17話 急襲(中)
エーテル心炉が摘出され、異空間も消えていく。
灰色の世界が崩れ去り、出歩く人もいない深夜だというのにライトアップされたままのツリーが再び姿を見せた。
それを眺めて、霧原は仕事は終わりとばかりに構えを解いた。肩と首を回せばごきりと嫌な音が鳴る。ずっとスコープばかりを眺めているのは体が凝って仕方ない。
そういう意味でいけば、前線で戦う連中が少しだけ羨ましい。
――まあ、俺にゃ無理だがな。
身体能力と運動神経は別物だ。彼は敵の目の前で得物を振るのより、今のように高所から俯瞰してこそこそと狙撃するほうが合っていると、そう自身を評価していた。
――あいつに臆病者扱いされても仕方ない。
そして、そう自嘲した。
屋上のへり、パラペットからライフルを下ろし、片腕で抱える。
異能者の腕力であってもずっしりと重い。
自身が非力な部類という自覚はある。体作りも訓練に追加するべきかもしれない。
僅かに残る硝煙の臭い。甘い香りに包まれた異空間の中では気にならないそれが今になって鼻をくすぐる。
今回は撃つことはない、そう思っていたのだが一発だけ火を噴いた。発砲の際手のひらから体まで突き抜けた強烈な衝撃は、今はもう霧散している。
鼻をくすぐる臭いと、屋上に転がる一発分の空薬莢だけが撃った証。
10センチもある薬莢は暗闇の中でも随分目立たった。
戦闘の痕跡を残すわけにはいかないため空薬莢は可能な限り回収しなければならない。
これがなかなかに面倒な作業なのだが、これほど目立つならば楽でいいかもしれない。
異空間とともに消えてくれればそれはそれで楽なのだが、それに該当するのはエーテル由来のものか、異次元体、あるいは異能などによって壊れたものくらい。それも致命的な損壊でなければ残ってしまう。当然排莢程度じゃそれには該当しない。
また、戦闘のたびに彼らは報告書を書くことになる。特に霧原の場合は火器を使用するためか使用弾数まで記入する必要があった。
持ち込んだ数と残弾数との差し引きで簡単にわかることだが、今回は数えるまでもなかった。
彼の場合は特殊な例。通常は報告書には戦闘内容を事細かに記す。
異次元体の身体的特徴から、行動特性――習性とも呼べるそれ。どういう風に相手が動き、それに対してどう動けば有利に戦えるか。
そして、自分たちはどのように行動したのか、まで。
これを積み重ねることで、同タイプの異次元体に遭遇した時に戦闘開始時点から戦術を組み立てやすくなる。
また、実戦経験の少ないものでもある程度うまく立ち回れるだろう。チームだからこその利点。
個人では一から自分で経験していかなければならないこと。その間に一体何人が死んでいくのだろうか。
だからこそ、今回の戦闘内容は褒められたものではない。そう彼は考えていた。
万が一の備えであった霧原自身と下で待機しているもう一人を除いて、実際に討伐に当たったあの四人はもう一度講習に連れて行かれるだろう、とも。
戦闘報告は一方で部隊員の習熟度を見るためのものでもある。内容が悪ければ再度講習を受けることにもなるのだ。
そしてエース曰く〝過保護〟らしい上が要求する戦闘内容はなかなかシビアなもの。エーテル心炉の回収成功率よりも生還率、およびより安全な立ち回りをすることが評価される。
無茶をするたびに減点され、赤点になったものは〝再教育部屋〟に送られるのだ。
全体的な力不足を感じてだろう、少し前にその基準もだいぶ緩くなったのだが今でもなお安全志向であることは変わりない。
そして今回のは完全に彼ら三人の油断。狙われた一人など死亡もありえた。一発赤点コースだ。
もし引率者がいなければ。
もしあの巨腕が振り下ろしでなく薙ぎ払いであったら。
とくに後者は三人まとめて病院行きの可能性もあった。
もう一人はとばっちり。
同じチームになったことを恨め。
そう心の中で合掌しながら、彼は慣れた手つきで新しい相棒の分解を始めた。
彼がバレットを使い始めたのは僅か数週間前のことだ。それでも局の訓練場で射撃をはじめ、分解、組み立てと十分な回数をこなしていた。熟練の軍人ほどではないだろうが、なかなかの完熟度だろうと内心考えていた。
しかしカタログ的にも簡単に分解および組み立てができるとのことだったが、そもそもの大きさからして普段使いはあまりできそうにない。街中を歩く際も目立って仕方ないし、いくら屋上などの人目につかない狙撃ポイントに陣取るとはいえ、片付けるのは異次元体が倒された後、つまり異空間が消えた後になる。
別のビルの窓などから万が一見られていたら誤魔化しようがない。
夕刻から深夜までは移動車両に積み、夜が更けるまではいつもの愛銃を使う。それこそ局のエースである千陰の〝お気に入り〟と同じような扱いになっていた。
通信機越しに下の三人が怒られているのが聞こえるが、彼は知らんぷりだ。一人黙々と作業を続ける。
冬の夜空のもとではバレットの分解をする指もかじかむ。異空間が崩壊した後は外気も通常通りとなるため、銃本体もそれに伴って冷え、金属部の多いそれは触れてるだけでも指先が冷たい。
連射をすれば銃身も熱されるのだろうが、それを必要とする敵が出てくるのはそれはそれで困る。強くなりたいとは思うが、わざわざ厄介な相手と戦いたいわけでもない。
時間も深夜、さらに彼が陣取るのはビルの屋上。通行人の目などを気にする必要もないのだが、さっさと迎えの車両に引っ込みたい一心で収納の速度は自然と上がった。
しかし、あとわずかというところでその手を止めた。
――何だ?
