雨隠し
春。ありきたりに言えば、出会いと別れの季節。山の上の積雪が解けて雪解け水が新たな川を作るように、人もまたどこかから解け流れて新たな流れに身を投じる。
典型的な例として小中高の入学や卒業が挙げられるだろう。
しかし世の中にはその別れをカットした、言わば一貫校というものがある。
私がこれから三年間足を運ぶこととなっているS高も先月まで通っていた中学と同じ校舎、生徒の私立中高一貫校だ。
新たな出会いはないが、別れもない。出会いが無いのも、私の事情を鑑みればむしろメリットと言える。
電車に揺られること約二時間。最早日課となった長めの登校時間に疲れはないが、数週間振りに地元を離れることができた事に安堵の息を吐く。
改札に期限ギリギリの定期をかざし、駅の出口まで歩く。私は地下鉄が好きだ。駅を出るまでに通る道も、電車にのっている間も、雨が降らない。雨と無縁な時間をその時だけは約束される。
出口の前のエスカレーターの上で、私の来た方へ向かう人を見る。傘を持っているか、どれほど濡れているか、を観察する。雨傘を持っている人がいたら直ぐに鞄の中の折り畳み傘を出すためだ。
生憎、今日の通行人の手には傘が握られており、そこから水が滴り落ちていた。
今日は一日雨、という天気予報は外れなかったらしい。
今度は明確にマイナスの感情を露にため息をつき鞄から傘を出そうとすると、後ろから来た奴が走り様に私の手元にぶつかってきた。
傘は私の手元から逃げ出して、あろうことか水溜まりの中に落ちてしまった。
ギリギリ外に出る前なので私は濡れなかったが傘は手遅れだった。ぶつかってきた人間をきっと睨み付けると、そいつは同じ学校の制服を着ていた。彼はその顔に優男めいた笑みを張り付けて手を合わせた。
「ごめん!急いでるから!」
と告げてそのまま走り出そうとしたので、呼び止める。
「ちょっと待て。」
「え?ホントに急いでるんだけど……」
「まさかこの傘を私に使え、と言う気じゃ無いよね?」
私の傘は中に水が入ってしまって到底使える状態ではなかった。
「君の傘を貸してよ。 雨の降る傘を使う趣味は私には無いんだ。」
「それって僕に雨の中走れってこと……?」
「驚いた。レディーにそれを強いようとしたのは君だろう。なんなら私のを使ってもいいけど?」
「それは遠慮しとくよ。じゃあ、これ。貸しとくから明日にでも返してくれる?それじゃ!」
どうやら急いでいたのは本当らしく、私に傘を差し出して、点滅している信号を横切って、滑って転びそうになっていた。
「雨を受け入れるなよ。」
私は彼に聞こえるかどうかギリギリの声量で言った。それが聞こえたのか、彼が一瞬止まったように見えた。
教室は雨のせいか人は普段より少なかった。どこかの電車が遅延しているのだろう。それを証明する紙ペラを握って教室に駆け込んでくる姿も、最早見慣れているものだ。
朝礼まではあと二十分ほど余裕がある。本でも読んでいるか、と思った時、ふと思いあたることがあった。
朝の男子のことだ。そこそこ体格もありどことなく垢抜けた雰囲気をもっていたため、男子と言うよりは青年、の方が適しているようにも思う。
三年間も同じ学校に通っていれば、ほとんどの人間の顔に見覚えぐらいは出てくる。同じ駅を利用していれば尚更だ。
しかし彼の顔には全く見覚えがなかった。かといって新入生ではないことを彼の首の高校生ネクタイが示していた。
と、すると彼は転校生であろうか。そうであるならば、私は新たな出会い、というやつを経験してしまったことになる。
だが、この学校に来る転校生はだいたい外国帰りか少し離れた地方からの人間だ。
私の地元を知る者では無いだろう。
益体もないことを考えていると、いつの間にか二十分が過ぎていた。
教室の人は多少増えていたが、三割ほどいない。十分もすれば揃うのだろうが、新学期初日としてはどうなのだろうか。
「これから一年E組の担任をする、中村です。一年間よろしく。」
