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腐食の刃  作者: 南天
1章
3/18

3話 邂逅(上)



 いきなり『仲間になれ』と言われたところで、『はい、なります』なんてことになるわけがない。


 一瞬呆けてしまったが、ユキが男をにらむ目はすぐにまた険しいものになる。


「仲間? 徒党を組んで異次元体でも狩ろうっての?」

「まあ、そんなところだな」

 彼は大きく広げていた腕を組ませて、力強く頷く。

「あいにく、一人で狩りもできない弱小じゃないんでね。他を当たりなよ。俺はわざわざ分け前を恵んでやるほどお人よしじゃないよ」

「ああ、その点なら心配はいらない」

 顔を明るくしてそう言う男に、訝しむような視線を向ける。先ほどから眉間にしわが寄りっぱなしだ。


「単純な話さ。我々は何もごろつき連中なわけじゃない。社会的にも認められた、立派な組織なのさ」

「……」

 朗々と語るその顔には曇り一つない。

 異能者の組織でありながら、社会的に認められている。嘘にしか聞こえない。あるいはお人よしそうな男のことだ。彼自身騙されているのか。

「つい最近できたばかりの組織でね、まだ人員は十分じゃないんだけど、それでも国のお墨付きのお仕事さ。独立行政法人ってやつだね」


 〝国のお墨付き〟。その言葉に反応して、ユキの眉はピクリと跳ね上がった。


「だから、君がもし我々の仲間になってくれるというのなら、一職員として雇うことができる。つまり毎月のお給料もでるのさ、当然だけどね。まあ、労働基準法ってのに引っかかるんだけど……そこは、特例で。どうだい、悪い話じゃあないだろう」

