「縄文時代」が育んだ『多神教日本』
地球規模で観てみると、宗教世界は民族的にも信徒の数からみても圧倒的に『一神教』全盛に感じる。
その中で「日本の宗教」といえば、『融通無碍というべきか、実態も定かでない多神教徒が多い』と考えられている。
「元旦には神社に詣でて柏手を打ち、結婚式はキリスト教教会で行い、葬儀は仏前で読経と共に行う」この混淆の多神教享受の民族感覚をどう表現すれば好いのか、我々日本人自身が困惑するケースも多い。
特に、海外で「キリスト教徒」やイスラム教徒」の世界と接触して、外国人から日本の宗教に付いて質問を受けた際に、困惑された方も多いのではないかと思う。逆に、元旦に「明治神宮」に参拝して、「武蔵野の雑木林に似た神宮の森の姿」に感動する来日客も多いと聞く。
紀元前1万数千年以上前から平和な時代が続いた「日本列島の住民」にとって、そこここに多くの神々が存在する『多神教の世界』は列島の豊穣な自然環境と共に切り離して考えることが不可能な世界であると共に、「普段、当別に意識しない」日常の世界だったように感じる。
そこで、今回は、「縄文時代を出発点として現代に至る『多神教的日本民族』の世界」に僅かではあるが触れてみたいと思っている。
(「縄文時代」が育んだ『多神教日本』)
温暖で自然豊かな日本列島で1万年以上続いたといわれる「縄文時代」は、それ以降の古代日本民族の思考をかたち造った重要な時代だった気がしている。
その原初的な発想一つに「自然を含む多様な神々への崇敬」が出発点となった『多神教』の世界だった。所謂、『八百万の神々』が無数に存在する世界の誕生である。
温帯に位置して穏やかな気候の日本列島は、『一神教』が生まれた「砂漠地帯」や「草原地帯」に比較して格段に住みやすく、唯一のオアシスを多くの周辺部族が争う、激しい抗争が日常茶飯事の「闘争空間」とはかけ離れた平和な生活空間が民族に与えられていたのだった。
その反面、毎年、秋になると「台風」が暴風雨と共に訪れて田畑や住居を破壊し、「地震」や「火山の噴火」にも地域によっては遭遇する用心しなければならない地域環境でもあったのである。
自然への恐れは人々に「アニミズム的祖霊崇拝的な民俗信仰」を生んだ結果、多くの神々が誕生した一因だったのかも知れない。
この様な背景もあって、「山」や「岩」、「滝」等の自然崇拝的な聖地から、種々の特技を持つ無数の神々が誕生しただけでなく、「一定の教義」さえ存在しないながらも、自然を含む周囲全てに配慮する『神道』と呼ばれる民俗宗教が成立したのかも知れないし、『温順で平和な列島での生活を中断させる全ての災害や恐れに対して恐懼して身を慎む縄文時代からの習慣』こそが、八百万の神々が生まれた背景の一つのような気がしている。
やがて、『稲作文化を伴って弥生という新しい時代のうねりが列島を席巻』するが、この新来の時代も『多神教社会日本を強化する』ことはあっても大きく変換することはなかったのである。
それからもう一つ、縄文時代から弥生時代の運命決定の方法として有力な手段であった「シャーマニズム」も八百万の神々の存在を否定することはなかった。
有力豪族間の衆議でまとまらず、小国間の闘争にまで発展した場合でも、「魏志東夷伝」によれば卑弥呼の存在と意思が邪馬台国の全体の方向性を決める重要な因子となったようだ。
更に時代が下がって、「記紀」によれば、大和朝廷時代になると最有力豪族だった「天皇家」の意見が重視される一方で、有力な豪族達の意見が全く無視されることもなかった感じがする。
その背景には、天皇家の尊崇する「天照大神」の存在が第一に尊敬される一方、各豪族が古来信奉する多くの神々の存在も大切にされていた節がある。
即ち、無数に存在する神々の意思に逆らうことなく明確な方向性を見いだす手段こそ、聖徳太子が唱えた『和』であったのであろう。
翻って世界の宗教を観察する上で個人的に印象深かった「多神教」世界は、古代インドの「バラモン教」から続く現代の「ヒンドゥー教」ともう一つは「古代ローマ帝国の信仰」だったので、本稿では、この二つから勉強を始めたいと思っている。
(無数の神々の居る「古代インドの世界」)