中村の内容の無い自己紹介を聞き流しつつ、廊下に目を向ける。ドアの外に人がいるようで話し声が聞こえてくる。
私の席は廊下側の一番前の席なので、外からの声がドア越しによく聞こえた。
「いつ入ればいいんですかね?」
「今中村先生がHRやってるから待ってて~。」
聞こえてくる二つの声の片方はこのクラスの副担任の高橋だろう。敬語で話している方も、聞き覚えがある。私の先の推測は正しかったのだろう。
「あー、忘れてたが最後にこのクラスに転校生が来た。イノウエー、ごめんごめん、入ってきていいぞ。」
イノウエというらしい。ドアを開けて入ってくるとあの優男めいた笑みを浮かべながら口を開いた。
「イノウエ タケルです。漢字は多分一番簡単なやつです。昔N市に住んでたんですが小学生になる前にアメリカに行ってたんで、知り合いとか、もしいたら声かけてください。これからよろしくお願いします。」
井上はそこそこイケメンで背も高かったため、教室内は少しざわついていた。
が、私は容姿など気にする余裕もないほど動揺していた。
N市、私の地元で十年前にいたのなら知っている可能性が高い。
「井上の席はそこの廊下側の前から二番目な。相原の後ろだ。じゃ、解散。始業式には遅れずに来いよー。」
中村の声をきっかけに教室内は一気に騒々しくなった。
私は後ろを向いて井上を見る。
「この学校の人に私の事は言わないでもらえる?」
「それって君のお姉さんのことも?」
それだけで理解した。やはりこいつは私の事を知っている。
そしてもう一つ理解した。この話をうすら寒い笑みを浮かべながら話しているコイツは性格がひんまがっている。
「冗談だよ。そんな怖い顔しないで。」
「それじゃあ、話はそれだけだから。」
私はそう言うだけ言って教室を出た。
始業式は確か第二体育館だったはず。面倒なことになるかもしれない。まあ、中学三年間を安全に過ごせただけで、満足するべきなのかもしれない。
放課後。
私は部活に入っていないが、この時間はいつも図書室で過ごしている。高校生になったので放課後、六時半まで残れるようになった。
家に、地元に戻らなくていいのは良いことだ。
リュックと手提げ鞄を持って階段を歩く。図書室は七階で、高一の教室のある四階から歩くのは少し面倒だが、仕方がない。
五階から六階へと続く階段の途中で前から井上の来るのが見えた。
「相原さん、少し話したいんだけどいいかな?」
何の用だろう。こちらはお前と話したいことなど無いのだが。
「相原さんのお姉さんの話。僕、噂が凄い錯綜してる中アメリカ行っちゃったから気になってたんだ。」
「話せば秘密にしてくれるのか?」
「勿論だよ。僕は約束を守る方なんだ。」
「ここで話すのは人目につく。ついてきて。」
この学校で、生徒があまり来ない、話のできる場所と言えば、六階の空中庭園が一番にあげられるだろう。空中庭園は少し広いベランダといったところだ。
「へー。こんな場所があるんだね。」
「そこにベンチがある。座りなよ。」
この場所のデメリットは二つ。一つはすぐ近くに職員室があるので大声を出したりすれば直ぐに教師がやって来てしまうこと。
「冷だっ?! うわっ、濡れたんだけど!」
もう一つは天候に左右されやすい、ということだ。雨が降ればこのようにベンチも使い物にならなくなる。
「ふっ。バカなやつだ。」
「君、笑うんだね。」
「失礼なやつだな。私は人の子だぞ。それで、何が聞きたいんだ?」
井上と雑談を楽しむ時間は無駄としか思えない。さっさと本題に入るべきだろう。
「そうだね、『雨隠し』の事とか、かな。」
私の住むN市の外れにある、大きな神社。そこの神主が私の母方の祖母である。
そこに古くから伝わる伝承の一つ。
それが『雨隠し』だ。
曰く、
「雨を受け入れてしまった人間は雨の神に見初められ、連れていかれてしまう」
「連れ去りの雨は人の見ている前でのみその力を発する。雨の神がその人間を手に入れたことを示すが為に」
まあ、これだけ聞けばご当地版神隠しである。問題は、N市内で「目の前で消滅する行方不明事件」が多発していることだ。それも、全て雨の日に。
