ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
ふみだすゆうき
いつものように電車を降りると、わたしはいつものように、それを見上げた。
気をつけていないと気がつかない。昨日まであった店が廃業し、いつの間にか違う店に替わっていく。一年も経つと、いつの間にかそこは違う景色になっていく。
だけれども、その一角だけは昔のままだった。
生まれてから、ずっと同じ町で育ってきた。学校も仕事も同じ場所から駅に乗った。女子校だった高校時代。OL一年生の時代。毎日の繰り返しの中で、景色はいつも違っていたのだろうけれど、その変わり方が緩慢で、わたしは気がつかなかった。
たった一年の海外派遣が、これほどまでにはっきりと自分に意識の切り替えをするものだとは思っていなかった。
見慣れぬ街、聞き慣れぬ言葉。その一年が終わった頃、わたしはいつもの景色の中に戻れるということが、とてもうれしく感じられたものだ。三十年近く慣れ親しんだ景色が、わたしには重要なものだということが、これほどはっきりとわかったのは、海外へ仕事で出たから。
だが、揺れる電車が故郷に近づくに連れて高まっていた興奮は、電車を降りた途端に落胆に変わったのだ。見慣れた商店街は取り壊されて、そこでは大きなショッピングモールの建設が始まっていた。
「そんな」
唖然と、わたしはそれを見上げていた。プラットフォームから見えた景色は、わたしの思い描いていたものと全く違うものだった。
次々と降りてくる乗降客に押され、わたしはよろめきながら、それだけではなく実際にふらふらとその場に座り込んだ。
見慣れぬ景色から解放されたと思った途端に、今度は見慣れているはずの景色のほうが変わってしまったのだから。
改札を出て、自動販売機でコーヒーを買い、落ち着いて見回すと、見覚えのあるものも残っていることに気がついた。コーヒーを買った自販機だって、以前に見覚えのあるものだったし、それをいえば改札だって一年前のままだった。
けれども、問題はそういうことではない。
電車を降りた、その瞬間に目に飛び込んでくる景色、それこそがわたしのリラックスタイムだった。それが変わってしまったなんて。
毎日の繰り返しが再び始まった。
毎日、同じ駅から電車に乗り、同じ駅で降りる。会社では一年間の海外経験が待遇を変えていたが、一歩会社を出れば、そこは一年前と何も変わらなかった。ただ一つ、プラットフォームからの景色を除いては。
しかし、すぐにわたしは気付くことができた。駅前ショッピングモール計画に取り残された一角のことを。
そこは、昔ながらの駅前商店街。錆びの浮いた看板や、がたがたと音のする引き戸の自転車屋。シューズショップでも靴屋でもない「履物屋」。誰が買っているのかわからないけれど営業を続ける洋品店。おじいさん一人が眼鏡の奥で目を細める時計店。
プラットフォームから見えるのは、ほんの一角に過ぎなかったけれど、景色の片隅に残っていたそれは、わたしに不思議なほどの安らぎを与えてくれた。
仕事上の責任が急に大きくなったからかもしれない。
次々と振りかかってくる責任。毎日が急速に変わっていくことへの不安。そういったことの裏返しだったのかもしれない。
時代は移り変わり、昨日の常識は今日の昔話になるような毎日が、とても楽しいのだけれど、同時に自分のアイデンティティーだとか、居場所だとか、そういうものが何処にも無いような不安感をも生み出す。
人はなんのために生きているのか。そんなことを考えるようになったのは、ひょっとしたら駅前のショッピングモールのせいだったのかもしれない。ある日、大切なものがなんの前触れもなく消えて無くなってしまうことがある、それに気がついた。
わたしだって結婚するだろう。今の仕事は好きだけれど、いつまでも仕事を続けていくかどうかはわからない。海外に行っていた一年間、なんとか関係を維持してきた恋人とも結婚の話は持ち上がっている。けれども、わたしはそれに踏み出せない。
わたしは何を求めてあがいてきたのだろう。恋人だって、夫だって、幸せな家庭だって築いた途端に崩壊するかもしれないのだ。大切なものは壊れやすい。
わたしは、いつものように電車から降りた。