紀元前一千年以上前にインドで成立した「バラモン教」は異民族のインド侵入を背景とした支配民族と被支配民族相互の厳格な身分制度の上に形成された宗教だった背景もあって、多くの神々が生まれただけでなく、時代と共に消えていった神々もあったのである。
バラモン教の後継的宗教が、現代のインドで尊崇されている「ヒンドゥー教」である。ヒンドゥー教も階級格差が厳然として存在する宗教であり、そこに登場する神々も多彩で、「三大神」であるヴィシュヌ神、シヴァ神、プラフマー神を初め多くの神々が存在するだけでなく、仏教で現在信仰されている大黒天や吉祥天も元々の出自はバラモン教の神々の一人であった。
インドで生まれた偉大な宗教の一つである「インド仏教」を観察していると『悟りの宗教の周囲を多くの神々』が取り巻いている感覚がして、やはりインド的な多神教世界に育った宗教感覚を感じる。
更に、それ以上に多くの神々が存在する印象が強いのが中国発祥の「道教」で、最高神である元始天尊を初め、無数といって良いほどの多数の神々が存在している混沌たる印象がある。
極端にいうと古から現代に至る中国人の全ての悩みに答えられる無数の神々を周到に用意しているのが道教なのだろうとさえ思えてくることがある。どうも、無数にある悩みの分だけ、願い事毎の多くの神々が存在している気配がする。
例えば、商売の神としては関羽がいて横浜中華街を初め世界各地の中華街には豪華な「関帝廟」が建築されているし、航海の女神・守護神としては「媽祖廟」が有名で台湾を初め交易商人の多い街には建設されて、多くの参拝客を集めている。
多神教の神々の特徴は、一神教のように最高神といえども完璧で万能な神は少なく、専門分野の神が無数に存在することなのかも知れない。
それでは、アジア以外の多神教の世界を覗いてみたいと思うのだが、知識が乏しいので、その代表として「古代ローマ」の世界をピックアップして軽く触れてみたい。
(「古代ローマ人の信仰」)
古代ヨーロッパ文明である「ギリシャ文明」や「ローマ文明」に登場する神々は多彩で、一人一人が有能ではあるが極めて人間的な欠点を併せ持つ個性溢れる存在として描かれているケースが多い。即ち、東洋の神々以上に、何処か「人間くさい」神々なのである。
例えば、ローマ神話の主神である「ユピテル」を初め太陽の神「アポロン」信仰や美と月の神「ディアナ」の登場場面を読んでいても、日本の神々以上に、その人間的欲望を前面に押し出した行動に驚かされる。
主神であるユピテルにしても、極めて「浮気性」で、美女とみれば、見境なく手を出すところは際限なしの印象が強いし、逆に、マルス広場に建設されている大規模な「パンテオン神殿」を見上げると古代ローマ人の神々への信仰の深さを感じるきもしてくるから不思議である。
その点は、日本の「伊勢神宮」を参拝して時に感じる独得の「清涼感」とは大きく異なるものの、古代ローマ人が自身の周囲の万物に神々の存在を日本人同様に感じていたのだと証なのかも知れないと思った。
古代ローマ帝国の足跡を示すように、無数の神々の神殿がイタリア各地に建設されただけでなく、古代ローマ帝国の版図となったヨーロッパ各地や地中海世界に広範囲に建設されたのだった。
その他にも建設好きだったローマ人の面影が忍ばれる遺跡に「ローマ街道」と街道に沿った「ローマの松」がある。「五街道」を初めとする日本の主要街道が整備されたのが、江戸時代初期を待たなければならなかったのに対し、同じ多神教徒にしても、建築好きで公共設備の整備に熱心だった古代ローマ人は「違うな!」と感嘆せざるを得ない。
その背景には、「強い信仰心と神々に恥じない誠実さ」が古代ローマ市民にあった点が重要だといわれている。
それだけでなく、思考方法が自分達と一致した人物に対しては他の部族出身であっても「ローマ市民」としての権利を与える人間的許容性の大きさも偉大だった気がしている。
このローマ人の「多神教的宗教観」と「誠実な人間性」もあって、ローマ市民の数は年代と共に増大し、帝国の版図も順次拡大した結果、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」が200年も続いたのだった。
(世界の主流『一神教』と日本の神々の違い)
