5話 邂逅(下)
連なる屋上を伝いながら、スーツの女性――矢柳千陰は異次元体のもとへと駆ける。
ほんの一瞬とはいえ、先ほど彼女が異能を解放したからか。異次元体のほうも彼女の位置を把握したようだ。
もうもうと立ち上る土煙。
それをいくつも作りながら、長い体を蛇行させ、しかしまっすぐに彼女のほうへと向かってくる。
少年――ユキのもとを離れてから幾ばくもしないうちに会敵する。
長屋の中央を突き破るようにして現れたそれは周囲の建物をも巻き添えにする。
鉄骨。
鉄筋。
コンクリート。
人類が作り出した高い耐久性を持つはずの建材。それを容易く、まるで端から存在などしないかのように異次元体は破壊する。
目の前に広がる圧倒的な破壊を前にして、一切の恐怖も抱かないわけではない。
彼女が異能に目覚めたのはおよそ五年前。
ちょうど小学校を卒業する少し前のことだった。
彼女はそれがわかると、嬉々として、しかしこっそりと異空間に忍び込んでは異次元体を切り伏せていた。
そうしてこれまで何度も対峙してきた異次元体であったが、これほどの強大さを持ったものは見たことがなかった。
相対するだけで圧倒されるほどのプレッシャー。
虫らしく、感情なんてものは微塵も感じない。
しかし、だからこそその無機的な殺意がより際立つ。怖気すら覚える黒く透き通った眼光。人とは違い、十もある単眼には今や彼女の姿だけが映されている。
相手はまさしく、自身を殺しうる強者だ。
だからと言って引く気もない。
今の彼女は、異能に目覚めた当初と違って己の欲のために戦っているわけではないからだ。
その胸に、人の世の敵を討つという使命を持つ。
そして何より、彼女の生家ゆえ。
こればかりは今も昔も変わらない。
己が剣術に絶対の矜持が。
そして、己が力に絶対の自信があった。
長い胴が乱雑に蠢き、その巨体を動かすだけで周囲は瓦礫の山と化す。
屋上という逃げ場を塞ぐためか、はたまた自身が満足に動ける場を作るためか。
なんにせよその動きは、まるで闘技場でも作るかのようなものだった。
獲物である千陰が逃げる素振りを見せないのを認めると、ムカデは彼女を中心に円を描く。
長い体を這わせて作られた円形の闘技場は『今度は逃がさない』という絶対の意思か。
段々と縮んでいく輪の中。
無数の足が波打つ。
鞭のようにしなり、地を叩き、アスファルトを飛礫をまき散らしながら捲りあげる。
濃紺と朱色の毒々しいロープで作られたリングが彼女を囲う。
これだけならば、がら空きの上空を飛んで抜け出すこともできた。
しかし千陰はそんな中、腰に帯びた大太刀の柄へと手をかける。
「こいつを持ってきていたのは、正解だったな」
嘆息するように独り言ちる彼女は、泰然とした動作で刀を抜く。
腕よりも長い刃。しかし鞘に半ばほどで切れ込みが走り、柄を握った腕を淀みなく伸ばせばその全体を惜しみなく現す。
刃長五尺に迫ろうかというほどの大太刀は、かの柳生の大太刀を模して造られた一振り。
銘は蒼雷渡。
現代において最高峰の刀匠が彼女のためにと打ったそれ。
模倣元ですら常人では構えることもできない超重量級だったが、エーテルによる摩耗を考慮して更に密に打ち込まれ、もはや異能者にしか持つことを許されない。
滑らかに伸びる大切先に、稲光のように荒々しい尖り刃紋。
一点の曇りもない、白銀に煌めくそれは徐々に青光りを迸らせ、長い長い刀身を覆っていく。
風も吹かないのに、長い髪が竜の尾のようにゆらゆらと宙を揺蕩う。
エーテルの高まりにつられ、渦を巻くだけだった大ムカデがとうとうその頭を彼女へ向けた。
大顎をこれでもかと怒らせ、その矮躯を噛み砕かんとばかりにそれは迫る。
百の足が地を蹴る音は一層激しさを増す。
爆撃のような轟音と衝撃を全身に浴びながらも、彼女は顔色一つ変えない。
驕りも恐怖も集中の中へと消え去った。
今から行うのは切り合いなどでは決してない。
技も何もない武骨な突進。受けることも叶わぬ人外による力任せの懸かりに、彼女が修めてきた剣術がどれほど通用しようか。
しかし、ある意味においてその力一辺倒の荒業は合わせるのにとても容易い。
そして、結局のところ求められるのは自らの力を――常人とは隔絶された力を――余すことなくふるうことだけ。
