4話 邂逅(中)
ムカデ。
節足動物に類される生物で、その中でも多足類と呼ばれる多くの体節、歩肢を持つ生き物。
生物はその長い進化の歴史において、いらないものを排除していくことが多い。
大元が同じである昆虫と比較するとわかりやすいだろう。
昆虫は六脚類という括りにも入る。
進化の過程で多数あった脚を3対にまでまとめたのだ。
それは不要であったから。
生活形態に適さなかったから。
ならばムカデのような多足類は昆虫に比べて下等な生物なのか?
進化の波に取り残された、時代遅れの生物だというのか?
否。
そもそも彼らは、進化の必要が無かったのだ。
***
激しい音を立てて、その巨体が地面に叩き付けられる。
金網を、街路樹を、駅舎を巻き込んでそれは侵入者に向けてのしかかりを仕掛けた。
地震もかくやというほどの揺れに包まれ、白煙が巻き上がる。
崩落の音。
駅舎の右端が巻き込まれ、無残にも削られていく。壁は瓦礫となって崩れ、地にぶつかりまた大きな音と揺れをまき散らす。
これで勝負が決まったわけでは、当然ない。
大振りすぎるその攻撃は前兆が恐ろしくわかりやすい。
ボディプレスをしかけようとしたことに気づくや否や、ユキは全力でその場から退避していた。
いかにムカデのプレスの有効範囲が広かったと言え、地の一蹴りで数メートルから十数メートルまでを軽々飛び越える異能者にとって回避は容易いことだった。
しかし、先の不定形との戦闘とは違い、回避の際にカウンターで切りつけるなんて芸当は当然できなかった。
回避は確かに容易い。しかし回避に全力を注がなければあれは避けれない。
潰されずとも、鋭い刃のような足に切断される。
潰されずとも、轟音を響かせるほどの圧に吹き飛ばされる。
潰されずとも、抉られたアスファルト、そして飛び散る大きな飛礫の嵐に打ち付けられる。
巨体はただそれだけでも恐ろしい武器となりえるのだ。
獲物を仕留められなかったことを悟ると、大ムカデは徐に頭部を動かす。
多足が地を這う不気味な連続音を耳にしながら、白煙から赤黒い頭が現れる。
別の生物、例えばクワガタのそれのように発達した大顎をカチカチと動かしながら、頭部がゆっくりと左右に動く。
長い触覚が揺らされ、すぐにそれが自身を探しているのだとユキは気づいた。
目はそれほどいいわけではないらしい。
これが突破口になればいいが。彼はそう頭を働かせるが、既に撤退の二文字が思考には浮かび始めていた。
相手がさすがにでかすぎる。
文字通り手数も多く、気軽にに近づくこともできない。
マチェットという短い得物では、いかに腐食を付与させる異能を持っていても不利であることは変わらない。
何せ、体を少し錆が覆ったところで、あれは絶対に止まらない。
しかし、あれだけ大きく、そして完全に一つの生物として洗練された異次元体だ、取れるエーテル心炉はさぞ質が高いことだろう。
濃密な毒香がその証拠でもある。
最近は少しばかり実入りが悪かった分、目の前の相手はかなり魅力的に見えた。
ならば、やるだけやる。
それが今回の方針だ。
***
ドドドド、と足の一突きごとにアスファルトに穴をあけるムカデの突進。
蛇行しながら迫るそれを、ユキは飛び跳ねるように後退して距離をとる。
お互い遠距離攻撃を持たなければ、互いの息が交わるほどの距離でしか攻撃へと移れない。
いつまでも逃げ回っていては埒が明かないと頭ではわかっていながらも、ユキはどうにも攻めあぐねていた。
ユキが右に動けば大ムカデの頭部も追随する。左に動いても、同じ。
ムカデの進行方向はロックオンした対象に固定されている。これでは回り込むのが難しい。
正面からぶつかり、切りつけ、横に抜けるとする。
しかしそこにはトラクターの爪を想起させるような鋭い刃が。
また、一息に腹――体節の半ばまで飛び込んだとする。
そのあとは抜け出せるかのだろうか。
予想されるのは蛇がとぐろを巻くような姿。
全体を晒したあの大ムカデは、それを簡単になせるほどに大きいことがわかっていた。
もしあの体に囲まれてしまったら。