古代中東や古代エジプトを中心とした地中海世界は多神教の世界だったが、荒野で生まれた『絶対神』による一神教の神々の登場によって、次々と廃棄されて、最終的には「キリスト教」、「イスラム教」、「ユダヤ教」の三つの世界的宗教として統一されている。そのどの宗派も「エルサレム」と重要な縁を持っている点が不思議な気がしている。
その後、新旧キリスト教は宗教改革を経て新世界を含む世界的発展に結びついただけでなく、イスラム教も中東やアフリカ各地だけでなく南アジア各地に広範囲に普及し、今日では世界の人口の約23%の比率にまで浸透しているらしい。
もちろん、「大航海時代」と共に「イエスズ会」等のカソリック系宣教師によって、日本も布教対象とされキリスト教大発展の口火が切られたが、天下人豊臣秀吉や徳川家康の「キリスト教禁教令」の徹底によってキリシタン信徒は圧殺されて鎖国時代を迎えるのだった。
しかし、明治維新と共に信教の自由が保障される時代を迎えたのだったが、現在に至るまで新旧キリスト教の日本での大復活は達成されていない。
その背景に何があったのか最後に考えてみたいと思っている。
多神教である「神道」を信じ、「仏教」を寛容に取り入れて『神仏混淆』の世界に安住した信仰生活を送った古代日本人だったが、先進国中国からの「儒教」や「道教」の伝来には、上記したように「極め素気ない」対応をしている。
中国哲学の神髄のような「儒教」に対しても倫理的な許容は既に古い時代からあったものの、宗教として本格的に受容する傾向は観られなかったし、あれほど中国人の間で広範囲に信じられてきた不老長寿を究極の理想とした「道教」についても、唐の玄宗の強い勧め等があったものの遣唐使は、日本は道士を尊ばないとの理由で婉曲に断った前歴があるくらいである。
その背景には、日本人の宗教感覚が縄文時代以来の『自然を大切にする点』と『先祖を大切にする』二つの点が感性として日本人の宗教感の重要な出発点だった背景があったのかも知れない。
仏教が神道と習合する形で受け入れられたのも、日本のなかに於ける「国家信仰」と「民間での習俗」の双方に結びついた結果のような気がしている。本人の「成仏」は元より、「全国民の成仏」が保証される『国家規模での国民感情の発揚』が背景にあってこそ仏教の普及浸透が達成された気がしている。
古代以来、『異質で多様な文化』の流入に柔軟に対応してきた『多神教』の日本民族だったが、「唯一絶対の存在」を強調する『一神教』を理解・許容することは不可能だったのである。
平穏で温暖な列島の住民にとって、『会話による意思の疎通』こそが、大切であり、「相手の異なる意見を尊重し、受容する態度こそが民族的に貴重だと判断したのではないだろうか!
『こだわりの文化』
ドイツの「ロマンチック街道」やイタリアの「フィレンツェ」等のヨーロッパの古い町並みを歩いていると「ルネッサンス」や「バロック」時代の町を歩いているような錯覚に陥ることがある。
増して、散策の途中に、街角にあるその時代をテーマとした「博物館」や「美術館」に一歩踏み入れると、「当にその時代の絵画や彫刻に囲まれた瞬間には、一瞬で異次元の空間に引き込まれる」妙味を味わうことも多い。
また、その周辺の各種の土産物店、例えば「ヴェネチア・グラス」の伝統ある工芸品が観光客を魅了には、
(日本の『鉄』と『武士』)
中国の古い表現に、「好鉄は釘にならず、好人は兵にならず」の俚諺があるように、中国に於いては良民から観て職種の中でも「兵」は最低限のまともではない人種として歴史的に扱われてきた。
その点、日本人の精神性の根底に今でも『武士道』があるように、武士は、「曲がったことを行わず、正しく生きるべき人間」として考えられてきたのだった。
加えて、日本人が「鉄」を考えるとき、真っ先に思い付くのが精鍛された『日本刀』であり、鉄を粗末に扱おうとする意識は微塵もなかった。
古代から大量の鉄生産の工業化に成功しただけでなく、大量の鋳造技術を確立してきた中国に対し、小型の炉による少量生産によって得られた貴重な鉄を鍛造に依って整形して生活用具や武具を整えてきた日本の違いが、こんなことわざ一つにも現れていて興味深い。
(東アジア「漢字文化圏」と日本)
(「一神教」から隔絶した世界)
しかし、西洋や中東では、「一神教」であるキリスト教やユダヤ教、イスラム教全盛となって多神教は迫害される時代を迎えたし、東洋の強国中国では、儒教が国教となって道教と仏教が併存する時代が長く続くのだった。