雨隠しの伝承は地元では有名で年寄りが孫に一度は言うのだ。
「雨を受け入れてはいけないよ」と。
十年前。私が幼稚園の年長だった年であった。私と姉は六つ離れていて、姉は年の離れた妹をとてもよく可愛がってくれていた。
しかし私は幼かった。ゆえに気づけなかったのだ。彼女が「転んだ」や「体育で怪我した」などと理由をつけて隠していた、彼女の体についた多くの傷の真実を、私は知っていたというのに。
当時、両親は共働きで私たちはよく家に二人きりであった。幼稚園のお迎えには祖母が来てくれたが、祖母も仕事が忙しかったため、結果的にそうなることが多かった。
そして、その時だけは姉が弱音をはいた。多忙な両親に心配をかけないようにしていることは、幼心にもわかった。
端的に言えば、姉はいじめられていた。
きっかけは些細なことだった。クラスのリーダー格の取って置きのヘアピンと同じものを着けていってしまったらしい。
タイミングも悪かった。ちょうどその女子がヘアピンをなくした日だったのだ。ほとんどのクラスメートが、姉が盗んだのだと誤解した。「何処でなくしたかわからない」という証言は「思い出した」として「学校でなくした」にすり替えられた。
大義名分を得た時の人間の残虐性は誰もが知っている、人間の欠陥だ。
その日、姉はすっかりひしゃげてしまったヘアピンを握りしめて泣きながら帰ってきた。
盗まれたものを取り返そうとした者たちから奪い取るのは容易ではなかったようで色々な所に泥や擦り傷がついていた。
可愛いものが大好きだった姉はシンプルで、汚れが目立ちにくい服を着るようになった。汚された備品などは直ぐに家で洗っていた。一ヶ月もたたないうちに、姉はこの状況を受け入れ始めていた。しかしこれが良くなかった。抵抗がなければいじめはいとも簡単にエスカレートしていった。
姉はいつしか私の前ですら笑わなくなった。泣くこともなくなっていた。
そんなある日の事であった。雨は、降っていなかった。いつものように私と姉で留守番をしていた。平穏な我が家に、玄関のチャイムがなった。
モニターに写っていたのは染谷という、姉の古くからの友人で、私も遊んでもらったことがあった。以前はよく遊びに来ていたのだ。
姉はこの状況で自分を訪れることに怪訝な顔をしつつも、ドアを開けた。
途端、インターホンの死角に入り込んでいたいじめの主犯格たちがぞろぞろと姿を表した。
染谷は直ぐに逃げ出し、残されたのは姉と私と敵だった。
件のリーダー格の女子、適当にSとでもしておこうか。Sは私に目をつけた。姉の影に隠れていた私の腕を掴んで投げ飛ばした。幸い家の前の駐車場が広かったお陰で車道には出なかったが頭を打った。お陰でここからは自分では覚えていない。気を失ってしまっていて、目を覚ましたのは姉の腕の中であった。
家の前を通った唯一の目撃者である主婦によると、姉は凄まじい迫力で彼らに詰め寄ったらしい。
姉の迫力に気圧されてか、彼らは逃げ出した。
その時、雨が振りだしたそうだ。姉は上を向いて笑ったという。姉は彼らを睨み付け威圧しながらも、追う足を止めた。彼らはそれにも気付かなかった。それほど必死に逃げたいたのだろう。狩る側にいる事しか知らなかったものが急に狩られる側に回ったのを考えればそれも仕方の無いことだろう。
主婦と姉の見る前で彼らは消えた。
主婦は市外の出身だったそうで、雨隠しのことなど知る由もなく、警察に通報したという。
姉はそのまま私の元へ歩いてきた。私を抱えて玄関に寝かせた。このときに私は目を覚ましたのだ。
目を覚ますと、姉は泣いていた。そして、
「ごめんね」
と、ただ一言だけ残して、雨のなかに行き、私の目の前で消えた。
同日に計六名 (姉と奴ら五人である) が行方不明になったとして地元ではしばらくの間噂の的となっていた。
この事件は小学校に上がった後も、さらに言えば今でもたまに話題に上る。
それにうんざりして地元を離れる事のできる中学受験を受けたのだ。