そうしたら、潰されるというよりやはり数多の刃状の足に切り刻まれてバラバラになってしまうだろう。
足を全部錆付かせて落としてしまおうにも、あいにく錆が広まるまでタイムラグがある。何本か切りつけている間に、こちらがバラバラになっているだろう。
幸いムカデは目が悪いようだった。
触覚の性能がどれほどかはわからないが、一度視線を切ってしまえば奇襲も可能だろう。
となれば、どこかに身を隠す必要がある。
異空間の外は論外だ。
そもそも外から中の様子が伺えないことはわかっているが、中からも同じなのかはわからない。
入った瞬間大顎が迫っている、なんてことになったら目も当てられない。
ならば、建物の陰などが妥当だろう。
しかしここは広いロータリー。そしてあれは容易く建物を粉砕するだけの力がある。
一応考え付くのは、近くの建物の天井に飛び移る。
視界が切れたのなら、そのままムカデに向かって飛びかかり、体のどこかでも切りつけて、離脱する。
ヒットアンドアウェイ戦法だ。
上からの攻撃、例えばその背に飛び移りでもすればあれも少しは対応に遅れることだろう。
ほかにもよりよい策を、と頭を働かせてみるも、結局思いつくのはこれくらいだった。
強いて言うなら、できるだけ頭から離れた部分を狙えば気づかれる可能性も少ないだろう、という憶測。
指針が決まればあとは行動するだけ。
ムカデは今もアスファルトの地を耕し、周囲の建物を倒壊させながら進んでいる。
放っておくとそのうち平坦な空間ができあがってしまう。
バックステップでは速さも出ない。
ムカデが自身に追い付けないことを確かめ、そして背を向ける。
背に受ける圧が一瞬増したような気もしたが、この際それは無視して一息に地を蹴った。
一瞬にして先と倍近い距離が離れた。
しかしこの程度ではムカデは対象を見失わない。
ユキはさらに二歩三歩と飛ぶように跳ね、そして壁の取っ掛かりを足場に、正面に建つ三階建てのテナントビルの屋上へと飛び乗った。
少しの間を置き、激しい衝撃が轟音を伴って世界を揺らす。
間違いなくムカデがビルに突っ込んだ音だった。
しかし既にユキは別の建物へと飛び移っている。
ムカデはビルに衝突した程度では止まることなく突進を続ける。隣接した建物を轟音とともに突き破りながら、それは獲物の姿を探す。
ロータリーを抜け出て、駅正面方向へとそれは駆け抜けていった。
道路を挟むように立っていた低層ビル群は瞬く間に瓦礫へと姿を変えていく。
おそらく、見失っている。
別の建物、既に更地となっているような駅周辺からやや離れ、右方に抜けやや日当たりの悪い路地。
他より頭一つ高い建物で、その天辺、大きく張り出した看板の上に足を置く。そして自身とは反対方向に進むそれを見つめていた。
まっすぐ進むのではなく、時折右左折しながらジグザグに進む。建物がどんどんと倒壊していく。
やがて、それは異空間の端、色の境界線までたどり着くと折り返すように戻ってきた。
向きは変われど、こちらには気づいていないようだ。
好機だろう。
ムカデの進行方向に合わせて移動する。
ちょうどいいだろうと選んだ足場で足を止める。現在の彼我の距離はおよそ二〇メートルほど。
もう少し引き付けたところで、腹、あるいは尾部のほうへと飛び降りるのがいいだろう。
十秒ほどじっと待つ。
ムカデは蛇行を続けながら、しかしおおまかな方向は変えずに突進を続ける。
そして、ムカデが再び進行方向を変えようとしたところで、ユキは飛び降りた。
落下の勢いに逆らわず、ムカデの黒く輝く甲殻へと降り立った。位置は体節の半ばから尾部寄り。曳航肢と呼ばれる二本の鞭のようなものが振り回されているのが遠めに見える。
激しく揺れる体節上。振り落とされないように甲殻に手を添えて、マチェットを逆手に持ちながら振りかぶる。
刃は赤錆色に染まっていた。
――ふと、甲殻にぽつぽつと小さな穴が無数に開いていることに気づいた。
しかし既に振り下ろされた腕は勢いづいている。今更止まることなどない。
そして、それは思い切り甲殻に突き立てられた。
固い感触。
