プロテイン・トールの愛情
2022年の『マッスルマンコンテスト』はプロテイン・トールの優勝で幕を閉じた。世界のボディビルダーの頂点に、日本人として、アジア人として初めて上り詰めたトールの勇姿に、会場やテレビの前の人々は惜しみない拍手を送った。
「皆さん、ありがとう!本当に嬉しいです。この優勝を、僕を産んでくれた両親と、僕を支えてくれたパートナー、べヤンに捧げたいと思います」
プロテイン・トールこと本名、田中透は、とめどない涙に顔を濡らしながら、トロフィーを掲げスポットライトに照らされて声をつまらせながら喜びを表現した。
そして自らの代名詞ともなった掛け声を、会場に集ったファンや舞台に立つライバルたちと叫んだ。
「皆さん、豆腐、食べてますかー!!プロテイン、プロテイン!!」
「「プロテイン!!プロテイン!!」
透の声に合わせて、会場全ての人が拳を突き上げ声を合わせる。
祖父が北欧出身のクオーターである透は、日本人離れした体格と透き通るように白い肌を持ち、ボディビルダーでありながら白さを武器にして人気を得た。『ボディビル界のオオタニ』と呼ばれるほど高いポテンシャルを秘めた肉体と、そして『肉を食べず、豆腐で筋肉を作っている』という彼の独特で日本人らしいアプローチが人気を呼んだ。
肌の白さと豆腐というマッチングのよさ、透という日本名を祖父の出身である北欧の神話からとった、海外の人にも馴染みのある『雷神・トール』と重ねることで強さと親しみを表現し、さらにプロテインというコミカルさをプラスした名前。
何よりベビーフェイスで笑顔に隙のある、透の魅力が世界中を虜にしたのだ。
今、この大会で優勝したことで、プロテイン・トールは人生の一つの頂点に達したといって良かった。
「「プロテイン!!プロテイン!!」」
終わらないシュプレッヒコールに答えながら、喜びの絶頂で透はこの瞬間を噛み締めていた。これが自分に最後の大会になることを知っていたからだ。
「トール、コングラッチュレーション!オメデトウ!」
控室に戻るバックヤードの通路で待ち構えていたミート・キング・ジョージが、褐色の肌をした脂肪のない頬の筋肉を丸く持ち上げて大きな笑顔を作りながら両手を広げてお祝いの声をかける。
「サンキュー、キング。あなたのおかげです」
キング・ジョージとがっしりと、大胸筋を合わせて抱擁を交わした透は万感の思いを込めてそう答えた。
「ノー。ミーを負かしたのは君の努力ね」
つるりとしたおでこを光らせながら、魅力的なウインクをしてキング・ジョージは言った。
「肉なしで、ホントによくぞそこまで。信じられないよ」
肩を竦めてジョージが戯けてみせる。
「豆腐の力さ、ミート・キング!」
透もいつものようにソイ・ヒーローとして力瘤を作りながら笑って答える。
4大会連続の『マッスルマンコンテスト』王者である、ミート・キング・ジョージとの絵に書いたような対立の図式が、トールの人気を高めた要因の一つだ。王者に挑む若き挑戦者というありがちな形を超えた、くっきりとした違いが彼ら二人にはあった。
ミート・キング・ジョージは美しいこげ茶色の肌を持った、いかにもボディビルダーという感じのアフリカ系アメリカ人で、筋繊維が見えるほどに薄い肌を艶々と光らせ、真っ白な歯を剥き出しにして豪快に笑うエネルギーと男らしさの象徴のような男だ。
そして何より、彼はボディメイクのために肉を食らう。
アメリカ人らしく血の滴るような赤身のステーキや塊肉を、豪快に口に放り込んで貪るように食べる。一週間で牛一頭は食べているんじゃないかと思われるほどの肉を平らげて、それをハードなトレーニングで己の筋肉に変える、というのがジョージのやり方だった。
「ミートと出会った俺(meat meet me)」というキャッチフレーズで、肉食こそ筋肉を作るのだという強烈でわかりやすい主張によってアメリカを中心に、マッチョに憧れる世代に絶大な人気を誇っていた。
そこに現れたのが、豆腐によって真っ白な肉体を作り上げる甘いマスクをしたアジア人のトールだ。
