあった彼らの床にも浮かんできた。


「くっ……ちょっと待ってくれ!」


 誠二郎せいじろうは腰が折れるかのような苦痛が襲ってきたが、歯を食いしばってこらえて女神の足を引っ張った。


「あら、どうしました?」


 しかし、女神はまるで通りすがりのアリでも見たような無表情で誠二郎せいじろうを見下ろした。妻の顔で自分にそんな表情をする彼女を見ると心が折れそうになる。でも、誠二郎せいじろうには女神に聞かざるを得ないことがあった。


「娘は無事なのか」


誠二郎せいじろうがそう聞くと、女神は皮肉な笑みを浮かべた。


「直接確認してみたら?」


 その一言を最後に、彼女は最後まで何も教えてくれなかった。 ただ不安げな顔で消えていく誠二郎せいじろうを嘲笑しながら手を振るだけだった。

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