刃が折れるかとも思えるほどの抵抗ののち、それは深くまで刺さる。
ぶちゅりと何かが噴き出るのを感じ、じゅくじゅくと嫌な音を立てていた。
しかし刃は確実に突き刺さり、刃を伝ってムカデの体内に腐食の性質を伴ったエーテルが流れ込む。
濃紺の甲殻に瞬く間にして錆が広がっていく。
しかし、それは不定形のそれよりも広がりは少ない。
単純に体が大きいこと、そしてムカデの持つエーテルの抵抗力が極めて強いゆえだった。
苦しいのか、それとも単にユキが背に飛び乗ったことに気づいただけか、大きく体を揺らし、そして下手人を捕えるために上体でとぐろを巻こうとする。
囲まれてはたまらないと、ユキはすぐに離脱のために刃を抜く。
一瞬。ほんの一瞬それを見て思考がフリーズした。
灰色に戻っているはずのマチェットの刃。
それがどす黒く変化し、刃はまるで溶け落ちたかのようにボロボロになっている。
ユキをフリーズから揺り起こしたのは、足元から急激に湧き上がる違和感だった。
何かの高まりを感じ、それを本能的に危険だと判断する。
思考が正常に働くその前に、ユキは急いでムカデの背から飛びのいた。
しかし、それは一瞬遅かった。
ちょうど、フリーズしてしまった一瞬のラグ。
甲殻に点々と浮かぶ、あるはずのない毛穴のようなそれ。
内部で一瞬小さく、そして不可思議な音を立てて、それは噴射された。
霧吹きのように勢いよく噴き出す、微細な水滴、その集まり。
灰色の世界を白く染めるその霧は、皮肉にも害虫退治用の噴霧剤のようだった。
当然、ただの霧などでは決してない。
酸っぱいようなきつい臭いが当たりを急激に満たす。それは少しの間とはいえ、あれほど濃密だった甘い毒香を凌ぐほどだ。
一歩遅く飛びのいたユキは、足に強烈な熱さと、次いで痛みが走るのを覚えた。
呻くこともできない、めった刺しにされるような、あるいは熱した鉄を肌に直接押し付けられているような、頭の狂いそうになるほどの刺激。
当然、バランスなんてとれない。
ムカデの尻尾側、耕された後の刺々しい地面を転がるようにして着地したユキは、大きな瓦礫にぶつかることでようやく止まった。
しかし、止まった後もうまく立ち上がることもできない。
そもそも足がちゃんとついているかも疑わしかった。
痛みに震える体を無理やり動かして足を見る。そこにはちゃんと足はあった。
しかし、スポーツシューズ、靴下、そしてズボンまでもがひざ下までなくなり、露出した素足はどろどろに溶け落ちていた。
血にまみれたか、真っ赤に染まったむき出しの筋肉が露わになっている。
足先に行くにつれて症状は酷く、膝あたりは皮膚に大きな水ぶくれができている程度だった。
エーテルに対する抵抗力を持つ異能者でなければ、骨すらも溶け落ちていたところだろう。
大ムカデの体から噴き出したのは、エーテル由来の酸の霧。
それも、耐酸性に優れるステンレス鋼の刃を容易に溶かすほどのもの。
一瞬遅れただけ。
ほんの少しの間その霧に曝露されただけで、頑丈であるはずの体がこれほどまでに深刻なダメージを受けていた。
激しい痛みに、荒い吐息が何度も漏れる。
急激な気分の悪さを覚え、吐き気すらもこみ上げる。ぶちまけるほどの中身も元気もなければ、それは胸に渦巻く嘔吐感と喉を焼く痛みだけにとどまったが。
血の気が引いてしまったのか、意識も若干朦朧とする。心臓は早鐘を打ち、どくどくと排出される血流に合わせ、目の奥がずんずんと圧迫されるように痛む。
何より足が痛い。
焼けるように痛い。
冷たい外気にさらされながらもなお焼けた鉄のように熱い。
それでも、立ち上がらなければいけなかった。
標的を見失っていたムカデの触覚がゆらゆらと蠢く。
そして、ゆっくりと、まるで急ぐ必要などもはやないのだとばかりにゆっくりと、それは大きな頭を振り向かせた。
もはや戦うことは不可能だろう。
今なおぐわんぐわんと揺さぶられるように痛む頭でも、それくらいは理解していた。
マチェットもすでに刃というよりも鉄芯のように細くなっている。
また、ぶつけたくらいでねじ曲がってしまうほどに脆くなっていた。