世界の宗教の主流となっている「一神教」の成長過程を覗いてみると『万能の神』に対する絶対的な尊崇と服従が背後に存在している。
その点、日本の神々は「一芸一能」とでも表現した方が良い「万能の神」が全てで、全能の神に最も近そうに感じられる「天照大神」にしても、自分の思い通りに行かないと「天の岩戸」に身を隠すことしか出来ない非力な存在でしかなかった。
台風や地震などの天災が多く、「万能の神」が存在しない古代日本に於いては、祈るべき神は無数に存在したのだった。そして、その延長上に自分達の属する集団の知識層である「長老達」への尊敬と崇拝も欠かせない存在となっていったのである。
しかし、集団をまとめるべき長老や部族長にしても一神教の神のような絶対的な権限を握ることは無かったのである。巨大古墳群を生み出した大和朝廷の王達といえども、万能の神同様の絶大な権限を保持することは難しかったのである。古代天皇家といえども「神への祭祀権」を併せ持った最有力豪族にしか過ぎなかったのである。
その点、一神教では非常に強力で、信仰のために神は我が子の命さえ求める非情さを示す瞬間さえ存在したのだった。
ユダヤ教からキリスト教、イスラム教と進化するのに従い、一神教に於ける『神』の存在は、益々強力で絶対的なものへと変化していった。
多神教が周囲との妥協の産物的要素を多分に含んでいるのに対し、一神教は非妥協的であり、特に、十字軍時代のキリスト教徒や大航海時代のキリスト教イエスズ会宣教師のように他者(他宗教)との会話を拒み、異教徒への(虐殺を含む)峻烈な弾圧を実施した例は多い。
性の向上』が育まれたように思う。
そのベースがあったからこそ、縄文時代と、それに続く「弥生時代」に大陸から渡来した「稲作」を初めとする農耕文化を時間を掛けて最新の文化や優れた技術を持って海を渡ってきた人々の集団も無数にあったと思われるから、余計、その多様な集団とその主調に対する民族としての吸収力に驚かされる。
この縄文から弥生に時代が移動する過渡期には、日本列島に於いて徐々に時間を掛けて狩猟採集から農耕時代に変化していったのだろうが、同時に同じ地域で、この異質の文化が共存できる列島の変化ある地域性も重要な役割を果たしたのだと思う。
習性は
縄文時代から続く日本の歴史を通読していると個人的な印象なのかもしれないが、時代時代の日本人の『多様性』に驚かされることが多い。
学生時代、「古代ローマ人の信仰」が何処か「日本人の信仰」に似ているような気がして共感を覚えた記憶があるが、同様の「多神教」の世界観に共通するものがあったのかもしれない。
もしかしたら、「キリスト教」が普及するまでの古代ローマ帝国でも、思想も含めて広範な自由感覚が思想面で許されていた気がしてくるのである。
それ以上に列島の自然を含めた広範囲な天然現象や特異な事物を直ぐ『神』と崇める感覚や「自他の異なる意見を『和』の一語でまとめようとする多様性」に驚かされる。
その点、我々日本人の祖先である「縄文人」は、自然災害を恐れ、荒ぶる山や水に恐怖を抱いて、日常と異なる平穏を破壊する「存在」に畏怖を持ったのだった。
それこそ、古代人にとって「畏怖の対象」は無限に存在し、「身を慎まなければならない場所や瞬間」は無数に存在し、その全てを理解できる人は少なかったと思われる。
その結果、「仲間での知識の共有により、多様な事態への対応を改善する習慣は生まれたのが縄文時代」だった気がしてくるのである。
三輪山や那智の滝のように「神聖なる山や岩」
が神とされだけでなく、
伝説の人物である
「天照大神」や荒ぶる神「素戔嗚尊」等
も神となったのである。
即ち、日本全土に無数の神々が生まれたのだった。
「八百万の神々」と呼ばれる無数の神々の出現は、古代日本人から生まれた『多様性』の産物だったような気がしている。
そこには、「荒野を彷徨って生まれた一神教の世界」とは真反対の「真摯に生活すれば安住を得られる豊穣な大地」が列島には多く存在したのだった。
縄文に続く弥生時代、多くの来住者を許容できる列島の自然環境こそ、多くの古代日本人を育み古墳時代につなげた重要な因子だったと考えたい。
一神教発祥地帯である荒野が多く、可耕地であるオアシスの僅少な中東とは大きく異なる列島の自然環境こそ、日本人の『多様性』を大きく前進させた背景だったように感じる。