ミート・キング・ジョージとプロテイン・トールの戦いは、単に個人と個人の戦いに収まらず、肉食と非肉食、西洋とアジア、黒と白、マッチョとベビーフェイス、男らしさと繊細さ、年嵩と若さ、そして地球環境に対するアプローチ、人工肉に対する考え方や男らしさとは何か、といった哲学的な問いかけまでをも含んだ全世代、全人類的な対立の図式としてマスメディアに見出され、二人はお互いに主張をしあいその戦いを演じていたのだ。
ソイ・ヒーローとミート・キング。CMやアニメまで作られるほどに、その対決は世間の人気を集めた。
だが、根底には互いに対する深い尊敬があった。ミート・キング・ジョージは透がまだ高校を出たばかりの時、アメリカに筋肉留学していた頃にすでに才能を見出し、その時王者であったにもかかわらず自分から声をかけて海外の地で孤立していた透に仲間を紹介してくれたのだ。
だから、二人の対立はあくまでボディビル界を盛り上げるためのプロレスで、透にしてみれば頭の上がらない大先輩、恩人であると同時に、その気さくさで真の友人として接することのできる数少ない一人だった。
「ところで、べヤンはどうだ?」
うかがうような、親しみと慈しみと心配を含んだ優しい顔でジョージが尋ねる。
「ええ、変わりません」
透はゆるく首をふり、答えながら自然に肩が落ちるのを感じた。
「そうか」
ジョージが最初の筋肉留学で透に紹介してくれたのがベナンだったから、二人の出会いから知っているのだ。この会場にべヤンがいないこと。それだけが透の心を曇らせる要因だった。
「まあ、お前の優勝を知ればきっと彼女も喜ぶさ」
ジョージはそう言って透の肩を優しく叩いた。
帰りの車の中、自動運転で自宅までのハイウェイを走らせ、流れるライトの光をぼんやりと見つめながら透は昔のことを思い出す。
「透、何も肉を食べる必要はないんじゃない?」
黒いクルクルとした髪、彫りの深いエキゾチックな顔に大きな笑顔を浮かべるベヤン。弾けるようにエネルギッシュで、同時に竹細工のように繊細な硬さを持った女性。
アメリカ留学当時、なかなか筋肉が増えずに肉を食べながら、しかし消化の悪さと、経済的にいい肉が買えないために大量生産された薬漬け、ホルモン剤づけとも思える劣悪な質の肉を食べざるを得ないことに苦しんでいた透を救ってくれたのが彼女だった。
ジョージもきっと、アジア人である透がアメリカ人や西洋人と同じようにすることだけが道ではないとわかってくれて、インド系をルーツに持つ女性ボディビルダーのベナンを紹介してくれたのだろう。
彼女は宗教的な理由から完全なるビーガンで、それでいながら鍛え上げられた健康的な肉体を、過剰に日焼けをすることなく自然のままの極薄いブラウンの肌で美しく作り上げて、一部のボディメイクを志す女性たちにすでに熱狂的な人気を得ていたカリスマ的な女性ビルダーだった。
肉や精製プロテインによらずとも、むしろ植物の自然な加工によって摂取したタンパク質によってこそ美しく健康的な肉体が作れる。それが、宗教という生き方を選んだ上で彼女が見つけ出した前向きな筋肉道だった。
「そうね、あなたは日本人なんでしょ?じゃあ豆腐とかどうかしら。ヴィーガンのボディメイクの間では常識的な食材よ。むしろ日本のいい豆腐が食べられるなんて、アメリカ人にとっては羨ましい環境だわ」
目から鱗だった。どうしてもアメリカ的な発想で、鳥のササミや牛肉の赤身、プロテインドリンクによって肉体を作ろうと考えてしまっていた透は、ベヤンに教わって一緒に豆腐の料理をつくった。そして、そこからプロテイン・トールが始まったのだ。
「真っ白で、本当に豆腐見たいね」
透の腹直筋を指でなぞりながら、たっぷりと砂糖をいれた甘いミルクコーヒーの笑顔でベヤンは言った。今でも忘れることができない。彼女のしなやかでみずみずしい肌と、興奮すると熱を帯び強く引き締まる筋肉を。
ベヤンの協力を得て、プロテイン・トールとして透はボディビルダーとして成長していった。ベヤンが見出してくれた明確なコンセプトは多くのスポンサーを集めることに役立ち、それによってて透は経済的な心配をせずにトレーニングに集中することができたのだ。
だが、今日の会場にベナンはいなかった。
