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腐食の刃  作者: 南天
1章
9/18

9話 葛藤




 薄暗い闇の中、一人とぼとぼと歩く。


 恰好はサイズのぴったりの秋服。濃いグレーのパーカーに、やや褪せた青のジーンズ。小さめでシックな運動靴は実はレディース。合うサイズのものはどうにも子供っぽいデザインばかりで、にやにや顔で持ってきた店主に向かってノーを突き付けた。


 少しばかり厚めの服装は本格的な冬が来るまでは使えそうだ。



 フードを被り、駅前の繁華街、その裏を歩く。

 時間帯は夕刻。

 駅正面に伸びるカラフルな建物をしり目に線路沿いを歩き、人目につかなそうなところを探す。大通りから外れているとはいえまるきり人がいないというわけでもない。お喋りに興じながら固まって歩く学生や、仕事終わりなのか、それとも別の出先に向かうのか、ビジネスバッグを提げたスーツ姿の男女。

 仕事の合間の休憩と、店の前で一服する作業着姿の男性。

 また、時折個人の飲食店や小さな不動産屋などから明かりが漏れている。シャッターが下りるまではまだまだ時間がかかりそうだ。



 ユキは狩りに出ていた。

 といっても毒香を嗅ぎ付けたわけではなく、自ら歩いて異次元体の出現するタイミングを待っていた。最近はリハビリも兼ねて以前よりさらに積極的に狩りに出ていた。

 金が必要というのもあった。

 いろいろと物入りだったため、貯金含めそこそこの金額を使ってしまっていたのだ。



 予備も含めていつものマチェットを数本、それとサバイバルナイフを購入したのが一番の出費だった。それでも武器として使える中ではかなり安い部類。質を選ばなければ一振り五千円近くでも手に入る。ナイフに至っては二、三千円程度で。


 だがそれではユキの腐食に耐え切れずすぐに錆にまみれて崩れてしまう。

 そのため特殊な武器を用意する必要があった。

 そしてそれは通常のものに比べて付加価値がある分、値も張る。


 ユキが狩りの道具を揃えるのに利用するのは、もっぱら金のよろず屋だった。

 彼女の店で取り扱っているものは基本的に質がいい。というよりも、異能者が使うことを前提とされていた。


 エーテルという未知のエネルギーで構成される異次元体の体組織を破壊するには、通常の武器、たとえばそこらのミリタリーショップで売っているサバイバルナイフなんかでは力不足だ。

 しかし、市販の刃物であってもエーテルさえ通してしまえばそれは有効な武器となりえる。

 問題点は、エーテルは基本的に他の物質を蝕む浸食特性を持っていること。そしてエーテルの通り道として使用するには親和性が低すぎることが挙げられる。


 そのため異能者が使う武器にはエーテル耐性および親和性の強いものが推奨される。

 かつては異能者たちはメーカーや製法にこだわって自身の異能にあった武器を吟味していたようだが、今は少し状況が違う。

 現在は、エーテルを使用すること前提の武器を提供する集団がいる。彼らは異能者向けに武器を作り、その対価として金を得る。いわゆる異能者向けの鍛冶師といったところか。


 どのようにして作られているのかはユキが知ることではないが、一から作る、あるいは完成品に後付けでエーテルの通り道を付加するという二通りの方法で作られていた。

 どちらも物質あるいはさらにミクロに粒子制御系といった、稀有な異能が必要となる。

 エーテル心炉を保管するガラス瓶も似たような技術で作られていた。


 また、彼らは異能者の中である意味最も安全に、そして安定的な収入を確保できている集まりでもあった。彼らは直接顧客に売ることもあれば、作品を異能者向けの支援店に卸していたりする。ユキも金のよろず屋経由で購入していた。



 なんにせよ出費分を回収する必要があった。


 ――いや、その必要は本当ならばないのだろうが。



 ***



 辺りもすっかり真っ暗になった。ちょうど人の足が途絶えた時を見計らい、手近な建物の屋上へと駆け上がる。


 上ってしまえばもう人目を気にする必要もない。

 いつかの夕暮れと同じようにペントハウスへの壁に背を預け、ほっと息をつく。白い吐息がこぼれた。

 11月初旬。

 もう冬になる。こうやって外で異空間の発生を待つのも辛い時期だ。



 異次元体対策局の病室を抜け出してから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。


 レリアに諭され、所属するかはどうかはともかくもう一度彼らと話をしてみる……少なくとも乱暴な手段に出てしまったことの謝罪はしようと決心したわけだが、いざ足を向けようとするとどうにも踏ん切りがつかずにいた。