全体の向きを変え、ダララララと連続する足音を伴ってムカデはゆっくりと歩を進める。
体の一節に大きな穴が開いている。
周囲は錆色に染まっている。
ユキの腐食によって空いた穴だった。
しかし、ムカデはそれがどうしたとばかりに平然と動く。
怒りに燃えるでもない、なんの感情も見えないいくつもの単眼が、しっかりとこちらを捉えている。
間違いない。
このままとどめを刺すつもりだ。
狩りは、異能者が勝つとは限らない。
時には異次元体が勝ち、異能者は彼らの餌となる。そして、上質なエーテルを補給することで彼らはより強くなる。
捕食の瞬間を見たことがあるわけではない。しかし、ユキはそれを知識として知っていた。
もしかしたらこの大ムカデも、既に何人か食べた後なのかもしれない。
だとしたら迷惑な話だ。
力をつける前なら倒せたかもしれないのに。
近づくムカデは顎肢を愉快気に鳴らす。
その大顎で噛み千切るのか、それとも毒でじわじわと殺すのか。
結局行きつくところは胃袋と、変わりないのだが。
――だが、食われてやる気などない。
幾分痛みの引いた足、単に麻痺してしまっただけかもしれないが、震える足で瓦礫の上に立つ。
手をつき、四つん這いになりながら。
膝立ちと段階を経て、ゆっくりと。
体重のかかった膝、大きな水ぶくれが破裂して、血とともにうっすらと黄色がかった滲出液が地を濡らす。
しかし、すぐにそれらも色味を失った。
地面は突き立ったコンクリだ。
皮膚にすら守られていない足で立ち上がれば、足裏はズタズタに肉が裂ける。
治まっていた痛みも、またぶり返す。
しかし、今更それがどうしたというのだ。
動かなければ食われるだけ。
こんなところで死ぬ気はない。
足だって切断でもされなければいつかは治る。頑丈というのはその自己再生能力も含まれているのだ。
今を生き延びる、それだけを目標にユキは立ち上がった。
当然フラフラだ。
目の前の異次元体から逃げおおせるためには何度も走らなければならない。痛む足に力を込めなければならない。
どれだけ持つかはわからない。
立つことで圧がかかり、血も止め処なく溢れる。
酸だけでなく毒も持っていたのか、今更になって体中を何かひりひりとしたものが駆け巡る。
それでもやらなければならない。
迫るムカデから逃げるように、足に力を込め、後ろに跳んだ。
――そして、誰かがその小さな体を受け止めた。
***
「苦戦しているようだな。手を貸そうか」
「――」
耳元で囁かれるのはまだ若い女性の声だった。大人びているとはいえ、少女といってもいいだろう。
突然のことに驚き振り向くと、そこにいたのはやはり若い女性。
濡れ羽色の長い髪を高い位置で一つにくくり、まっすぐな横髪が輪郭に沿うように肩まで垂らされる。後ろで括っているからか、耳元とうなじで白い肌が覗いていた。
やや青みがかった黒い目、濃紺のそれは夜空を映すかのように輝いている。
同じ濃紺のはずの、迫る異形の甲殻とは比べ物にならないほどに美しい。
「ん、お前は」
淡く輝く瞳がユキの顔を覗く。
それにユキは少しばかり怪訝な表情を浮かべる。
「なるほど、この辺りが縄張りだったか」
勝手に何かを納得した彼女は、抗議の視線などどこ吹く風といった様子でムカデへと向き直った。
ボディラインが強調されるかのような、少しタイトなパンツスーツ姿の女性は、ユキの小さい体をを横抱きにするようにして地に降り立つ。
タン、とスーツにあまり合わないショートブーツが地を踏んだ。
「む」
ゆっくりだったムカデの動きが、闖入者の出現ににわかに勢いづく。
無数の足は勢いよく波立ち、獲物をまとめて貪らんと、大顎も小顎をも大きく開く。
邪魔をされたと怒気を振りまくかの如きプレッシャー。地を鳴らしながら迫る大怪獣。
それに対し、彼女は両手がふさがっていては対処もできない。
腰に吊るした二振りの日本刀へと手を伸ばすこともできず、今はとにかく退避するしかなかった。
長い髪をはためかせながら、何度も地を蹴り距離を取ろうとする。一蹴りで軽く数メートルの跳躍。間違いなくこの女性も異能者だった。
