新しい朝
四月某日。桜の咲き乱れるこの季節は、よく始まりの季節と言うけれど、まさしくそれは今日から高校生となる俺、遊真賢人にも当てはまる。
とは言え何も起き抜けからいつもと違う日常が待っているかと思えばそうでもなく、食卓に向かえば妹が変わらず出迎えてくれるはずだ。
「おはようお兄。簡単にだけど朝ごはん作っといたよ」
「おはよう眞由。いつもありがとうな」
「別にお礼なんていらないし。眞由が今日の当番だから作った。それだけ」
ツーサイドアップの髪型がよく似合っている今年で小学五年生の妹は、我が妹ながら本当にしっかりしたいい子だと思う。
父が単身赴任、母は夜中に営業するスナックの店主。そんな家庭環境では、おのずと俺たち子供がしっかりせざるを得ないのだけれど。
「……なんか今日、機嫌悪い?」
「別に」
俺の質問に素っ気なく答える眞由。やはりおかしい。確かに眞由は同年代に比べると大人びた女子ではあるが、実は結構甘えん坊な一面も持っているのだ。
それは、両親となかなか顔を合わすことのない家庭環境からくるものだろうか。周りの目がある場所ならともかく、二人きりの時はもっとこう、遠慮なく甘えてくるはず。
しかし今日はそれがない。少し寂しくもあるが、やはり眞由も年頃の女子小学生ということか。
「ならいいんだけど」
こうして少女は、一歩ずつ大人の階段を上っていく。世の娘を持つ父、そして俺のような兄もまた、これを経験して一歩大人に近づいていくのだろう。
「そんなことより、早く食べてよ。入学式から遅刻なんてしたら周りから浮くよ」
「それは勘弁だな。片付けは俺も手伝うからさ、お互い遅刻しないようにしないとな」
確かに少し素っ気ない。素っ気ないが、きちんと会話は成立する。話しかければ答えてくれる。もし無視されるようになったら、俺はすごく落ち込むかもしれないが、返事が返ってくるのは嫌われていない証拠だ。と思いたい。
食事自体は、朝ということもあって軽めのもの。話しながらでも食べきるのにそう時間はかからなかった。
「ごちそうさまでした」
食後の挨拶も済ませ、食器を洗おうと席を立ち上がった。
その瞬間、我が家のインターホンが鳴る。
「出てきなよ、お兄。多分、ひなちゃんが迎えに来たんじゃない?」
「そうかもな……にしたって早くねぇか。入学式だからって張り切って……」
我が家の隣に住む幼馴染と一緒に登校するのも、また俺の日常の一部と化していた。
それは高校に入学しても変わらない。何故なら、あいつと俺は同じ伊勢開学園に通うことになっているからだ。
小学一年生の頃から、なんの疑問もなく並んで登校していた俺たちだが、高校生になってからも一緒に学校へ行こうと提案してきたのはあいつの方からだった。
そういう風に言われて、悪い気はしないが。
「ひなちゃん待たせるのも悪いし、早く行きなって。後片付けは私がやっとくから」
「ありがとな、眞由。この埋め合わせは必ずするから!」
今回は眞由の厚意を素直に受け取って、自分は急いで玄関へと向かう。学校帰りにアイスでも買ってきてやるとするか。
そして玄関の扉を開けたその先には……予想通り。俺の幼馴染、勇早緋奈子が立っていた。
「おはよー、賢人! 今日から高校生だね、私たち!」
「おはよう緋奈子。お前は本当に、いつも元気だな」
健康的な短めのポニーテールは、まさに明るく活発な緋奈子の性格を象徴した髪型だろう。感情表現が大袈裟なのでよく揺れる。
これは俺が幼馴染だからではなく、緋奈子は誰にだってそうなのだ。人懐っこく、分け隔てなく、いつも笑顔を振りまいている。
そんな緋奈子の周りには、いつも人が集まってきた。あれは一種のカリスマみたいなものだろう。