 ユキにとっては人と会うことは異次元体に立ち向かうより恐ろしいことだった。特に、嫌われてしまったかもしれない相手と会うとなれば尚更。


 最も信頼する人から心配はいらないとお墨付きを貰ってはいたのだが、臆することなく実行できるかどうかは話が別だ。

 謝罪の言葉を考えようとすると、〝人間〟というものに半ばトラウマに近いものを持っているせいか、頭の中では怖い顔をした誰かのイメージばかりが浮かんでくる。

 理不尽に怒鳴る誰かのイメージばかりが浮かんでくる。

 指をさされて追いかけられるイメージばかりが浮かんでくる。

 顔のない誰かがいつもそれを邪魔するのだ。


 彼らは、誰だったか。

 鮮明に思い出せないくらいには昔の記憶。

 それでも消えてくれない忌まわしい記憶。

 記憶の中にだけ生きてる恐ろしい人間たち。


 名前も忘れ、声も忘れ、顔も忘れた。しかし、悪感情を向けられたことだけはしっかりと覚えている。

 そのせいで、いつの間にか顔のない、声のない、名前のない誰かはつい最近出会った彼らのものと入れ替わってしまう。


 きゅっと膝を抱く。

 ポケットに突っ込んでいた手が急に外気にさらされ、指先がじんじんと痛む。

 温めようと、ほうと息を吐きかければ、やはり白い靄が待った。


 無言で空を見上げた。

 雲に閉ざされ、天に昇ったはずの月は薄っすらとしか明かりを届けない。



 彼らはかつて自分を追い詰めた者たちとは違うということはとっくの昔にわかっていた。

 一番の理解者は、謝れば許してくれると背中を押してくれた。

 あとは会ってみるだけなのに。

 