透は深いため息をつく。なぜ、ヴィーガンの彼女にあんなことが起こらなければならないのか。
自宅のドアを開けると、ベヤンの姉が出迎えてくれた。透にとっては一緒にベヤンに向かい合ってくれる同志だった。
「今日は、どうでしたか?」
「いつもと同じ。おめでとう、私は見ていたわ。きっとベヤンにはわからなかったと思うけれど」
「ありがとう。そうですか」
廊下を進み、ベヤンが過ごす寝室のドアを開ける。ベッドに体を起こして彼女がいた。透は静かに近寄って、横にしゃがみ込みそっと髪を撫でる。
骨と皮ばかりになってしまった顔に、ギョロリとした目を見開いてぼんやりと一点を見つめている。手に触れる髪は蜘蛛の糸のように細く頼りない。透にも髪に触れたことにも、ベヤンは一切の反応を見せずにただ黙って座っている。
「ベヤン、僕、勝ったよ」
透は言った。ずっと、ずっと彼女に言いたかったセリフ。最初に出会ってから透の才能を微塵も疑わず、本人にも増して成功を信じて心からの支援を送ってくれた人に、パートナーとして、最愛の女性として、ボディビルダーとしての透と男としての透を両面から支えてくれた女神のような存在に。
いつか、この日を夢見てお互いに励ましあってきた。そしてついに、この日がきた。
だが、今のベヤンにはそれがわからない。透はこみ上げそうになる涙を必死に抑える。静かに彼女の頭を、鍛え上げられた分厚い胸板に抱き抱える。ベヤンは何の抵抗も反応もせず、ただじっと胸の中に収まっている。
彼女は植物性タンパク質アレルギーになってしまったのだ。
最初の兆候は下痢だった。透と一緒にベヤンも豆腐で肉体を作っていたのだが、体重の落ち始めた彼女に理由を聞くと、しばらくの間下痢が続いているとのことだった。一向に戻らないので病院に行き、ウィルス性や過敏性を疑われながら、数度目の来院で行ったアレルギー検査によってそれが判明した。始めに聞いた結果は、大豆アレルギーだった。
「ずっと食べていたのに、どうして」
ベヤンはそういって気落ちした表情を見せた。動物性をとらない場合、タンパク質をとるのに大豆の優秀性は特筆すべきものがある。それが食べられないとなると、植物だけでボディビルに必要なタンパク質の量を賄うのはかなり大変だ。
それでもベヤンは豆類やナッツ、穀物や木の身を絞った植物ミルクで何とか補い、トレーニングを続けていた。だが、どういうわけか体調が戻らない。さらに詳しい検査を行った結果、そもそのも植物性タンパク質全般に対するアレルギーが彼女にあることがわかったのだ。
どういう体質の変化なのか、どういう遺伝の影響なのか。ともかく、ベヤンは植物自体をとることが困難になった。どんな植物にも、タンパク質は含まれているからだ。
肉や魚の摂取を透は勧めたが、ベヤンは頑なにそれを拒否した。教義上の理由もあるようだが、自分の生き方を否定されるのが許せないようだった。
タンパク質の摂取が減るとアミノ酸の総量が減り、結果として肉体を痩せ衰えさせる。糖質や果実のビタミンで必須栄養素は取れたとしても、タンパク質がなければエネルギー代謝は落ちてゆき、体に脂肪がつくようになる。
ベヤンは食生活の変化による肉体の変化、彼女にとって醜くなることが耐えられず、透の目を盗んではトレーニングを続けていた。肉体維持に必要なカロリーやエネルギーが過剰な運動によって消費され、摂取よりも消耗の多い肉体は悲鳴を上げた。
「ベヤン、頼む。動物性タンパク質をとってくれ。牛乳でもいいし精製プロテインでもいい。教義に反しても、生きていくことが大事だろう?」
「私は何も教義のために死ぬわけじゃない。作られた工程がわからないものは食べたくないの。それに変な薬や添加剤を食べさせられた動物なんてとんでもないわ。私が育てて、育てるところを見て、食べるものを見て、それで食べたいと思ったものじゃなきゃ食べたくないの」
ベヤンは頑なに動物の肉を拒否した。
そして気付かぬ間に、栄養の欠如が脳の機能に影響を与えていた。栄養失調でほとんど動けなくなったのはここ1ヶ月ほどのことだ。あっという間に老化のような症状がすすんで、枯れていくかのように彼女は痩せ衰えていった。