 組んでいた腕をほどき、右手が差し出される。

 ユキのまだ短い腕でも、同じように差し出すだけで届くような距離。


 ――それを素直に握ることなんて、ありえない。


「やっぱり、他を当たって。興味ない」

 冷えた声でそう告げる。

 底冷えするような拒絶の言葉にも、男は動揺することもない。

 むしろ、あらかじめわかっていた風ですらあった。


「どうしてだい?」

 とぼけたように、しかし聞き逃すまいと視線をそらさずまっすぐに向けられた顔。それが無性にいらつきを覚えさせる。

「当然だろ、俺たちを、異能者を率先して排除してきたのは間違いなく国だ。そいつらが作った所なんて、入りたいと思うわけがない」

 イラつきを隠すことなく、吐き捨てるように思いの丈をぶつける。


 異能者。

 不運にも異能に目覚めてしまったものは、大人だろうが子供だろうが、なべて社会から排除されてきた。

 異能に目覚めたことが発覚してからは、世間から迫害され、隣人が、友人が、家族すらもが敵になる。


 何せ、彼らは人並外れた力を持つ。

 それはただの身体能力にとどまらない。


 ユキのように、切った者を問答無用で腐食させることもできる。

 全身に漲るエーテルを炎や雷などに変換して放つことができる。

 一昔前にうたわれていた超能力のように、念力のように物を動かしたり、洗脳のように他人の思考を操ることだってできる。


 そんなことができる人物が、すぐ隣にいるのだ。

 人は、自らの理解の及ばないものは遠ざけようとする。排除しようとする。


 本来ならば、国が守らなければならなかったのだろう。彼らだって、人権をもって生まれた同じ人間なのだから。

 しかし、国はそうはしなかった。


 いや、対応が不味かった。


「国に保護されるという選択肢も、あったはずだよ」

 異能に目覚めてしまった人たちを、国は保護という名目で集めようとした。

 理念は、たしかに保護だったのかもしれない。だが、それははたから見てしまえば社会から異能者をつまみあげようという方針にしか見えないものだった。

 また、ことに当たった人たちが、異能者をどういう目で見ていたかまでは、発案者も把握できていなかった。

 そして周囲から恐怖の目で見られナーバスになっていた異能者たちも、無理矢理に連れ去られるような国の方針に不信感を覚えた。


 あとはもう、どうしようにもならない。

 悪いほうに、悪いほうに進んでいった。


「得体のしれない施設にか? 入った奴なんてほとんどいないだろ」

「そうでもないさ」

「どうせ捕まえて、強制連行でもしたんだろ。出てきたってやつも、一人も聞いたことがない。――捕まったら殺処分、なんてことも聞いたな」

 このように、当たっているわけでも、間違っているわけでもない認識ばかりが広まっていく。


 そうして保護されることを拒絶した異能者は無頼漢となり、無法者となり、世間の意識の改善もまた、不可能となった。


 男は、少しばかり弱弱しくなったが、それでも笑みを絶やさない。

「確かに、無理矢理連れていかれたような人も、いないわけではないさ。それでも、間違いなくそれは保護目的だ。ひどい目にあわされることなんて決してないし――君のように寒さに震える必要もない」

「誰が震えてなんて――」


「だが、寂しかったろう?」

 はっと、知らず息をのんだ。

 そして、自分でも理解の及ばない思考がぐるぐると駆け回り始め、いらいらするような、しかし何かに縋りたくなるような感情が心のうちに広がっていく。


「私の手を取りなさい。そうすれば、君の心だってきっと救われる。もう、一人で生きていく必要もなくなるんだよ。人は一人では生きていけない。ずっと一人でいると、大事な心の火が少しずつ消えて行ってしまう。だから、誰かと寄り添って温もりを分けてもらわないといけないんだ」

 男の大きな手は、優しく広げられていた。

 ごつごつとしているが、きっと多くの人間を引っ張り上げられるような。


 差し出された手を、握った後のことが頭に浮かぶ。

 それは、異能が目覚める前の生活と変わらないものだった。

 暖かい家族との団欒、仲の良い友達と毎日遊んで、帰り道では隣人がおかえりと言ってくれる。

 そんな毎日。

 いつのまにか褪せていた記憶。思い出そうとも追わなかった記憶。それが少しずつ思い出されて。


 そして、それらが一気に崩れ去った時のことも、思い出した。


「――らない」

「……」


「そんなものは、いらない」

 頭の中を塗りつぶす、暗い、辛い記憶に蓋をしながら。ユキは絞り出すような声で答えた。

「お前の言う仲間だって、その施設から引っ張ってくればいいだろう。わざわざ俺に構うなよ。俺は今のままでいい、お前らなんかと今更なれ合う必要なんてない」


 男は言葉を選ぼうとして、少しばかり視線を宙にさまよわせる。そして一つ嘆息すると、繕わない言葉を述べた。

「……施設の人たちじゃ、異次元体には到底立ち向かえない。力の弱いものも多いし、使いかたを知らないものも多い。それになにより、経験が圧倒的に足りない」

 男はとうとう、苦々しげに顔を歪めた。

 肩をすくませるその様は、体形に合わずどこか遣る瀬無さを漂わせている。


「保護だなんだとか言っておいて、結局使える駒が欲しいだけか、そんなことだろうと思ったさ」

「それは違う。弱い子は保護する。強い子には、まあ手伝ってもらいたいかな、情けないがね。異次元体には異能者でなければ対処ができないから」


 異次元体の発する毒香を感知できるのも、一般的には異能者だけ。そして、連中が住まう異空間に侵入できるのも、やはり異能者だけだ。

 もし一般人でも感知できるように、そして対峙することができるようになった時点で、もう手遅れなのだ。

 強力になった毒香は即座に耐性のないものの脳を侵す。フィルターを通したところで、特殊な衣類で身を守ったところで、それは防ぐことができない。万物を透過し、同じ根源であるエーテルをもって抵抗するしかないのだ。

 そして何より、途方もない力が人間のひ弱な体を叩き潰す。


「知るか! 力なんざ使えばついてくる。適当に異次元体にぶつけてれば使える駒なんて簡単に作れるだろうよ」

「しかし、それまでに一体何人が死んでしまうだろうね」

「それこそ知るか。強いものだけが生き残るなんて、当然のことだろ」

 男は悲しげに目を伏せる。

 それに、少しばかりの罪悪感が芽生えてしまった。荒れ狂っていた感情も、波が引いたように静かになっていく。それでも、馴れ合う気だけは絶対に生まれない。


「だったらやっぱり、他を当たれよ。俺は一般人どもとの触れ合いなんてこれっぽっちも求めてないし、今の生活に不満もない。金を稼ぐツテもあるしな」

「保護を受ける、というのも了承してはくれないのかな」

「当たり前だろう」

「そうか」



 少しの間をおいて、伏せられていた瞳が再びユキの顔を捉える。

 先ほどまでの悲哀をにじませていた目はそこにはない。

 そこにあったのは、強い意志の宿ったような目だった。

 異能者のように、エーテルの光が漏れ出ているわけではない。ただの、日本人らしい極一般的なブラウンの瞳。しかし、輝いているように錯覚してしまうほどに力の込もった眼光。