 ユキは今日も反対方向へと足を向けた。

 心のどこかで向こうのほうから来てくれないかな、と考えながら。




 心まで冷やすような冷たい空気の中、甘い香りが鼻をついた。


 ピクリと眉が揺れる。

 すっくと立ちあがると、臭いの漂う方向へと顔を向ける。


 ――近い。


 駅、そして繁華街から少し離れ、人通りも疎らになるだろう場所。

 確か、小さな公園があったはずの場所。


 もやもやとした感情も、戦っている時だけは忘れていられる。それはここ最近学んだことだった。

 ユキは足早に屋上の縁まで歩く。


 そして、暗闇の中小さな影が夜空を舞った。



 ***



 公園の近くまで足を運ぶと、時間帯もあってか人の姿はまるで見えない。


 公園は四隅に街灯が立ち、敷地内を照らしているが、無指向性のタイプではないためか明るい場所もごく狭いスペースに限られている。

 敷地はフェンスに囲まれ遊具も疎ら。中央には大きな樹木が植わっている。

 風が吹くたびに色づいた枝葉をざわつかせていた。


 入口には何やら看板が立てられている。

 園内でのボール遊びは禁止らしかった。


 パーカーのジッパーを下ろしながら歩く。

 フェンスの切れ目に三本の背の低いポールが立ち、入り口となっている。

 そこを越えたあたりで、暗闇は灰色へと移り変わった。

 灰色の空、灰色の地面、灰色の遊具。

 黒と白の濃淡だけで表現された世界はある意味夜の世界よりも明るい。


 そのため、その小さな異空間の小さな主を視界に捉えるのも容易なことだった。


 空を飛び回る小さな何か。

 高くて、大きくて、そして不快な羽音を立てながら空を飛び回るのはバスケットボールほどの大きさの、異次元体としては小さい部類の――虫。


 素早いそれを目で追えば、ずんぐりな体はハチのような警戒色で、しかし所々が薄っすらと毛むくじゃら。大きな複眼の間には短い触覚を持つ。

 その手の知識を持つものが見たら、ウシアブとムシヒキアブを足したような姿だと言っただろうか。


 大きな二枚の羽を高速に羽ばたかせて飛ぶ、いかつい怪虫。


 ブンブンと不愉快な音をまき散らす数匹の羽虫は、その大きな複眼でもって、己の領域にかかった獲物へと狙いを定めた。

 無軌道に飛び回っていただけのそれらは明確に敵対の意思を見せ、ユキの周りをぐるぐると回り始める。

 尾を引くような羽音。

 近づきながら。遠ざかりながら。

 飛び回るスピードにも緩急をつけ、タイミングをつかませないように。

 やつらは機を伺い、隙あらば頭から突き出した顎で獲物の体を引き裂こうとしている。




 ユキは軽く舌打ちをした。

 見つけた異次元体はハズレだったのだ。


 獲物は大きすぎても小さすぎてもいけない。

 大きすぎると、以前のムカデのように圧倒され、小さすぎると今度は狙いをつけるのが難しい。

 何より、下手に体を傷つけるとエーテル心炉を破壊してしまう恐れがあった。

 おまけにこいつ〝ら〟は複数で群れ、そして宙を自在に駆け回る。


 戦っても損をするだけかもしれない上に、厄介な相手でもあった。

 惜しむらくはその姿から上質な心炉を持っているだろうことを伺わせること。うまく心炉を傷つけずに倒せれば一気に懐も膨れるかもしれない。

 何せ、三匹もいる。


 負けるビジョンは浮かばない。

 やつらのトップスピードはきっと異能者の優れた目でも捉えきれないほどの速さを持つだろう。

 厄介な羽虫の類。しかし、以前にも似たような異次元体を相手取ったことがあった。そのため相手の行動パターンも、そして対処法も学習済みだ。


 だからこそ、負けるとは到底思えないのだ。

 自惚れではない。

 経験から導き出された答えだ。

 奴らはただ早いだけ。

 目で見えなくとも耳がある。

 羽音という、彼らの位置をわざわざ教えてくれるという明確な弱点がある。



 今は無性に物に当たりたい気分でもあった。

 後退し、出口に向かいかけていた足を踏みとどまらせる。


 ――少しばかり、八つ当たりに付き合ってもらおうか。



 ***



 飛び回る相手にやみくもに向かって行っても勝ち目はない。

 追いすがったところで手の届かない範囲に逃げられるだけ。

 特に速度では圧倒的に負けている。

 一匹に気を取られている間に別の個体に近づかれて終わりだ。


 あの手の連中は基本的に首を狙ってくる。

 弱点だと理解しているからか、単に狙いやすい位置だからか。

 だから首さえ気を付けていれば逆に向こうの狙いも予想しやすい。

 必然的にカウンターを軸に戦うこととなる。


 煩わしい羽音の感覚が徐々に小さくなる。