対人だろうと、対人外だろうと、何の違いもなかった。
中段に構えていた大太刀。
右足を引くと同時にそれを右脇に。
切っ先は下。
起点は右足。
全身はバネのようにしなやかに。
腰を深く沈めたさまは、脇構えと居合の構えの中間のように見える。
エーテルの高まりが最高潮に達する。
刀身を覆う青い光が火花のように跳ねた。
それが合図だった。
五手ほど先に迫る鉄兜。
千陰はそれに向け勢いよく踏み込むと、裂帛の気合とともに逆袈裟に切りかかった。
雷光をこれでもかと蓄えた眩い一閃。
岩をも断ち切るその一撃はしかし切っ先すらも届かない、ただの空振りだった。
否、振り切った刀身、そこから細く、しかし青く煌めく電光が放たれ、どす黒い赤兜を薄っすらと焦がす。
大ムカデはそれがどうしたとひるみもしない。鉄砲水がごとき勢いは健在だった。
しかし、それは彼女も同じこと。
大きく踏み込んだ右足が地を踏む前。
勢いを決して衰えさせることなく、返す刀で今度は大太刀を袈裟に払った。
合わせて尚超速の御業。
切っ先が地を抉るかと思われるほどの激しい剣閃。
灰色のアスファルトには一条の亀裂が走る。
対して空を走るは二度目の電光。
先駆者を追うように眩く駆けた。
電光と電光、迸る条線でそれらはとうとう結ばれた。
瞬間、灰の世界が眩い光に照らされる。
視界がすべて白光に埋め尽くされ、常人であれば目を開けることも叶わぬ世界にすり替わる。
両者の影だけがただ黒い。
踏み込んだ足が地を滑る。
遅れて、空を轟かせる雷鳴が、大気を震わせた。
鳴くことなど決してないはずの大ムカデ、その姿を持つ異次元体。
しかしそれはまさに断末魔のように軋音を上げていた。
甲殻と甲殻が擦れる音。軋む音。
ギチギチギイギイと鳴るそれは、自らの身を削る音だ。
もはや目の前にあったはずの獲物のことなど忘れたかのように、狂ったようにそれは暴れまわる。
残心をとる千陰の遥か左方をそれは駆け抜けていった。
切り口すら残さなかった硬い甲殻。
しかし毒々しい赤色をした兜は今や真っ黒に焦げ、長い触覚は溶け落ちていた。
膨大な熱量に焼かれた直撃地点はその外殻を溶解させている。
兜に守られていた柔らかな脳は電光にこれでもかというほどに焼かれ、もはや形すら残さない。
ムカデはなおも、滅茶苦茶に走り回る。
異次元体は外見だけでなく中身までも再現しているのか、虫が複数持つ神経節がいまだ巨体を動かしていた。
この分では倒壊の音はしばらく続くだろう。
だが、あれはもう死んだ。
千陰は駆けずるムカデへと振り返ることもなく、大太刀を鞘へと納める。
血脂もつかない剣閃なれば、懐紙もまた必要なかった。
「やはりムカデは、頭を潰すに限るな」
集中ゆえ引き締まっていた顔も、いまでは少しばかり口元を綻ばせている。
自信に満ちた表情へと戻り、彼女はゆっくりと歩きだす。
灰色だった世界は、徐々に色を取り戻していく。
いつのまにか、それこそユキと異次元体が対峙してからかれこれ10分以上は鳴り響いていた轟音も、ようやく静まっていた。
振り向かずとも、あの巨体も消え始めていることがわかる。
存在感はとっくの昔に希薄になっていた。
「しかし、ギャラリーがいると、やっぱり燃えるな」
フフンと得意げに鼻を鳴らす彼女の視線は、遠くの屋上からこちらを眺める、一人の少年のほうへと向けられていた。
***
冷たい秋風が屋上に吹き付ける。
空は澄んだ黒色。
やや傾いた弦月が夜を照らす。
空が白み始めるまで、まだ時間がかかりそうだった。
瓦礫の山は既に消え、小さな工場の屋上からは何事もなかったかのような街の景色が広がっている。
更地になりかけていた駅周辺はいまやすっかり元通りだ。
室外機やらパイプやらでごちゃごちゃした屋上。
そんな中ユキと千陰は並ぶようにしてダクトに腰かけていた。
「ずるいだろ、あれ」
つんと口を尖らせる。
ユキが他人の異能を見たことは今回が初めてではない。横取り狙いの時、横取りを狙われていた時、あるいはただのバトルマニアとまみえた時。
四年も五年も狩りをしていれば、それなりの数を見ることになる。その中でも彼女の力は飛びぬけて強力だった。
「何、お前のも同じようなものだろう。切り結んでしまった時点でほぼ負けが決まってしまう」
そうはいっても威力も派手さも、何より使い勝手さで負けていた。