目でも、耳でも、肌でもない。
毒香を捉える鼻でもない。
第六感のような何か。嫌な予感が彼の背筋に走った。
耳を澄ませたところで寒々しい風の音しか聞こえない。インカムの向こうの連中も何かに気付いた様子もない。
独特な甘い香りはしない。ということは異次元体の発生ともまた違う。だというのに絶えず彼を襲うこの悪寒。その原因は、もはや一つしか残されていなかった。
できるだけ考えたくもない予想が脳裏に浮かんだ。
「……平江、そいつらの警戒を解かせるな。ちょっとまずことになったかもしれん」
平江というのはそこそこの戦歴を持つ隊員。
今回は下の四人の直接の引率者のような役割を担っていた。
『――まずいこと、ですか? それは一体……』
くどくどと夢にまで出そうな小言を止めて、疑問を口にする。
「異次元体以外で、俺らが警戒しなきゃいけないのなんて一つしかねえだろ?」
それは霧原自身にとっても好ましくない……いや、明確に恐れているもの。
声は震えていなかったか? ひよっこ四人にも聞こえている通信だ、余計な不安を抱かせるわけにはいかない。
『まさか』
霧原の頭の中には先日の押井との雑談が思い起こされる。押井の推測が頭に浮かぶ。
近頃の無差別の大量殺人、そして連続殺人。
その犯人は本当に無差別に人を殺していたのか? 明確な目標がいたのではないのか?
その目標は〝異能者〟なのではないか?
〝それ〟に出会うとは。
彼は自分の運のなさを呪うばかりだ。
強さだけを、いや、戦うことだけを求めた異能者は、異次元体なんぞよりもよっぽどたちの悪い、彼らの天敵。
分解していたバレットを今一度組み立てなおす。対人に丁度いい火器は〝予備〟を除いてこれしかない。
通信の合間にも行っていた組み立てはもう一工程で終わる。
バイポットを立て、それを構えようとして――
――インカムが、聞きなれない声を拾った。
『――いい夜だなあ。人がいなくて、静かで。そんで熱くなった身体を冷ましてくれる』
聞き取りにくい、ノイズの混じった声。
割り込みをかけられたわけではない。下の連中のマイクが拾った声。
単純に集音マイクから距離があったのだろう、僅かながらにしか拾われない。
しかしその小さな、そしてノイズまみれのそれには、彼の背筋を泡立たせるほどの威圧感だけははっきりと残っていた。
『どうだ。少し俺と、遊んでかないか?』
瞬間、マイク越しでなくともわかる戦闘音がビルの下から轟く。
人外の膂力をもってコンクリートを砕く音だ。
「ちぃっ!」
恐怖を苛立ちで覆い隠し、霧原は銃口を再び広場に向ける。
スコープを除かずとも見える。ビルの下には大柄で武骨な肉体を持った男が一人。鍛えられたこぶしは地面に穴をあけ、爆心地のようにコンクリート片をまき散らしている。
狙われた一人は何とか回避には成功したらしい、しかし見た限り完全に怯んでしまっている。この分では次は避けられないだろう。
ほかの三人も駄目だ。平江だけが動き始めていたが、それでも僅かばかりに遅い。次の一手には間に合わない。
彼らを責めることはできない。
何しろ自分も〝びびって〟しまっているのだから。
だが、だからこそ彼がやらねばならない。
碌に考えも回せない。ただそれを敵と捉えた。本能がそれを殺せと叫んでいた。荒れ狂うそれに背きはせず、むしろ従って。理性はただサポートするだけ。
瞬時に照準を合わせ、躊躇うことなく引き金を引く。躊躇うことなく〝人〟を撃つ。
耳朶を打つ特大の炸裂音。
ストックを当てた肩に衝撃が走る。
排莢口からは金色の筒が吐き出され、一方で銃口からは淡い緑の弾丸が弾き出された。
狙いは腕。
次点で足。
対物ライフルの一撃なんぞを食らえば通常なら四肢など千切れ飛ぶのは必死。少し狙いを違えば高確率で死にも至る。しかし敵の命よりは仲間の命。始末書程度では済まないのも百も承知。
いや、この時点でそこまで思い至っていたのかはわからない。
超速の弾丸。
指ほどの長さの鉛の弾丸は大気を切り裂く音を耳に残し、秒に満たない速度で標的を食い破らんと迫った。
しかしてそれは命中した。