 気勢の削がれた後では、少しばかり気圧されてしまう。


「ならば仕方ない。君はきっと、私のことを嫌うだろう。我々のことを、恨むだろう。それでも私たちは君みたいな子を放っておくわけにはいかない。覚えておきたまえ。私は君を何度も誘うぞ。嫌がっても、反抗しても。たとえ力づくでも、君を保護して見せよう」

「迷惑な奴だな」

 ぶっきらぼうに吐き捨てるのが精いっぱいの反攻だった。それを受けても、男は気を悪くした様子もない。

「ははは、人のおせっかいとは、最初はそう感じてしまうものさ」

 むしろすっかり元通りになった彼は、また朗らかに笑いとばしてしまうくらいだ。


「少年、名を聞こう」

「言うわけないだろ」


「なにっ!」と、ショックを受けたような顔をする。間違いない、半分演技で半分本気だった。

 少しばかり唸ったあと、彼は大げさに胸に手を当てる。

「そうか、ならば私の名だけでも教えておこう。私は龍堂寺玄。独立行政法人、総括的先進人類対特別策機構、隣接次元発生事象対策局の局長だ。気軽に玄おじさんとでも呼んでくれ」

「呼ばないけど」


「なにっ!」


 とある秋の夜。

 いつもより少し寒い日のことだった。



 ***



 あの寒い一日から、既に一週間と過ぎていた。

 秋もいよいよ深まり始め、そろそろ冬の到来が予感される。


 時間帯は、時計が手元にないため彼にはわからない。

 彼がねぐらにしている空き家周辺では既に外を歩く人はいない。

 秋の虫が近くの草原で涼やかに鳴くくらいだ。

 人の目を避けるため、彼は夕方から、あるいはこういった誰もが寝静まったような時間にこそ活動する。


 昼間は学校に行っていないとおかしいような年齢なのだ、下校時間後、そして人に見られる可能性の極端に低い深夜が、彼にとっての狩りの時間。


 しかし、最近は夜になるとあの男が自分のことを見張っているのではないかといらぬ心配にかられるようなっていた。ゆえに満足に出歩くこともできず、こうして隠れ家で身を隠しているだけの時間も多かった。

 あれだけ大見え切って宣言されてしまったのだ、いつ保護だなんだと笑いながら現れてもおかしくない、そう考えていた。



 あの後は、隠れ家まで平気でついて来ようとしたので、異能者の脚力を生かして飛ぶようにして逃げた。

 おおよそ見当がついていたが、やはり一般人だったらしい、彼がユキに追いつくようなことはなかった。

 周囲には彼の仲間と思われるような人物もいなかった。おそらくはうまく撒けたのだろう。


 しかし、何らかの手段で追われているのではないかと内心恐々としていた。

 一週間という不気味な沈黙が、妙にユキの精神を揺さぶっていた。



 明りのない空間で、ユキはもぞもぞと動きだした。

 くるまっていた、ぼさぼさの毛布から這い出る。

 フローリングの床はカーペットも何も敷かれてなければ、刺すような冷たさが足先から伝う。

 だから、これまで何枚も拾っていた毛布やタオルケット、そして季節的、体格的、時には性別的に着ない衣類などを床に敷き、もしくは体の上にかぶせて寒さをしのぐ。

 それが彼の秋と冬のスタイルだ。


 ふっと、壁際に積んでいたペットボトルの山へと視線を向ける。

 2リットル容器、500ミリ容器、珍しいが、1リットル容器。形もメーカーも問わずのそれが山積みされ、金のよろず屋で買った食料品と合わせて保管されている。冷蔵庫もなければ、常温の保存をするしかない。