と、そこまで話したところで、ベランダと建物の中を仕切るドアが開いた。
「おーい、そこにいるのは、相原と、井上か? そろそろ最終下校時刻だ。早く帰りなさい。」
いつの間にか二時間も話していたらしい。
井上を見ると神妙な顔をしていた。何か気になることでもあったのだろうか。
「おい、私は帰るからな。まだ何か聞きたいなら明日にしてくれ。」
そう言い残して私は一人で帰路につく。早く電車に乗らなければ。駅で再会して気まずいことこの上無しであるだろうから。
翌日も、その翌日も、数週間がたっても、井上は私に話しかけては来なかった。挨拶をされれば目を向けるくらいはしたが、話すことはない。直ぐに席替えが行われ、私の席は教壇の一番前。一番人気の無いところになった。井上は隣ではなくなり、接点も消えた。
放課後は直ぐに帰っているようで、図書館にも現れなかった。
約束は守られているようであったので、私は直ぐに今まで通りの平穏を取り戻す事ができた。ずっと、一人で過ごしている。
私には友人がいない。姉と染谷は仲が良かった。親友とすら呼びあえる仲だったはずだ。それがあのように裏切り、あんな結末を迎えるのだとしたら、私には必要ない。
というよりも、私は怖いのだろう。心を許したものに裏切られて、姉と同じ結末を迎えてしまうことを。
だから未だに雨も怖いのだ。受け入れなければいいだけの筈なのに、そもそも市外で雨隠しに合った人の話など、聞いた事も無いというのに。
パタン、と何かが落ちるような音がした。手元の本を落としてしまっていた。
放課後に図書館で本を読んでいると、今日のように考え事に没頭してしまう事が多い。
窓からは夕日が指していて、日が長くなっていることがうかがえた。直に春も中盤を過ぎるのだろう。
そろそろ六時半、帰らなくてはならない。本を閉じて立ち上がろうとしたとき、図書室の扉についた鈴がうるさくなった。
目を向けるとそこには汗だくな井上がいた。
「どうしたんだ、そんなに急いで。何か用か?」
思わず声をかけてしまった。井上は数秒かかって息を整えて、
「明日、学校休みだけど開いてる?」
と聞いてきた。明日は第二土曜日。土曜授業があるのは第一週と第三週だけだ。
「井上に割く時間はないぞ。それじゃ。」
急いで来た井上には少し悪いことをしたかもしれないが、事実だ。第一、わざわざ地元で外に出る意味がわからない。家の中にいれば誰の目も気にならない。
自分の部屋の中だけがN市内で唯一心安らぐ場所なのだ。
「お姉さんを! 連れ戻さないか?」
最初、井上の言った言葉の意味が解らなかった。たかが、数週間前に。私の話を聞いただけの存在が?
「ふざけるのも大概にしろ! そんなこと、私が試さなかったと思うのか!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。図書室の先生が何事かとこちらを見ているのが視界の端に見えた。
私は肩を揺らして井上を睨んだ。井上は私に驚いていて、顔には怯えが浮かんでいた。
「じゃあな。」
やはり井上もあの噂を信じていたのだ。
「相原の娘が雨隠しの力を操った」等という噂を。祖母が伝承の伝わる神主であることからか、人々は面白おかしく私をも噂した。
何人かは親に、私に関わらないように、とまで言われていたらしい。「怒らせたら雨隠しに遇う」なんて。
学校を出る。雲ひとつなく、暗い空は憎たらしいほど綺麗だった。
無神経にも程がある。もう少し人の心の内とかを慮れないものだろうか。前に話したときに伝わらなかったのだろうか。私がどれだけ姉を好んでいたか、そして今、どれだけ憎んでいるか。
姉のせいで、私は小学校六年間、腫れ物にさわるように扱われた。姉の事は好きだった。私のために、それまで無感情を貫いていたのを崩して怒ってくれた。普通なら嬉しい話だ。だが、その為に私の人生をめちゃくちゃにしていい筈がない。ましてや、姉の人生を棒に降る必要なんて……、ある筈が、無いのだ。