スコープ越しに真っ赤な鮮血をまき散らすのを確認できたのがその証拠だ。
「……まじかよ」
だからこそ驚きを隠せない。
逃した相手に向けて再び振るわんと大きく引き絞られた右腕へと、それは見事突き刺さった。
〝突き刺さって〟いた。
どれほど頑丈な異能者の体とはいえ、腕など容易く引きちぎるほどのそれはしかし風穴すらも開けなかった。
武骨な男の動きが止まる。
腕はゆっくりと下され、獣のようだった低い姿勢も人間らしさを取り戻す。
その男はぐるり視線を動かし、そしてそれはとあるビルの方へと向けられた。
サイトの向こうでそれは顔を歪める。
不愉快そうに歪める。
『こそこそするくれえなら、そのまま隠れてりゃよかったのによ』
吐き捨てるように呟かれたそれは、マイクにほぼ拾われなかったはずなのに、彼の耳にはっきりと残った。
バトルマニアなお相手はどうやら鉛玉は好みじゃなかったらしい。
額に筋が立ち、ぐつぐつと煮えたぎるように輝く朱色の瞳と〝目が合った〟。
ぞわり、と全身が総毛立つ。
半ば反射的に、一瞬にして手汗の浮かんだ指で引き金を引いた。連続で一発、二発、三発とそれは放たれた。
急所を外すなんて器用なことをやっているほどの余裕はない。
殺してでもそれを止めなければならない。
彼の本能がそう叫ぶ。
そいつは狙いを変え、恐ろしい速度で霧原に向けて駆け出していたのだ。
足場を砕き、破砕音と噴煙をまき散らしながら男はビルへと駆ける。降り注ぐ銃弾などまるで恐れず、軽く頭を庇う程度で。
そしてあろうことか、地上10階はあるビルの壁面を重力などないかのように駆け上り始めた。
モルタル仕上げの壁面につま先で穴をあけ、それを足場に飛ぶように走る。
フィクションでもそうは見ない滅茶苦茶な光景だ。
ビルに垂直となられては射角が足りない。
真下に向けて撃つのはさすがにバレットでは不安定だ。
霧原はライフルを放り出し、代わりに腰のホルスターから二挺の拳銃を引き抜く。
接敵など考慮しない戦法の彼も〝予備〟くらいは持っている。
威力の高い拳銃といわれればデザートイーグル、あるいはM500だろうか。反動はあまり考えなくてもいいのだが、隠しやすさを考慮してより小さいほう、デザートイーグルを好んでいた。
両サイドについた安全装置は異空間に入った時点で外してある。
へりから離れ、銀色の二挺を構えた瞬間、壁面を砕く音が止む。
そして、代わりに屋上の縁から奴がとうとう飛び出した。
「よう。遊びにきたぜ」
にひひと口端を歪ませ、見開かれた両の瞳は瞳孔までが開ききっている。
言葉通りに〝遊ぶ〟で済まないのは明白だった。
ならばやはり、迎え撃つしかない。
「――バカかよ! てめえのほうから逃げ場なくしやがって!」
最強と名高いオートマチックピストルが火を噴いた。
滞空したままの男めがけてありったけの銃弾をぶつける。50口径の弾丸が二挺分、計十四発。
爆発的な発砲音と、特大のマズルフラッシュ。
硝煙が撒き散らされ、一発ごとに銃口は〝やや〟跳ね上がる。
狙いなど碌につけられていない。ただ全弾を当てることだけに注力していた。
10メートルもない近距離ではそれも容易い。
対する男はそれを腕を前面に出して防ぐ。
頭と胸を守るのを見ると、どれだけ防御が固かろうがそこが弱点であることは変わらないらしい。
最後の一発が排莢される。カランと金属音を立てて空薬莢が床に転がった。
スライドトップが上がり、ホールドオープン状態になる。
グリップわきのマガジンキャッチボタンを押すと、ガシャリと重い音を立てて空の弾倉が落ちる。
下手な異次元体であればこれだけで終わってしまうこともなくはない。
しかし、険しい顔はいまだ変わらず、頬には冷たい汗が一筋伝う。
対物ライフルの一撃でも風穴の一つもあかなかったのだ、わかってはいたが向こうは腕と、防ぎきれなかった腹の一部に銃弾がめり込むだけだった。
しかしそれは想定内。
〝想定外〟だったのは、全弾命中にも関わらず吹き飛ぶことがなかったこと。
霧原は相手をビルの屋上から叩き落とすことを勝機とみていた。そしてそのチャンスは恐らく相手が飛び出してきた最初のみ。