 そろそろ連中も痺れを切らすころなのだろう。


 懐に両手を突っ込み、わざとらしい隙を晒す。


 ――一匹釣れた。


 けたたましいと表現するのが適切だろう。

 外骨格の内側で筋肉が爆発的に伸縮し、一息に加速した怪虫がすさまじい速度で向かってくる。

 すでに目で追える速度はゆうに越え、回転率の上がった羽音は風を切るような高音になっていた。


 うねることのないそれはまっすぐに進んでいる証。

 懐で棒状のものを固く握り、右方から迫る音に向けて勢いよく振りぬいた。


 チッと何かを掠るような手ごたえ。

 固い刃先が何かを切り飛ばした。

 同時に羽音は急激に上空へと抜けていく。


 ボトリと地に落ちるのは棘のような剛毛に覆われた黒と黄の足。

 くの字に曲がるそれは、先端に粒状に連なるふ節、更に先には鋭い二股の爪がついている。

 ものに掴まるためではない。獲物を押さえつけるためにある恐ろしいそれの一本が、根本近くから断ち切られていた。


 アクロバティックな動作で斬撃から逃れた一匹は、足の一本を失ったためか若干のバランスを損ないながらも三匹の輪に再び加わった。


 もし切ったのが足でなく羽であったのなら、楽に心炉を手にできていたのだが。


 連中もさる者。

 自らの一番の武器である羽を失うような愚行はしない。


 再び機会を伺いだしたため、邪魔になるだろう肩にかけていたナップザックを地に下ろす。

 いつ向かってこられてもいいように片手は構えていたが、終ぞ仕掛けてこなかった。



 周囲を飛び回る羽虫どもに視線を這わせる。

 首を回すようなことはなく、目だけで辺りを見渡すも、高速で飛び回る姿は残像を残すばかりで実体を捉えるに至らない。


 両者とも、機を伺っていた。

 自然待ち伏せの形となるユキは立ち尽くすしかない。下手に動けばそれが隙となり、連中が付け込むチャンスをとなる。


 そう、こちらが動くのを向こうも狙っているのだ。


 もう一度、懐へと手を伸ばす。

 今度はマチェットを握っていない左手で。

 パーカーの下、右の脇腹あたりへと突っ込む。

 怪虫は飛び回るだけ。

 先の攻撃を警戒してか、飛び込むような愚は犯さない。


 ならば。

 連中にとって取れれば勝ちとなる背後を――首を晒す。

 手を懐に入れたまま、飛び回る怪虫の一匹に追随するように視線を、いや首ごと回す。


 当然視線は追いつけない。

 しかしそれでも別に構わない。

 狙ったのは無防備に晒された首筋を狙う〝一匹〟だけ。


 三方向から羽音が唸る。

 重低音のそれが一気に高音へと切り替わり、耳をつんざくような不快な音が自身に迫る。


 三匹同時は少し厄介だ。

 何せこっちは刃が〝二本〟しかない。


 それでも二匹はおそらく囮である。

 腹や腕を狙われるようなこともあるだろうが、そちらは対処もしやすい。

 背側以外は正直無視をしてもいい。


 同時ではなく、若干のラグを持たせながら突っ込む三匹。

 音の感覚だけを頼りに体をひねる。


 横から迫る一匹に向けて右手をふるう。しかし今度は足先を掠ることもなく空を切った。

 次いで正面から突進してくる音をステップを踏んで回避する。

 いかに高度な飛翔能力を持っていようとも、直角に曲がることなどできはしない。

 こちらが回避するのを認識してから角度を変えたようだがそれは服を掠ることもなく突き抜けていった。


 そして最後の一匹。

 本命のそれ。

 来るとわかっていた背後から、恐ろしく高い、フルスロットルの轟音が迫る。

 巨大化しようとも、自重などまるで関係ないかの如く、猛スピードで。ともすればただでさえ早いはずの自然界のアブよりも早いかもしれない。


 右手はすでに振り切っていた。今更引き寄せたところで相手に向けて振るう前に首に取りつかれて終わり。


 悍ましい顎が首の皮、肉を切り裂き、隠された針でもってやわらかい肉を溶かし血を啜る。

 溶解液が体を溶かし、ストローのような口吻が獲物の血肉を貪り食らう。



 しかしそんな結末は訪れない。


 懐に突っ込んだままだった左手が、服の下から引き抜かれる。

 灰色の世界でしかしエーテルを帯びた刃は白銀を取り戻す。

 赤銅色を灯すことなく振るわれたそれは、最後の一匹が飛び込んでくる前からすでに狙いを定めていた。


 尋常ではない速度で振るわれる腕。

 そして鋭い刃は抵抗などまるでないかのように空を切り裂く。



 ハエの類が持つ、羽の代わりの特殊な器官、平均棍が風を読み、音を切り裂いてまで迫るそれを感知する。

 しかしスピードを緩めることも、進行方向を変えることも既に叶わない。


 光を発するもののない灰色の世界。