いつの間にか泣いていた。
涙をこぼしながら歩く私を周りは奇妙な目で見ていた。
後ろから肩を叩かれた。井上だった。ハンカチを渡してきた。頭を下げてきた。気遣いが足りなかったと。それでも僕は君のお姉さんを連れ戻したいと。
「実は、君のお姉さんをいじめていた『S』、僕の姉なんだ。」
井上の顔は見えなかったが、泣いているのかもしれない。そう思うような声だった。
「謝ってすむ問題じゃない事はわかってる。僕の姉は取り返しのつかないことをした! それともう一つ、僕は謝らなきゃいけない。僕は君のお姉さんが姉を消したんだと、事情も知らずに憎んでいた。」
「だから今日まで、僕は君に何て言えばいいか分からなくて、君を避けていた。まあ、避ける必要が無いほど君は僕に興味は無かったようだけど。」
ふふっと。少し笑ってしまった。
それが聞こえたのか、彼は頭をあげてくしゃっと笑った。
そこには優男めいた雰囲気はなく、どこか幼く見えた。
「お詫びといっちゃなんなんだけど、君のお姉さんを見つける、手伝いをさせてもらえないかな?」
懲りない男だ。けど、そうでもしないと気がすまないのだろう。そういうところだけは信用してもいいのかもしれない、と思えた。
「ああ、わかった。お前には私の下僕として働いてもらおう。よろしくな。」
「うん、ありがとう。よろしく。」
その日は二人で共に帰った。
どうやら井上は昔住んでいた家にまた住んでいるらしい。最寄り駅も同じだ。二時間を彼と二人で過ごした。
色々なことを話した。姉たちを救い出す方法についてなどの真面目な話や、彼が外国で苦労した話や帰ってきて驚いたことのような世間話など、彼は話題に富んでいた。私も、久し振りに人と「おしゃべり」をしたので、どこか懐かしい気分になれた。
思い返せば私は幼い頃、多少人見知りだったが活発な子供だった。
「明日、君のおばあちゃんの神社に行ってもいいかな?」
別れ際の駅前で、井上は遠慮がちに聞いてきた。
「いいけど、何がしたいんだ?」
これといって怪しげな場所も雰囲気もない、広さだけが取り柄の寂れた場所だが。
「雨隠しが伝わっているのは神社からなんだろう? 君のおばあちゃんから、話を聞けたら何か分かるんじゃないかなって。」
「私も昔聞いたことがあったが、知っている以上の事はなにも言わなかったぞ? 最後に『雨を受け入れてはいけない』の決まり文句で終わりだ。」
私の言葉に、井上は眉をひそめた。
「そもそも、雨を受け入れるって、どういう意味なんだろう。」
井上の疑問はしばらくここを離れていたからこそ生まれた疑問だったのかもしれない。
「そうか、当然のように言われ続けていたから何となくの解釈で考えていたが、言われてみれば……。」
「そこら辺も明日聞いてみるって事でいいかな?」
「ああ。」
「それじゃあ、待ち合わせの場所とか時間を決めようか。」
待ち合わせ。余りにこれまでの人生と無縁な言葉が出てきたせいで少し戸惑ってしまう。
「待ち合わせってあれか、デートとかのやつか。」
「なんだよ、待ち合わせだけでデートって」
井上は吹き出していた。
「仕方ないだろう、人と外で会うなんて幼稚園以来なんだ。まあ、私の事はいい。ここのすぐ近くのバス停に十時でいいか?」
神社まではバスが通っている。三つほどバス停を過ぎればつく。だいたい15分ぐらいだ。
「わかった。じゃあまた明日。」
「あ、ああ。ま、また明日。」
私は一人で歩き出す。一人で歩いていて寂しさを感じたのは始めてだった。地元にいるのに周りが気にならなかった。友人と認めるのはいささか気にくわないが、そういう存在が私を支えてくれるとは。
顔がほてっている気がして、あれほど待ち遠しかった家に入るのが少しためらわれた。
母に見られたら何を言われるか分かったものではない。
深呼吸をして、鞄から出した鍵をさす。
「ただいまー。」
「あらー、お帰りなさい。ちょっと遅かったわね、何かあったの?」
「い、いや、別に何にもなかった。それと、明日出かける。」