しかし、ムカデはしつこく追いかけてくる。
狙いを定めて離さず、器用にその長い体を動かし追随する。
子供とはいえ、人ひとり抱えていることもあるだろう。なかなか振り切れない。
「――あれ、そんなに、目よくない」
焦りを見せることもないが、しかし活路も見いだせている風には思えない彼女に対して、ユキは、少しばかり張りのない声でそう告げる。
常なら助言してやるような性質ではないのだが、今は助けられている側だ。協力するのもやぶさかではなかった。
何より抱えられた状態だ。彼女がムカデに追いつかれるかで負けてしまえば、そのまま自分の死にもつながってしまう。
ユキのほうから何か言われるとは考えていなかったのか、少しばかり丸く見開かれた濃紺の瞳が、じっと彼の顔を覗き込んだ。
「上に登れば、多分見失う」
それに耐えきれずにそっと視線を逸らす。
「そうか」
短くそう答え、くるりと反転すると、彼女は飛び出た大きな瓦礫や、倒れずに残っていた街灯などを頼りに上を目指す。
駅正面方向はすでに廃墟の山。更地に近い。
さんざ暴れまわったおかげで、ロータリー周辺も同様だ。
だから彼女は駅後方を目指した。
いつの間にか半壊状態になっていた駅舎をも足場にして彼女は跳ぶ。
駅裏は駅前に比べ少しばかり寂しい。
建物も背の高いものは少なく、華々しいものよりどちらかというと古い個人店が多かった。
しかし、密集具合でいえばこちらのほうが上だ。
追跡者が駅舎を完全に崩壊させる轟音を背に受けながら、彼女は手近な建物へと飛び移った。
ムカデもそれに追随し、瓦礫の山を新たに作る。
しかし、そこにはすでに二人の姿はなかった。
「しかしすごい突破力と硬さだな」
小さな工場のような建物。その屋上にて、一息ついたといった具合の女性は抱えていた少年を下ろす。
ケガした足を地につかせるわけにも行かず、屋上をぐねぐねと走る排気ダクトの上に座らせた。
「――そ、その」
「ん?」
声に反応して彼女が振り向くと、顔を合わせるのは、といった風にそっぽを向いた少年の姿が目に映る。
「……助かった」
そして、彼はそう小さく呟いた。
断続的に鳴り響く崩落音に、ともすれば掻き消えてしまいそうなものだったが、異能者の優れた聴覚では聞き逃すことはない。
「何、気にするな。これも仕事だ」
若干口角をつり上げるも、気恥ずかしさにそっぽを向いたユキの目にそれは映らない。
彼が誰かに感謝をするというのはなかなか久しぶりのことだった。そもそも、異能者となってから関わりをもった人間などそうはいない。深く関わったレリアに対してでも、すでにからかわれることのほうが増えた今となっては素直に感謝するようなこともない。
「さて、あいつに私の刃が届くかどうか」
柄を撫でながら、彼女は今なお白煙を上げ続ける方向を眺める。解体用の重機以上に働くそれは既に駅裏の三分の一ほどを更地にしている。
恐ろしいのはその勢いが一向に衰えないことだ。
殺傷能力と硬さに加え、耐久力まで高いとあってはそう倒せるものではない。
「あんまり……近づくと、こうなるから……ほかの誰か、譲ったほうがいいかもよ」
腰裏に吊るされた刀――身の丈ほどもありそうな大太刀と、それよりも一回り小さい、それでも腰の高さまでありそうな打刀――を見ながらそうユキが呟く。
彼と同じく、近接でしか異能を発揮できないと思ったからだ。
その言葉を受けて、彼女は振り返る。
「何、心配いらない」
すらりと太刀を鞘から抜き、その白刃を煌めかせる。
刀身は淡く青色を帯びたかと思うと、それはパチリと弾けさせた。
灰色の世界で青い稲妻が輝く。
指向性を持たない光が跳ね、少しばかり地を焦がした。
「……なんだよ、自信満々か」
「まあな」
白刃を鞘に納めると、長い髪を翻し彼女はユキへと背を向けた。
「それじゃ、少しばかりあれを狩ってくる。そこで大人しくしてろよ?」
言うや否や、彼女は屋上から飛び降りた。
近くの建物の屋根に飛び移り、そのまま白煙のほうに駆けていく。
その様を、ユキは焼けた足で立ち、屋上の縁にまで歩み寄って眺めた。