勇者の目覚め
入学式、そしてその後のホームルームを終えると、俺は一目散に教室から駆け出した。後ろから担任の注意する声が聞こえるが、気にしない。
きっと緋奈子のことが心配なのは、俺だけじゃない。だからこそ、先ほどもホームルームで先生からは極力様子を見に行くのは控えるようにとのお達しがあったのだ。病み上がりの体へ負担にならないようにとの配慮だろう。
だが、それでも。ここで緋奈子に会いに行かないと、それはもう緋奈子の第一の友達じゃない。俺は、俺だけは絶対にそうするべきなんだ。
幼馴染としてだけではなく、俺自身が緋奈子の顔を見ないと、もう安心できない。あの倒れ方はどう考えても普通じゃなかった。緋奈子の体調不良を、最も付き合いが長く隣に居た俺が察してやれなかった。そういった罪の意識も、ないことはない。
それでも一番は、緋奈子が緋奈子でなくなってしまうような、言い知れぬ不安。そんな不安を必死に振りほどくように、俺は保健室の扉に手を掛けた。
「緋奈子っ!」
保健室は、かすかに消毒の薬品のにおいがする。換気のためか、少しだけ開けられた窓から入ってくるそよ風が心地よい。
とても静かだ。鍵は開いていたが、人っ子ひとりいやしない。
いや、一番奥のベッドだけ、カーテンがかけられている。きっとあそこに、緋奈子が眠っている。
「緋奈子、入るぞ」
そう言いつつ、俺はカーテンをゆっくりと開ける。わずかにできたその隙間から顔を覗かせると、緋奈子は上半身を起き上がらせてこちらを見ていた。
「おはよう、賢人。少し居眠りしちゃったよ」
「緋奈子、お前……もう大丈夫、なのか?」
まだまだいつものように元気溌剌……とはいかないが、緋奈子の顔色はすっかりよくなっている。
俺はベッドの隣にある椅子に腰を下ろし、先ほどと同じように緋奈子の額に手を当てて熱を確かめた。……熱も引いている。
「うん、もう平気。一眠りしたら治っちゃった」
俺の知る限りでは風邪の一つも引くことのなかった超々健康優良児の緋奈子が、なんの前触れもなく倒れるほどの熱を発症したことも信じられないのに、それが少し寝ただけで治ったなんてもっと信じられない。
でも、緋奈子自身が治ったと言っている。緋奈子はそんなしょうもない嘘を吐くやつじゃない。これは事実だ。
「よかった……本当に」
何はともあれ、大事に至らずに済んだのは心の底から安堵すべきだ。
安心したら、なんだか急にどっと疲れが噴き出してきた。しばらくは立ち上がりたくもないくらい、力が抜けている。
「でも、治ったからって油断したら駄目だ。もう少しここで休ませてもらってから帰ろう。もしそれでも辛かったら、肩くらい貸すぞ」
保健医がいないからなんとも言えないけど、ただごとじゃないのは確かだ。またいつ倒れるかわからない。再発防止に気をつけすぎるということはないだろう。
俺の提案に、緋奈子はゆっくり頷いた。このしおらしい仕草は、普段は絶対に見られない。なんだかんだ言っても、緋奈子も不安なのだろう。
「……あのね、賢人。実は私、夢を見てたんだ」
「夢? もしかして、さっき倒れた時から……?」
「……うん」
ぽつりと、緋奈子が呟いた。
あれだけうなされていたのだから、よほどの悪夢だったのだろう。悪夢で精神が不安定になるのもよく聞く話だ、緋奈子にそれが当てはまってもおかしくない。
「夢……っていうか、実際にあったことなの。私が実際に、かつて体験したこと。それが突然、走馬灯みたいに頭の中に流れてきて……頭蓋を内側から殴られてるみたいに痛くて」
ついさっき起きた出来事を、緋奈子はしみじみと語り出す。
俺は幼稚園に通う前から緋奈子のことを知っているが、まさか悪夢で見るほどのトラウマを抱えていただなんて知りもしなかった。
心的外傷を刺激するわけにもいかないので、俺はただ相槌を打つのに徹する。今は緋奈子の好きに喋らせよう。吐き出すことで、少しでも緋奈子が楽になるのなら。
「でもね、私は今までそんなこと知りもしなかった。忘れていたことを、突然思い出したんだよ」
だんだんと支離滅裂になってきた。悪夢の影響で、記憶が混濁しているのか?
尤も、心理カウンセラーでもなんでもない俺にはわからないことだが。
「賢人、私……勇者だったみたい」
「は?」
何を言い出すんだ、こいつは。思わず理解を諦めて心底呆れ果てた声を出してしまったじゃないか。病人相手に情けない。
これは思ったより重症そうだ。やはり俺の手には負えない。今すぐ近くの総合病院にでも連れて行ってやらなければ。
「ここまで言ったら、もうわかると思うけど、私の前世はかつてここではない世界の平和を脅かした魔王を討ち果たした勇者なんだ。賢人も前世で私の仲間だったんだよ?」
「壮大な妄想に俺を巻き込まないでくれる?」
なんてこった。本当に緋奈子がおかしくなってしまった。わかると思うけどって、何一つ理解できてないぞ、今のところ。
「……そっか、賢人にはまだ、前世の記憶が戻ってないんだ……でもどうしよう。なんて言ったら信じてもらえるんだろう……」
「どうしようはこっちの台詞なんだけど。とりあえずカウンセリングを受けた方がいい。俺もいつでも相談乗るから、な?」
緋奈子は頭を抱えて思い悩んでいるようだが、正直頭を抱えたいのはこっちの方だ。今度は俺の頭が痛くなってきたよ。
こんな状態の幼馴染、どうしろって言うんだ。