おかげでユキは不満げに口を尖らせたままだ。
「まあ、あれとは相性が悪かったみたいだがな」
とどめにそんなことを言われてしまえば、とうとう敗北感にそっぽを向いてしまう。
大ムカデの異次元体。
同じように異能を用いて頭蓋を突けば、ユキでも倒せないことはなかった。
薄くでも切ってしまえば、抵抗力ゆえ頭部全体へ広がるようなことはなかっただろうが、少なくとも腐食は脳にまで広がっていたはず。
しかし接触しなければ攻撃できないユキでは、正面から挑めば相打ちがいいところ。
唯一勝ち目があったとすれば、うまく頭部に飛び乗って一撃で離脱することくらいか。
迎撃手段があることを知らなかったので仕方ないといえば仕方ないが、様子見で尻側を狙ったのは悪手だった。
先の様子を見ればわかることだがムカデはしぶとい。
それに、ユキの異能はただでさえ腐食が広がるまでにラグがある。
後のことを考えない異次元体のような化け物相手と接近戦を行うならば、確実な離脱方法がなければいけない。
そういう意味で考えると、ユキの異能と短刀という得物の組み合わせはあまりうまくない。
「お前も私みたいに――いや、槍とか弓とかで遠くから戦えばどうだ? 威力を気にしなくていいのだから無駄に近づく必要もあるまい」
そのことに気づいていた千陰が一つアドバイスのようなものを口にする。
その目はユキの小さな手に握られた、かろうじてかつてはナイフか何かだっただろうと想像がつく金属片に注がれていた。
当の本人もそこに思い至らないないわけではない。なにせ自身の力のことなのだ。得手不得手は誰よりもわかっている。
だからこそそれができないということもわかっていた。
「そんなものどうやって持ち歩けっていうんだよ。目立ってしょうがない」
これはこれで事実だ。
だが本当の理由でもない。
実際のところは、弓矢などはエーテルの供給が切れることで意味をなさない。
槍のような長物はエーテルの経路が長すぎてすぐに武器自体が腐食してしまい現実的ではない。
このように、己の異能と適さなかったから使っていないだけ。
しかし、それは自身の異能の弱点とも言える部分。明かすようなことはしない。
「ああ、まあそれもそうか」
自身の刀を弄びながら、彼女は少しばかり気まずそうに答えた。
疑われるようなことはなかった。
内心あっさり信じたな、とユキは驚いていた。自身の嘘が通用したのがおよそ初めてのことだったからだ。
彼女自身自覚があったためだろうと勝手に納得をしたが。
身の丈ほどの刀を持ち歩いている彼女はかなり異常な部類だ。
身を隠さねばならない異能者たちにあるまじき恰好。
たとえ、人々の寝静まった深夜であっても。
もっとも自身の場合はもう一つの欠点のせいで得物にこだわれないというのもあったのだが――
「――って、なんで俺の異能のこと知ってんだよ!」
と、ここに至って、ユキはようやく自身の力が相手に知られているということに気がづいた。
彼女とは当然初対面。
そして異能を使った瞬間も、おそらくは見られてはいないはずだった。
「ん、まあ……気にするな」
しかし、抗議の視線はまたもどこ吹く風と流される。どうも彼女はユキの預かり知らぬところで己の情報を得たらしかった。
じっとりとした視線が千陰の横顔に注がれる。
よほど肝が据わっているのか、それとも注目されることに慣れているのか。
得意げな顔を微動だにもしない。
助けてもらった恩はある。
しかしどうにも信用ならない部分があるというか、得体がしれないというか。懐疑的な思考には拍車がかかるばかりであった。
――そもそもこいつはいつまでここにいるつもりだ。
ユキからすれば、用が済んだならばさっさと帰ってほしいところであった。
自身は負傷のせいでまだ動けない。無理をすればまた別だが、余計な体力の消耗はケガも長引く。得策ではない。
なにせ、今でさえかなり限界に近いのだから。
「というか、とるものとったなら、早く帰れよ」
「ん?」
さっさと追い払いたいがための言葉だったが、何のことかと、首をかしげる彼女と目が合った。
「……そういえば、お前エーテル心炉はどうしたんだ」
その様子に、ユキの頭を少しばかり嫌な予感がよぎった。