その策も、正面から打ち砕かれた。
空中で横合いから殴られても吹き飛ばないのは、それだけ勢いを持っていたということ。
それだけの重さを持っていたということ。
「いってえな。でもま、んな玩具じゃあ俺の身体は貫けないぜ」
血を流しながらもしかしまるで堪えた様子がない相手は歯を剥いてニイと笑う。
屋上にまでたどり着いた男はとうとう着地した。
「まじでバケモンかよ……!」
「なぁに当たり前のこと言ってんだよ……バケモン同士、あそぼうぜっ!!」
男は咆哮を上げながら地を蹴り砕き、風を切るほどの速さで突っ込む。
自身とは比べ物にならないほどの推進力。
バックステップでは到底躱せない。そう判断した霧原は相手の進行方向から逸れるよう、横へと逃げた。
驚愕しながらも一挺分のリロードは済ませていた彼は、今度は一発ずつ慎重に発砲する。
斜めから突っ込んでくる相手の頭へ向けて重点的に。
今まさに通り過ぎる男の米神へと銃口が向けられ、フロントサイトとリアサイトが一直線になる。
だが引き金を引く前に、腰だめに構えられていた相手の拳が繰り出され、指を引く一行程よりも早くそれを跳ね上げた。
拳銃を伝って肘まで届く馬鹿みたいな衝撃。
思わず握っていた左腕が天を向く。
一方で、引き金にかかった指は止まらない。
――まずい。
そう思った時には既に遅い。
見ずともわかる。銃口がひしゃげたそれは弾丸を発することなど到底できない。行き場を失った弾丸はバレルの内側で暴れ、一度火のついた火薬はその圧力を存分に奮う。
銀色の拳銃は内側から弾け飛んだ。
「っそが!」
指が千切れるかと思うほどの勢いでもってそれは手から離れた。
いしかし痛みに呻く暇などない。
「そらもういっちょ行くぞぉ!!」
避けられたと悟るや否や相手はコンクリートを焦がすほどの急制動を掛け、無理矢理に方向転換する。
既に両の腕を構え、あとは発射するだけというだけの状態。
対して霧原は拳銃の暴発も相まって体制を崩している。もう片方の拳銃もリロードが済んでいない。
吠える男は、右の拳を突き出した。
空気を摩擦で焦がすほどの勢いと、そして相応の力が内包されているのだろう。
ただの拳。
しかしそれは彼の命を確実に刈り取るだろう一撃。
狙いは胸、心臓の位置。
――なるほど、やはり事件の犯人はこいつか。
引き延ばされた思考の中で思い出されるのは、一連の事件での拳大の何かに胸をくりぬかれていたという殺され方。
まさか正拳突きで殺していたとは思わなかった。
それを食らえば、異能者であっても死は免れられないらしい。フィジカルに自身の無い自分ならそれこそ対物ライフルの一撃を受けたみたいに弾け飛ぶのではないか。
無残な死に様が頭をよぎり、ひやりとしたものを感じずにはいられない。
だが、むざむざ死んでやるつもりもなかった。
霧原は今度は横にではなく、後ろに飛びのく。
体制の整っていない中ではそれが精いっぱいであり、そしてそれが最適解であった。
衝撃を逃す、なんてものではない。岩だろうが何だろうがを容易く砕くだろうその拳は後ろに飛んだところで耐えきれるものではない。だから別の手段でそれを迎えなければならない。
飛びのくと同時に、彼は若干腫れた左手で大気を〝撫で〟た。
殴るでもない。
防ぐためでもない。
『降参だ』と待ったを掛けるでもない。
相手に触れるでもなく、ただただ何もない空中を撫でた。
相手の顔が、一瞬だけ訝しげに歪められたのを彼は見た。
余裕などない。しかし、彼はそれに対して笑って見せる。
「――恨むなよ」
そう一言添えて。
軽く振るわれた軌跡をなぞって、大気に淡い青色の液体が浮かぶ。
多量のそれは白煙と冷気を振り撒きながら体積を急速に失っていく。
がしかし、それでもなお壁のように広がっている。
「あ?」
男は罠だろうが何だろうが、正面から打ち破らんと、決して減速などさせずに拳を突き放った。
そして、拍子抜けとばかりに簡単に、水の壁に拳がめり込む。
飛び退った獲物にもあとわずかで手が届くだろう。
そう考えたところで――
特大の爆発が二人を包んだ。
***
――いってえ!!