 中には公園などの水道から汲んできた水が入っている。


 水も腐るということを、ユキは経験から知っていた。そのため日の届かない部屋の隅に置いてある。

 もっとも、少しくらい質が悪くなったところで気にすることはないのだが。

 通常より頑丈な体は、当然内臓だってやわじゃない。汚水でもなければそうそう腹を下すこともなかった。


 最後に水を汲みに行ったのは、何日前のことだったか。

 水は毎日使うもの。

 トイレはおおよそ公衆トイレ、風呂なんてものは銭湯でしか済まさない彼でも、飲み水だけは貯蔵してある。水道有りの公園は遠くないところにある。拠点を作る際の重要事項だ。

 その気になればいつでも飲みに行けるのだが、面倒くささと人目の心配から、あまり現実的ではない。


 ペットボトルもずいぶん空きのものが増えてきた。

 そろそろ補充にいかなければにけないだろう。

 そう思い至るや否や立ち上がる。

 外出の時間だ。

 一瞬、あの大柄な男の顔が頭をよぎる。それも、すぐに振り払った。


 いつものナップザックと、それとはまた別の大きめの鞄を用意する。

 まだ使えるというのに、おそらくはすり減ったりシミがついてしまったりで捨てられたのだろう、シンプルなデザインで厚手の生地のトートバッグ。

 当然のようにゴミ捨て場で拾ったものだ。


 トートバッグに空いたペットボトル、特に2リットル容器を優先的に詰めて、ナップザックにも少しばかり入れる。

 ガラス瓶がそれなりのスペースを占拠しているが、いつ異次元体を見つけてもいいように、これだけは置いていけない。

 財布は……使うこともないだろうと、置いていくことにした


 隠れ家内だからと外していた、ユキの持つマチェット用に調整されたショルダーホルスターを身に付ける。

 一度中身を抜いてみるも、特に不都合はない。

 少しばかり、刃の根本付近に薄く錆が広がっているくらいだった。

 ユキの異能の影響だ。

 切った相手だけにそれを腐食を与えるわけではない。ただのエーテルの通り道として使っているだけましだが、異能を使う際にはそれも刃も常に腐食に晒されている。

 異能者の異能、そして異次元体の持つ特性はたいていがこのエーテルによっと引き起こされていた。


 なんにせよ、この程度ならばまだ折れはしない。ホルスターに収め、上からジャケットを着なおす。

 二つのバッグを肩にかけ、隠れ家を後にした。




 時間帯もあってか、外はかなり冷え込む。

 やはりレリアのもとで新たに上着でも買っておくべきだったか、そう、少しばかり後悔がよぎった。

 指先がかじかむ。

 ズボンのポケットに突っ込むと外気にさらされないだけ幾分ましだが、代わりに腿が冷たい。手袋の類は買ったことがなかったが、今度合わせて買っておこうか。


 点々とLEDの青い光に照らされた道を歩く。

 ユキは郊外の寂れた地域を拠点にしている。

 住宅街の端っこといった場所で、集合住宅よりも古めかしい一軒家が多かった。

 近くには小さいながらも林や空地も散見し、少しばかり土のにおいが香ってくる。

 公園は歩いて15分ほど。

 直線距離で言えばそれほど遠くないが、道に沿えばそれくらい。

 真夜中であれば人目を気にすることなく全力で移動することもできるため、急ぎであれば数分と待たずに到着することもできる。


 今日は急ぎの用事があるわけでもない。ゆっくりと晩秋の空気を味わいながら、しかし寒さに体を小さく縮めながら深夜の散歩と興じていた。


 しかし、深夜の優雅な散歩も長くは続かない。

 彼にとって嗅ぎ慣れた、しかしいつものよりも数段濃い不愉快な香りが冷たい風に乗って運ばれてきた。

「……」

 都合がいいといえば都合がいい。

 出鼻を挫かれたような気にならなくもないが、この臭いの主がいなければ彼の生活は決してなりたたないのだから。


 方角を見定める。

 濃密な甘い香りはそれを隠すことなく教えてくれる。

 ここから西の方向。

 距離まではわからない。臭いの濃さからそれほど遠くないとは思われるが、それにしては近くに気配がない。


 つまりは、大物である可能性が高いというわけだ。

 少しばかり口角が吊り上がる。

 潤いの少ない唇が引きつり、ピリッとした痛みが走る。しかし、それも気にならない。


 俄然高揚した気分となり、近くの塀の上に飛び乗る。トートバッグ内のペットボトルがからからとぶつかる音を立てた。

 そのまま電柱の天辺に飛び移り、はるか西へと視線を向ける。


 異次元体の出現位置を、おおよそだが見当をつける。


 遠くに見えるのは、今は明りのほとんどが灯らない小さな商業区域。

 近くには周りに比べ大きめの駅のホーム、その前にロータリーが。終電後だろう、明りはついていない。

 また、駅を囲うようにいくつか背の高いビル、ビジネスホテルや中層マンションが見て取れる。あの辺にはチェーンの飲食店も多いと、ユキは記憶していた。


 少しばかり開けた空間。

 まだ営業中の店もなくはないだろう。


 今回も屋根伝いで行くつもりではあったが、着地の際は少し周囲を気遣ったほうがいいかもしれない。暗いとはいえ明りが全くないわけではない。それに、見えずとも音と気配くらいは感づく人も多い。