遠目ではあったが、彼女が心炉を摘出しているところを見た覚えがなかった。それを思い出し、ユキはまさかと思いながらも、そっと彼女の顔色を伺う。
しかし、
「ん? ああ、うん」
どうにも、歯切れが悪い。
「大物だぞ? あれ一体でひと月ふた月は、暮らせるような……武器だってストックできるようなやつだぞ?」
衣類や食料なら金のよろず屋で安く提供してもらえるが、売買にいろいろと制約がかかる武器に限ってはそうはいかない。
特にユキの異能はすぐ武器をダメにしてしまう。安物のナイフや普通の包丁などでは最悪一戦も持たないので、それなりの強度をもったものを選ばないといけない。
ある程度の質を持っていて、なおかつ高すぎないもの。単純なようで、なかなかに制約が大きい。
彼の異能にとっての何よりの弱点は実のところ出費だった。
もはや縋るかのような目つき――現にダクトの上に突いていた千陰の左手、その裾はキュッと握られている――の彼に対して、彼女はどうにも言いづらそうに口をもごもごとさせる。
今度は彼女がそっぽを向く番だった。
「いや、な。」
「……」
「……私の異能だとどうにも、こう、心炉を破壊してしまうことが多くて、な」
無情な回答が静寂の中で紡がれた。
それはあまりにも残酷な言葉だ。
気まずそうに頬を描く姿など、もはや目に入ることもない。
ただただ告げられた言葉に、ユキは意識が遠のくのを感じた。
――もったいない。
薄れ行く意識の中で、最後に思ったのはただそれだけだった。
***
裾を掴まれていた力が弱くなるのを感じた。
恐る恐るといった具合に千陰が振り向くと、ちょうど彼が倒れるところだった。
「っと」
慌てて体を支えるも、彼の首はかくんと垂れる。まるで意識がないように。
「……おい?」
左手で抱えながら、呼吸と脈を計る。
死んでいるようではなかったが、少しばかりペースが速い。
今までうまく隠していたのか、ようやく彼が万全でないことに気づいた。
万全ではない――足のケガから考えれば当然のことだが、そちらは異能者にとって正直そこまでの重傷ではない。戦闘中ではないという但し書きこそ付くが。
手のひらから伝わってくるのは、異常に火照った体の熱。まさか風邪というわけでもないだろう。
「……毒か?」
痛々しい脚へと目をやる。
再生力が高い異能者だ、少し休めば傷も癒え始める。しかし、その兆候がまったく見て取れなかった。
皮膚は剥け、筋繊維にもひどい損傷が伺える。
何らかの、それこそ毒のようなものに治癒の邪魔をされているかもしれなかった。
なにせ相手は一種の毒虫だったのだから。
エーテル中毒というものも考えられた。抵抗力を上回るほどのエーテル――特に異空間に満ちる毒香にさらされ続けると、異能者であっても害されることがある。
しかしその場合は思考能力にも難が出るのが普通だった。
これまでのやりとりからそれはないと彼女は断じた。
死に至る、ということはないだろう。
この程度ならば休んでいればいずれは治る。
しかし、黙ってみているというのもきまりが悪い。彼女もそこまで薄情ではない。
千陰はポケットにしまい込んでいたインカムのようなものを取り出す。それを右耳に取り付け、収納されていたマイクを伸ばす。
そして側面の小さなボタンを押した。赤いランプが点灯する。
「ああ、私だ――ああ、もう終わったよ。迎えはまだか?」
イヤホンの向こうでは、誰かが何事かを返している。
耳が痛いとばかりに彼女は顔をしかめるも、それも一瞬のこと。無理矢理に遮って話題を逸らす。
「――それは、今はいいんだ。怪我人を一人保護した――ああ、うん。急いでくれるとありがたい」
すぐさま返ってきた返答に満足し、彼女は通信を切る。お小言がうやむやになりそうな雰囲気に、彼女は少しばかり少年に感謝する。
支えていた体を横に倒し、自身の膝を枕代わりにしてやる。
見れば難しそうな顔をしている。
眉間にしわが寄って、痛いというよりも苦しいという表情。
なんとなくそれが、体の不調とは関係ないように思えた。
「――そんなにショックだったか?」
周りからもさんざん言われていたことだったが、これからはもう少し慎重に戦おうと心に決めた千陰だった。
とりあえず、〝同僚になるかもしれない〟彼の前では不用意にエーテル心炉を破壊してしまうことのないように。
月夜のもと、小さな誓いが建てられた。