(日本人の『多様性』と「祈る対象の変化」)
「一神教徒」と異なり興味や信仰の対象が『多様性』に富んだ日本人であっても、興味の対象が変化しない訳ではなかった。
その良い例が、縄文時代に大流行した『埴輪』であろう。埴輪の対象が何かに対する信仰の対象であろうことはハッキリしているようだが、「祈る対象に対する明確な学術的な結論」は未だ明確に結論づけられてはいないようだ。
しかし、縄文時代の終了と共に、あれほど広範囲に信仰された埴輪が消失していった不思議さも未だに解明されていない。
このように、日本人の興味の対象とされる多様な感覚も、常に一定ではないし「時代と共に変遷している点も」事実なのである。八百万の神々を初めとする「神仏」への信仰の変化を観ても平安末期から鎌倉期の「熊野信仰」や江戸期の「伊勢信仰」や「稲荷信仰」を挙げるまでもなく流動的であり、「現世利益」的傾向が強い。
(「アジア」でも「ヨーロッパ」でも無い国『日本』の出発)
「空気を読む脳」
上記の経過もあって、縄文から弥生時代に於ける国家の形成期に中国的東洋世界とも異なり、かといって一神教世界の西洋的カテゴリーにも入らない『和を持って尊となす』日本独特の世界が形成されていったのである。
この、中国的「中央集権の権化的国家機構」とも異なる国体は、強いて比較すれば、宗教面を除きヨーロッパ中世の封建的騎士の世界に近い「武家社会」に古代後期に近づいていったのだった。
その背景の一つに、「仏教」の伝来と古代日本人による受用があった。インドで発生し中国・朝鮮半島を経由して伝来した仏教は、古代日本人に受け入れ易い形に変容していただけでなく、日本に入って以降も「神道」との合体・混交を重ねるのだった。
その点、「倫理面」以外での日本人の許容を受けることが少なかった「儒教」とは大きく異なった結果となったのである。
儒教が中国史に於いて、最も唯物的な面で時代に対応して変質していったのに対し、「教義さえ存在しない神道」は原始の形態を今も色濃く残しているのである。最も、「多様性を許容出来る民族性」がなければ、境界線の不明瞭な多くの日本の神社などは、とっくに消滅するか、衰退してしまった可能性が高い。
外国人が東京を訪れて驚く空間の一つに、「明治神宮の武蔵野の自然林に近い境内」がある。荒れ地を百年掛けて武蔵野特有の雑木林に育て上げた日本人の心は、もしかしたら「太古から余り変わっていない」のかも知れない。
日本民族の『多様性』の出発点は、どうも「縄文時代」からの気が最近している。
「岩」でも「山」でも「滝」、「勇者」でも『全てに神が居た縄文期』、自然に恵まれていながら多くの自然現象を含む風土のそちこちに、恐れなければならない『神』が存在したのだった。
(中国古代思想と庶民の立ち位置)
『儒教』を初めとする中国古代思想の諸書を読んでいると「庶民」の立ち位置が不鮮明なことが多い。
孔子自身が属すると思考した『君子層』には明確に庶民は含まれては居なかった。中国の古代人民の大半を占める「農耕者」や「工人層」は人間としての扱いをされていなかったのである。
食物や生活用品を安定して供給してくれる庶民の存在は重要ながら、「政治に口を出す存在」であってはならなかったのである。
その点、古代ギリシャや古代ローマ帝国でも、徐々に「労働」は自由人にふさわしくない、『奴隷層』の作業として観られるようになっていったのである。即ち、ローマ帝国の自由民には、「パンとサーカス」を与えておけば、皇帝の地位は安泰だという思想に共通している。
中華王朝の場合、科挙による士大夫層による官僚制が宋代以降定着した背景もあって、基礎教養である「儒教」の徹底した理解が征服民族以外の漢人の上級官吏には絶対必要条件であった。
漢文(真名)も完全に読みこなせない無教養な武士階級が武家社会の政治指導層の主流を占めた歴代の「幕府」の首脳陣にとって、四書五経等の教養は禅僧や上級公家層に任せて、実務政治に於ける己の権力に維持に奔走するのが、当然の事だったのである。
その点、英国の騎士ウィリアム・マーシャルのように、自己の武勇を誉れとして主君である国王に忠誠を誓うことによって、栄達したヨーロッパの騎士階級の方が、日本の武士に近い存在であった。