その時、閉めたばかりの鍵の開く音がした。
「ただいまー。香ー、聞いてくれよー。さっき駅前で朱里が男の子と話してたんだよぉー。」
しまった。まさか父がこんな早く帰ってくるとは。ちなみに、お察しの通り、朱里 (あかり)は私の名前だ。
「あらあら、だから遅かったの?朱里。内緒にしたってことは何か恥ずかしいことでもあるのかしら~?」
「そ、そんなことはない。夕飯まで自分の部屋にいるから! じゃあ!」
上手くごまかせただろうか。
私の父は名を相原 勉 (あいはら つとむ) といい、都心で働いている、そこそこ優秀なサラリーマンだ。
母は、相原 香 (あいはら かおり) といい、姉が雨隠しにあってからは仕事をやめ、今は専業主婦である。
二人とも、長女が行方知れずとなった上に近所の噂にもされたのに、私のために明るく振る舞ってくれていた、強い人たちだ。
夕飯までに明日の準備をしておこう。寝坊しても直ぐに家を出れるように。今日は色々ありすぎて、眠れないかもしれないから。
目を覚ますと、雨の音が聞こえた。少し憂鬱になったが、今日は初めて友人と出かける日なのだと思えば、その気分も直ぐに持ち直した。
時刻は七時半。少し早く起きすぎたようだ。
のんびりと顔を洗い、着替えて朝食をとる。まだ八時半。バス停までは歩いて五分もかからない。九時四十五分辺りに家を出れば十分だろう。残りの時間は本を読んで過ごすことにしよう。
バス停に着くと、既に井上はベンチに座って待っていた。
「待たせたな。行こう。」
「いや、大丈夫だよ。僕もさっき来たところだから。」
ナチュラルにこんな台詞をはいた井上は恥ずかしがる様子もなく、これが人と付き合いなれている者の余裕なのかと思い知る。
バスは直ぐに来た。傘の水を払って、バスの一番後ろに二人で座る。
「そういえばさ、最初に話した日、君が帰った後なんだけど。」
「ん? あの後何かあったのか?」
「あの後、僕、雨隠しに遇おうとしたんだ。」
「は? 冗談だろ?」
コイツは馬鹿なのか。
「冗談じゃなくて。僕なりに雨を受け入れようとしたんだけど、さっぱりだった。雨水を飲んだりまでしたのにさ。やっぱり雨隠しに遇うのは市内だけなのかなあ。」
「雨水なんざ飲んだら腹壊すぞ。お、次のバス停だ。ボタン押せ。」
バスの放送は、悪天候のため少し遅れて到着する旨を知らせていた。
「まあ、もう少しで君のおばあちゃんから話が聞けるんだもんね。今話しても仕方の無いことか。」
プーッ。
到着したようだ。バスを降りると、目の前に鳥居がある。祖母の住む管理者棟は入って右だ。
「付いてきて。」
傘を揺らして歩く。雨のなかを歩いているのに、ここにいると少し落ち着く。幼い頃からよく親しんだ場所だからだろうか。
「ここだ。入っていいぞ。」
「え、勝手にいいの? 怒られたりしない?」
「大丈夫だ。昨日祖母には連絡をいれておいた。今はいないが直ぐに来る。待とう。」
荷物を下ろして寛いでいると、五分もしない内に祖母は帰ってきた。
「いらっしゃい。雨隠しの話を聞きたいんだったね。朱里、そっちの子は誰だい?」
「井上。学校のクラスメートでこの市に住んでる。お姉さんが雨隠しに遇ってる。」
井上は姿勢をただして声を出した。
「お邪魔してます。井上 健です。いつもお孫さんにお世話になっております。」
驚いた。井上が大人みたいな挨拶をしている。そんな芸当ができるとは思っていなかった。
「ご丁寧にありがとうね。何が聞きたいんだい?」
「いえいえ。僕がお聞きしたいのは雨隠しの『雨を受け入れる』の意味です。」
井上の言葉を聞いて、祖母は難しい顔をした。
「それが知りたいのであれば、私に聞くより見せた方が早いね。」
ちょっと待ってて、と言って祖母は家の奥に行った。
何を見せようとしているのだろうか。
「これだよ。雨隠しの伝承の書かれた本。掠れてて読みにくいかもしれないけど、頑張りな。それじゃあ、私も、まだ仕事があるから。それを読んで、まだ何かわからないことがあったら後で聞いてくれ。しばらくしたら戻るからね。」