 視線を這わせて、仮の目的地への道筋を構築する。

 マンションなどと比べ、民家の屋根は住人に気づかれやすい。足場はできるだけ電柱などを利用するべきだろう。

 そういう意味では、こういった住宅地はあまり狩りに適していないかもしれなかった。



 なるべく音の立たぬよう、ユキは足場の電柱を軽く蹴った。

 タッと軽い音を残して、はるか前方へと身を飛ばす。次の足場にとまた電柱に飛び移り、それを何度も繰り返す。

 時折は低層マンションの屋上や、人もいないだろう公共施設、やむをえなく民家の切妻や寄棟屋根をも利用して、とうとう目途にしていた駅周辺までたどり着いた。



 あたりは濃密な毒香が漂う。

 思わず顔をしかめたくなるほどに強く鼻を刺激し、鼻孔の粘膜が炎症を起こしているのではないかというほどに熱を持つ。


 質の悪いガスでも吸ってしまったかのように頭は少しばかりの不明瞭感を覚える。


 これまでよりも更に強く炉の火を焚き付ける。

 すると、全身を走る血液とはまた違った力の流れ、エーテルの脈動が激しくなる。

 気怠さすら覚えそうだったそれをようやく振り払った。


 手近な建物の屋上に陣取り、漂う毒香の流れを探る。隠しようがないほどに強く噴出されたそれは、間違いなく駅のホーム、いや線路のほうから漂ってくる。


 駅へと向かうには一度地上に降りてロータリーを歩いて渡るか、または近い建物からそのまま飛び移るしかない。

 ロータリーは近辺の開けた部分を含めそこそこの広さがあり、飛び越えるにはおよそ三十メートルと飛距離を稼がなければいけない。


 さすがにそこまでの脚力はなかった。

 ゆえにユキはおとなしく地上へと降りる。

 周囲を歩くものがいないかを確認し、無人であろうビルとビルの間へと降り立った。

 埃が舞い、湿気た空気と、どこか酸っぱいようなにおいが一瞬香る。

 それもすぐに強烈な毒香に溶けていったが。



 通りに顔を出すと、そこには停車した車、歩道を照らす電灯、シャッターの降りた、あるいは掛け看板がCLOSEDとなった店舗などが並んでいる。

 時折まだ明かりのついた店もあるが、ガラス窓から覗く店内には客がいるようには見えない。



 駅方向に向かって、右側の歩道を歩く。

 交差点、そしてロータリーを挟んで、五十メートルもいかないところに駅はある。


 遠目でもわかるのは、駅に向かって左手側、今いるのと反対の方向には唯一深夜営業中のハンバーガーショップがある。

 駅舎は2階建て。

 線路をまたぐような構造をしており、1階はない。いわゆる橋上駅舎だ。

 正面から見ると凹凸の少ない箱型だが、実際は線路を挟んだ反対方向合わせてL字型をしている。

 右側に2階への階段があり、そばにはエレベーターが。

 自販機、照明写真機なども置かれ、深夜の時間帯でも発光している。


 ロータリーは右側がバスの停留所、左側がタクシー乗り場になっているが、今はどちらも停車していない。

 また街路樹としてプラタナスが間隔をあけて植えられている。

 それよりも長い感覚で、LEDの街灯が。


 街路樹は今歩いている歩道にも同じものが植えられている。窮屈そうな土壌から抜け出し、伸長した根がアスファルトを少しばかり押し上げている。

 紅葉したプラタナスの大きな葉っぱが落葉し、時折風にまかれてふらふらと飛んでいる。

 どことなく寒々しい光景だ。



 駅のほうへと足を向ける。

 異空間はどこから形成されているのか、それは入ってみるまでわからない。