 エーテルを通すものだけが色づいた世界。

 外界ならば虹色に照るはずの複眼は、もともとの色なのだろう暗いグレー。

 いや、その一点にだけ光が差す。

 大きな複眼が映す、正面の標的。

 その双眸。

 それは悍ましいほどに赤く輝いていた。



 音を超えた一閃。


 まっすぐに飛ぶ大きな怪虫を、白銀の刃は真っ二つに切り裂いた。



 やや斜めに食い込んだ刃は一瞬の抵抗だけを許し、すぐに肉を食み始める。

 切り口からは薄緑色の液体が飛び散り、体を半ばまで切った辺りで一際勢いよく液体が飛び散る。


 明確な手ごたえ。

 外骨格を切り裂く固さではなく、引き締まった筋肉を裂くものでもなく。

 ぶちゅりと柔らかで、そして途方もない圧力を内に秘めた球体器官。


 びしゃり、と、肉厚の体が裂けた。


 体のすべてを支えるエーテルの恩恵を失ったそれは体液をまき散らしながら無様に地に落ち、僅かばかりの間をおいてチリと消えていった。


 辺りには飛び散った肉片が数瞬の間残り、そしてそれもチリとなる。

 一瞬の不快感に目をつむれば、ユキの顔、体にかかった体液も、拭う間もなく空に消える。



 これで一対二。

 腕一本あたり一匹とすると、二対二。


 心炉の位置もわかった。次は頭でも狙ってみるか。



 ***



 仲間の一匹を失ったところで慌てるほどの感情など持っていない。

 連中はカウンターの一撃を警戒こそすれ、動揺し、隙を見せるような愚はしなかった。


 見せたところでユキから攻勢を仕掛けるようなことはそもそもできないのだが、それも些末事。


 しかし、小さな隙を晒してみてももはや飛び込んでくるようなことのなくなった二匹に対し、ユキは罠としてわざと攻勢に出る。


 途方もない速さで飛ぶ一匹に狙いを定め、勢いよく地を蹴ることでとびかかった。

 当然追いつくようなことはない。

 届かぬ刃をわざわざ振ることもない。


 しかし、様子をうかがっていたもう一匹を切ることはできる。


 視線の先を勢いよく、しかし蛇行するように空を駆ける標的をさらに追いかける。


 公園の中央にあった大きな木の幹を足場にして方向転換する。


 今一度体は宙に投げ出された。

 地をけった時よりも更に勢いよく。異空間を抜け出してしまうような愚を犯さないように、やや上空へと体を躍らせる。



 空中という、羽を持たぬ生き物にとってなべて逃げ場のない空間。

 そこに晒された獲物の体へと飛びかかるのは足の欠けた一匹だった。


 ――また、釣れた。


 頭が悪いのか、それとも碌な思考を行える高等な脳を持たないのか。

 もともと狙っていたのは目もくれていなかったもう一匹。

 音だけを頼りに、宙に弧を描くように迫るそれに合わせて体をねじる。

 空中では踏ん張りがきかないが、それでも引き締まった筋肉の動き、そして体内を激流のように流れるエーテルの恩恵だけで体ははじかれたように半回転する。


 右方から迫る怪虫。

 極限にまで引き上げられた動体視力で捉えた高速の飛来物体。

 それに向けて、今度は横に切るのではなく頭を落とすように器用に手首を捻る。

 が、不安定な態勢で放たれた振り下ろしはタイミングがわずかに合わず、首ではなくその胸部と腹部の間、ちょうどエーテル心炉があるはずの部分を切り裂いた。


 薄い羽根、固い外骨格、分厚い筋肉。

 そして強烈に発行するエーテル心炉を、刃が切り裂いた。


 胸と腹が泣き別れになった怪虫は、地に落ちる間もなく空に消えていった。



 残った一匹は最後の隙とばかりに着地の瞬間を狙った。


 一瞬だけ無防備になる瞬間。

 歪な羽音を従えながら急旋回して迫る最後の獲物。再三の失敗からか首を狙うことなく、最短距離、正面からの突撃を敢行する。


 しかし振るわれていない左手も、左方から迫られた時のために既に準備は整っていた。


 半ば反射じみた反応。

 思わずといった調子で振るわれてしまった左手は、逆袈裟気味に、その大きな複眼の間を斜めに切り裂いた。


 まっすぐに、そして猛スピードで飛ぶ勢いは余すことなく利用され、刃は頭部から尾の先端までを一息に走る。

 やや扁平な体を斜めに切り落とし、合間にあった球体器官をも当然のごとく切り裂いた。



 チリと消えていく飛来物体。

 そして灰色の世界。

 残ったのは僅かに濡れた刃だけ。



 ――やっぱり、虫は嫌いだ。


 二刀に付着した残留エーテルを振り払い、ユキは大きくため息を吐いた。


 吐息はやはり、白かった。



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