もしかすると、とても貴重な物を見ているのではないか。
「じゃあ、読むか。」
「そうだね、破かないように気をつけて扱おう。」
私はそっとページを捲った。
本には雨隠しに遇うための条件やら目撃情報などが事細かに古語で書かれていた。
私はあまり古語を読むのが得意ではないので、井上に読むのを任せた。
その条件とやらは五つあった。
一つ、クラミツハ (雨の神らしい) を祀る神社のある地域に住む者。
一つ、雨隠しの存在を知っている者。
一つ、第三者に見られている者。
一つ、無抵抗で雨に濡れている者。
ここまでは予想できていたことで、あまり不思議なものでは無かった。
しかし、五つ目。
一つ、激しい感情を持っていて、雨にすがってしまった者。
「激しい感情、か。」
「こんなの誰も知らないよ。少なくとも僕は聞いたことがない。」
「私もだ。だが、納得できる部分はある。」
姉に追われていた五人は恐怖や動揺の激しい感情を持っていた。姉も、私を傷つけた彼らへの怒りを爆発させていた。
「雨にすがる、というのは良く分からないな。」
「雨に願掛けをする、とか、そういうことかな。」
良くわからない。
「私の姉の方なら分かるかもしれない。姉は私を守れなかった事によって強い自責の念も抱いていた。それで、」
「雨に、自分を消してほしい、と思ったってこと?」
「そういうことだ。しかし、こんなに、ちゃんと条件が定まっているというのは不思議だな。」
こういう怪奇現象は曖昧なものが多いイメージだった。
「元々は生け贄の儀式だったみたい。生け贄を捧げて、雨の降るのを祈る、祈雨っていうらしいよ。」
「その儀式の文化が廃れてそれが暴走したってことか。傍迷惑な話だ。」
神様というのは往々にして理不尽だというが、これは酷い。
「ねえ、相原。雨隠しにあった後って何処に行くのかな。」
「さあ。帰ってきた人間がいないんだ。普通じゃない場所なんだろうな。」
そこから救い出す様な話は何処にも書いていないとの話だった。
「相原、ちょっとトイレ行ってくる。」
「一々言わないでいい。さっさと行ってこい。」
「あはは。それじゃあ、ばいばい。」
ただトイレに行くだけでばいばいって、なんて思いながら私は本に目を戻した。雨の音だけが響いていて、読書にはいい程度の静けさだった。
トンッと、何かの音がした。
なんの音だろうか、私は本から顔をあげたが、まあどうでもいいか、と思い直して本に目を戻した。
本は五つに別れていて、雨隠しについて、条件、目撃情報、神社の成り立ち、クラミツハについてであった。
私は丁度クラミツハの章に差し掛かっていた。
クラミツハは、生け贄を受け取り、人の願いを叶える、典型的な神であるそうだ。
龍神という説もあり、人を食っているのかもしれない、と書かれていた。
また、トンッという音がした。なんの音か気になって部屋を出た。玄関に祖母がいた。
「靴がないけど、井上くんはどこかへ行ったのかい?」
井上の靴がない? そんな馬鹿な。その時、さっき読んだクラミツハの話を思い出した。
『生け贄を受け取り、人の願いを叶える』そう書かれていた。
今のトンッという音は祖母が玄関の引き戸を閉めた音だった。ならば最初に聞いた音は井上が出た音だった?
「ばあちゃん、井上を追いかけなきゃ。行ってくる。」
私は外へ飛び出した。
雨が降っていた。構わずに走った。
井上は自分を生け贄に姉たちを助けるつもりだ。思えば、祖母の家のトイレの場所など井上が知る筈もなかった。
この辺りは人通りが極端に少ない。雨の日ともなれば更なることだろう。
初めて雨に感謝した。まだ井上は人目を探している筈だ。
服が雨を吸って重くなってきていた。雨はどんどん勢いを増していた。
雨にすがることの意味がわかった。雨に濡れていると雨が語りかけてくるのだ。
雨に頼ってしまえと。「私が止めば井上は消えないぞ」と。
誰が雨などに頼るものか! 私から沢山の物を奪った雨に!