熱風が肌を焦がす。
目を開けることなどかなわず、申し訳程度に顔をかばった片腕に容赦ない衝撃が圧しかかる。
鼓膜が破けるかと思われるほどの爆音に三半規管が狂い、平衡感覚が失われる。
立っているのか、それとも倒れているのか。
いや、おそらく浮いているのだろう。
爆風からようやく逃れ、ひりついた瞼を持ち上げれば、そこは足場のない空の上。
彼は空中に、ビルの屋上から投げ出されているのを理解した。
当然だ、そうなるように仕向けたのだから。
死をもたらす拳から逃げるため、彼は爆発の勢いすら利用した。
彼が行ったのは、自身の異能の行使。
エーテルによって大気中の物質――空気と呼ばれるそれらに強力な引力を与え、〝結合〟させただけ。
生まれたのは多量の液体窒素と、そして液体酸素。
液体酸素は衝撃に弱い。摩擦や火種があれば簡単に反応し、凄まじい発火および爆発を起こす。それはダイナマイトのように爆薬として用いられるほどに。
そして相手の拳は、大気を焦がすほどのその拳は、その条件を満たしていた。
――ざまあみろ。
中指を立てられるほどの余力はない。だから彼は、心の中で指を立てる。
後ろに飛ぶのは爆破の衝撃から逃れるためであった。しかしそれも僅かばかりの軽減にしかならなかったようだ。半分も逃せなかった衝撃を全身に浴びた彼は地上十階分もの高さの空に投げ出された。
いくら頑丈な体でも、さすがに軽くで済まない怪我を負うだろう高さ。
衝撃と痛みから立ち直れていない体では当然、受け身なども取れそうにない。
先ほどとはまた別の死が迫る。
それでも彼は、恐れてはいない。
もとから、みすみす死んでやるつもりなどなかったからだ。
「――りはらさんっ!」
体を抱きとめられる軽い衝撃と、ようやく音を拾い始めた耳から聞こえる同僚の声。
ひよっこ四人だけでは心配だったが、この場にはそれなりに場数を踏んだものがもう一人いたのだ、ならば何を心配する必要がある。
支え合うのが仲間だ。
ピンチを救ってやるのが仲間だ。
そして彼――平江はその期待に応えて見せた。
空に放り出されておよそ半分といった辺りで彼に受け止められ、その後は自由落下に任せて地に降りる。
二人分の重さがあれば、着地の衝撃も相当だ。しかし先の爆発に比べてしまえば大したこともない。
「おう……サンキュー」
思った以上に掠れた声が出た。
喉が少し焼けてしまったらしい。ざらざらな喉が擦れて痛む。
痛みを堪えて一度大きくせき込み、そして乾いた口でつくった唾液を流し込んでやるとようやくまともになる。
平衡感覚も正常になり、肩を支えられながらだが二足で立った。
周囲を見渡せば、他の四人の姿はない。既に下がらせているようだった。
「あいつは……」
平江が口にする。
「……まあ、死んではいねえだろうなあ」
そう答えてやれば、息をのむ音が聞こえた。
爆発音は下にも届いていたのだろう。あの大爆発で死なないというのは彼らの常識をも逸している。
「……なら、どうしますか。既に応援は要請していますが」
「逃げる、のが一番なんだがな。どうもそれも難しそうだ」
霧原の言葉を受けて、彼ははっと空を見上げる。
三十メートル以上ある上空。そこから落ちてくる一つの大きな影。
二人は着地予想地点から大きく飛びのく。
それが落ちてきたのはそのすぐ後だった。
地面にクレーターを作るほどの衝撃を伴って、それは降り立った。
コンクリートは捲り上げられ、轟音を周囲にまき散らして。
「なんだよ、臆病もんかと思ったら、おもしれえの持ってんじゃねえか」