「ベヤン、愛してる」
胸に抱いた最愛の女性に、透は思いを呟いた。
「本当にいいのね」
「はい」
ビニールシートを敷き詰め、壁と天井もビニールで覆った部屋のベッドに横たわった透に、ベヤンの姉が聞いた。手には白いビニール手袋をはめ、全身を雨がっぱで包んでマスクで顔を覆っている。
透は自分で、腕に刺さった注射器につながった薬液のコックを開いた。
「お願いします」
ジュウジュウと焼ける肉の音。立ち上る香ばしく甘い香り。
ベヤンは霞のような意識の奥で、ヒクヒクと鼻を動かしてそれを嗅いだ。いつもだったら吐き気のするような屍肉の匂いに感じるはずなのに。どういうわけか口によだれが湧いてくる。お腹のあたりがぐるぐる鳴って、喉が自然にゴクリと音を立てる。
「さあ、ベヤン」
姉さんが、ほかほかと湯気を立てる焼き立てのそれを載せた皿を目の前に持ってきた。そしてベッドに備え付けのテーブルを引き出して、目の前に置いた。
「美味しそうでしょう?ね?」
綺麗な茶色に焼けたそれを、ナイフとフォークで姉さんが切り分ける。そして口元に持ってくる。美味しそうだけど、でも、やっぱり。
「ベヤン、大丈夫だから。これは、大丈夫」
恐怖よりも体の欲求が勝って、ベヤンは恐る恐る口を開ける。ためらいがちに開いたそこに、姉さんが小さく切った一片を入れた。ゆっくりと噛む。
甘い。
全く臭くない。これは何?柔らかくて、ジューシーで、そして植物の甘味を感じる。上質な、そう、豆の香り。香ばしくてふくよかな、吟味された豆でできた豆腐の香り。
呑み下したベヤンは口を開けてねだる。
「ほら、慌てないで」
貪るように食べるベヤンの姿を見て、姉さんが涙ぐんでいる。
「本当に、よかった」
ベヤンが意識を回復したのは、それから半月経ってからだった。
毎日少しづつ食事の量が増えていって、摂取したタンパク質が体の中に行き渡り、肉体に備わった自然の治癒力が神経や脳や筋肉を修復していくのにそれだけの時間がかかったのだ。
意識を取り戻し、初めてベヤンは、自分が肉を食べているのに気がついた。最初は反射的にそれを払い退けたが、姉さんの涙ながらの説明を聞いてベヤンはそれを拾い、むしゃぶりついた。夢中で噛んで、飲み下して、顔を覆って泣いた。
今、外出できるまでに回復したベヤンは墓にいる。
あの後、姉さんは警察に自首して今は裁判に備えている。葬儀はベヤン抜きで行われた。事件が事件だったこともあり、家族と親しい人だけによる家族葬だったと聞いている。
黒い服をきてベールを被り、墓石の前に花を置く。
日本のお墓は初めて見た。黒い石が真っ直ぐに立っていて、『田中家』と掘られているがベヤンには読めない。
「透」
ベヤンは声をかける。
「あなたのおかげで、私は今こうして生きています。あなたが、まさかそんな選択をするだなんて。あの時、自分で言ったセリフ。今では後悔しています。まさかあなたが、それを私のためにかなえてくれようとするなんて」
手にしたハンカチを思わず握りしめる。
「作られた工程がわからないものは食べたくない、変な薬や添加剤を食べさせられた動物なんてとんでもない、私が育てて、育てるところを見て、食べるものを見て、それで食べたいと思ったものじゃなきゃ食べたくない、と、私が言ったから。あなたはそれを提供してくれた。
そう、あなたは私が育てた。あなたが育つところを私は全部見ていた。あなたが食べるものを私は見ていた。変な薬も、添加物も一切とらず、健康な野菜と穀物と果実、豆や海藻だけであなたはできていた。そしてそんなあなたを、私は食べたいと思った。一つになりたいと心の底から思っていた。いつもいつも」
自然に溢れた涙が、細い顎を伝って滴り落ちる。
「あなたは自分の夢を叶えた日に、もう一つの自分の夢、私を救うことを選んでくれた。あなたの おかげで、こうして私は元気でいます。本当にあなたの全てが、私を癒してくれました。ありがとう。ごめんなさい。トール、ごめんなさい」
涙を拭い、ベヤンは悲しみの笑いを浮かべて言った。
「トール、あなたは本当に、真っ白な美しい豆腐みたいだった」