二度と雨に奪われてなるものか! 生け贄なら今まで奪ってきた人間たちで十分だろう!
しばらくここを離れていた井上にはこの辺の土地勘はあまりない筈だ。駅の方へ向かうはず。それなら私の方が早い。
最初に会ったとき、彼は焦って雨に滑って転んでいた。
きっと今も私に気づかれる前に事を済ませようと焦っているはず。ならば、何度も転んでいてもおかしくはない。
転べば転ぶだけ速度は落ちる。
私は雨に負けたりなどしない。雨に屈したりしない。転ぶなどあり得ないのだ!
息も忘れて走った。もう少しで駅に続く道に入る。幸いここまで人は誰もいなかった。
路地を曲がる。いた!
「待て ! 優男面 ! 勝手にテメエの都合でテメエの命犠牲にしようとしてんじゃねえよ!」
声を荒げて走る。井上は案の定転んだようで泥だらけで、傷だらけだった。
そして、私に気がついて、ニヤリと笑った。
まさか。人の目に私を使う気……!
気がついたときには井上に飛びかかっていた。
井上は目を閉じていて、無防備だった。私は彼に飛びかかって、目をつむって、キスをした。
井上は唇の感触に気が付いて目を見開いて、私の勢いに押されて倒れた。
ガンッと、いう音がなり、井上は気絶した。
「よっし!」
私は一人呟いた。私は雨から井上を守れたのだ。ポッケからスマホを取り出す。防水加工をしておいてよかった。
119を押して場所を伝える。
気が抜けたのか、体が異常に寒く、重い。
ああ、疲れた……。
目を覚ますと、白い天井が見えた。体を起こすとどうやら病院らしかった。日付は変わっていない。気を失ったのが正午前であったから、六時間ほど眠っていたらしい。
とりあえず、ナースコールのボタンを押す。
直ぐに病室の扉が開いて、看護師さんと、母と、井上が入ってきた。
どうやら井上も無事であったようだった。
母と目が合うと、抱きついてきた。苦しい。
「朱里……! 良かった! 雨の中倒れているのを発見されたって連絡もらったとき、心臓止まるかと思ったのよ! 心配かけないでよ!」
「母さん、ごめん。謝るから離して。」
ギブギブ。井上見てるし。
「あっ、井上くんごめんね~。そうよね、二人になりたいわよね。じゃあ母さん、外で時間潰してくるわ~!」
嵐のように去っていった。
「よう、井上。無事だったんだな。当たりどころが悪かったらどうしようとは思っていたんだ。」
だが、あのときはそれしか方法がなかったのだ。
「そんなことよりも! 相原! キスなんて簡単にしちゃダメだろ! 」
「なんだ、キスぐらいアメリカじゃ挨拶なんじゃないのか? というより、井上は私にいうべき事があると思うが?」
「言っとくけどアメリカはハグと握手が挨拶で別にキスなんてしないからな?!」
それだけか、と言外に告げる目で井上を見る。ウッと言葉につまる井上。
「……悪かった。勝手に決めて。」
「そうだ。井上はあくまで私の下僕だ。主人に逆らう下僕が何処にいる。」
それに、
「もう私から何かを奪おうとしないでれ。失うのはもう沢山だ。」
「ホントに、悪かった。もう、あんなことはしないよ。それで許してくれ。」
井上は本当に申し訳なさそうであった。これなら私の知らないところで同じことを繰り返すことも無いだろう。
「ダメだ。それじゃ許さん。今度どこかのカフェで高いパフェを奢れ。」
「わかったよ、それで許してもらえるか?」
「ああ。後もう一つ。レディのファーストキスを受け取った責任を取ってほしいのだが。」
恐らく、私の顔は火照っている。おいそれと人に見せられたものではない。
「どうだ?」
「こんな俺でよければ。」
外からはもう、雨の音はしなかった。