冷たい風が足元をさらう。何処から飛んできたのか枯れ葉が風に舞ってプラットフォームを駆けていく。
わたしはいつものように、昔ながらの商店街を目で探す。リラックスタイムを探して暗闇に目を凝らす。どんなに疲れている日でも、わたしは帰りの電車を降りた瞬間に、一瞬だけ立ち止まる。
その時に思うことは毎日、違う。
恋人のことだったり、仕事のことだったり、時には夕食のことだったりもする。
言ってみれば、必要なのは時間を追い続けるような仕事から本来の自分に戻るためのきっかけなのかもしれない。
暗闇はいつもよりも濃いように思われた。冬が近づいたプラットフォームは、日を追うごとに空々しいまでに明るく感じられるのだが、それは駅の外が暗いからだ。駅前ショッピングモールやコンビニや信号や、車のヘッドライトがむやみに明るいけれど、あの商店街はいつまでたっても暗いまま。いや、一日一日とますます暗くなっていく。
わたしは、目を凝らす。
ようやく見つける景色にほっとして、わたしは再び歩き出そうとした。
「え?」
慌てて見誤りだったかと目を戻す。
「あれは・・・」
あの商店街の後ろに何かがあった。
黒い陰。大きな黒い陰。商店街に暗闇を投げかける四角くて大きな黒い物体。
わたしは、たまらずに駆け出していた。
改札を抜けていつものように自転車置場へとは行かないで商店街のほうへ歩いた。実際のところ、わたしは駅前で買い物をしない。いや、商店街のある景色は好きだったけれど、もしも買い物をする必要があれば、新しくできたショッピングモールでしただろう。
そっちのほうが便利だし、品物も揃っているからだ。
それに第一、わたしはその一角に行ったことさえ無かったのだ。重要なのは、プラットフォームから見える景色であって、古い商店街が好きなわけではない。いや、わたしはあえて行かなかったのかもしれない。遠くから見つめる一角が、わたしの気持ちの中の景色と寸分違わずに一緒であるとは限らない。
子供のころの恋と同じだ。
あこがれは、あこがれのままの方がいい。
見上げたそれは、建設中のビルだった。
手前の時計店では、想像と同じ様なおじいさんがシャッターを下ろそうとしていた。
「あの、すみません」
わたしが声をかけると、老人は眼鏡の奥からわたしをのぞいた。
「なにかね?」
「あのビルはなんですか?」
うさんくさそうにわたしの指差したほうを緩慢に見上げる。
「ああ。マンションだよ」
それだけ言うと、老人は店のほうへ歩き出した。
気がつくと、わたしは建設中のマンションにいた。真下から見上げる黒いかたまりは途方もなく大きく見えた。
剥き出しの土がでこぼこと影を作り出し、飾りのない工事灯がクリスマスの飾り付けのように黄色いフェンスを装飾して赤い点滅を繰り返す。
どうやってわたしは入ったのだろう?
人の気配が無い、と思った。たった数メートル先には工事のフェンスがあり、その向こうには何人もの人が行きかっているというのに、喧騒から隔絶されたように作りかけのコンクリートの要塞が無機質にそびえたっていた。
わたしは、ひきこまれるように、その中へと歩いて行った。
何かを期待していたわけではない。いや、それどころか、何故、そんな場所に向かっているかさえわからずにいた。
わたしは、スーツに革靴をはいていた。それだけでも、土の露出した建設現場に足を踏み入れるのに抵抗があるのはわかるだろう。
けれども、その時のわたしはまったく、それを意識していなかった。何故、わたしはこんなところに?
動くはずのないエレベーターに乗り込んだ。
動くはずがない。
そしてわたしは屋上に立っていた。
鉄パイプが足元に広がって、その向こうには街明りが見えた。ショッピングモールも眼下に見えた。さっきまでいた時計店は、探したけれど、上からでは他の店と区別できなかった。
信号が見え、車が行きかう。その様子は、模型の街を眺めているようだった。
冷たい風が吹き抜けていく。
星が瞬く。
何処かでクラクションの音。
駅に滑り込む電車。
パイプだけの骨組み。床の無い鉄骨だけの骨組み。太い鉄骨と、細い鉄骨。眼下には、緑色のネットも見えた。
エレベーターから一歩も出ることは出来なかった。
誰かが何処かでつぶやく。
「わたしはいつも床を探して歩いてきた。でも空中に一歩踏み出す勇気を持たないと」