その緋奈子が俺を第一の友達と言ってくれるのは、ひとえに家が近かったおかげで物心つく前からの知り合いになれただけに過ぎないのだが、それでも緋奈子の一番になれたのは嬉しい。生まれに感謝せねば。
「それにしても、流石に早く来すぎだろ。まだ食器片付ける前だったんだが」
「ごめんごめん。今日入学式だなぁ、って思ったら、いてもたってもいられなくなっちゃって」
落ち着きがない猪突猛進ぶりは、実に緋奈子らしい。思えばこいつのこれにはどれだけ振り回されてきたことか。
高校生になるのだから、少しくらい落ち着いてもよさそうなものだけど。
「でもさ、こういうのは最初が肝心って言うじゃん。高校生活はスタートダッシュが重要だよ!」
「別に、早く学校に行き過ぎても何かあるってわけじゃないだろうに」
「時は金なり、早起きは三文の徳! きっと今日はいいことあるよ!」
この謎のポジティブ加減は見習ってもいいところかもしれない。緋奈子と一緒にいると、こちらまで楽しい気分になる。
そういえば緋奈子が風邪をひいているのを見たことがない。この前向きな姿勢と元気さの秘訣は、きっと規則正しい生活習慣と健康な体なのだろう。
「今年は同じクラスになれるといいねえ。中学の時は全部別クラスだったし。もし同じクラスになれたら、小学四年生以来になるね」
「あー、もうそんな前になるのか」
言われてみれば確かにそうだ。同学年のやつは大体友達の緋奈子は、休み時間はよく俺のクラスにも遊びに来ていたし、異性の割に学校でも会う機会が多かったから、ほとんど実感がなかった。
登下校だって、毎日一緒だったわけだし。おかげで一時期付き合っていると噂され、男子にもからかわれたが、緋奈子の「え? 違うよ?」の一言で一瞬にして鎮静化したのを覚えている。
緋奈子からすれば、俺も単なる友達の一人でしかないってことなんだろうけど。今にして思えば、あんなにもからかい甲斐のないリアクションはそうはない。
「それでさー……って、聞いてる?」
「え? いや、聞いてなかった。すまん」
「全然悪いと思ってなさそうな顔だよね。ぼーっとしながら歩いてたらつまずくよ〜? さては昨日夜更かししたな?」
いや、単に昔のことを思い出していただけだ。
からかわれるだろうし、癪だからそのことは言わないけれど。
実際、俺……いや、緋奈子と知り合いになったやつは全員だと思うが、緋奈子に関する思い出が多すぎるのがいけないんだ。それが緋奈子の人気者たる所以だろうか。
なんにせよ、緋奈子といると退屈はしない。今だって、きっと一人で喋り続けていたのだろう。緋奈子は人と話をするのが好きだ。そして、自分の話で相手が笑うのを見るのはもっと好きだから。
「さ、この坂を登れば到着だよ! もうひとがんばり!」
自宅から徒歩でおよそ20分。学校は小高い丘の上にあるため、そこに通う生徒は須らくこの長い坂を登って行くことになる。
学校説明会や受験の時にも登ったけども……これから毎日、この坂を登らなければいけないことを考えると少し鬱になる。傾斜自体はなだらかだけど、距離が長いから結構きつい。
そんな坂でも、隣の緋奈子は相変わらず元気溌剌、まるで疲れ知らずだ。俺より小柄なくせにどうなってんだ、こいつの体力。
「着いたよ、伊勢開学園! ここから私たちの輝かしい青春時代が始まるのだー!」
やっとのことで登り切ったその先には、ピークを若干過ぎた桜に囲まれた立派な校門。ひらひらと舞う花びらが、新入生の門出を祝ってくれているようだ。
緋奈子ほどではないが、俺だって高校生活を楽しみにしていたんだ。中学も悪くはなかったけど、やはり青春の花形といえば高校。故にこの一歩は、これからに大きな期待を寄せた一歩だ。
俺と緋奈子は、揃って校門をくぐった。これからの未来に希望を信じ、胸を膨らませながら。