〝真っ赤〟になった顔を歪めて、爛れた顔で、口角を高く吊り上げて、それは愉快そうに笑った。
***
「……まずいな」
霧原は顔を顰めるのを隠そうともしない。
腕、顔、そして上半身が焦げ付き、皮膚も捲れているようだが、その程度。相手はぴんぴんとしている。
頑丈な〝鱗〟で防いだのだろう、内部までのダメージは期待できそうにない。
男の太い腕はびっしりと、それこそ先の異次元体など比べ物にならないほど広範囲が角鱗に覆われ、その表面をやや焦げ付かせていた。
彼の異能なのだろう。爆発の寸前、あるいは直後に発動させたか。
どちらにせよ、碌にダメージが入ったようには見えなかった。
しかし彼が懸念しているのはまた別のこと。
鋭敏さを取り戻した耳がどこからかこちらへ向かう足音、車の音、そしてサイレンの音を捉えたのだ。
彼らは音を立てすぎた。
このままでは無関係な野次馬が、よくて事情のある程度通じている警察が集まってきてしまう。
そのどちらだとしても、不都合以外の何物でもない。
見たところ、あの男は殺人という行為ではなく、戦うことそのものに価値を見出すタイプだった。それなのに彼が連続大量殺人の犯人である理由、それは目撃者の口封じに他ならない。
余計な人死にが増えることを霧原は懸念していた。
「そら、続けようぜ。俺ぁまだまだいけるぜ」
「こっちはもう帰りてえんだけど」
「そいつぁダメだ。せめて養分になっていきな」
ステージがビルの屋上から小広場に変わっただけ。
元の場所に戻ってきたとも言える。
向こうは当然仕切りなおす気だ。
「おいおいこええこと言うなよ」
「ハッ! 恐れられてなんぼだろう! バケモンは!」
哄笑を上げてそれは再び地を蹴る。
コンクリートタイルが弾け飛んだ。
拳は既に引き絞られ、戒めを解かれるのを今か今かと待ち望んでいる。
ただの素手から鱗に覆われた腕に変わった。
段違いに太さを、そして威圧感を増したそれはしかし本質的には何も変わらない。
どの状態であれ、それは自身を殺すのに十分すぎる。
霧原は下がりながらも残った拳銃のリロードをし、平江はそんな彼の前に出て特殊警棒を構える。
両者耐えられるとは思っていない。
受け流すのも難しいだろう。
だが、何もしないよりましだ。ついでに言えば遠距離専門の霧原よりも彼は頑丈でもあった。
きっと顔を強張らせ、衝撃に備えるが、
どうやらその必要もなかったらしい。
正面から迫るそれとは別に、新たな風切り音が耳を打つ。
「がっ!」
今にも拳が届こうかというところで、男は真横からの衝撃に吹き飛ばされた。
意図もしない、無理矢理で急激な方向転換。
弾き飛ばされ、地に落ちたかと思えば固い地面の上をごろごろと転がっていく。
大きなモミの木、その鉢植えにぶつかってなお止まらなかった。
大樹の根本、頑丈なはずの大きなプラスチック容器が砕ける。土がばら撒かれ、ゆっくりとクリスマスツリーが倒れていく。
倒壊音が響いた。
しかし、それも今ばかりは気にならない。
助っ人が来た。
それもあの化け物じみた男に一杯食わせられるほどの。
ほっと安堵するはずの場面。
しかし彼らは純粋に喜ぶことが出来なかったのだ。
「お、お前なんでここにいんだよっ」
彼の同僚だろうが在野の異能者だろうが、なんだって構わなかった。
しかし、さすがに現れた人物が予想外に過ぎた。
「……終電逃した」
「はあ!?」
あまりにもあんまりな返答に、彼は思わず悲鳴とも怒声ともとれる声で叫んでしまう。
それを受けて乱入者――彼のもっとも新しく、そして若い同僚である〝ユキ〟は、罰が悪そうにソッポを向いた。