 昼だろうが夜だろうが灰色の景色になったらそこが隔絶された異空間だ。


 深夜であっても、交差点の交通量は少なくない。昼に比べれば圧倒的に疎らだが、そこはさすが都会といったところか。

 信号も点滅に切り替わることなく、いまだ三色が順番に働いている。


 横断歩道、歩行者信号はあかを示していた。

 それが一分と待たずに青になり、一歩踏み出したところで――



 世界から一気に色が抜け落ちた。


 異空間へと足を踏み入れたのだ。

 そこは1と0、その中間しかない世界。

 人間が生きる世界と限りなく近い、それでいて黒、白、灰色だけで構成された世界。


 ユキは少しばかり面食らってしまう。

 彼は異次元体がいるのは駅の周辺だと思っていた。

 そして、それはおそらく正しい。

 世界が変わっても、異空間の主はいまだ姿を現さない。


 まだ駅までかなりの距離がある。これほどの範囲を持つ異空間を生む異次元体と相まみえたことはいまだかつてなかった。


 少しばかりの困惑、怪訝さを覚えながらも歩く。

 適当なビルの間にナップザックとトートバッグを置いてから横断歩道を渡り、歩道を歩き、ロータリーの手前まで来る。

 かさかさに乾ききったプラタナスの葉を踏みつけた。

 クシャリと音を立ててそれは潰れる。

 音に反応してそれが現れるということもない。


 異空間に入ってからというものの、ただでさえ濃密だった毒香が更にその質を高める。

 異空間の広さだけでなく、これまでの臭気を覚えたこともなかった。思わず手を鼻と口元に添えてしまう。

 エーテルの通った皮膚はガスマスクよりも高性能なフィルターとなる。



 少しばかりの緊張を覚え、眉をひそめながらも、完全に無人となったロータリー内へと足を踏み入れた。

 中央を堂々と横断し、周囲を見渡したところで異次元体は現れない。


 左手側を見れば、先ほどまで明るい光で店の前を照らしていた大手ハンバーガーチェーンも、その大きなガラス窓から灰色の店内を覗かせていた。


 誰もいない静かな世界。

 しかし確実に、その気配はある。

 不思議なことにすぐ近くにいるようで、正面からも、右からも、左からも感じるその気配。



 駅のすぐそばまで来たところで、彼はようやく気づいた。


 姿を現さないと思っていたら、それはずっと寝そべっていたのだ。

 駅の左右に広がる駐輪スペース。

 そのそばの、道路と線路を挟む金網の向こう。

 駅という大きな影、そして金網の手前に並ぶ多数の自転車置き場に遮られて気づかなかった。

 それはずっといた。寝そべっていた。

 大きな体を起こし、鎌首をもたげる。


 右方、駅の左右に広がっていた低層ビルの向こうからゆっくりとこちら側へと頭を向け、頭部の下、正確には次の節から伸びた鋭角的な大顎を数度開閉させる。

 ぷらぷらと朱色で粒が連なったかのような触覚が揺れ、よりどす黒い赤の頭部についた小さな複数の単眼が、きっとこちらを捉えた。

 濃紺に艶を持つ、長く、多節の体からは節ごとに一対の鋭い足が。朱色で、5節に分かれたそれは器用に蠢き、起こされた上体側の足がウェーブのように順々に腹側に閉じられる。



 全長はわからない。

 しかし、その頭部だけでも大人の身長ほどの幅を持つ。広げられた足を含めれば、もっとだ。


 そのどでかい怪獣は、体をより上体まで起こし、そして。



 ――小さな侵入者へ向けて、その大きな体を叩き付けた。



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